2. 屋敷の鍵
その夜、書き換えた届が整い、私は公爵邸で暮らし始める。伯爵家から運ばれた荷は、玄関の広間の隅で紐を結ばれたままだ。包み布の端が紐の下からはみ出している。馴染みの色が、この広間ではやけに小さく見える。
客として訪れるたび、最後に頭を下げて出ていった玄関だ。今夜は扉が閉まっても、私は内側に残っている。荷の紐へ伸ばしかけた手を、力なく戻した。ほどいてよいか、まだ誰にも訊けない。
壁の灯りが、磨かれた床に細長く映る。広間の階段の下には閣下が立ち、柱の陰では息子が腕を組んでいる。外套を脱いでも、首筋に夜の冷たさが残る。
執事が、並んだ使用人を一人ずつ私の前へ呼ぶ。厨房の者、洗濯場の者、庭の者。私は顔を見て、名を呼ぶたびに頭を下げる。挨拶を返す声が、広間の高い天井へ柔らかく広がっていく。顔合わせから通ううちに覚えた名だ。呼ばれた者が顔を上げるたびに、執事の眉がわずかに上がる。
「……奥様は、皆の名をご存じでしたか?」
「はい。お茶を運んでくださったり、玄関で迎えてくださったり。お世話になった方々ですから」
列の端の侍女へ向き直り、名を呼ぶ。その肩が跳ね、目が丸くなる。
「わ、私の名まで……覚えていてくださったんですか?」
「雨の日に、濡れた外套を拭いてくださいましたね。あのときは、ありがとうございました」
侍女は真っ赤になって俯きかけ、衣装の脇で握った手をほどく。
「嬉しいです。……お帰りなさいませ、奥様!」
侍女の顔を見つめ、私は唇を動かす。
「……ただいま」
執事は一度だけ深く頭を下げ、私の前に立ち直る。差し出されたのは、鍵の束だ。
「屋敷の鍵をどうぞ。帳簿もお任せします。嫡男のお小遣いと夜会の同伴は、奥様に伺います」
受け取ると、鍵が鉄の輪の下で揺れる。持ち直すより早く、横から手が伸びる。
「その鍵は俺が使うんだ。返せ! 俺の用なら、俺が開ければ済むだろう!」
「引っ張らないでください! 落としてしまいます!」
落ちかける束を、閣下が下から受ける。冷えた鉄が指のあいだで鳴り、鍵の歯が掌をこする。執事が息子へ向き直る。
「おやめください! 女主人の鍵ですので、お渡し先は奥様です」
閣下が束を私の手の中へ戻す。鉄の輪だけを支え、指には触れない。私は握り直すが、息子の指はまだ輪に掛かっている。
「俺はこの家の息子だぞ! どうしてあなたに頼まなければならない!」
「お使いになるならお貸しします。どちらの鍵が必要ですか?」
息子の袖が張る。鉄の輪は傾いたまま、どちらにも動かない。
「全部だ! まとめて寄越せ!」
「では、全部のお部屋にご用がおありなのですね?」
息子が私の顔から鍵へ目を落とす。引く力が緩み、鉄の輪が少しだけこちらへ戻る。
「そ、そういう意味じゃない! 俺が自由に使いたいんだ!」
「ご用ができましたら、仰ってください」
息子の口が開く。声は出ず、まだ掛かっている指だけが輪の上で動く。閣下が息子を見る。
「鍵が要るなら、女主人に頼め」
閣下の一句に、息子の指が輪から外れる。
「ふんっ! まぁいい。イルミナとは結婚するぞ。もう俺が決めたんだ」
「結婚は公爵家としてのお話になりますよね?」
「え? まぁ、それはそうだろう……」
「であるならば公爵夫人としての母の許しが要ります。面接をします」
私は束を握ったまま向き直る。
「な、なんでそうなるんだ! 俺の結婚だぞ!」
「これはあなた個人のお話ではないのです。相手のお家へ正式にお返事をするのが母の務めです。お会いせずにお返事はできません」
息子がバン! と卓を叩く。思わず握り込んだ鍵が、掌の中でかちりと鳴る。
「返事なら、俺がもうした! 結婚すると言ったんだ! それで話は済んでいるだろう!」
「それはあなたのお返事ですね。それを受けて、家の返事をいたします。相手のお家をお待たせしてはいけません」
鍵を握ったまま待つ。息子の手が卓から離れ、声が小さくなる。
「……あなたにまで会わせることになるなんて、言ってない」
「では、そのこともお伝えください。お迎えの支度はこちらでします」
離れから来た大伯母のメヒティルト様が、閣下より上座へ椅子を寄せる。背をまっすぐ伸ばして腰を下ろすと、息子の立っている場所が急に狭く見える。
「面接官はあたしがやるわ。縁談は女主人と長老が会って決めるもの。八年預かった使用人の采配も、アンナリーゼに渡すわ」
息子がそちらを向く。
「大伯母様まで! 俺の話を聞いてくださらないんですか?」
大伯母様は、待っていたように口元を上げる。
「聞いたわよ。今度は相手の話を聞くの。あなたは口を閉じていなさい」
息子が口を結ぶ。大伯母様の目が、私の手の中の束へ移る。
「あら。鍵の持ち方は悪くないわね」
「……重いです」
鉄の輪を支え直す。さっきまで言い返せていたのに、自分の声はこれきり細くなる。
「重いものよ。八年、あたしが持っていたんだから。うふふ、やっと肩が軽くなったわ」
息子が大伯母様と私を見比べて、眉を寄せる。
「……大伯母様、面白がっていますね?」
「おほほほ、とーてっも。こんなに面白い夜は久しぶりよ」
大伯母様は笑みを残したまま、卓の女主人の席を軽く叩く。
「重ければ置きなさい。そこが、あなたの席よ」
私は卓の自分の前へ鍵を置く。腰を下ろした椅子は、まだ私の形に馴染まない。閣下が隣の椅子を引いて座り、帳簿を開く。革の表紙に灯りが映る。
「今夜から、家の用件は君と話そう」
「はい。分からないところは、伺ってもよろしいですか?」
閣下は帳簿を私にも読める向きへ寄せる。
「もちろんだ。何でも聞きなさい」
閣下が燭台を寄せる。灯りの届く場所が、帳簿の向こうから私の前まで広がる。
「……今夜だけでは、とても覚えきれない量ですわ」
「続きは、また君と読もう。急ぐことはない」
頁に指を添える。一頁目には、大伯母様の角ばった字がびっしりと並んでいる。細い書き込みが欄からはみ出し、紙の端は柔らかく擦れている。
「はははっ、伯母様の字は読みにくいぞ。分からなければ、私に訊くといい」
「聞こえているわよ、ローラント?」
閣下が咳払いをして、めくりかけた頁を戻す。私の掌には、鍵の跡が赤く残っている。閉じると痛む手を、帳簿の脇へ開いて置く。
隅の荷は、まだ紐を結ばれたままだ。そちらへ流れかけた目を、頁へ戻す。隣の人は、私の返事を待っている。
「では、この頁から、教えてください。私も、早くこの家のことを覚えたいです」




