1. 父上が決めた婚約
「父上が決めた婚約に、俺の意思はない。俺は男爵令嬢と結婚する」
公爵家の嫡男ゼヴェリン様は、婚約者の私にそう言いきった。私はアンナリーゼ、伯爵令嬢で二十四歳。
公爵邸の客間には、薄い掛け布を透かして昼の光が差し込んでいる。卓の茶は湯気をなくし、茶器に描かれた花だけが鮮やかだ。開いた書斎の扉の内側に公爵閣下がいる。ゼヴェリン様はそちらにも顔を向け、私の返事を待たずに顎を上げる。当主の面前での宣言だ。
壁際の執事が目を伏せる。その顔が見えなくなると、かえって衣装の襟がきつく感じられる。捨てられる場面を、この家の者に見られている。膝にそろえていた手を、私はそっとほどく。握り込んだ布の皺が目に痛い。
「分かりましたわ。閣下がお決めになった婚約ですので、閣下と改めてお話しさせていただきます!」
「はぁ? 父上と話して、何が変わる?」
私が立ち上がると、ゼヴェリン様は鼻で笑う。
「泣きつくなら好きにしろ。父上が決めた縁を、父上が片づけるだけだ」
「泣きつくなどいたしませんわ。ただ、息子の横暴をどうお考えか、伺うだけです」
「お、横暴って何だよ……」
私が書斎へと進むと、執事が無言で通し、扉を閉めた――。
壁を埋める書棚と、紙の匂い。私は机へ向き直り、背を伸ばす。
「閣下がお決めになった婚約を、ご子息が破りました。このままでは私は、捨てられた女として生きていかねばなりません。責任を取ってください」
閣下が婚約の届から顔を上げる。そこには隠し切れない困惑が映っていた。
「申し訳ない。だが……責任と言われても……まさか、私と結婚すればよいとでも言うのかね?」
「え? 閣下が……? 本気ですか?」
「まあ、私はもう四十を過ぎている。君には酷だろう。代わりを探そう」
代わり――。
公爵家で断られた女性を受け入れてくれるお方、一体どういう方になるのだろうか?
せっかく整えた衣装の裾が、足もとで重い。
「どこの家になろうとも、君を粗末にはさせん。あれの不始末は、私の不始末だ」
申し訳なさそうに頭を下げる閣下に、自然と言葉が口をついた――。
「いえ。私が閣下の後妻になります」
届の上で、閣下の手が止まる。
「いや、ちょっと、落ち着きたまえ……」
「大丈夫です。落ち着いております」
閣下の口が開き、閉じる。私は、静かにその続きを待った。
「私と結婚する、という意味なのだぞ? 分かってるのか?」
「はい。でも、結婚のお話をなさったのは、閣下です」
閣下の眉が寄る。私は真顔のまま頷く。
「いや、あれは、まさかという意味で……」
「はい。私も、まさかと思いましたが、わたくしももう二十四歳。上手くいくかもわからない代わりの方をご紹介されて時間をかけるより、今までよくしてくださった閣下の方が良いと思いました」
閣下は筆を置き、また取り上げる。私が口を挟まずにいると、今度はゆっくりと問いかけてくる。
「君は、自分が何を言っているのか分かっているのかね?」
「はい。ご子息には、この婚約に意思がないそうですので。意思のある方と、改めてお約束いたします。……閣下が、お嫌で……なければ」
最後の言葉だけ、声が小さくなる。閣下の顔を見ても、さっきまでのようには背を伸ばしていられない。
閣下は大きく息をつくと届を私へ向け、父の署名の横を示す。相手は当主が指定する、とある。
「いいのか? もう、後戻りは……できんよ?」
私は目をつぶり、キュッと唇をかんで考える。これは、当てつけにする自暴自棄な判断ではないだろうか……?
一生の重大な決断をこのまま進めて良いのだろうか……?
かんだ唇の痛みだけが、はっきりしている。
目を開くと閣下は灰色の瞳で真っすぐにこちらを見ている――。
……え?
私はその真摯な瞳に、一瞬魅入られたような感覚を覚え……首を振って振り払った。
「こ、後悔はしません。閣下、こちらの届に、ご署名を……」
届を押さえる私の指が震えている。閣下はその指を見てから、届を引き寄せる。
「ふむ、分かった。ただ、君には指一本触れないから安心したまえ。これは愚かな息子に対する責任であり、けじめだ」
サラサラと筆先が紙を走る音だけが、書斎に落ちる。張りつめていた肩が下がり、ようやく衣装の襟にゆとりが戻る。けじめ。その言葉に頷いてから、空いた手を持て余し、裾の皺へそっと重ねる。
「伯爵には、私から話を通そう」
「父は……たぶん、喜んでしまうと思います」
閣下の筆が一度だけ止まり、また動き出す。紙に残る筆の跡が、まだ濡れて光っている。父の署名は、私が見慣れたとおりに堂々としている。
こうして私は、婚約破棄を宣言された直後に、公爵家の後妻になることが決まった。
当主が書き換えれば、婚約はその日のうちに婚姻になる。それが慣いだ。
閣下はローラント様、四十一歳。奥様を亡くして八年、息子の嫁にと私を選んだ人だった。
寡夫の手が扉を開く。客間へ差す光が、足もとに広がる。解消の記録を待つゼヴェリン様は、靴先で床を叩いていた足を止め、私より先に閣下を見る。
「お前の婚約は解消した。彼女を私の後妻に迎える」
閣下は静かにそう告げた。
「……は?」
ゼヴェリン様は、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見た。
「ご、後妻……?」
口は開いたまま、視線だけが私と閣下のあいだを行き来する。私は衣装の裾を整え、頭を下げる。
「そのようになりましたので、ご了承くださいませ」
「待て! あなたは俺との婚約の話をしに行ったんだろう?」
「はい。無事、解消していただきました」
ゼヴェリン様が椅子の肘をつかむ。腰を浮かせかけ、閣下の持つ届へ身を乗り出す。
「婚約解消がなぜ、父上の後妻という話になるんだ!?」
「閣下のご提案ですので、お受けしたまでですわ?」
「ち、父上! そ、そんな提案をしたんですか?」
「お前の不始末を身をもって引き受けただけだ。これはもう決定事項だ」
ゼヴェリン様の顔が、耳の先まで赤くなる。壁際の執事の肩が、ほんのわずかに揺れる。
「な、なんだそれは! 二歳年上なだけのお前が、父上の後妻だと!」
「二歳上でも、閣下の妻ですわ。母上と呼びなさい」
ゼヴェリン様が閣下へ向き、声が裏返る。
「父上、冗談でしょう!」
「冗談で届は書かんよ。正式な届だ」
閣下が隣の椅子を示す。妻の席の前で、私の足が止まる。同じ客間なのに、ここから見える卓の景色が違う。椅子の縁へ寄せかけた裾を、つい握ってしまう。
「……母上……だって?」
息子になったばかりの相手へ向き直る。
「そうですよ? 息子の躾は、わたくし……母の務めですわ。ふふっ」




