14. 婚礼の帳簿
夜の書斎で、ローラントと並んで帳簿を開く。灯りの芯が小さく鳴り、使い込まれた革の匂いに、茶の香りが重なる。開けた窓から、夜の庭の若葉の匂いが入ってくる。
「灯りの油が、少し多いな」
「夜の帳簿の時間が、長くなりましたので」
「……それは、減らさなくていい」
ローラントは帳簿へ目を落としたまま、茶器を持ち上げる。私も頁をめくろうとするけれど、紙の角をうまくつまめない。
そこへ扉を叩く音がして、帳面を抱えた息子が顔を出す。
「ちょっと……よろしいですか?」
「こんな時間に、どうした?」
「父上に用じゃないです。……母上。婚礼の費えを、俺が組んだ。見てくれ」
差し出す腕を見れば袖口のそばまで、墨の跡がある。嫡男の費えは女主人の預かりだ。私は帳面を受け取り、灯りの下へ広げる。
花、たくさん。菓子、イルミナの好きなもの全部。大きな字が、狭い欄からはみ出している。
「たくさん、では花屋さんにお支払いできません」
「くっ……なら、いっぱいだ!」
「同じです」
「ふははっ」
ローラントが口元を押さえる。押さえたところから、笑い声が漏れる。
「父上! 笑うところですか?」
「すまん。……続けてくれ」
息子が眉を寄せて、帳面を私のほうへ押す。続く欄には、祝いの菓子、山ほど、とある。こちらは字まで大きい。
「山ほど、ですか?」
「山は山だ!」
私は帳面から顔を上げる。
「では、扉を通る高さでお願いいたします」
「くぅっ……菓子を減らす前に、扉を測るのか!」
隣で咳払いが響く。息子はそちらを睨みかけ、帳面へ向き直る。大きな字を隠すように、袖口が紙の上へかぶさる。
「……あいつに、欲しいものを我慢させたくないんだ。好きなものくらい、全部あってもいいだろう?」
「減らせとは申しておりません。使い道と、その量を決めるのですわ」
紙の上から、袖口がゆっくり退く。
「……なら、どう書けばいい?」
「まずは、お花から。イルミナ様のお好きな色は、ご存じですか?」
息子の眉間が少しほどける。筆を取り、さっきまでの大きな声を落とす。
「薄紅だ。首飾りを見せてくれたとき、そう言っていた」
「では、薄紅の花、と。花の名と必要な量を決めれば、花屋さんにも代金を伺えます」
余白へ書く場所を示すと、息子は筆を構え直す。勢いよく引いた線の上に、新しい字が慎重に並んでいく。
「……花の名は、まだよく分からない」
「分からないところは空けて、花屋さんに伺いましょう。お菓子のお名前は?」
「そっちは分かる! あいつが話してくれたから」
息子の筆が動きだす。菓子の名の横には、味の好みまで添えられる。
「はい。その書き方なら、菓子屋さんにも伝わります」
「そうか! ……これなら、いいんだな?」
差し出される頁へ、私は身を乗り出して頷く。直したところを見せられるたび、次の欄へ声が弾む。筆を持つ息子の肩も、だんだん机へ近づいてくる。
最後の頁を開くと、これまでの費え、という見出しが現れる。家の帳簿から、息子が自分で写してきた欄だ。小遣いの使い道を書かずに残していた欄も、そこにある。
息子の筆が紙の上で止まる。私は待つ。やがて筆先が下り、白いところへ、髪留め、と書き足される。
「……髪留め、ですか?」
「面接の日に、あいつが着けていたやつだ。……書けと言ったのは、母上だろう!」
耳の赤さが首筋まで下りていく。筆を置こうとして、息子はまだ乾かない字を見つめる。
「……自分で選んだから、似合うかどうかも分からなくて。着けて来てくれて、うれしかったんだよ」
面接の日、蜂蜜色の髪で光っていた真新しい髪留めを思い出す。あの小さな光と、目の前の不揃いな字が、ようやくつながる。私は頁の端をそっと押さえる。
「はい。確かに、使い道が書いてあります」
「……笑うなよ」
「笑っていません」
「ははっ! 私は笑っているがな」
「父上!」
息子が帳面を抱え込む。けれど、閉じかけた表紙は途中で止まる。墨をこすらないよう、開いたまま机へ戻す。書き込んだ欄を、もう袖で隠そうとはしない。
私は机の端から、昼に届いた男爵家の請求書を出す。男爵夫人のジビュレ様の字は、紙の端まできれいにそろっている。
「こちらも、見ていただけますか?」
「……男爵家から?」
息子が受け取り、灯りへ寄せる。花嫁の支度の反物。付き添いの衣装の欄には、ツィタ様の名。宛て先は、どれも公爵家だ。
紙を追う目が止まり、上の欄へ戻る。息子は紙を机に置き、離れたところを交互になぞる。
「待て。同じ反物が、こっちにもあるぞ。付き添いの衣装まで、うちで持つのか?」
問いかけながら、息子は自分の帳面へ目をやる。それから顔を上げ、はっきりと言う。
「花嫁の支度は、花嫁の家の務めだ」
「はい」
息子は請求書へ目を戻す。さっきより深く、眉間に皺が寄る。
「客間でも、そう話していたな。……なのに、また公爵家へ払わせるつもりか!」
「こちらでお受けする内容ではありませんね」
「返書は、俺が書く。これを、そのままにはしておけない」
伸ばされた腕の前へ、私は白い紙を置く。息子は筆を取ってから、こちらを見る。
「……書き出しは、男爵宛てでいいのか?」
「はい。ご挨拶から、お書きください」
「挨拶か。……いきなり反物の話を書きそうになった」
紙へ触れる寸前で、筆先が止まる。私は筆立てを近くへ寄せ、書き出しを待つ。
「……男爵夫人は、怒るだろうな」
「怒るのは、男爵夫人のお仕事です。あなたのお仕事は、書くことですわ」
「……母上は、ときどき大伯母様に似てるな」
褒め言葉かどうかは分からない。息子は返事を待たずに背を伸ばし、紙へ向かう。
筆の音が続く。書き終えた息子は、請求書と見比べてから、返書を私へ差し出す。
「読んでくれ。……言うべきことは、書いたつもりだ」
重ねて記された反物の確認を求め、花嫁側の品の費えは男爵家で持つようにとある。付き添いの衣装についても、公爵家では負担しないとはっきり書いてある。字には勢いがあるけれど、相手を罵る言葉はない。
「良いと思います。この返書で、お出しください」
「分かった。俺が出す!」
息子は請求書を返書に添え、帳面も抱えて立ち上がる。戸口で軽く頭を下げると、紙を折らないよう持ち直して出ていく。
扉が閉まる。私は筆立てを戻しかけて、隣の茶器に目を留める。湯気はもうない。ローラントの前の帳簿も、息子が来る前に開いた頁のままだ。
筆立てを握る手が止まる。椅子まで息子のいたほうへ向けていることに気づき、慌てて体を戻す。
「……私の書斎なのだが」
「も、申し訳ありません、閣下」
ローラントは頬杖をついたまま、何も言わない。私は筆立てを置き、置いたばかりのそれを、また少し動かす。灰色の目は、私から離れない。
「息子には、ずいぶん丁寧に教える。私にも、一つ聞かせてもらいたいものがある」
「な、何でしょう?」
「私の名前だ」
灯りが、緩みかけた口元を照らす。私は唇を開き、声になる前に閉じる。さっきまで、あんなに滑らかに言葉が出ていたのに。
冷めた茶器へ手を添える。持ち上げようとして、そのまま置く。ローラントの目は茶器へ移らず、私の顔を待っている。
私は肩を下ろし、ゆっくり息を整える。机に向けていた体を、今度はきちんと彼へ向ける。
「……ローラント。お待たせ、しました」




