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13. お義兄様

 春の終わりの午後、客間の窓から、葉の濃くなった庭が見える。卓の上で揺れる木漏れ日を、戸口に差す影が遮る。執事が頭を下げる。


「男爵家のツィタ様が、お届け物をお持ちです。お一人で」


 籠を抱えたツィタ様が、返事を待ちきれないように入ってくる。焼き菓子の甘い匂いが、茶の香りに重なる。飾り紐の下には、若様へ、とジビュレ様の字で書かれた文が挟んである。


「公爵夫人様って、お若いのね。お姉様と、あんまり変わらないみたい!」


「イルミナ様より、年上です。今日は、何をお持ちくださったのですか?」


 ツィタ様は籠を持ち上げながら、私の肩越しに廊下をのぞく。


「これ、ツィタが焼いたの。お母様が、若様に直接お渡ししていらっしゃいって。……お義兄様は、お庭?」


「まだ、お義兄様ではありません。それに、この家へのお届け物は、女主人がお預かりします」


「お義兄様に、直接渡したいの!」


 差し出しかけた籠が、腕の中へ戻る。飾り紐を握り込んだまま、ツィタ様は窓の外へ顔を向ける。


「お会いになるのでしたら、庭で。私の目と声が届くところでお願いします」


 庭へ出ると、土と若葉の匂いが濃くなる。息子は庭師のそばで、イルミナ様に届ける花を選んでいる。花を傾けては、傷んだ花びらがないか確かめるように顔を寄せる。


「お義兄様! やっと会えた! ツィタ、お菓子を焼いてきたの!」


 息子を見つけたツィタ様は、私に籠を預けて駆け出す。私は庭に面した階段の上で足を止める。花壇までは近く、弾む声も、砂利を踏む音もよく届く。


 ツィタ様が息子の袖をつかむ。息子は花を遠ざけて立ち上がり、つかまれた袖を静かに抜く。


「……ツィタ嬢。俺は、まだ君の義兄じゃない」


「すぐなるでしょ? お菓子、あとで食べてくださる?」


「届け物なら、礼を言う。だが、会いに来るならイルミナと一緒に来い」


 袖を追いかけるツィタ様の手が、空中で止まる。


「お姉様と一緒だと、お義兄様はお姉様ばっかり見るもの!」


「イルミナに会いたいんだから、見るに決まってる」


 息子は花のほうへ体を戻しかける。ツィタ様が、その顔を下からのぞき込む。


「ねえ、お姉様より、ツィタのほうがお似合いでしょ?」


 花を持つ手が止まる。息子は庭師に花を預け、空いた手を下ろして、ツィタ様へ向き直る。


「俺は一度、婚約者を軽く扱った。二度目はない」


 手すりに置いた指に、力が入る。軽く扱われた婚約者は、私だ。石の冷たさが掌に染みる。口元を緩めようとしても、唇が動かない。今の息子を喜ぶ言葉さえ、あの日の私を通り抜けられない。


「……ひどい。ツィタばっかり……こんなに、会いたかったのに……うぅぅぅ……」


 ツィタ様が顔を覆う。肩を揺らしながらも、指の隙間は息子のほうへ向いている。息子が動かないでいると、泣き声が大きくなる。


「泣いても、返事は変わらない」


「お姉様は、何も言わない子なのに! 一緒にいても、つまらないでしょ?」


 息子の眉が寄る。それでも、声を張り上げる前に口を結び直す。


「言う。……俺が、聞くようになった」


「ツィタのほうが、いっぱいお話しできるのに!」


「どれだけ話すかじゃない。俺は、イルミナの話が聞きたいんだ」


 顔を覆う手が下がる。乾いた頬に、葉の影が揺れている。


「お姉様、言い返すのよ? お義兄様にも、怒るかもしれないのよ!」


「怒らせたら聞く。黙られるより、言ってくれるほうがいい!」


「……ツィタには、そんなこと言ってくれないのに!」


 ツィタ様は息子の顔を見つめ、それから私へ振り向く。裾をつかんで階段を駆け上がり、途中からまた泣き声を上げる。


「公爵夫人様ぁ! お義兄様が、ひどいの!」


「ツィタ様。お届け物は、確かにお預かりしました。お帰りの馬車を呼びます」


 開いた口から、泣き声が途切れる。ツィタ様の目が、私の腕の籠へ落ちる。


「えっ? ツィタ、帰るなんて言ってないの! お母様には、直接渡してくるって……」


「女主人が受け取ったとお伝えください。お届け物は、これで済みますわ」


 私は控えている執事に頷く。ツィタ様は庭へ顔を戻すけれど、息子は階段へ近づかない。籠の端で、若様へ、と書かれた文が風に震える。


 馬車へ向かうあいだも、ツィタ様は目元に布を当てている。ときおり、庭を振り返る。


 馬車が門を出ると、階段の下から息子が私を見上げる。


「……聞いてたのか?」


「はい。声の届くところで、とお願いしましたので」


 息子の靴先が砂利をこする。庭ではまっすぐ伸びていた背が、私を前にすると落ち着かなく揺れる。


「くっ……母上に言われたからじゃないからな!」


「はい。存じています」


 息子が階段に足を掛ける。手すりに残る私の手を見て、口を開く。


「……あの日のことは」


「今日は、ツィタ様のお話です」


 息子の唇が止まる。私は籠を抱え直す。持ち手に巻かれた布が、石に触れていた掌をこする。息子は足を戻し、庭師から受け取った花を持ち直す。


「……これ、今日のうちにイルミナに届けたい。行っていいか?」


「はい。暗くなる前に、お戻りください」


 花束を抱える腕が緩む。息子は花の先を確かめてから、私へ顎を上げる。


「花を渡しに行くだけだぞ。そんなに遅くならない!」


「では、置いてくるのは花だけにしてくださいね」


「俺まで置いてくるか!」


 声に驚くように、花びらが揺れる。私は籠を持ったまま頷く。


「はい。あなたのお帰りを待つのも、母の務めですわ」


 息子は言い返しかけ、花束へ目を落とす。その口元を花で隠すようにして、門へ歩き出す。花を抱える腕には、もう余計な力が入っていない。


       ◇


 その夜、書斎で帳簿を閉じると、ローラントが灯りの芯を短くする。頁の上に伸びていた明かりが縮み、窓には、向かい合う私たちの姿が淡く映る。革の表紙から手を離しかけたところで、声が届く。


「君の好きな花は、何だ?」


「……好きな、花」


 答えようと顔を上げたまま、言葉が止まる。伯爵家の花瓶の花は、いつも母が選んでいた。昼の花壇を思い浮かべても、色ばかりが並んで、どの花にも手が伸びない。


「……庭の花は、どれもきれいでした」


「ああ。だが、君はどの花を見ていたい?」


 私は閉じた帳簿へ目を落とす。花の代金なら、この中に書いてある。表紙の縁をなぞりかけた手を、膝へ戻す。


「贈る相手がいらしたら、色や香りを考えられるのですけれど……私のためとなると、分からなくて」


「では、今は分からないままでいい」


 顔を上げる。ローラントは笑って済ませずに、私を見ている。答えが出ないのを確かめても、その目は離れない。


「……つまらないお返事で、申し訳ありません」


「つまらなくない。君の花を、これから知れるんだろう?」


 膝の上でつまんでいた布を離す。できた皺を伸ばそうとして、手が止まる。私自身も知らないものを、この人は楽しみに待ってくれる。


「ロ、ローラント……。すぐには、決められないかもしれません」


「急がなくていい。花を見るたび、答えが変わってもかまわない」


「変わっても、よろしいのですか?」


 ローラントの目尻が、柔らかく下がる。


「もちろん。そのときは、また聞かせてくれ」


 窓へ目を向ける。今は暗くて見えない庭に、昼の花壇の色が重なる。誰に差し上げるかを考えずに、花の前に立つ。そのとき自分の目がどこで止まるのか、まだ分からない。


「……考えておきます」

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