10. 人生の伴侶
その夜、書斎の扉の外で息子が礼をする。開いたところから入りかけず、廊下に足をそろえたまま顔を上げる。
「お礼の続きを話したい。入ってもいいか?」
「今夜は夫婦で話します。用件は明日、聞きますね」
息子の目が扉に添えた手に落ち、私の顔へ戻る。
「……分かった。明日だな」
頷いて戻る息子を見届け、扉を閉じる。木目に添えていた手を離しても、すぐには机へ向かえない。腰の鍵の重さはいつもどおりなのに、「夫婦で」と告げた自分の声が、耳に残っている。
振り向くと、机に約束のワインとグラスが二つ並んでいる。帳簿は開かれないまま、灯りの下だ。いつも頁を広げる場所に、透き通った縁が淡く光る。
「……それは」
「とりとめのない話を、と言っただろう?」
「覚えていらしたのですか?」
「約束だからな」
閣下が酒を注ぎ、私の前へグラスを寄せる。受け取った細い脚は、ひんやりと冷たい。椅子に腰を下ろすと、熟れた果物の匂いが、帳簿の革の匂いに混じる。
「私、自分で何かを選んだことが、あまりないのです。お茶の葉も、衣装の色も、婚約も」
「伯爵にも伝えたが、私の後妻になると決めたのは、君だよ?」
「……はい。あの日だけは」
閣下がグラスを持ち上げ、私の手元へ目を落とす。
「あの日の君の指は、震えていた」
「……見ていらしたのですか?」
「見ていた。だから、触れないと約束した」
グラスの縁に唇をつける。あの日、平気な顔をすることばかり考えていた私を、この人はどこまで見ていたのだろう。舌に触れる酒の味が、うまくつかめない。
「では、今夜の酒の味は、君が決めてくれ」
「……少し、苦いです。でも、嫌いではありません」
「ははっ、それでいい」
笑い声に、グラスを持つ腕の力が少し抜ける。甘い香りの奥に、舌に残る渋みがある。確かめるように味わってから、私は顔を上げた。
「閣下は、何でもご自分でお決めになれるのでしょう?」
「当主としては、な。自分のために選んだのは、二度だけだ」
グラスを回していた動きが止まる。酒の表面だけが、しばらく揺れている。
「二度、ですか?」
「一度は八年前、もう妻は迎えないと決めたとき。……二度目は、あの日、この書斎で、君に頷いたときだ」
もう迎えないと決めたはずの妻が、今、こうして向かいに座っているのだ。私はグラスを持ち直す。あの日、決めたのは私だけではなかった。そのことが、冷たい縁に触れた唇を熱くする。
閣下が自分のグラスを置き、私を見る。
「今日の君は素晴らしかった。イルミナさんを認めるとは思わなかった」
「母の務めを果たしたまでです。……息子には、もったいないくらいの方ですから」
「ははっ、違いない」
閣下が机の上で手を組む。灯りが、その指の節に影を作った。
「本当を言えば、息子の浮気相手など、ひどい目に遭わせてやりたかった。だが、イルミナ様に悪意は無い。それで、我慢した」
「……閣下が、ですか?」
「私だ。それから、愚息の罪は、私が詫びる。すまなかった」
閣下が頭を下げる。こめかみの白い髪が、灯りに浮かぶ。机のこちら側から、そのつむじを見ていることに落ち着かなくなる。私はグラスと帳簿を机の端へ寄せた。空いた場所に、閣下の手がある。
「頭をお上げください。私のほうこそ、感謝しております。名前だけの妻ではなく、この家の女主人として、閣下は私を尊重してくださいました」
閣下がゆっくりと顔を上げる。灰色の目は帳簿へ戻らず、私を見つめたままだ。組まれた手に力がこもり、節が白くなる。
「礼はうれしい。だが、君をあんなふうに扱ってよいはずがない! 私の息子でも、許せんものは許せん」
「……怒ってもよいのか、先に誰かの顔を見てしまうのです。怒るより、何も感じなかったふりをするほうが、上手になってしまって」
袖口を、意味もなくなでる。口元にいつもの笑みを作ろうとして、うまくいかない。閣下の声は、私が顔を上げてから届く。
「ここでは、そんなふりはしなくていい。私に腹が立ったときも、言ってくれ」
「……では、申し上げます。息子のしたことまで、ご自分のせいになさらないでください」
閣下の眉が上がる。私は背を伸ばしたまま、その目を見返す。
「……私が叱られる話だったかな?」
「叱る相手は、息子で足りております。閣下には、お礼を申し上げているのです」
閣下の口元が、とうとう緩む。背もたれから体を起こし、なぜか上着の襟まで正すので、こちらの頬まで緩んでしまう。
「それは……うれしいが。礼を言われて、こんなに背筋が伸びるとは。ははっ」
「私も、うれしいです。こんなふうに言い返しても、お話が終わらないのですね」
言ってから、唇を結ぶ。余計なことまで口にした気がして、続きを探せない。けれど、閣下の顔は私からそらされない。閉じた帳簿のそばで、固く組まれていた手がほどける。
「これからも、妻として公爵家を支えてほしい」
用件の一句。閣下はそこで言葉を切り、私の返事を待つ。膝の手を、私は握り直す。
お役に立ちます、と言えばすむ。家のことなら、いつも迷わず答えられる。けれど、口を開いても、その言葉が出てこない。掌の下で布が寄る。私は、閣下の目を見たまま唇を動かす。
「なら……女性としての私も、認めてほしいです」
「……え? も、もちろん、最初から認めているさ」
閣下が机を回って、私の前に片膝を突く。上着の裾が床に広がり、衣擦れの音が静まる。見上げてくる灰色の目が、すぐ近くにある。耳の先まで赤くなっているのが見えてしまい、私も頬を冷ます場所を失う。
「アンナリーゼ、公爵夫人としてだけではない。本当の意味で人生の伴侶になってほしい」
差し出された手は、指一本触れないと言った日の手だ。
私はその上にそっと指を重ねる。震えは、もうない。触れたところから温かさが広がり、強張っていた肩が下りていく。帳簿も鍵も手にしていない私に、こんなにも優しい顔をしてくれる。
先に頷くことも、相手の望む答えを探すことも忘れる。重ねたところを見つめてから、自分の声で答える。
「お受けいたしますわ、閣下」
「閣下ではなく、ローラントと、呼んで欲しい」
呼び慣れた肩書きが唇にかかり、飲み込む。名を呼ぼうとすると、喉の奥で声がつかえる。帳簿の難しい字なら訊き返せるのに、知っているはずの名が、どうしても滑らかに出てこない。
「え……? ロ、ローラント……?」
「ありがとう、アンナリーゼ……」
ローラントは立ち上がると、優しくハグで私を包み込む。上着に頬が触れる。布越しに伝わる鼓動は、思いのほか速い。私もローラントの背中に手を回す。置き場所を探していた腕が、そこに落ち着く。
顔を上げて、きちんと申し上げようとする。けれど、近くで目が合うと、整えたはずの言葉はほどけてしまう。残った声を、そのまま預ける。
「幸せに……してくださいね」




