価値を書き換える俺は、正義を名乗れない④
それから、三日。
黒崎の様子は、はっきりとおかしくなっていた。
「またミスかよ」
「お前、昨日も同じとこ間違えてただろ」
最初は、些細な違和感だったはずだ。
計算を一つ間違える。
書類の順番を取り違える。
そんなもの、誰にだってある。
だが。
「……違う、確認したはずだ……」
同じ箇所で、同じミスを繰り返す。
見直しても、気づけない。
気づいても、修正が遅れる。
その積み重ねが、確実に何かを削っていく。
周囲の視線。
最初は、軽い呆れだった。
次に、疑問。
そして今は――明確な不信。
「……最近おかしいな、あいつ」
小声で交わされる評価が、耳に入る。
隠す気もない声音。
視界に浮かぶ数値。
――73
変わっていない。
それなのに。
「……数値は、結果じゃない」
思わず呟く。
「……状態、か」
白峰がこちらを見る。
その目は、警戒と不安が混ざっていた。
「どういう意味」
「高いほど、安定してる」
「低いほど、崩れやすい」
黒崎の動きを目で追う。
手元が微妙に狂っている。
焦りが、それをさらに悪化させている。
「……土台みたいなものだ」
そう考えると、妙にしっくりきた。
「だから、たった10でも」
「ここまで歪む」
自分の言葉に、自分で納得している。
それが少しだけ、気味が悪い。
「……じゃあ」
白峰の声が、かすかに震える。
「あなたが下げた分だけ」
「不幸になるってこと?」
「……たぶんな」
曖昧な返答。
だが、否定はできない。
あの子供。
あの悲鳴。
「少なくとも」
「何も起きない、はない」
言い切る。
「……0になったら?」
その問いで、空気が変わる。
「……死ぬ」
迷いはなかった。
理屈ではない。
確信に近い直感。
「帳尻が合う」
自分でも驚くほど、あっさりと言葉が出た。
「……っ」
白峰が息を呑む。
「じゃあ今までのも……」
「どこかで、誰かが払ってる」
沈黙が落ちる。
重く、動かない沈黙。
「……やめて」
白峰が言う。
「もう十分でしょ」
「……いや」
首を振る。
「まだ足りない」
言った瞬間。
自分の中で何かが、はっきりと形を持った。
「……何が足りないの」
「どこまで下げたら、どう壊れるか」
完全に、一線を越えた言葉だった。
「……あなた」
白峰の声が低くなる。
「それ、試すつもり?」
「……ああ」
否定しない。
もう、できない。
「でも、0にはしない」
続ける。
「絶対に」
その言葉に、どこか救いを見出している自分がいる。
「……それでいいと思ってるの?」
「いいとは思ってない」
正直に答える。
「でも」
視線を逸らさない。
「0じゃなければ、死なない」
その理屈は、危うい。
自分でもわかっている。
それでも。
「……生きてる」
黒崎を見る。
まだ立っている。
まだ働いている。
壊れているのに。
終わってはいない。
「……最低」
「……ああ」
それでも。
引き返す気はなかった。
そのとき。
「おい」
低い声。
黒崎が、こちらを睨んでいた。
「さっきから見てんじゃねえよ」
目の奥に、苛立ちと焦燥が混じっている。
自分でも何かがおかしいと、気づいている目。
「……別に」
「気持ち悪いんだよ」
一歩、近づく。
「なんだ、文句あんのか?」
白峰が、袖を強く引いた。
「……やめて」
その声は、今までで一番強かった。
それでも。
手は、止まらなかった。
「……少しだけだ」
視界に浮かぶ数値。
――73
触れる。
あの、ざらついた感触。
「やめてって言ってるでしょ!!」
白峰の声が、はっきりと怒りを帯びる。
それでも。
「……3だけ」
73を、70に。
書き換えた瞬間。
世界が、明確に歪んだ。
「……っ!」
耳鳴りのような圧迫感。
頭の奥を、何かが引きずる感覚。
黒崎の体が、大きく揺れる。
「……は?」
焦点が合わない。
視線が泳ぐ。
「……なんだ、今……」
次の瞬間。
「――っ!?」
膝から崩れ落ちる。
「おい!?」
「黒崎!?」
周囲が一斉に騒ぐ。
「……手が……」
黒崎の手が、震えている。
自分の意思とは関係なく、細かく揺れている。
「……力、入らねえ……」
声にも、明らかな異常が混じる。
そのとき。
遠くで、ガシャン、と大きな音がした。
反射的に振り向く。
棚が崩れている。
下敷きになりかけた女性が、尻もちをついている。
「きゃっ……!」
周囲が駆け寄る。
視界に数値。
――12 → 9
「……っ」
理解する。
3。
さっき下げた分。
「……分配されてる」
言葉が、勝手に出た。
「……あなた」
白峰の声が震える。
「今の、見たでしょ」
「……ああ」
死んではいない。
だが。
確実に、不幸が落ちている。
偶然ではない。
「……やっぱり」
確信に変わる。
「下げた分だけ、どこかが崩れる」
白峰が、一歩後ずさる。
「……もうやめて」
その声には、はっきりと恐怖があった。
「これ以上は、本当に――」
「大丈夫だ」
遮る。
「0にはしてない」
その言葉が。
空気を決定的に変えた。
「……あなた」
白峰の目が、冷たくなる。
「それ、本気で言ってるの?」
「……ああ」
迷いはなかった。
「0にしなければ、死なない」
「だから」
一拍。
「まだ、やれる」
沈黙。
白峰は、何も言わない。
ただ。
ゆっくりと、一歩下がる。
ほんのわずかな距離。
それなのに。
決定的だった。
「……止める」
小さく、しかしはっきりと。
「私は、あなたを止める」
敵でもなく。
味方でもない。
その宣言だけが、そこに残った。




