価値を書き換える俺は、正義を名乗れない②
翌日。
雨は上がっていたが、空気はどこか湿っていて、肌にまとわりつくような重さが残っていた。
昨夜の出来事が、まだ終わっていないとでも言うように。
「……歩けそうか」
俺は少し距離を置いたまま、白峰に声をかける。
無意識だった。
近づきすぎることに、わずかな抵抗があったのかもしれない。
「ええ。まだ少しふらつくけど……なんとか」
白峰 澪は、小さく息を整えながら頷いた。
その仕草はどこか慎重で、まるで自分の体の状態を一つずつ確かめているようにも見える。
当然だ。
昨日まで、ほとんど死にかけていたのだから。
本来なら。
こんな短時間で回復するはずがない。
それは、常識として知っている。
だからこそ。
「……やっぱり、あなたの力?」
白峰のその問いは、確認というよりも、ほとんど確信に近い響きを持っていた。
「……たぶんな」
俺は視線を逸らしたまま答える。
肯定も否定もできない。
ただ、“他に説明がつかない”というだけだ。
沈黙が落ちる。
短いはずなのに、やけに長く感じる沈黙。
「……ねえ」
白峰が、少しだけ声の調子を変える。
柔らかさの奥に、慎重さが混じる。
「昨日の、あの感じ」
「何か……おかしくなかった?」
その言葉で、はっきりと思い出す。
――遠くで聞こえた、何かが崩れるような音。
――理由のわからない、嫌な違和感。
「……ああ」
俺はゆっくりと頷いた。
「気のせい、じゃないと思う」
そう言い切った瞬間、自分の中で何かが一歩進んだ気がした。
“曖昧な違和感”を、“認識された異常”として扱ってしまった感覚。
「……私も、そう思う」
白峰もまた、同じ結論に辿り着いているようだった。
その声は小さいが、迷いはなかった。
互いに、言葉を選んでいる。
はっきり言ってしまえば、戻れなくなるとわかっているからだ。
「……確かめる必要がある」
やがて、俺はそう言った。
口にした瞬間、自分の中で言い訳が組み立てられる。
これは必要なことだ。
理解するためだ。
制御するためだ。
「また、使うつもり?」
白峰の問いは、静かだった。
責める響きはない。
だが、逃がさない強さがある。
「そうしないと、わからない」
事実だけを返す。
それ以上の理由は、言わない。
――言えない。
少しの間。
白峰は俺を見ていた。
何かを見極めるように。
「……範囲は?」
「最小限にする」
即答だった。
あらかじめ用意していた言葉のように、自然に出た。
「影響も、できるだけ小さく抑える」
言ってから気づく。
“影響”という言葉を、当然のように使っている自分に。
もう、仮定ではない。
何かが起きる前提で、考えている。
「……わかった」
白峰は、ゆっくりと頷いた。
完全な納得ではない。
それでも、止めはしない。
「でも、何かおかしいと思ったら、すぐやめて」
「ああ」
短く答える。
その約束が守れるかどうか、自分でもわからないまま。
ギルドへ向かう道。
人通りはいつもと変わらない。
朝のざわめき。
日常の流れ。
――のはずだった。
「……人だかり」
白峰が足を止める。
少し先に、ざわつきがある。
不自然な密集。
「倒れたらしい!」
「急にだって……!」
嫌な予感が、背中をなぞる。
近づく。
人の隙間から覗き込む。
地面に、男が倒れている。
見知らぬ顔。
ただの通行人。
そして。
視界に浮かぶ数値。
――価値:0
「……ゼロ?」
思わず声が漏れる。
「あなた、今何か言った?」
白峰がこちらを見る。
「……いや、気にするな」
とっさに誤魔化す。
まだ、この情報を共有する段階じゃない。
「呼吸は!?」
「……ダメだ、もう……」
周囲の声。
焦りと諦めが混ざった空気。
男は、完全に止まっていた。
――昨日の“違和感”が、頭をよぎる。
タイミング。
感覚。
そして、この“ゼロ”。
「……偶然、よね」
白峰が、確認するように言う。
「……ああ」
答える。
だが、その言葉は軽かった。
自分でも、信じていない。
視線を巡らせる。
周囲の人間。
どの数値も、普通だ。
ゼロは、この男だけ。
「……条件があるのか」
小さく呟く。
“何をすれば、どこに影響が出るのか”
考え始めている時点で。
もう戻れない気がした。
「……やるの?」
白峰が聞く。
逃げ道はなかった。
「……ああ」
俺は頷く。
「今度は、もっと小さく」
視線を動かす。
人の流れの中から、一人を選ぶ。
――価値:54
平均的。
極端ではない。
だから安全だと。
そんな都合のいい理屈を並べる。
「……やめた方がいいと思う」
白峰の声が、少しだけ強くなる。
「まだ、確定してない」
俺は言い返す。
「だから確かめる」
言葉にしてしまえば、もう止まらない。
手を伸ばす。
触れる。
数字の感触。
昨日と同じ。
「……1だけ」
54を、53に。
ほんのわずかな変化。
その瞬間。
視界の奥で、何かが“軋んだ”。
「……今の」
白峰が息を呑む。
「感じたか」
「ええ……少しだけ」
数秒。
何も起きない。
静寂。
「……やっぱり関係な――」
言い終わる前に。
「きゃあっ!!」
鋭い悲鳴が、空気を切り裂いた。
「子供が倒れた!」
振り向く。
小さな体。
地面に崩れ落ちている。
視界に数値。
――3
次の瞬間。
――0
「……っ!」
理解が、追いつかない。
いや。
理解したくない。
「そんな……」
白峰の声が震える。
距離がある。
関係ないはずだ。
それでも。
タイミングが、すべてを否定する。
「……今の、あなたよね」
逃げ場のない問い。
「……たぶん」
それしか言えなかった。
「……1だけだったのに」
自分でも信じられない声が出る。
「それでも……起きた」
白峰が呟く。
「どこかで、帳尻を合わせてるみたいに」
その言葉は、あまりにも正確だった。
増やせば。
減らせば。
どこかで。
誰かが。
崩れる。
「……昨日も」
「……ええ」
もう、言葉はいらない。
あのとき。
彼女を助けた代わりに。
誰かが、ゼロになった。
沈黙。
騒ぎは続いている。
誰も理由を知らない。
当たり前だ。
原因は。
俺だ。
「……やめる?」
白峰が静かに聞く。
単純な問い。
やめるべきだ。
間違いなく。
それでも。
視界には、数字がある。
触れられる。
変えられる。
その事実が。
頭から離れない。
「……わからない」
それが、限界だった。
「……そう」
白峰は、それ以上何も言わなかった。
責めない。
肯定もしない。
ただ。
同じ現実を見てしまった者として。
そこに立っている。
「……最低ね」
小さな声。
「……ああ」
否定はしない。
できるはずがなかった。




