16
「レイザード?」
戸惑いを含んだ声が、俺の名を呼ぶのが聞こえる。
いびつな音がして、広がる赤が砕けて消えた。
「……なんでもない」
困惑と心配とが混じった表情を、浮かべている。それはそうだ。いきなり名を叫ばれて、腕を掴まれたら戸惑いもする。
―― 何をしてるんだか
バグだってわかっているのに、影響されすぎた。もう何度も見てきた。そろそろ慣れろって、思いもするけれど美味く制御ができない。
拍動が、うるさい。
――ただのバグだ
一つ息を飲んでから、ジルベールを見る。
ほら見ろ。赤なんてどこにもない。ジルベールはいつもと変わらないし、足元の花は白くない。
――だから
何も問題ないないんだ。だから手が震えるなんて、おかしい。心臓の音がやたらと大きいのも、全部いまだにバグへの免疫が、つかないだけだ。痛いのも苦しいのも、全部が気の所為なんだ。
だから早くいつも通りに――
「ごめんね。家まで我慢して」
何時ものように振る舞って、ここから去ろう。短く別れを告げよう。そう思って口を開こうとすると、その前に体が浮いた。
―― どういう状況だろうか
顔色が悪いからと言われた。それはさっき言われたから、分かってはいる。だがこうなんで、所轄お姫様抱っこをされているんだ。自分で歩ける。
色々と頭の中で考えている間に、ジルベールが歩き出す。必要ないから、降ろせ、なんでもない。お前はなにをしているんだ。口から出したい言葉は、かなりある。だというのにやたらと頭が重くて、言葉を発するのさえ面倒になり揺れに身を任せた。
ジルベールの家に来てと言うより、運ばれて椅子に座っている。家主のジルベールは、台所に茶を入れにいった。
「どうぞ」
前に好きだと伝えた茶だ。覚えていたのか。よく覚えてるな。出された菓子は、おっさんの店のものだ。ジルベールも好きなのだろうか。おいしいものな。
「美味いな……」
「良かった」
苦みのない甘い茶だ。飲むとホッとする。
ジルベールは穏やかな目をしたままで、何も聞いてこない。聞かれたくないって、察してるのだろうか。今聞かれても、良い言い訳が思いつかないから助かる。
『今日のお菓子は、なあに?』
『今日はね――』
『やった!』
甘い匂いの広がる部屋で、期待を込めた子供の声が聞こえる。それに返される優しい声に、子供の声が弾む。
―― 止めてくれ
見たくない。聞きたくない。
穏やかな優しい空間、何の害もない。不快に思う理由さえ思いつかない。そんなバグなのに、目の前がぐらつく。叫んでしまいたくなる。
「レイザード」
「なんでもない」
名を呼ばれて、咄嗟に否定を口にする。どうかしたのか。体調が悪いのか。そんなことを聞かれても、上手く返せないと思ったからだ。
「うん」
「……」
短く穏やかな声が、帰ってくる。肯定されたわけじゃない。けど否定でもない。ただそのまま受け入れられた気がした。
「おかわりが、ほしい」
「分かった。入れてくるね」
挙動不審な自覚はある。訝しがられているのも心配かけているのも、誰に言われずとも分かってる。素直に話せないと言ってしまえば良い。迷惑かけて悪いと、伝えれば良い。そう思っているのに、言葉にしたのは茶のおかわりの要求だ。
思わず溜息をつきそうになる。なんで此処で、その台詞なんだ。
『おいしい! おかわり!』
『あら、嬉しい。待っていてね』
空の皿が見える。おかわりをねだる子供の声に、優しい声が返ってくる。
『俺も、食べたいな!』
『あら、ふふっ』
もう一つ大きい声が聞こえる。視線を動かせば、子供の父親が笑顔を浮かべていた。
穏やかな穏やかな――ああ、そうか。もう二度と
なにかどす黒い感情が渦巻いたとき、まるで警告のように金属の歪んだよう音が頭の中に響いた。




