第九章 誰のための真実
年が明けて、四人は弁護士の竹内蓉子と会った。久住から名前を渡されたが、依頼すると決める前に、それぞれ一度ずつ話をした。湊の契約は、母の優子が一緒に確かめた。
竹内は最初に、遺言の有効性を争う訴訟の相手方は、財産を受け取る四人だと説明した。久住は証人になる。執行の仕事は、引き継ぎの手続きを進めていた。
「家族だったことを、証明しなくてもいいんですか」
圭介が聞いた。
「必要な経緯は伺います。でも、家族だったから遺言が有効になる、ということではありません。作ったときに、ご本人が何を理解していたかを確かめます」
沙織は机の木目を見た。
「私が、源一郎さんを好きだったかどうかは」
「結論を左右する条件ではありません」
好きだった、と言わなくてもよかった。沙織は鞄の持ち手から指を離した。
六月二十日の公正証書遺言と、その前の相談記録が揃えられた。財産の一覧、配分を変えた理由、何度も直された文案。公証人と証人への確認、診療録の照合も進んだ。
湊の録音について、竹内は、必要な範囲を相談したいと言った。
「嫌なところは、出さなくていい?」
「まず、どこが嫌かを聞かせて。出す必要があると言われるものは、その理由も説明するから」
湊は頷いた。すぐ、いいよ、と言われるより、少し難しかった。
久住が記者へ送った音声と送付状も、四人は見た。自分たちを疑った記事の見出しが、資料の端に印刷されていた。美羽はそこを折った。読むと、今、話すことを忘れそうだった。
*
真鍋は隆史に、主張を整理した紙を渡した。四人の動機。報酬。源一郎の病状。台本。紙の上では、すべてが一本の線で繋がっていた。病気の老人が、過去に関わりのあった人たちを集め、高額の報酬を払い、財産を残した。どこまで自分の判断で、どこから病気や周囲の影響だったのか。隆史はその線を見た。最初は、自分もそう思った。
葬儀の四人を見たとき、父は最後まで金で人を動かしたのだと思った。四人は、金で動いた人たちだった。今も、それは事実の一部だった。けれど、湊が写真を渡したときの手は、紙の上にない。美羽が、母のことを勝手にまとめないでと言った声もない。
圭介が自分の父の名前を言ったときの沈黙も、沙織が父を許さないと言いながら舞台をしたことも、線の外にあった。
「この紙だと、親父は何もしていないことになる」
「被相続人の状態を、問題にしています」
「親父が四人を選んだことは」
「それも、判断の状態を検討する材料です」
隆史は紙を机に置いた。父が決めたことを、判断を疑う材料として読み直す。そういう仕事を、隆史自身が頼んだ。勝ったあと、自分は父を、どんな人として覚えるのだろう。隆史は真鍋に聞いた。
「私が、四人を家族だと思ったら、負けるんですか」
真鍋は少し間を置いた。
「家族という感情と、遺言の有効性は、別の問題です」
隆史は頷いた。
「なら、私があの人たちを家族だと思ったとしても、証言から削らないでください」
真鍋は隆史を見た。隆史は紙を鞄に入れた。会社の数字は、まだ足りない。父の財産があれば、助かる人がいた。そのことを、なかったことにはできない。けれど、助けるために、別の人の半年を消していいわけではない。隆史は初めて、その二つを同じ机に置いた。
*
二月、圭介と和子は事故資料を公にした。竹内から紹介された弁護士にも相談し、資料の読み方を確かめ、現場にいた人へ連絡した。源一郎の自筆の文書だけで、すべてを説明できるわけではなかった。
小さな会議室に記者が来た。圭介は父の名前を最初に言った。佐伯浩二。言う前に、口の中が乾いた。
「当時の説明には、確かめるべき点が残っています。会社に、記録の確認と説明を求めます」
源一郎が遺した資料を机に置いた。父の現場の写真も、和子と相談して一枚だけ出した。
「遺産を受け取る人が、遺言者の不正を公表する理由は」
記者が聞いた。
「父の名誉を、確かめたいからです」
「源一郎氏との約束では、ないんですか」
「渡されたときは、そう思いました」
圭介は隣の和子を見た。和子は前を向いていた。
「今は、母と私が決めて、ここにいます」
終わってから、自分のネクタイが曲がっていることに気づいた。和子が直しかけ、圭介が自分で引いた。
「違う、そっちじゃない」
「わかってるって」
結局、母が直した。
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記者会見の映像が流れたあと、圭介の携帯に連絡が増えた。昔の劇団仲間。仕事を断られた事務所。名前を覚えていない人。大変だったね。今度、話を聞かせて。いい企画になると思う。圭介は画面を見た。自分が写真を売ったとき、記者も、いい記事になると言った。誰かの生活が、いい企画になる。
その言葉を、今は簡単に喜べなかった。圭介は、話せることと話せないことがある、と返した。返事が来なくなる人もいた。それでよかった。沙織にも、取材の申し込みがあった。元女優が大富豪の妻を演じた半年。その見出しだけで、沙織の人生が一つの話になる。
劇場で待った時間も、受付をした仕事も、舞台に立てなかった年も、見出しの下へ入る。沙織は、舞台の話ならできます、と答えた。相手は、家族代行の話を、と言った。沙織は、では、お断りします、と答えた。断ったあと、少し怖くなった。久しぶりに、名前を出してもらえる機会だった。
役者として忘れられることを、ずっと怖がっていた。その怖さを、源一郎の家で得たものと引き換えにしたくなかった。沙織は律子へ電話を掛けた。断った、と話した。律子は、もったいないね、と言った。沙織は少し驚いた。
「そう思う?」
「思う。でも、沙織が断ったなら、断ったんでしょう」
沙織は笑った。正しいと言ってもらうために電話をしたのかもしれない。律子は、正しいとは言わなかった。沙織が決めたこととして、受け取った。
*
美羽の職場へも、知らない人が来た。店長は、今日は帰っていいと言った。美羽は、働きたいです、と答えた。帰れば、陽菜を迎えに行くまでの時間を、ひとりで過ごすことになる。ひとりで画面を見て、誰が何を書いたか確かめる。働いている方がよかった。店長は、困ったら言って、と答えた。美羽は頷いた。
源一郎の家では、困ったら言え、と言われたことがある。言えば、金で解決される。金で解決されると、言ったことを取り消しにくくなる。店長の、困ったら言って、は違った。何ができるか、先に決まっていない。美羽は少し安心した。夕方、陽菜を迎えに行くと、保育園の先生が、今日は少し甘えていました、と言った。美羽は陽菜を見た。
大人の話を聞いていないように見えて、聞いていた。知らない人が母の名前を呼ぶことも、母が携帯を見て黙ることも、覚えていた。美羽は陽菜を抱き上げた。重くなった。半年で、こんなに重くなった。源一郎の家で過ごした時間を、裁判の資料としてだけ考えていた。陽菜の体は、その時間を生きた。美羽は携帯を鞄へ入れた。
今日は、帰り道で見ない。陽菜が話すことを、最後まで聞く。陽菜は、園で作った紙の家の話をした。屋根が黄色い。人がたくさんいた。誰の家かと聞くと、みんなの、と答えた。美羽は、みんなの家、という言葉を、誰にも説明しないで持って帰った。
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隆史は会見の記事を最後まで読んだ。父の会社から離れたつもりでいたが、社名の横に自分の名を見つけると、やはり体が固くなった。
圭介は事前に、資料を出す日を知らせてくれた。知らせたからといって、止めていいわけではなかった。隆史は、読みました、とだけ送った。
しばらくして、ありがとうございます、と返ってきた。
隆史は返信欄に、父のことで申し訳ありません、と書き、消した。代わりに、当時の取引先の連絡先なら、調べられるかもしれません、と打った。
返事は翌日来た。必要になったらお願いします、とあった。
*
三月の証人尋問の日、裁判所の入口で、沙織は傘を畳んだ。濡れた先を袋へ入れようとして、うまく入らなかった。圭介が袋の口を広げた。
湊は来なかった。自分の録音のうち、何が提出されるかは説明を受けた。直接話す必要があるかは別に検討され、この日は学校へ行った。陽菜も保育園にいた。
沙織、美羽、圭介は竹内と廊下で合流した。久住は離れた椅子に座っていた。頭を下げられ、沙織も下げた。そのあとの挨拶は、まだうまくできなかった。
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法廷は思っていたより狭かった。座る位置と、呼ばれたときに出る場所を確かめた。竹内は、聞かれたことがわからなければ、聞き直していいと、もう一度言った。
美羽は、机の向こうの隆史を見た。隆史もこちらを見ていた。会釈をしてよいのか、迷っているようだった。美羽が先に頭を下げると、隆史も下げた。
主治医の早瀬が呼ばれた。沙織は、自分がまだ息を詰めていたと気づき、背もたれから少し離れた。
*
六月十八日の診療録は、前から提出されていた。翌日の認知機能の検査結果と、遺言を作った当日の診察記録も同じ束にあった。真鍋は、検査で問題がなかったことだけでは、複雑な遺言を理解できたとは限らないと確認した。
「そのとおりです」
早瀬は答えた。
「せん妄を疑った翌日でも、十分に意思疎通ができることはある」
「あります。状態は変動します」
「六月十七日の、人違いについては」
早瀬は記録を確かめた。
「付き添いの方から相談がありました。ご本人は、わざと呼んだ、と話されました。ただ、そう話せば、実際に混乱がなかったと断定できるものではありません」
美羽は膝に置いた手を見た。あの夜の手を、医師も知らなかった。
竹内が質問を引き継いだ。
「六月二十日には、どのような会話をなさいましたか」
「自分の財産の説明をされました。四人と息子さんへ、どうして分けるかも。時間は掛かりましたが、質問に応じて説明を変えることができていました」
「医師として、遺言が有効かどうかをお決めになるのですか」
「いいえ。私は、診た状態をお話ししています」
早瀬の声は、どちらへも傾かなかった。沙織は、それを少し頼もしく思った。源一郎を好きになる必要のない人が、源一郎のことを話していた。
*
沙織は、公演の話をした。二十分だったこと。圭介が相手役だったこと。源一郎は後ろの席へ移って、最後まで見たこと。
真鍋が、終演後に源一郎と話したかと聞いた。
「その日は、感想を聞きませんでした」
「翌日は」
「紙を、もらいました」
鞄に残していた紙は、必要なやり取りを経て、写しを出すことにした。よかった。裏に、遅くなった。二つの言葉だった。
「この言葉を見て、源一郎さんのことを許しましたか」
真鍋が聞いた。竹内が発言を求め、質問の趣旨を確かめた。真鍋は、関係が変わった経緯を聞いていると答えた。
沙織は裁判官の方を見た。
「許していません」
「では、なぜ、その紙を持ち続けていたのですか」
「捨てたくなかったからです」
答えてから、子供のような言い方になったと思った。だが、それ以上うまく言おうとすると、違うことになる。
「持っているから、許したことになるなら、私は出したくありません」
竹内が、両者は同じことではありません、と言った。沙織は頷いた。自分の台詞ではない言葉で、助けてもらった。
*
美羽は、録音を移したことを認めた。圭介のパソコンから、九月十二日に持ち出した。
「理由を、お話しいただけますか」
竹内に聞かれ、美羽は隆史の方を見なかった。
「母のお墓で、聞かせたかったんです」
「どの部分ですか」
「母の名前を呼んで、すまなかったと、言うところです」
卓上の紙に、六月十七日、と書かれていた。
「母は、あの人に謝ってもらえなかったと思っていました。私も、知らなかったことがあって、今は、全部はわかりません。でも、あのときは、あの声を、持っていきたかった」
真鍋が、本人に頼まなかったのはなぜかと聞いた。湊に、と念を押した。
「聞かれたくなかったからです。母の名前を、どうして欲しがるのか」
「だから、無断で持ち出した」
「はい」
美羽は顔を上げた。
「母のためだったと言えば、湊くんへ聞かなくてよかったことには、なりません」
竹内が、記者へ送ったかと確認した。美羽は、送りませんでした、と答えた。話し終わって席を離れるとき、足が少し痺れていた。床へ踵をつけ、歩き出した。
*
久住の証言は、午後に続いた。送付状も、ノートも、先に提出されていた。誰も知らなかった証拠を、鞄から取り出すことはなかった。
六月十七日の頁に、春香、と名前があった。源一郎の字で、その声を隆史へ届けたいと書かれていた。直接送れば捨てるだろう、記者なら、確認のために連絡をするだろう、と続いていた。
そうならないかもしれない、とは書かれていなかった。
「遺言が争われることを、望んでいたのですか」
真鍋の質問に、久住は首を振った。
「望んでいたとまでは、聞いていません。争われるかもしれないとは、考えていました」
「そのために、資料を残した」
「はい」
「録音を送ることが、ほかの方を傷つける可能性は、説明しなかったのですか」
久住は机の上のノートを見た。
「説明したつもりでした。話を終わらせるための説明に、なっていたと思います」
真鍋が、どういう意味かと聞いた。
「旦那様が決めたことを、実行できる形にする仕事を、長くしてきました。やらない方がいい、と言い続けることを、しませんでした」
竹内は、録音に含まれる湊や美羽の声をどう扱うつもりだったのか、尋ねた。
「源一郎さんの指示があれば、十分だと考えました」
「今も、そうお考えですか」
「いいえ」
久住は四人の方を見なかった。謝罪の言葉も、そこで足さなかった。
ノートの後半には、計画と記録が入り交じっていた。舞台の感想を渡す、という行には線が引かれ、その下に、よかった、と書いた、とあった。島の頁には、行く、とあるだけだった。家へ戻った日付のあとに、圭介くんに断られた、と書かれていた。
何を断られたかまでは、なかった。
沙織はその頁を見た。誰かに断られたことを、源一郎が消さずに残していた。それをよい話にしたくはなかった。ただ、覚えておこうと思った。
*
休廷のあいだ、隆史は廊下で真鍋と話した。
「父は、最後まで、人を使ったんですね」
「そのことと、遺言を理解していたかどうかは、分けて考える必要があります」
隆史は壁の掲示を見た。次に呼ばれるのは自分だった。
「私が、父はまともだったと言えば、終わるんですか」
「それだけで終わるものではありません。知っていることを、話してください。作成時の判断を、直接見ていなかったことも含めて」
隆史は真鍋を見た。
「それで、負けても」
「負けるかもしれないことも、ご説明しました」
隆史は頷いた。勝たせるために父を悪く言う役を、真鍋へ預けていた。真鍋が自分に、事実を話すよう求めているのが、少し意外だった。
廊下の向こうで美羽が水を飲んでいた。呼びかけるのはやめた。自分の番が来るまで、隆史は手にした紙を読み直した。
*
隆史は、六月二十日の父を見ていなかったと答えた。その前の二十年間も、会って話してはいなかった。会社の資料や人からの連絡で、動向を知るだけだった。
「亡くなる前に、会おうと思ったことは」
真鍋に聞かれ、思ったことはある、と答えた。
「なぜ、会わなかったのですか」
「謝られるのが、嫌でした」
言ってから、息を吸った。
「謝られたら、何か答えなければならない。父が病気だから、もういいと言わないといけない気がした」
真鍋が次の紙へ手を伸ばしかけ、止めた。
「訴えを起こしたとき、お父様の判断能力を、どうお考えでしたか」
「金で集めた人間へ、家を残した。おかしいと思いました」
「今は」
隆史は机の端を見た。
「私が、そこに入っていなかったことが、嫌だったんだと思います」
言い終えても、誰も何も言わなかった。自分の声だけが、法廷に残っていた。
*
竹内が、四人とのやり取りを聞いた。写真を受け取ったこと、美羽と会ったこと、島へ行ったこと。隆史は一つずつ答えた。
「それによって、お父様に対する評価は変わりましたか」
「知らなかったことが、増えました」
「判断能力については、どうですか」
「当日のことは、私にはわかりません」
隆史は一度、息を継いだ。
「ただ、私に届く声の送り方まで考えたのは、父らしいと思いました。正しいやり方だとは、思いません」
机の上には、ノートの写しがあった。
「嫌いな決め方だから、父が決めたことではないと、したかったのかもしれません」
竹内は、それ以上を言わせようとしなかった。裁判官からいくつか確認があり、隆史の尋問が終わった。
席を離れるとき、美羽を見た。美羽は頭を下げなかった。隆史も下げなかった。
*
証言を終えた沙織は、廊下の椅子に座った。舞台を終えたあとと、似ていた。体の中に、まだ言葉が残っている。もう言わなくていいのに、次の台詞を探してしまう。圭介が隣に座った。
「上手かったですね」
沙織は圭介を見た。
「そう言われると、困るわ」
「ごめんなさい」
「でも、ありがとう」
二人は少し笑った。美羽は窓のそばに立っていた。陽菜は保育園にいて、湊は学校へ行っていた。録音の提出と、本人が話すことは、別に考えた。子供の声が必要だからといって、子供の体までそこへ運ぶ必要はない。竹内は、何度もそう説明した。沙織はその言葉を、少し遅いと思い、少しありがたいとも思った。
遅いことと、無駄なことは違う。隆史が廊下へ出てきた。美羽の前で立ち止まった。
「今日は、ありがとうございました」
美羽は頷いた。
「私が話したのは、私のことです」
「はい」
「あなたのためでも、源一郎さんのためでもない」
「わかっています」
美羽は隆史を見た。本当にわかっているかどうかは、これからわかる。今日、答えを決めなくていい。美羽は鞄を持ち直した。
「陽菜を迎えに行きます」
隆史は、一緒に行ってもいいか、と聞いた。美羽は少し考えた。
「今日は、私が行きます」
隆史は頷いた。沙織は二人から少し離れ、傘を探した。
*
屋敷へ戻ると、湊が食卓に紙を並べていた。録音の日付と、どんな音が入っているかを書いた一覧だった。
「もう、全部、覚えなくてもいいと思って」
湊は言った。沙織は紙を見た。ハンバーグ。将棋。凧。卵焼き。島。題名を付けたくなかった録音に、短い言葉が付いていた。
「変わったのね」
沙織が言うと、湊は頷いた。
「忘れても、探せるから」
忘れることを、怖がっていた子供だった。沙織は湊の隣に座った。
「私も、忘れることがあるわ」
「台詞も?」
「台詞も」
「どうするの」
「相手の顔を見る」
「思い出す?」
「思い出すこともある。思い出さなくても、相手が助けてくれることもある」
湊は考えた。
「家族も、そう?」
沙織は少し笑った。
「そうだと、いいわね」
圭介が帰ってきた。湊は一覧を見せた。
「コピーは、僕が許した分だけ」
「わかった」
「聞きたいときは、言って」
「言う」
圭介は紙に触れなかった。湊が渡すまで、待った。その待ち方を、沙織は見ていた。
*
最後の書面が交わされるうちに、春が過ぎた。屋敷の薔薇に蕾がつき、庭師が枝を誘引した。源一郎がいなくても、庭の仕事は続いた。美羽は仕事を探し始めた。源一郎の報酬は残っている。残っているから、急いで何でも選ぶ必要はない。自分が何をしたいか、初めて少し考えた。
圭介は小さな公演の手伝いをした。役はなかった。受付と、舞台の片づけ。仕事が終わると、久しぶりに、待つ以外の疲れが体にあった。沙織は律子へ電話を掛けた。
「また、舞台をしたいの」
「知ってた」
「まだ、何も決まってない」
「決まってから言うと、手伝えないでしょう」
沙織は笑った。皆の分を返して、と律子は言った。返したあとで、一緒に何かを始めることはできる。湊は学校の友達を屋敷へ呼んだ。源一郎の家、と説明した。自分の家、とはまだ言わなかった。友達は、広いね、と言った。湊は、広すぎるときもある、と答えた。その日の録音は、しなかった。夕方、隆史が来た。
手に、小さな菓子の箱を持っていた。陽菜のためだと言ったが、沙織は全員で食べる皿を出した。隆史は、少しだけ、と言って座った。少しだけの時間が、何度も重なった。源一郎の台本には、その時間は書かれていなかった。




