第十章 配役は、本人
六月、判決の前夜、隆史のマンションに圭介と湊が来た。来てもいいかという連絡は、昼に湊から届いていた。
机の上に資金繰りの表があった。隆史が片づけると、圭介は、隠さなくていいですよ、と言った。椅子を一つ湊へ渡し、自分は立ったままでいた。
湊は録音機を出した。
「おじいちゃんから、頼まれてたのがある」
隆史は手を止めた。
「九月十四日。亡くなる前の日」
「私に?」
湊は頷いた。
「聞きたいって言ったら、渡して、って」
隆史は少し黙った。窓の外で、車が水を踏んだ。
「聞きたい」
「僕も、ここにいていい?」
「もちろん」
湊は録音機を机に置いた。押す前に、圭介も入っていいかと聞いた。隆史は頷き、もう一つ、椅子を持ってきた。
*
録音には、最初に布が擦れる音があった。湊が、ここでいい、と聞いた。源一郎の声は、返事までに時間がかかった。
『隆史』
息の音が続いた。
『春香さんのことは、聞いたとおりだ。わしが、金を持っていった。お前に黙って』
遠くで扉が閉まった。
『見つけたときにも、言わなかった。言えば、わしが何をしたか、もう一度、話さなければならん。春香さんとの約束だと、自分に言っていた』
湊が、少し休む、と聞いた。源一郎は、今、と答えた。
『お前が、帰ってこない家にしたのは、わしだ』
長く、何も聞こえなかった。録音が止まったのかと隆史が顔を上げたとき、咳が入った。
『帰ってこいと、言いたかった。どう言えば、お前が嫌がらずに聞くか、そればかり考えた』
声が少し遠くなった。湊が録音機を近づけたのだろう。台の上を滑る音がした。
『飯が、冷める。そう言えば、よかったのにな』
隆史は机を見た。
『帰ってこい、隆史』
そのあとに、湊、録ったか、と小さな声があった。うん、と返事がした。
録音はすぐには終わらなかった。水を飲む音と、湊が、自分も欲しい、と言う声が残っていた。
*
隆史は停止ボタンへ手を伸ばした。指が違うところへ触れ、巻き戻しの音がした。
「ごめん」
湊が止めた。隆史は両手で顔を押さえた。圭介が机のティッシュを近づけた。
父に帰ってこいと言われたくなかった。言われずに死なれたことも、嫌だった。今、聞けば、どちらかが終わると思っていた。終わらなかった。
湊が席を立ち、水を三つのコップへ注いだ。一つを隆史の前へ置いた。隆史は礼を言おうとしたが、声が出なかった。水を飲んでから、ありがとう、と言った。
*
判決の朝、沙織は窓を開けた。雨は降っていなかった。葬儀の日の雨を、何度も思い出した。雨が降っていたから、隆史は濡れたコートで来た。濡れたコートだから、怒っている人のように見えた。怒っていたのは、本当だった。けれど、濡れたコートを脱いだあとも、同じ人だと決めつけていたのは、自分たちだった。沙織は窓を閉めた。
食卓には、圭介と美羽と湊がいた。陽菜は朝食のパンを、小さく千切っていた。
「今日は、何が決まるの」
湊が聞いた。
「遺言のこと」
美羽が答えた。
「家族のことは」
「それは、決まらない」
美羽は言った。沙織は美羽を見た。最初の日、家ってここ、と聞かれて、答えられなかった人だった。今日は、決まらない、と答えた。わからないことを、わからないまま渡せるようになった。圭介が湊の皿へパンを置いた。
「俺たちが、決めるんじゃないか」
湊は頷いた。陽菜が、自分も、と手を上げた。
「ひなも、きめる」
「もちろん」
美羽は答えた。源一郎の席には、まだ誰も座っていなかった。沙織はその椅子を見た。今夜、ここへ全員が集まるかどうかは、まだわからない。集まらなければ、封筒を燃やせと源一郎は書いていた。燃やすつもりはなかった。来られない人がいるだけで、残った言葉を消す必要はない。源一郎の命令に従わないことを、今朝、沙織は静かに決めた。
*
隆史は真鍋の事務所で、判決後の対応を確認した。会社の資金は、まだ十分ではない。遺産の問題がどう終わっても、経営の問題は別に残る。真鍋は、判決の内容を見てから、次の方針を決めましょうと言った。隆史は頷いた。
「圭介さんの和解の件ですが」
隆史は紙を出した。
「本人が、申し出を取り下げることも含めて、話し合いたいと言っています」
「申入書には署名されています。ただ、正式な和解は、まだ成立していません」
「申し出たことは、消しません。本人と代理人を交えて、条件を確認し直したい」
真鍋は隆史を見た。
「何のために」
「金を受け取ることと、ここへ来ることを、別にするためです」
真鍋は少し考えた。
「それは、もともと別の問題です」
「本人には、別に見えなかった」
「私にも、そう見せていたところがある」
真鍋は書類を揃えた。
「確認しましょう」
隆史は礼を言った。真鍋へ、勝たせてほしいと頼んだ。判決を聞くことも、その依頼の続きだった。争うと決めたのは、自分だった。勝つための言葉を求めたのも、自分だった。真鍋は、その仕事をした。仕事の範囲を変えるなら、自分が言わなくてはいけない。隆史は父の財布を鞄に入れた。今日は持っていく。
写真を、自分の財布へ移すかどうかは、まだ決めなかった。
*
判決は、午後一時十分からだった。沙織は腕時計を見なかった。見なくても、廊下の時計が目に入った。
原告の請求を棄却する。読まれた言葉を、美羽は一度、心の中で繰り返した。遺言を作成した頃の記録や相談の経緯などから、必要な判断能力があったと認められる。説明は続いた。
家族が本物だった、と言われたのではない。半年の暮らしに、正しいという印がついたわけでもなかった。
隣で圭介が、膝の上の手を開いた。美羽も、自分が鞄の持ち手を強く握っていたと気づいた。
廊下へ出ると、竹内が今後の手続きと、控訴の期間について話した。終わったという感じが、まだしなかった。
隆史は真鍋と立っていた。二人は短く話し、そのあと、隆史がこちらへ来た。
「控訴は、しません」
竹内が、手続きを代理人と確認するように答えた。誰も拍手をしなかった。隆史は頷き、自分の鞄を持ち直した。
*
玄関へ向かう隆史を、美羽が呼び止めた。
「今夜、七時です。ご飯」
隆史は振り返った。
「行っても、いいんですか」
「来られるなら、連絡ください。人数があるので」
美羽は携帯を見せた。隆史は頷いた。
駅へ向かう途中で、美羽の携帯が鳴った。七時に行きます、とあった。美羽は、わかりました、と返した。
*
六時五十分、タエが料理を運んだ。沙織、圭介、美羽、湊、陽菜が座り、優子と和子、桐谷も来ていた。久住は少し遅れて着いた。食事に来てほしいと連絡したのは、沙織だった。湊にも、先に聞いた。
上座はまだ空いていた。源一郎の写真は、棚へ移してあった。誰が移したかは、皆、知っていた。昼に美羽が置き直した。
「始めましょうか」
沙織が言うと、湊が時計を見た。
「隆史さん、まだ」
「温かいうちに、食べよう」
美羽は陽菜の皿へ料理を取った。圭介が箸を持った。陽菜も持った。
食事が始まって五分ほどして、呼び鈴が鳴った。タエが立ちかけたので、美羽が、自分が行きます、と言った。
*
隆史は小さな菓子の包みを持っていた。美羽は受け取って、ありがとうございます、と言った。
玄関でタエが待っていた。隆史の顔を見て、少し笑った。
「お帰りなさい、隆史さん」
美羽は靴を揃えるためにしゃがんだ。隆史は上がり框で止まり、吹き抜けの天井を見た。
「ただいま」
小さな声だった。台所で誰かが皿を落としかけ、あ、と言った。隆史はそちらへ顔を向け、ゆっくり靴を脱いだ。
*
隆史は上座の隣へ座った。陽菜が箸を持ってきて、じいじ、と言った。美羽が少し身を乗り出したが、何も言わずに座り直した。
食事がひと区切りつくと、久住が封筒を出した。
「読んでも、よろしいでしょうか」
沙織が皆を見た。湊は、今なら、と言った。圭介はまだ食べていたが、頷いた。
名前の書かれた封筒を、久住が開けた。
『第三のルール。今日から、家族を演じてはならない。本名で座れ。過去を話せ。喧嘩をしろ。わしが禁じたことを、全部やれ』
声が止まった。圭介が、水を飲んだ。
「やれ、ばっかりだな」
隆史が笑い、すぐ口を閉じた。沙織も、少し笑った。
便箋の後半には、財産の使い道を皆で話せとあった。法的な条件ではないことを、久住が説明した。遺言に書かれた配分や、各自が持つ権利を、この手紙が変えることはない。
最後に、追伸があった。
『隆史。そこにいるなら、お前の席もある』
隆史は自分の膝を見た。椅子にはもう座っていた。父が書いたから席ができたのではない。美羽が人数に入れ、タエが料理を出してくれた。
久住は便箋を畳み、封筒の上に置いた。
「全員、というところは、変えていいと思います」
美羽が言った。タエと、優子と和子を見た。桐谷も、陽菜もいる。
「ここにいる人で。いない人も、また来るなら」
「今日は来られない人もいるわね」
沙織が答えた。美羽は頷いた。
圭介が自分の皿を引き寄せた。
「金の話、今日は全部やらなくてもいいですか」
「私は、劇場の話をしたいわ」
「それ、長くなるでしょう」
「なります」
沙織が答えると、湊が笑った。圭介も笑い、では食べてから、と言った。
隆史は、会社のことを相談したいと告げた。金が必要なことも話した。和子は自分の茶を飲み、圭介は条件をちゃんと確認しましょうと答えた。
タエが空いた皿を集めようとしたので、沙織は腕へ触れた。
「座っていて。私たちがやるから」
タエは手を止めた。
「何か、したいことはない?」
すぐには返事がなかった。沙織は答えを急かさず、自分の皿を重ねた。
「朝、少し、遅く起きたいです」
タエが言った。圭介が何時ですかと聞いた。
「七時ぐらい」
「それ、早い方じゃないですか」
湊が笑った。タエも笑い、七時でいいんです、と答えた。
*
その後、手続きと話し合いに時間をかけた。遺言が有効とされたことと、資産をすぐに使えることは、同じではなかった。後任の遺言執行者と竹内が、何度も説明した。土地がある。建物がある。会社の持分がある。数字を四つに分ければ、それぞれの銀行口座へ同じ金額が入るわけではない。圭介は、わかってます、と答えた。
説明が続くと、わかっていないところが増えた。沙織は、わからない、と言った。竹内は説明をやり直した。湊は、自分の分は母と相談したい、と言った。優子は、湊が大人になってから決めることも、残しておきたいと答えた。美羽は、陽菜のために使う分と、自分が使う分を分けたいと言った。
竹内は紙を出した。今、決めること。後で、決めること。まだ、決めないこと。三つの欄があった。沙織は、劇場、と最初の欄へ書いた。次の欄には、どんな劇場にするか、と書いた。
まだ決めないことの欄には、源一郎の名前を付けるか、と書いた。圭介はその紙を見た。
「付けないんじゃないですか」
「今は、付けたくない」
「なら、付けないでいい」
「今は、ね」
「今の私が、十年後の私まで決めなくていいわ」
圭介は頷いた。父の資料をどう残すか、最初の欄へ書いた。自分が役者を続けるかどうかは、別の紙に書いた。美羽は、その分け方を見て、自分も紙を一枚増やした。陽菜が紙を欲しがった。竹内は白い紙を渡した。陽菜は黄色い屋根を描いた。
陽菜は、その紙を、美羽の鞄へ入れた。
*
圭介の和解の申し出は、正式な合意に至らないまま終わった。遺贈の権利を放棄して一億円を受け取る案に、圭介が署名した申入書は残った。撤回するときも、破らずに代理人へ渡した。
「必要だったことは、変わりません」
圭介は竹内へ言った。
「今は、急いで放棄しなくても、母の引っ越しを、何とかできるかもしれない」
和子が自分で探した部屋は、駅から歩いて七分だった。圭介が勧めた部屋より小さかったが、窓から線路が見えた。前年の冬に払った敷金と引っ越し代は、残していた報酬と母の貯金で賄えた。引っ越す日にも、裁判はまだ始まったばかりだった。
「もっと広いところに、行けるようになるよ」
圭介が言うと、母は首を振った。
「ここが、よかったの」
圭介は窓の外を見た。電車が通り、少し揺れた。
「うるさくない?」
「人がいる音だから」
和子は新しい棚へ父の写真を置いた。圭介はもう、別の部屋の話をしなかった。
*
隆史の会社への支援は、すぐには決まらなかった。助けたいという気持ちだけで、会社は続かない。会社の中で働く人たちの意見もある。外から金が入れば、誰が何を決めるかも変わる。隆史は社員へ説明した。父の財産を使う可能性がある。父から離れるために作った会社へ、父の金が入る。反対する人もいた。賛成する人もいた。
隆史は最後まで聞いた。自分の人生を守るために、社員の暮らしを賭けたくない。社員の暮らしを守るために、自分の間違いを隠したくもない。何度も会議をした。そのあいだ、陽菜との約束に遅れた日があった。美羽は、遅れるなら連絡してください、と言った。隆史は謝った。仕事がある、と言えば、許されるわけではない。
父が知らなかったことを、自分も、すぐにはできない。次の約束には、早く行った。陽菜は、はやい、と言った。隆史は、待つよ、と答えた。陽菜が靴を履くまで、待った。大きな会社の会議より、靴の留め具を待つ方が、難しい日もあった。隆史は、その時間を、自分の仕事の外へ追い出さなかった。
白鳥座の再開を決めたあと、沙織は若い役者たちと会った。源一郎の遺産で劇場を作ると知っている人もいた。知らない人もいた。知っている人のひとりが、御影さんのための劇場なのですか、と聞いた。沙織は首を振った。
「ここで演じる人と、見に来る人のための劇場です」
「でも、お金は」
「御影さんが残したものです」
沙織は答えた。沙織はそのことを、最初の説明に入れた。
「私たちは、あの人がしたことを、全部、いいことだとは思っていません」
若い役者たちは聞いていた。
「ここを使うために、あの人を好きになる必要はありません」
圭介が隣で頷いた。若い人が、なら、失敗してもいいですか、と聞いた。沙織は笑った。
「失敗しないと、何が足りないかわからないでしょう」
源一郎が湊に言った言葉と、少し似ていた。似ていることを、嫌だと思わなかった。受け取った言葉を、自分の言葉にして渡す。それも、遺産の使い方だった。
*
開場の準備が始まると、圭介は何度も沙織と争った。稽古の時間。受付の人手。客席の椅子。沙織は、昔はこうしたと言った。圭介は、今は違うと言った。どちらも正しいときがあった。どちらも、相手の話を聞いていないときもあった。湊は二人を見て、家族みたい、と言った。圭介は、家族なら争わないんじゃないか、と答えた。
湊は首を振った。
「争っても、次の日、また来る」
沙織は湊を見た。次の日、また来る。そのことを、当然にしてはいけない。圭介が来なければ、沙織は電話を掛ける。沙織が来なければ、圭介が理由を聞く。待つだけではない。聞く。湊がノートに書くことになる言葉を、二人は先に、仕事の中で覚え始めた。
*
タエは、朝、遅く起きるようになった。遅くと言っても、七時だった。最初の朝は、五時に目が覚めた。時計を見て、もう一度、布団へ入った。眠れなかった。それでも、起きなかった。起きれば、台所へ行く。台所へ行けば、誰かのために朝食を作る。自分の希望を守るには、何もしない時間を覚える必要があった。
七時、台所へ行くと、美羽が朝食を作っていた。タエは、手伝います、と言った。美羽は、座っていてください、と答えた。タエは椅子に座った。落ち着かなかった。料理が運ばれてきた。卵焼きは、少し焦げていた。タエは、焼き目ですね、と言った。美羽が笑った。源一郎の言葉ではない。美羽の言葉を、タエが覚えていた。
家の中には、源一郎以外の人の言葉も残っていた。タエは卵焼きを食べた。誰かが作った朝食を、温かいうちに食べる。四十年働いた家で、初めてのように感じる朝だった。
*
久住が湊へ渡した紙には、記者へ送ったファイルの一覧があった。記者へ返却と以後の利用停止を求めた経緯、すでに外へ出ていて回収しきれない範囲も、分けて書かれていた。
湊は母と一緒に読み、紙を封筒へ戻した。
「もう、送らないで」
「送りません」
「おじいちゃんに、頼まれても」
久住は頷いた。その返事を聞いても、湊は笑わなかった。次の約束を決めることもなかった。
それでも、後日、沙織の舞台の案内を送る人の一覧に、湊は久住の名前を書いた。母に、書いてもいい、と聞かれ、自分で書いたから、と答えた。
*
久住は仕事を一日休み、夕方にタエとお茶を飲んだ。二人とも屋敷の話をしそうになり、別の話を探した。
タエは昔、菓子店で働きたかったと話した。久住は知らなかったと答えた。四十年、同じ家へ通い、知らなかった。
「今も、作るんですか」
「買う方が、いいですね。自分の分を」
タエは皿の菓子を一つ取った。久住が手を伸ばすまで、もう一つを残しておいた。
*
判決から一年後、白鳥座は別の場所で再開した。昔の劇場より少し小さい。客席は八十。雨漏りはしない。舞台袖は、二人がすれ違える幅にした。律子が受付に座った。沙織は、また受付をお願いしていい、と聞いた。律子は、今日は客で来たかった、と答えた。沙織は謝った。代わりの人を探し、律子を客席へ案内した。
昔と同じにすることが、皆の望みではない。再開の日にも、そのことを覚え直した。圭介は舞台に立った。役は、帰ってきた息子だった。誰かの人生を、そのまま演じる話ではない。家を出た人が、家へ戻るまでの短い芝居。戻っても、全部が解決するわけではない。沙織は、家で待つ人を演じた。待つ人にも、待つ以外の生活がある。
そのことを、脚本に入れた。湊は小さな役で出た。台詞は二つだった。二つしかないことを、恥ずかしがらなかった。舞台の外にも、自分の時間がある。学校へ行き、母と暮らし、時々、屋敷へ来る。源一郎の声は、今も持っていた。毎晩は聞かなくなった。客席には隆史と美羽と陽菜がいた。
陽菜は六歳になった。椅子に座ると、足がまだ床へ届かない。隆史が小さな台を持ってきた。美羽は、ありがとう、と言った。お父さん、とはまだ、いつも呼ぶわけではない。呼ぶ日もある。呼ばない日もある。隆史は、それを急がせなかった。最前列に、一つ、空いた席があった。御影様ご予約席。沙織は古い紙を、そこへ置いた。
源一郎の写真は置かなかった。写真を置けば、その人のための席になる。今夜は、来なかった人のためだけではなく、これから来る人のためにも、空けておきたかった。開演直前、入口で若い人が困っていた。予約をしたつもりだったが、名前が見つからない。確認のメールは見つかったが、受付の一覧に転記されていなかった。
沙織は舞台袖から、その様子を見た。最前列の空席を見た。律子が沙織を見た。沙織は頷いた。若い人が、空いた席へ案内された。古い紙は、受付の引き出しへ戻した。源一郎が来なかった席に、別の人が座った。沙織は、そのことを、裏切りだと思わなかった。舞台の灯りがついた。沙織は客席を見た。空席のない客席だった。
源一郎はいない。それでも、幕は上がる。
*
終演後、皆で屋敷へ行った。食卓は、少し短くなっていた。大きなテーブルを捨てたわけではない。別の部屋へ移し、日常に使うものを替えた。誰かが立ち上がらなくても、皿を渡せる長さにした。タエは料理を全部作らなかった。美羽が卵焼きを作り、圭介が野菜を切り、湊がハンバーグを焼いた。隆史は皿を出した。陽菜は箸を並べた。
源一郎の席だった場所には、今日は優子が座った。誰も止めなかった。源一郎の写真は、棚の上にあった。沙織は椅子に座った。陽菜が人数を数えた。途中で、もう一度、最初から数えた。
「おじいちゃんも、いる?」
美羽は少し考えた。
「ここには、いない」
陽菜は棚の写真を見た。
「でも、おぼえてる」
「うん」
美羽は答えた。
「覚えてる」
湊がハンバーグを半分に切った。片方を、源一郎の写真の前へ置こうとして、止まった。代わりに、隣の陽菜の皿へ置いた。
「半分こ」
陽菜は笑った。皆が手を合わせた。いただきます。声は揃わなかった。先に言う人、遅れて言う人、箸を持ってから言い直す人。揃わない声が、食卓に広がった。沙織はそれを聞いた。
*
片づけが終わったあと、湊は書斎へ行った。源一郎のノートは、机の上ではなく、棚にあった。元の記録を残したまま、読みたい人が読めるよう、皆で話して置いた場所だった。湊はノートを開いた。最後の頁は、白かった。前の頁には、源一郎の字で、ここから先は、と書きかけた行があった。湊はその先へは書かなかった。帰ってこない日もある。
来られない人もいた。それでも、家族がなくなるとは限らない。湊は持ってきた自分のノートへ、一行書いた。配役は、全員、本人。書いてから、少し考えた。本人を演じるのも、難しい。母の前で、元気なふりをする。友達の前で、平気なふりをする。圭介を許したふりをして、まだ怒っている日もある。芝居を全部やめることは、できないかもしれない。
湊はもう一行書きかけ、やめた。台詞を先に決める必要はなかった。ノートを閉じた。廊下から、美羽の声がした。
「湊、お茶、飲む?」
湊は録音機をポケットに入れたまま、返事をした。
「飲む」
声を残さなくても、今、返事ができる。湊は書斎の灯りを消した。食卓の方から、誰かの笑う声が聞こえた。誰の声か、聞き分けられた。湊は、その声のする方へ歩いていった。
家族とは、何によって家族になるのでしょうか。血のつながりでしょうか。同じ名字でしょうか。それとも、同じ家で過ごした時間なのでしょうか。『家族を演じる人々』は、その問いを、少し奇妙な食卓の上に置いた物語です。
御影邸に集まった人々には、それぞれ、この仕事を引き受ける理由がありました。暮らしのため、過去を確かめるため、行き場のない思いを抱えて。最初から誰かを大切にしようとして来た人ばかりではありません。それでも、毎朝顔を合わせ、食事を作り、帰りを待つうちに、契約では説明できない気持ちが生まれていきます。
けれど、温かな時間があったからといって、過去の過ちが消えるわけではありません。源一郎が遺したものには、財産だけでなく、答えの出ない問いや、引き受けるには重すぎる願いもありました。償いたいという思いさえ、相手の望みを聞かなければ、もう一度その人を傷つけることがあります。彼の孤独と、彼が他者に負わせた痛みの両方を、この物語には残しておきたいと思いました。
許すことについても、




