第七章 台本の外へ
桐谷が源一郎に呼ばれたのは、二年前の冬だった。
当時、派遣の事業を畳むところだった。借りた机を返す日が決まり、電話だけがまだ繋がっていた。源一郎は予約をせずに来た。小野寺礼子さんですね、と言われ、桐谷は入口を塞いだまま立っていた。
「姉のことでしょうか」
「美羽さんのことだ」
源一郎は椅子を求めなかった。桐谷が一歩退くまで、立って待った。
新しい仕事を始めてほしい、と言われた。家族の役をする人を派遣する。源一郎自身が、客になるという。必要な資金を出すと告げたあとで、三人の名前を見せられた。沙織、佐伯圭介、小野寺美羽。
四人目の湊が加わったのは、その翌年、病院で出会った子供を探してほしいと言われてからだった。
桐谷は源一郎の話を聞いた。三人に何をしてしまったのか、何を返したいのか。出資を断れば、源一郎は別の人を探すだろう。その人は美羽の叔母ではない。自分が関わる方がいい。そう考えたことを、今も覚えていた。
美羽へ会いに行くことは、その前にもできた。
*
桐谷は大学ノートを持って屋敷へ来た。表紙の「家族」の下に、違う色のインクで「台本」と書き足してある。
食卓で、圭介が最初に開いた。四人の名前と、選んだ理由があった。前の頁には日付がなく、後ろには、入居後の日付と出来事が並んでいた。
「先に書いたものと、あとから書いたものがあるんですね」
沙織が確かめた。桐谷は頷いた。
「私にも、途中で見せなくなりました」
圭介は父の名前のある頁で止まった。
「父の真実を渡す。舞台を返す。……返すって、何だよ」
桐谷は膝の上で手を揃えた。
「源一郎さんは、そう考えていました」
「あなたは」
「会って話せば、何かが変わると思いました」
「変わらなかったら?」
桐谷は答えられなかった。
湊がノートを受け取った。自分の欄に、声、と書いてある。
「僕が、録りたいと思ったんだよ」
「はい」
「ここに、先に書いてあっても」
桐谷は顔を上げた。湊はノートを閉じなかった。
美羽は手を伸ばさなかった。自分の頁を読めば、母の言葉もそこにある。桐谷から聞いた話と同じ形になっているかもしれない。
「これを見て、私に電話したんですか」
「最初は、そうです」
「会いたかったなら、そう言ってくれればよかったのに」
桐谷は息を吸った。
「言えば、来てくれないと思った」
美羽は椅子を少し引いた。脚が床を擦った。
沙織が頁をめくった。梅雨の終わりの公演には、終演後、と書いて線を引いた跡があった。続きはなかった。次の頁に、圭介が笑った、と一行だけあった。
「誰のための台本だったんでしょうね」
沙織は表紙を撫でた。古い舞台の台本には、立つ位置や照明のきっかけが書き込まれていた。ここには、相手がどう答えるかが書かれている。書いたとおりに答えなかった人の名前へ、細い線が引かれていた。
消したのではなく、次の頁にも、同じ名前があった。
*
隆史が見せられたのは、六月十八日の診療録だった。付き添いのタエから、人違いの言動があったとの相談。せん妄の疑い、経過観察。短い記載だった。
「この三日後が、遺言の作成日です」
真鍋が言った。
「これで無効になるんですか」
「これだけでは決まりません。当日の説明を理解していたか、財産や受け取る人のことを把握していたか。ほかの資料と照らすことになります」
「録音の方が、わかりやすい」
「聞いた人には、強い印象を与えます。ただ、印象だけで決めてもらうわけにはいきません」
隆史は記録の余白を見た。父が自分の名前を呼んだ声は、何度も聞いた。録音では、自分は会社にいた。会社にいた二十一歳の自分が、今も父に待たれていた。
真鍋は四人へ出す和解案の草稿を置いた。遺贈を受け取る権利について争う代わりに、一人一億円を支払う。隆史の手持ちの資金から、分割で先に支払えるようにする案だった。
「出しても、構いませんか」
隆史は四人の名前を読んだ。湊の名の隣に、母の名前があった。
「説明してください。勝たなければ一円ももらえないと、脅すような言い方はしないで」
真鍋は頷いた。
隆史は署名欄へ名前を書いた。一億なら十分だと、心のどこかで思っていた。父が春香の店へ持っていった金額を、今は考えなかった。
*
和子のアパートの玄関に、段ボールが三つ重なっていた。建て替えの通知を、母は冷蔵庫の上から出した。
「前にも来てたんだよ。延びるかと思って」
見せられた紙は角が黄色くなっていた。急に今月中に出ていけと言われたのではない。春から、話が続いていた。
「次は」
「見てる」
「どこを」
和子は答えず、畳んだタオルを箱へ入れた。
圭介は携帯で、自分の口座の残高を確かめた。半年の報酬は、ほとんど返済へ回した。毎月百万と聞いたときには、半年後は別の人間になっているはずだった。引っ越し費用の数字を見ている自分は、同じだった。
真鍋から届いた和解案には、一億、と書いてあった。圭介は母の背中の前で、その数字を何度も拡大した。
*
七月の夜、源一郎と将棋を指したとき、圭介は借金の理由を話した。役者仲間の保証人になった。相手は消えた。連絡が来たら殴るつもりなのに、今も番号を消せない。
「人がいいな」
「馬鹿なんですよ」
源一郎は銀を動かした。
「金があれば、何をする」
「返して、母に家を借ります。買えるなら、買いたい」
「それから」
「それからって」
老人は盤を見ていた。圭介は自分の駒を数えた。欲しいものを答える遊びだと思ったが、源一郎は続きを待っていた。
「舞台、やりたいです」
「今も、やっているだろう」
「ここじゃなくて」
源一郎は顔を上げた。圭介は目を逸らさなかった。
「客が、誰かわからないところで」
源一郎は銀へ指を戻した。置き直すのかと思ったが、そのまま離した。
「王手だ」
圭介は盤を見た。動かせるところが、一つもなかった。
*
和解案への返事を書くために、圭介は食卓に座った。受け入れる意思がある旨を記した申入書に、署名した。正式な合意には、まだ条件を詰める必要があると聞いていた。
「俺は、話を進めます」
沙織が紙を見た。
「一億で、降りるの」
「一億なら、です」
自分の声が、少し大きくなった。
「裁判が何年かかるか、わからない。母が引っ越すのは、来月です」
「お金だけの問題じゃ」
「沙織さん。お金が要ることを、今、悪いことにしないでください」
沙織は口を閉じた。圭介は、その顔を見てから言いすぎたと思った。だが、言い直せなかった。
美羽も自分の紙を取った。ペンを持ち、署名欄へ置きかけた。
「私も、出ます」
沙織が名前を呼んだ。美羽は首を振った。
「お金の話じゃなくて。この家を」
ペンを置いた。まだ、名前は書かれていなかった。
「陽菜、支度しよう」
陽菜は湊の後ろへ回った。
「やだ」
「今日は、帰るの」
「ここが、おうち」
「おじいちゃんは、もういないでしょう」
言ってから、美羽は自分の口を押さえた。陽菜が泣き始めた。抱き上げると、体を反らした。
圭介は紙を鞄へ入れた。美羽が階段を上がるのを見送り、湊へ何も言わずに玄関へ向かった。
靴を履く間、引き留めてくれる声を待っていた。何も聞こえなかった。
*
夕方、久住が来た。沙織は、二人が出ていったことを話した。
「源一郎さんには、こうなることも、お見通しだったのかしら」
久住は鞄を開けかけて、止めた。
「そういう言い方を、私がしてはいけませんね」
「何か、あるんですか」
久住は封筒を出した。表に、第三のルール、とある。
「旦那様から、最後に皆さんが食卓へ集まったら、読んでほしいと。揃わなければ燃やせと、言われています」
「誰が、全員なの」
久住は封筒の裏を見せた。沙織、圭介、美羽、湊。それから、隆史。
湊は最後の名前を指で追った。
「陽菜は」
久住は封筒を見た。
「書いてありません」
「タエさんも」
沙織は封筒を受け取らなかった。
「私たちが集まるかどうかまで、決めないでほしいわ」
「開けるために、お呼びするつもりはありません」
久住の声は低かった。
「保管しておきます。どうするかは、皆さんにお任せします」
湊は夕食の支度へ戻った。圭介の皿を一枚出し、棚へ戻した。沙織はその背中を見ていた。
*
桐谷は会社の会議室で、通常の代行依頼を担当する社員たちへ、御影家の案件を説明した。自分が美羽の叔母であること。源一郎が四人を選んだ理由を、本人たちへ知らせなかったこと。依頼の成立を優先し、断るための情報を渡さなかったこと。社員は黙って聞いた。ひとりが、では、仕事は失敗だったのですか、と聞いた。桐谷は答えに時間がかかった。
源一郎は最後に笑った。四人は半年を過ごした。美羽と陽菜には住む場所ができた。湊の母は治療を受けた。圭介は父の資料を得た。沙織は舞台に立った。成功と呼べるものは、ある。それを並べれば、間違いを隠せる。桐谷は、失敗したことがあります、と答えた。
「全部が失敗だったとは言いません。でも、よかったことがあるから、よくなかったことを消してはいけない」
社員は頷いた。別の人が、最初に全部話したら、誰も来なかったのでは、と言った。
「来なかったかもしれません」
桐谷は答えた。
「それなら、来ないという答えを、受け取るべきでした」
会議室は静かだった。桐谷は新しい確認書を出した。依頼主が知っていること。演じる人が知らないこと。依頼主と演じる人に、以前の関係があるか。報酬と別に、何かを受け取る予定があるか。
紙を増やせば、全部が解決するわけではない。それでも、聞くための場所を作ることはできる。桐谷は、自分の担当から御影家の案件を外すと伝えた。社員が、もう契約は終わっています、と言った。
「終わっていても、私が仕事の立場で美羽さんへ連絡しないようにする必要があります」
「叔母として連絡するなら、叔母として、断られることを受け入れます」
社員は頷いた。桐谷は机の上の契約書を閉じた。美羽へ手紙を書いたとき、返事が来るまで何度も携帯を見た。返事を待つ人の時間を、ようやく知った。待たせた十五歳の美羽の時間とは、比べられない。それでも、自分が待つことから始めるしかなかった。
*
美羽から母の話を聞きたいという返事を受け取った頃、桐谷は長い手紙を書き始めた。何枚も書いた。姉が子供の頃、海へ行くのが好きだったこと。料理が苦手だったこと。桐谷が泣くと、黙って隣に座ったこと。書いているうちに、姉をよく見せる言葉ばかりになった。桐谷は書き直した。
姉は怒ると、しばらく話さなかった。貸した服を、返すのが遅かった。約束の時間にも、よく遅れた。美羽が知っている母とは、違うかもしれない。違う人ではない。桐谷は、そのことを手紙に書いた。最後に、写真を三枚入れた。美羽が写っていない写真だった。母になる前の春香。美羽が知らない春香。美羽は写真を受け取り、長く見た。
陽菜が、ママににてる、と言った。美羽は、そうかな、と答えた。鏡を見た。母に似ているところと、隆史に似ているところがあるのかもしれない。自分の顔は、誰かの証拠ではない。美羽は鏡から目を離した。桐谷へ、写真をありがとう、と返事をした。会いたい、とはまだ書かなかった。桐谷は、その返事を、次の依頼へ繋げなかった。
返事を読み終えてから、桐谷は別の客への連絡を始めた。美羽が屋敷を出た夜、沙織は食卓の椅子を数えなかった。数えれば、足りない人がわかる。わかっているのに、もう一度、数字にする必要はなかった。湊はいつもの席に座った。圭介の席を一つ空け、美羽の席を見ないようにしていた。
「おばあちゃんも、帰る?」
沙織は湊を見た。
「今日は、ここにいるわ」
「明日は」
「明日は、明日考える」
湊は頷いた。ずっといる、と言えば、湊は安心するかもしれない。けれど、守れない約束をして、安心を買いたくなかった。源一郎がしたことを、繰り返したくなかった。タエが料理を運んだ。三人分だった。沙織はタエの椅子を引いた。
「一緒に食べましょう」
タエは、私は、と言いかけた。
「今日は、三人しかいないもの」
タエは座った。四十年、この家で働いて、食卓に座ることは少なかったと言った。源一郎が一人で食べる夜、タエは台所で食べた。
「一緒に食べればよかったのに」
湊が言った。
「旦那様は、そういうことをお望みではなかったので」
「おじいちゃんは、ひとりが嫌だったんでしょう」
タエは手を止めた。沙織も、答えられなかった。ひとりが嫌だった人が、そばにいる人を同じ食卓へ呼ばなかった。家族が欲しかった人が、家族ではない人を、家族の外へ置いた。その矛盾を、源一郎は死ぬまで持っていた。タエは小さく笑った。
「私も、座っていいか、聞けばよかったのかもしれません」
「聞かなくても、いいと思う」
「ご飯があるんだから」
沙織はタエの皿へ料理をよそった。台本には、タエの名前がなかった。四十年いた人の名前が、家族の台本にない。沙織はそのことを、今夜、いちばん重く受け取った。
*
美羽は以前の部屋へ戻った。八か月近く使っていなかった部屋は、少し湿った匂いがした。陽菜は玄関で靴を脱がず、屋敷へ帰りたいと言った。
「ここが、うちだよ」
美羽は答えた。答えてから、その言葉が陽菜には通じないと気づいた。陽菜のうちは、半年で変わった。美羽の都合で、もう一度変える。美羽は膝をついた。
「今日は、ここで寝よう」
「明日は」
「明日は、考えよう」
沙織と同じ言葉を、自分も言っていることを知らなかった。陽菜は靴を脱いだ。美羽は鞄から絵本を出した。源一郎が読んだ絵本だった。置いてくるつもりだった。陽菜が持っていくと言ったので、入れた。美羽は絵本を開いた。
源一郎が読んだ頁に、小さな折り目があった。読んだ場所を覚えるために付けたのだろう。タエなら栞を挟んだ。沙織なら折らない。源一郎は紙を折った。その癖まで、覚えていた。美羽は折り目を伸ばさなかった。陽菜が布団に入った。
「ママ、おじいちゃんの声で」
「できないよ」
「じゃあ、ママの声で」
美羽は読み始めた。途中で、声が詰まった。陽菜は待った。美羽は頁を見た。台本に書かれていたことを知ると、全部が嘘になると思った。でも、陽菜が熱を出した夜の折り目は、ここにある。源一郎が何を望んでいたかと、自分が何を受け取ったかは、同じではない。美羽は続きを読んだ。陽菜が眠るまで、読んだ。
*
圭介は申入書を鞄に入れたまま、母の部屋へ行った。母は荷物を箱に詰めていた。建て替えのため、引っ越さなくてはいけない。急な話ではなかった。何度も通知が来ていたが、和子は圭介に言わなかった。
「何で、言わなかったんだよ」
「言って、どうするの」
圭介は答えられなかった。金があれば、家を用意できる。そのために署名した。和子は鞄の中の紙を見つけた。
「これで、お金が入るの」
「話が、まとまれば」
「次の部屋は、決まりそうよ。だから、何をやめるのか、ちゃんと聞いて」
圭介は紙を見た。遺贈を受け取ること。争いに参加すること。それだけのはずだった。
「家族を、やめるわけじゃない」
圭介は言った。和子は頷いた。
「なら、ちゃんと、そう言ってきなさい」
「今さら」
「今さらでも」
和子は箱の蓋を閉めた。
「黙って出ていくと、残った人は、理由を自分で考えるのよ」
圭介は父の事故の日を思い出した。残った人が、理由を考える。その理由が本当かどうか、確かめる相手がいない。圭介は鞄を持って立った。申し出を取り消すつもりはなかった。金が必要だということは、変わらない。それでも、湊に会って話すことはできる。圭介は屋敷へ向かった。門の前で、久住と会った。久住は、沙織と湊に手紙を見せた帰りだった。圭介にも、表書きを教えた。
第三のルール。圭介は、その言葉を繰り返した。
「まだ、命令するんですか」
久住は鞄へ手を置いた。
「命令として受け取る必要は、ありません」
圭介は久住を見た。源一郎が生きているあいだに、その言葉を聞きたかった。
*
美羽が出ていった翌朝、沙織は自分の部屋を片づけた。出ていくためではなかった。残ると決めるためでもない。何が自分のものなのか、確かめたかった。服。台本。写真。源一郎が渡した小さな紙。湊が学校で作った栞。栞には、沙織へ、と書いてあった。湊は、おばあちゃんと書きかけて、二本の線で消していた。
沙織は、消した字も見えるように栞を挟んだ。
古い衣装箱は、持ち帰ることにした。源一郎の家に置けば、源一郎が返してくれた舞台の箱になる。自分の家へ持って帰れば、自分が持ち続けた箱のままでいられる。その違いは、誰かに説明するほど大きくない。自分には、大きかった。圭介が部屋へ来た。
「手伝いますか」
「持てるところまで、自分で持つわ」
「じゃあ、持てなくなったら」
「呼ぶ」
圭介は頷いた。沙織は箱を持ち上げた。重かった。若い頃なら、一人で持てた。今は、腰を痛めるかもしれない。沙織は箱を置いた。
「やっぱり、お願い」
圭介は笑わなかった。二人で持った。沙織は圭介と階段を下りた。途中で湊が見ていた。
「帰るの」
「荷物を、少し持って帰るの」
「おばあちゃんは」
「今日は、また来る」
湊は頷いた。沙織は、今日は、と言ったことを、自分でも確かめた。
*
自分の部屋へ戻ると、時計が止まっていた。電池が切れたのだろう。いつ切れたのか、わからない。沙織は電池を替えた。春から、この部屋の時計は、自分がいなくても動いていた。いつか止まり、今、自分が戻って、また動かした。部屋は、待っていたわけではない。自分が帰る場所として、使い直す。
沙織は衣装箱を押し入れへ入れなかった。部屋の隅へ置いた。台本を机へ置いた。お湯を沸かし、一人分のお茶を淹れた。湯呑みを置くと、自分の手の届くところに、急須もあった。電話が鳴った。湊だった。
「帰ってくるの、何時」
沙織は時計を見た。
「六時頃」
「わかった」
「どうしたの」
「ご飯、何人分か、聞きたかった」
沙織は湯呑みを置いた。戻ってくるかどうかではなく、何時に戻ってくるかを聞かれた。ご飯の人数に、入れてもらっていた。沙織は、ありがとう、と言った。湊は、何が、と聞いた。沙織は、数えてくれて、と答えた。電話が切れた。沙織はお茶を飲み終えた。六時に戻るために、五時に家を出た。
戻る場所が二つあっても、いいのだと思った。




