第六章 母が生きた日
美羽は墓地へ行く前に、花屋へ寄った。母は白い花が好きだった、とずっと思っていた。葬儀のとき、白い花がたくさんあったからだ。母が自分で選んだ花ではない。店の前で、美羽は初めて、そのことに気づいた。母が好きだったのは、何色だったのだろう。陽菜が黄色い花を指した。
「これ」
「おばあちゃんに?」
「うん。ひな、すき」
美羽は黄色い花を買った。母が好きだったかどうか、わからない。陽菜が好きな花を、母へ持っていく。それでいいと思った。隆史は墓地の入口で待っていた。約束の時間より早かった。美羽はそのことに気づいたが、褒めるような言葉は言わなかった。待っていたからといって、三十年が短くなるわけではない。
隆史は陽菜を見て、こんにちは、と言った。陽菜は花束を持ち上げた。
「おばあちゃんに」
「きれいだね」
「ひなが、えらんだ」
隆史は頷いた。美羽は二人のやり取りを見ていた。知らない男に娘が話しかける。いつもなら、少し離れたところからでも、手を引き寄せる。今日は、引き寄せなかった。墓石の前には、白い百合があった。美羽は花を見て、また誰かが来たのだと思った。毎年、命日の近くに白い百合が供えられる。母の昔の知り合いだろうと思っていた。
誰かが母を覚えていた。それは嬉しかった。誰なのか知らない。それは、少し怖かった。隆史は墓石の文字を読んだ。春香。声には出さなかった。美羽は、名前を呼んでほしいと思った。呼ばないでほしいとも思った。母がこの男の声を待っていた時間を、今、自分が引き受けているような気がした。美羽は日記を鞄から出した。
「全部は、読ませません」
隆史は頷いた。
「母のものなので」
「わかりました」
「私も、読んでよかったのか、まだわからない」
美羽は日記の表紙を撫でた。死んだ人のものは、残った人が開ける。源一郎の書類を見たときにも、同じことを思った。美羽は、一枚だけコピーした紙を渡した。隆史が受け取るまで、手を離さなかった。
「母が、あなたのことをどう思っていたか、私が決めることではないと思います」
隆史は紙を見た。
「でも、私がどう思うかは、私が決めます」
「はい」
隆史の返事は、思ったより小さかった。美羽は手を離した。
*
母が亡くなったとき、美羽は十五歳だった。親戚の人たちは、美羽の前では小さな声で話した。小さな声なら聞こえないと思っていたのか、聞こえても傷つかないと思っていたのか、わからない。引き取れない。今の家では無理。仕事がある。そういう言葉が、廊下に置かれた。美羽は椅子に座って、制服の裾を握っていた。
母の病室から、空のベッドが運び出された。シーツはもう外されていた。母がいた場所が、ただの金属の枠になっていた。人がいなくなると、物は早く元に戻る。美羽はそのことを覚えた。だから、自分のものを少なくした。荷物が少なければ、どこへでも行ける。どこへでも行けるなら、誰かに置いていかれても困らない。
困らないように生きることが、寂しくないように生きることと同じだと思っていた。陽菜が生まれてから、荷物が増えた。小さな服。絵本。靴。保育園で作った紙の飾り。捨てようとすると、陽菜が、これ、ひなの、と言った。美羽は捨てられなかった。陽菜のものが増えるたび、自分がどこへでも行けなくなる気がした。
同時に、どこかへ帰る理由が増えた。屋敷に来たとき、荷物は二つの鞄に収まった。半年後には、箱が六つになった。源一郎が買ったものだけではない。陽菜が拾った石、湊が折った紙、圭介が失敗した工作、沙織が直した服。金で買えないものも、荷物になった。美羽は、その重さを嫌いになれなかった。
*
新橋の店へ初めて入った日、隆史は財布を会社に忘れていた。
生姜焼きを半分食べてから気づいた。明日払います、と言うと、カウンターの中の春香が、明日も同じものを食べるなら二日分ね、と答えた。
「御影商事の人?」
「不動産。商事じゃなくて」
「うちに立ち退きの話を持ってきた会社ね」
隆史の箸が止まった。春香は皿を下げようとして、まだ残っている肉を見た。
「あなたに言っても、仕方ないか」
「社長が、父なんです」
春香は手を止めた。奥で、春香の父親が鍋を洗っていた。水の音が続いた。
「じゃあ、お父さんに言って。明日も食べに来る店だから、なくさないでって」
隆史は頷いた。会社へ戻ると、父は会議に出ていた。次の日も会えなかった。会える日には、別の話をした。
定食代だけは、翌日払った。
*
春香の日記に、源一郎が来た夜のことがあった。細かな会話は書かれていない。封筒の金額と、父の借金の額だけが、二つの数字で残っていた。
隆史の前から消えるようにと言われた、とある。
それに続く頁に、店を閉めるために払った金額、引っ越し代、残った金が書いてあった。春香は封筒を全部受け取ってはいなかった。それを、美羽は母の誇りだと思って読んできた。
読み直すと、その下に小さく、もっともらえばよかった、とあった。
妊婦健診の費用が、思ったより高かった日だった。
美羽はその一行を隆史へ見せなかった。母が立派だったと説明するためにも、惨めだったと説明するためにも使いたくなかった。
別の頁には、連絡をしない理由が、何度も書き直されていた。会社へ電話を掛け、取り次げないと言われたこと。住む場所を変えたこと。自分から消えたくせに、来ないことを恨んでいる、と書いた日もあった。
母は、ひとつの決心を十三年守った人ではなかった。連絡しようとした日があり、やめた日があった。その隣に、美羽の靴を買った日があった。
*
墓石の側面に、二〇一三年十一月、と彫ってある。隆史はその数字を見た。自分が父と絶縁して七年後だった。
「父から、金を渡したと聞いたのは、二〇〇六年です」
美羽は花の茎を切っていた。
「その日に、家を出ました。あのあと、何度か探し直した。でも、見つからなかった」
「その間、母は生きてました」
「はい」
花を切る音がした。
「私が十五歳になるまで」
隆史は、見つけてやれなくて、と言いかけた。何をしてやるつもりだったのか。店へ来た息子に、父親のことで謝らなくていいと言った春香を思い出した。
「会いに行かなかった」
隆史は言った。美羽が顔を上げた。
「行けなかったと、ずっと思っていました」
美羽は茎を拾い、袋へ入れた。陽菜が黄色い花を一本持ってきた。短く切りすぎて、花入れへ届かない。隆史は自分の掌に載せてみせた。陽菜は首を振り、墓石の手前に寝かせた。
隆史は春香の名前を呼んだ。美羽は顔を背けた。聞こえなかったふりはしなかった。
*
七月、陽菜が熱を出した夜に、美羽も起きられなくなった。保育園でもらったものだろうと医師は言った。薬と水を手の届くところに置き、様子が変わったら連絡するように告げて帰った。
タエは替えのシーツを取りに行っていた。源一郎が入口に立っていた。
「何か、要るか」
「大丈夫です」
自分の声が掠れていた。起き上がろうとすると、頭の奥が遅れて動いた。
「タエが戻るまで、ここにいる」
「うつりますよ」
「今さら、何がうつっても、大して変わらん」
笑うところかもしれなかったが、美羽には笑う力がなかった。源一郎は椅子を引き寄せ、陽菜の絵本を取った。読む前に眼鏡を探した。
「胸の、ポケット」
美羽が言うと、源一郎は自分の胸を見た。
「そこにあったか」
その声を聞いているうちに、美羽は眠った。
*
明け方、源一郎はまだ椅子にいた。膝の上に絵本が開かれていた。タエが横の椅子で、小さく首を傾けて眠っていた。
陽菜の呼吸は穏やかだった。源一郎の手が、布団の外へ出た小さな手を包んでいる。美羽が起きると、老人は片目を開けた。
「下がったか」
「少し」
「そうか」
「寝てください。タエさんも」
「お前もだ」
言い返そうとして、美羽はやめた。立ち上がると、まだ膝に力が入らなかった。
毛布を持って戻ると、源一郎はもう眠っていた。絵本に一本、深い折り目がついていた。美羽はその頁を閉じずに、膝へ毛布を掛けた。
*
隆史に渡した日記のコピーには、雨が上がった日のことが書いてあった。美羽が生まれて、初めて二人で外へ出た日だった。
「もっと、あなたを恨んだところを見せようと思ってました」
美羽は墓の前で言った。
「でも、その頁ばかり読んでると、母が、ずっと待ってただけの人になるので」
隆史は紙を見た。
「私は、知っててあの家へ行きました。母の写真も、持って」
「私が父親だと」
「母が、そう書いていたことは」
陽菜が隆史のズボンの裾を引いた。花を直してほしいと言った。隆史はしゃがみ、美羽を見た。美羽は、やってあげてください、と言った。
隆史が花を立て直している間、美羽は源一郎の手を思い出した。陽菜の手を握っていた指の、爪の白さまで覚えていた。
「憎みたかったんです。死ぬ前に、ちゃんと」
続きを言うと泣きそうで、美羽は口を閉じた。
墓地の通路で人が止まった。白い百合を抱えた桐谷だった。美羽は、墓石にある百合を見た。
「毎年、来ていたんですか」
桐谷は頷いた。
「母を、知っていたんですね」
長いあいだ、桐谷は花束を見ていた。
「姉です。私の」
美羽は立ち上がった。陽菜が花のそばへ座り直した。
「旧姓は、小野寺礼子です」
十五歳の頃の廊下を思い出した。引き取れない、と言った声を聞いたのではない。母の妹がいるが、引き取れないそうだと、別の人から教えられた。
「あなたが」
桐谷が顔を上げた。
「私を、引き取らなかった人」
風で百合の包み紙が鳴った。桐谷は、はい、と答えた。
*
美羽は、桐谷の花より先に靴を見た。きれいな靴だった。十五歳の美羽を引き取れないと言った人が、今、きれいな靴で母の墓へ来ていた。その見方が意地悪だと、自分でもわかった。
わかっても、やめられなかった。
「どうして、言わなかったんですか」
美羽は聞いた。桐谷は花束を抱え直した。
「言えば、来てくれないと思った」
「だから、言わなかった」
「はい」
桐谷は言い訳をしなかった。言い訳をしないことが、立派なことのように見えるのも嫌だった。
「私が来るかどうかを、私に決めさせなかったんですね」
桐谷は頷いた。隆史が少し動いた。美羽は手を上げた。
「今は、私の話です」
隆史は止まった。陽菜は墓石の前で、黄色い花を並べていた。大人の話を聞いているのか、聞いていないのか、わからなかった。美羽は声を低くした。
「十五歳のとき、私、あなたを待ってました」
桐谷の顔が変わった。
「誰かが、迎えに来ると思ってた」
「美羽」
「その名前で、呼ばないでください」
桐谷は口を閉じた。美羽は息を吸った。母の妹。血の繋がった人。それでも、今、名前を呼ばれたくなかった。美羽は、母がこの人と何を話したかを、ほとんど知らなかった。
「話は、あとで聞きます」
「今日は、母に会いに来たので」
桐谷は頷いた。花束を置いていいかと聞いた。美羽は、母の墓だから、私に許可を取ることではない、と答えた。桐谷は白い百合を供えた。黄色い花と白い花が、並んだ。美羽はそれを見た。母を覚えている人が、二人いた。同じようには覚えていない。それでも、二人いた。
*
三日後、桐谷から手紙が届いた。メールではなかった。封筒の表には、小野寺様、と書いてあった。美羽はすぐには開けなかった。沙織は、開けなくてもいいと言った。美羽は翌朝、開けた。
桐谷は、十五歳の美羽を引き取れなかった理由を書いていた。当時、自分の暮らしが壊れかけていたこと。仕事を失い、住む場所も定まっていなかったこと。美羽を引き取ると言って、結局、別の場所へ預けることになるのが怖かったこと。理由は、わかった。わかったからといって、待っていた十五歳の美羽が、いなくなるわけではない。
手紙の最後には、こうあった。あのとき、できないと言うだけでなく、できることを探すべきでした。美羽はその一行に、指を置いた。できること。電話を掛ける。手紙を書く。会いに来る。引き取れなくても、できることはあった。美羽は返事を書いた。許します、とは書かなかった。もう会いません、とも書かなかった。
母の話を、聞かせてください。それだけ書いた。封筒に入れ、宛名を書いた。桐谷礼子様。叔母様、とは書かなかった。今は、まだ。
*
春香が亡くなる前に源一郎と会ったことを、美羽は後になって桐谷から聞いた。
病院へ知らせを持ってきたのは、借金の整理をした頃の知り合いだった。源一郎は花を持って行った。春香は、約束を破ったんですね、と言ったという。一九九七年に、自分の家族へ近づかないでほしいと頼んでいた。
十五歳の娘がいる。名前は美羽。春香がそう話すまで、源一郎は子供のことを知らなかった。
「隆史に知らせようと、したそうです」
桐谷が説明した。
「姉は、今、急に知らない家へ連れていかないでほしい、と。あの子が何を知りたいか、先に聞いてほしい、と言ったそうです」
美羽は黙って聞いた。
「何もしないで、と言ったんですか」
「そこまでは、私には」
「じゃあ、何もしなかったのは、誰が決めたんですか」
桐谷は答えなかった。
美羽は十五歳だった自分を思った。母の病室の外で、これからのことを大人たちが話していた。源一郎の名前を、誰も言わなかった。
母は何を頼み、源一郎は何を引き受けたのだろう。二人ともいない。桐谷の話の中でだけ、母の言葉が残っていた。
「母が、施設へ行かせてほしいと言ったわけでは、ありませんよね」
「それは、違います」
桐谷の声が強くなった。
美羽は頷いた。そのことだけは、聞いておきたかった。
*
週末、美羽は陽菜を連れて、母が働いていた定食屋へ行った。新橋の「おのでら」ではない。母が引っ越した先で、雇ってもらった店だった。
入口の暖簾は新しくなっていたが、ガラス戸の下の傷は、昔のままだった。子供の頃、美羽はその傷を、魚の形だと思っていた。今見ると、ただの傷だった。
陽菜が、これ、なに、と指を差した。
「魚」
美羽は答えた。陽菜はガラスを見た。
「おさかな?」
「ママが小さいとき、そう思ってた」
陽菜はもう一度見た。
「しっぽ、ある」
美羽は少し笑った。店に入ると、昔より明るかった。電球が変わったのか、壁が塗り直されたのか、美羽にはわからない。店主は、美羽をすぐには思い出さなかった。春香の娘です、と言うと、長く顔を見た。
「大きくなったね」
美羽は頷いた。その言葉を、十五歳のときにも聞きたかった。誰かに会うたび、今、初めて知ることと、あのとき、知りたかったことが、並んで出てくる。店主は奥から古い写真を持ってきた。店の前で撮った写真だった。春香が端に立っている。美羽は母の手を握っていた。美羽は写真を見た。母は笑っていた。
日記に、今日は疲れた、と書いてある頃の写真だった。写真の端に、美羽が覚えていない自転車が写っていた。美羽は写真を借りて、複写してもいいかと聞いた。店主は、持っていけばいい、と言った。美羽は首を振った。
「ここにも、母がいた方がいいので」
店主は少し驚き、頷いた。陽菜は母の写真を見て、おばあちゃん、と言った。会ったことのない人を、写真で覚えていく。美羽はそれを、寂しいことだけではないと思った。定食を二つ頼んだ。陽菜には量が多いので、美羽が少し分けてもらった。母も、昔、そうしていた。美羽が食べきれない分を、母が食べた。
自分が食べきれなかったものを、母が残さなかったことを、今、思い出した。店主は、春香はよく働いた、と言った。美羽は頷いた。
「よく働いたこと以外に、覚えていることはありますか」
店主は少し考えた。母は歌が下手だった。閉店後、片づけをしながら歌うと、隣の人が笑った。母も笑った。歌詞を間違えても、最後まで歌った。美羽は、その母を知らなかった。家では、母はあまり歌わなかった。陽菜が、ママもへた、と言った。美羽は、知ってる、と答えた。店主が笑った。母が笑われた場所で、自分も笑われた。
美羽は、それを嫌だと思わなかった。
*
帰り道、隆史へ写真を送るか迷った。送れば、母の笑顔を見せられる。母は、この男に笑顔を見せたかっただろうか。わからない。美羽は写真を送らず、店へ行ったことだけを伝えた。隆史から、まだあるんですね、と返事が来た。美羽は、あります、と答えた。母が働いた店は、まだある。母のいた場所は、墓だけではない。
隆史も、そのことを知ればいいと思った。しばらくして、隆史から、今度、行ってみます、と来た。美羽は、店主に母の話を聞くなら、先に私へ連絡してください、と返した。隆史は、わかりました、と答えた。
美羽は携帯をしまった。陽菜が手を引いた。
「ママ、うたって」
「ここで?」
「うん」
美羽は小さく歌った。歌詞を間違えた。陽菜が笑った。美羽も笑った。母が最後まで歌ったように、自分も最後まで歌った。
*
隆史は春香の日記のコピーを、何度も読んだ。自分が知らない春香がいた。美羽が生まれて、初めて外へ出た日。雨が上がり、洗濯物を干した日。その短い一頁に、自分の名前はなかった。父に奪われた人、と隆史は春香を呼んできた。自分が守れなかった人、とも思っていた。春香は、そのどちらでもあり、それだけではなかった。
隆史は美羽に電話を掛けた。電話に出るかどうかも、美羽が決める。三回鳴って、繋がった。
「日記、読みました」
「はい」
「ありがとう」
「母のこと、勝手にまとめないでください」
隆史は目を閉じた。
「わかりました」
「あなたが知らない母を、私も知ってます」
「はい」
「私が知らない母を、あなたが知ってるなら、いつか聞きたいです」
隆史は返事をするまでに時間がかかった。
「話します」
「今日は、いいです」
「わかりました」
電話が切れた。隆史は机の上で、母の手紙と春香の日記の写しと、父の財布を並べた。どれも、重ねなかった。




