第五章 血の証明
隆史は父の財布を、机の引き出しへ入れた。自分の財布に写真を移そうとして、やめた。写真は父の財布の中で、四十年を過ごした。移せば、自分がその四十年を引き継ぐような気がした。引き継ぎたくないものは、たくさんあった。会社。名字。人の話を最後まで聞かない癖。
父から離れるために会社を作った。父の会社より小さく、父のやり方より遅く、父の名前を使わない会社。取引先に御影の名を聞かれるたび、関係ありません、と答えた。関係がないわけではなかった。父の名前を使わないということを、父の名前を説明して伝えていた。父はそれを知っていただろうか。知っていたと思う。
知っていて、何も言わなかった。それも、父の嫌なところだった。机の上には、資金繰りの表があった。数字は赤くない。黒い数字が、足りないことを示していた。赤ければ、危険だと誰にでもわかる。黒い数字は、見方を知っている人にしか、危険を伝えない。二百人の社員がいた。その言葉を、隆史は何度も自分に言った。
父も、社員がいると言った。春香のことを話した夜、父は、会社はお前だけのものではない、と言った。隆史は、自分の人生は会社のものではない、と答えた。どちらも、相手の言葉を聞いていなかった。真鍋から電話があった。
「資料が揃ってきました」
「そうですか」
「遺言の内容を争うだけでなく、四人がどのような動機で接近したかも、整理しておきたいと思います」
「接近した」
「表現は調整します」
隆史は窓を見た。表現を調整すれば、事実が変わるわけではない。けれど、事実の見え方は変わる。父が得意だったことだった。
「子供には、これ以上、直接聞かないでください」
「必要な範囲で、保護者を通じて」
「必要かどうかも、先に私に聞いてください」
真鍋は少し間を置いた。
「承知しました」
電話を切ったあと、隆史は父の財布をもう一度出した。自転車の写真の裏には、静江の字があった。乗れました。日付は、隆史の誕生日の二日前だった。父は、乗れた日を知らなかった。写真は持っていた。その二つを、どう並べればいいのかわからなかった。
隆史は写真を財布へ戻した。今は、並べておくしかない。
*
美羽は隆史が帰ったあと、食卓を拭いた。隆史の使ったコップが残っていた。源一郎と同じように、飲み終わっても少しだけ水を残す。美羽はその水を流しへ捨てた。似ているところを見つけたくなかった。見つけると、自分まで似ているのではないかと思う。
母の写真に写っている男が、今日、湊の隣でハンバーグを食べた。陽菜が野菜を残すと、嫌いなのか、と聞いた。陽菜は、今日は嫌い、と答えた。隆史は、今日はか、と笑った。その笑いを、美羽は覚えてしまった。母を置いていった男の笑いを、娘が覚える。母に申し訳ないと思った。
けれど、母は、あの人を憎みなさいとは一度も言わなかった。美羽は、母の代わりに憎んでいたのかもしれない。沙織が台所へ来た。
「もう、いいわよ。残りは私が」
「終わります」
「じゃあ、私も拭く」
沙織は布巾を取った。美羽は手を止めなかった。二人で同じテーブルを拭くと、途中で布巾が近づく。どちらかが譲る。美羽は初めて、自分から端へ移った。
「隆史さんのこと、どう思う?」
沙織が聞いた。
「知らない人です」
「そうね」
「知らない人に、どう思うって聞かれても」
「そうね」
沙織は同じ返事をした。美羽は少し苛立った。
「何か、知ってるんですか」
「知らないわ」
「じゃあ、何で」
「あなたが、知っている顔をしていたから」
美羽は布巾を絞った。知っている顔。自分では、何も出していないつもりだった。
「母の日記に、名前がありました」
美羽は言った。沙織は拭く手を止めた。
「それだけ、今は」
「わかった」
沙織は続きを聞かなかった。美羽は、そのことを、ありがたいと思った。ありがたいと思うと、もう少し話したくなる。
「源一郎さんも、知ってたみたいです」
「あなたのお母様を」
「はい」
沙織は頷いた。その夜、美羽は封筒を机の上に出した。鞄の奥に隠していたものを、初めて、見えるところへ置いた。
*
その晩、隆史は食卓の端に立った。美羽が顔を上げた。
「お母様の名前を、調べました」
沙織が箸を置いた。美羽は湯呑みを持ったまま動かなかった。
「春香さん、というんですね」
「何のために」
隆史は返事を用意していなかった。遺言を調べるため、と答えればよかった。だが、その名前を聞いた瞬間から、遺言のことを考えていなかった。
「知っていた人かもしれない」
「かもしれない、ですか」
美羽は湯呑みを置いた。
「知っていた人が死んでいたことを、今、調べてもらって知ったんですね」
湊が二人を見た。圭介は立ち上がりかけ、座り直した。
「今日は、帰ってください」
美羽はそう言って、立たなかった。隆史が出ていくまで、湯呑みの横に両手を置いていた。
*
翌朝、圭介は自分のパソコンを久住へ見せた。録音を記者に送っていないことを、証明したかった。送信履歴を出せば済むと思っていたが、久住は画面を見ただけで頷くことはしなかった。
「これだけで、ほかの経路がなかったとは、私には言えません」
「じゃあ、何を出せばいいんですか」
久住は答えるまでに間を置いた。
「皆さんに、聞きましょう。ただ、コピーした人と、外へ送った人が同じとは限りません」
圭介は顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「まだ、決めつけないようにという意味です」
その言い方に何かが残った。圭介は、後から何度も思い出すことになる。
*
美羽は食卓に座った。陽菜はタエと別の部屋にいた。湊には、聞くかどうかを先に尋ねた。湊は、聞く、と答えた。久住が、圭介のパソコンから録音を移した人はいないかと尋ねた。美羽は顔を上げた。
「私です。九月十二日の夜」
圭介は膝の上で手を握った。責めないと決めても、怒りはある。自分の部屋へ、黙って入られた。
自分が源一郎の書斎へ黙って入ったことも、思い出した。圭介は美羽を見た。
「録音を、コピーした?」
「した」
「売ったのか」
「売ってない」
美羽の声は強かった。圭介は、俺もそう言った、と言いかけた。やめた。自分の言葉を、相手の嘘を決めるために使わない。
「何のために」
美羽は答えなかった。湊が聞いた。
「僕に、聞いてほしかった」
美羽は湊を見た。
「ごめん」
「謝る前に、聞いてほしかった」
美羽は頷いた。「美羽さんにも、事情があるのよ」
沙織が言うと、湊が顔を上げた。
「僕の事情は」
沙織は口を閉じた。湊は膝を見ていた。美羽も、何も言わなかった。久住が、持っている分を確認し、湊の希望を聞いて処分すると言った。美羽は頷いた。湊は、元の録音は消さないで、と言った。
久住は、もちろん、と答えた。圭介は美羽へ聞いた。
「俺の部屋に入ったことは、別に謝ってほしい」
美羽は圭介を見た。
「ごめんなさい」
圭介は頷いた。それで、全部が終わるわけではない。終わらないことを、今夜、急いで終わらせなかった。
*
美羽が録音を持ち出したことを認めた夜、湊は美羽の顔を見なかった。圭介がコピーした。美羽もコピーした。大人は、みんな同じなのかもしれない。湊はそう思った。沙織だけは違うと思いたかった。けれど、沙織も、湊が録音を聞かせると、どこに何が入っているか、よく覚えていた。いつか、使うつもりなのだろうか。
湊はその考えを、誰にも言わなかった。美羽は翌朝、湊の部屋へ来た。扉を叩き、返事を待った。湊は返事をしなかった。美羽は、ここに置くね、と言った。足音が遠ざかった。扉を開けると、小さな記憶媒体と、紙が置いてあった。コピーした分です。ほかに持っている分はありません。久住さんに確認してもらいます。
紙の下に、もう一行あった。私が、何のために持ち出したかは、話せるときに話します。今、話せないことを、許してほしいとは言いません。湊は紙を読んだ。話せない。圭介は、金が欲しかったと言った。美羽は、話せないと言う。どちらが悪いのか、湊にはわからなかった。どちらも、嫌だった。湊は記憶媒体を久住へ渡した。
自分では開かなかった。知らないものを、自分のパソコンへ入れたくなかった。美羽が何を持っているか、確かめることも、今日はしたくなかった。久住は受け取り、確認した結果を伝えると言った。湊は、消したことも教えて、と言った。久住は頷いた。美羽の秘密を暴くためではない。自分のものを、取り戻すためだった。
*
圭介は母へ、送金の一覧を見せた。和子は眼鏡を掛け、頁をめくった。
「知ってたの」
「途中からは」
「何で、言わなかった」
「何て言えばよかったの」
台所の時計が鳴った。和子は眼鏡を外した。
「お父さんのお葬式に、来たの。一人で。門の外で、頭を下げていた」
「土下座?」
「そう」
「許したの」
「塩をまいた」
母がそういうことをしたと、圭介は知らなかった。
「金も、返せばよかった?」
圭介は返事をしなかった。大学の四年間を、返す物のようには考えられなかった。
「私も、受け取っていたのよ。あの人を嫌いなまま」
和子は紙を元の順に揃えた。端が一枚だけ合わず、何度も机に打ちつけた。
「俺、あの人を、父さんって呼んだ」
母の手が止まった。
「仕事で、だろう」
「最初は」
和子は仏壇を見なかった。圭介を見た。
「嫌だった?」
「嫌だった日もある。そうでない日も」
母は頷いた。
「私に、いいよって言わせたいの」
圭介は顔を伏せた。母は送金の一覧を封筒へ戻した。
「私も、聞きたくない日はあるわ。今日は、ここまでにしよう」
帰り際、和子は圭介に蜜柑を二つ持たせた。一つはもう柔らかくなっていた。
*
六月十七日の夕食に、魚の煮つけが出た。源一郎は半分ほど残した。美羽が茶を注ぐと、急須の口が湯呑みに触れた。
「熱いから、気をつけて」
顔を上げた老人と目が合った。いつもより長く、美羽を見ていた。
「春香」
急須を戻す場所がわからなくなった。美羽は盆の上を見た。
「帰ってきたのか。隆史は、まだ会社か」
沙織が源一郎の名を呼んだ。源一郎は返事をしなかった。
「すまなかった。わしが、全部悪かった」
湊の録音機は、食卓の端に置いてあった。赤い小さな光を、美羽は今も覚えていた。
源一郎はそのあと、美羽の手から急須を取ろうとして、やめた。疲れた、と言った。タエが車椅子を押して出ていくまで、美羽は急須を持っていた。
*
その夜、美羽は書斎へ行った。
「さっき、誰と間違えたんですか」
源一郎は机に向かっていた。大学ノートの上に、薬の袋があった。
「お前に、似ていた人だ」
「どうなったんですか。その人は」
「わしが、不幸にした」
謝る言葉を聞きたかった。だが、今、言われれば、美羽は何かを認めなければならない。母の名前を知っていること。母が、どう生きたかを知っていること。
「そうですか」
扉へ向かうと、源一郎が美羽を呼んだ。
「陽菜は、眠ったか」
「隣の部屋です。さっきも、会ったでしょう」
源一郎は頷いた。美羽は返事を待たずに出た。
翌朝、主治医へ前夜のことを話したのは、タエだった。薬の影響もあるのか、何に気をつければいいのかと聞いた。源一郎は、わざと呼んだのだ、と言ったという。
どちらが本当だったのか、美羽にはわからなかった。わざとだとしても、なぜあのとき、自分へ言ったのかは、わからないままだった。
*
真鍋が揃えた資料には、春香の亡くなった年が記されていた。二〇一三年。享年三十八。美羽は当時十五歳だった。
隆史は数字を引き算した。娘が生まれた頃、春香は二十三歳。新橋の店から姿を消して、一年たっていなかった。
「ご本人に、会って聞く必要があります」
真鍋が言った。
「血縁があるなら、確認を」
「先に、確かめてくれないか」
「何を、どうやってですか」
隆史は黙った。真鍋は資料を閉じた。
「私が調べられることにも、限りがあります。お嬢さんかもしれないということと、本人に無断で調べていいということは、別です」
隆史は、もう調べてもらっている、とは言わなかった。母親の名前も、亡くなった年も、美羽から聞いたのではない。資料の中では、驚くことも、知らなかったことも、自分だけのものだった。
美羽に会えば、知らなかったことを、知らなかったと答えなければならない。
*
一九九七年の春、隆史は公園のベンチで、春香とアイスを分けた。紙の蓋がうまく取れず、指に白いものがついた。春香が笑った。
「子供みたい」
「お前だって、そんなに変わらないだろう」
「私、二つも上ですけど」
二十三歳の春香は、二十一歳の隆史より何でも知っている顔をした。
「もし、女の子だったら、名前、どうする?」
「何の話だよ」
「いいから」
隆史は桜を見た。花弁が一枚、春香の髪に落ちた。
「美羽。美しい羽って、書いて」
春香が何も言わなかったので、似合わないか、と聞いた。
「覚えておく」
そう答えて、春香はアイスをもう一口食べた。
*
隆史は屋敷の前から電話を掛けた。出るまでに、長く鳴った。
「今、門の外にいます」
「聞いてません」
「会って、話したい」
切られると思った。向こうで陽菜の声がした。
「玄関までです」
美羽は扉を半分だけ開けた。隆史が入るつもりで一歩動くと、その隙間が少し狭くなった。
「あなたが、私の母を調べたんですね」
「春香さんを、知っていました」
「母は、あなたを待ってました」
隆史は扉に手をつきかけて、下ろした。
「ずっと探した。店がなくなって、電話も」
「何年、探したんですか」
すぐには答えられなかった。最初は毎日行った。近所の店に聞いた。父の知り合いにも頼んだ。そのうち、仕事の帰りに通るだけになった。通らなくなった日を、覚えていない。
「母が私を育てていたことは、知らなかったんですね」
「知らなかった」
「母が死んだことも」
隆史は頷いた。
美羽は扉から手を離さなかった。
「あなたが、私をどうするか決めるのを、私は待ちません」
「どうするというのは」
「私は、もう大人です。陽菜もいます」
廊下で足音がした。美羽は振り返り、少し待ってて、と言った。隆史には言わない声だった。
「お母さんの名前を、もう一度、聞いてもいいですか」
美羽は隆史を見た。
「小野寺春香です。御影隆史さん」
自分の名前を呼ばれた。社長でも、息子でもなく。
「私の名前は、母がつけました。父がつけたかった名前だと、聞いています」
美羽の手が、扉の縁で白くなっていた。隆史は、美羽、と言いかけた。言ってはいけない気がして、飲み込んだ。
「また、話す時間をもらえますか」
「考えます」
扉が閉まった。廊下の向こうで、ママ、誰、と声がした。返事は聞こえなかった。
*
三週間後、美羽と隆史は、久住の前で封筒を開けた。
血縁の確認をしようと言ったのは、美羽だった。結果を受け取る人を二人と久住に限ること、資料を訴訟のために使うなら改めて確認することを、紙に書いた。久住が手続きを説明する間、隆史は何度も口を挟みかけた。
親子関係を支持する、という結論だった。隆史はその一行を読み、美羽の紙も見ようとした。美羽が封筒を自分の方へ引いた。
「同じ結果です」
「そうですね」
「でも、私の分なので」
隆史は手を膝へ戻した。
「私が知りたかったことの、一つです」
美羽は紙を畳んだ。
「母がどう暮らしたかは、ここに書いてない」
「聞かせてください」
「今日は、いいです」
美羽は自分の封筒を鞄へ入れた。古い日記とは、別の仕切りだった。
*
隆史は母の遺品を調べた。静江が亡くなったあと、父は遺品を箱に入れ、納戸へ置いた。隆史はその箱を持って家を出た。持って出たが、開けなかった。開ければ、母がいないことを、もう一度知る。二十年、箱は押し入れにあった。箱の中には、古い手帳と、病院の書類と、封をしたままの手紙があった。隆史へ。母の字だった。
隆史は椅子に座ってから封を切った。手紙には、父を許してほしいとは書かれていなかった。あなたが自分で決めたことを、私は応援します。そう書かれていた。隆史は、その一行を何度も読んだ。母は、父と自分の間に立っていた人だと思っていた。二人が争うと、まあまあ、と言った。父が遅く帰ると、忙しいのよ、と言った。
母が自分の意見を持っていなかったわけではない。言う場所がなかっただけなのかもしれない。隆史は手紙を畳んだ。春香の名前はなかった。それが、母が知らなかったことを意味するのか、書かなかったことを意味するのか、わからなかった。わからないことを、わかったことにしてはいけない。隆史は手紙を父の財布の横に置いた。
父の写真と、母の言葉。両方が、今、自分の机の上にある。隆史は久住に電話を掛けた。
「春香のことを、どこまで知っていますか」
久住は長く黙った。
「私からお話ししてよいことと、そうでないことがあります」
「また、親父の指示ですか」
「いいえ。春香さんのことです」
隆史は息を吐いた。父の話を聞くつもりで、別の人の話に触れていた。そのことを、初めて考えた。
「美羽さんに、話を聞きたい」
「ご本人にお伝えします」
「断られたら」
「断られたと、お伝えします」
隆史は頷いた。電話の向こうには見えない頷きだった。それでも、頷く必要があった。
*
それから数日して、美羽は、母の話を聞かせてほしいという隆史の申し出に、返事をした。返事を急がないと、相手を困らせる。そう思う癖があった。保育園の書類も、職場のシフトも、返事を遅らせると誰かが困る。今回は、待たせてもいい。沙織がそう言った。返事をするまでに、母の日記を全部読み直した。恨みを探して読んだときには、見えなかった行があった。
今日は、美羽が笑った。今日は、雨が上がった。今日は、パンを二つ買えた。母の日記には、隆史の名前より、美羽の名前の方が多かった。美羽は日記を閉じた。母の人生を、置いていかれた人生という一言で呼んでいた。母は、もっとたくさんの日を生きた。美羽はその日記を持って、隆史に会うと決めた。会う場所は、屋敷ではない。
母のいる場所にした。




