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家族を演じる人々  作者: ぽむぽむ


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第四章 声を持つ子供

湊の録音には、日付だけが付いていた。学校のノートには、題名を付けるように言われる。作文なら、夏休みの思い出。観察なら、朝顔の成長。題名があれば、何を書いたものか、読む前にわかる。録音には、題名を付けたくなかった。

 おじいちゃんが笑った日、と付けると、その日の咳も、沙織のため息も、陽菜が皿を落とした音も、笑った日の中へ入ってしまう。どの音も、そのときには同じ大きさだった。だから日付だけにした。

 源一郎が亡くなってから、湊は毎晩、少しずつ聞いた。眠る前に聞くと、夢の中で食卓が続く。朝、目を覚ますと、源一郎の部屋の扉は閉じたままだった。閉じた扉を見ないために、湊は階段を早く下りた。沙織は、録音を聞きすぎないように、と言わなかった。ただ、何時に寝た、と聞いた。

 湊が嘘をつくと、沙織は、今日は少し早く寝ましょう、と言った。嘘だと見抜いたのか、見抜かなかったのか、湊にはわからなかった。圭介の部屋の前は、通らないようにした。通れば、声を掛けられるかもしれない。声を掛けられれば、答えなくてはいけない。答えると、許したことになる気がした。許したくないわけではなかった。

 許すということが、何をすることなのかわからなかった。源一郎は、将棋で湊がずるをしたとき、もう遊ばないとは言わなかった。負けても遊んでやる、と言った。それを圭介に言えばいいのだろうか。けれど、写真を売ることと、駒を動かすことは違う。違うのに、どこがどのくらい違うのか、説明できなかった。

 大人なら、説明できるのだろうか。食卓で美羽と沙織が話しているのを聞くと、大人にも説明できないことが多いらしかった。湊は録音機を持って、病院へ行った。母に源一郎の声を聞かせるつもりはなかった。母は、源一郎の家へ行くと決めたとき、何度も、嫌なら帰ってきていい、と言った。

 帰ってくる場所は、母のいる病室ではなかった。親戚の家だった。母はそれを知っていて言った。湊も、それを知っていて、うん、と答えた。病院の入口で、湊は足を止めた。中庭のベンチに、誰かが座っていた。源一郎ではない。新聞を読んでいる人だった。新聞の持ち方だけが似ていた。湊はその人の横を通り、ベンチの反対側に座った。

 ここで、最初に源一郎に会った。そのことを、屋敷の人たちには話していなかった。自分だけが持っている源一郎がいることを、少し嬉しく思っていた。今は、その嬉しさを、どこへ置けばいいのかわからなかった。

*

 一年前、湊は病院の中庭で、台詞を練習していた。児童劇団の先生は、気持ちを込めて、と言った。気持ちを込めるというのは、声を大きくすることではないらしい。大きくすると、うるさい、と言われた。小さくすると、届かない、と言われた。湊は、ちょうどいい気持ちの大きさを探していた。

 母の病室では、台詞を言えない。隣の人が眠っている。廊下では、通る人の邪魔になる。中庭なら、誰にも迷惑をかけないと思った。台本の父親は、家を出ていった。子供は、行かないで、と言う。湊の父親は、湊が三歳のときにいなくなった。行かないでと言ったかどうか、覚えていない。母に聞くと、あなたは眠っていた、と言った。

 眠っているあいだに、いなくなった。だから、台本の子供の方が、少し羨ましかった。出ていくところを見て、言葉を言える。湊は何度も同じ台詞を言った。その声を、源一郎が聞いた。湊は最初、その人を、病院に長くいる人だと思った。自分と同じように、ここで時間を過ごす場所を探している人。偉い人だとは思わなかった。

 偉い人は、ひとりでベンチに座らないと思っていた。源一郎は湊の台本を見て、相手の台詞を読んだ。上手くなかった。字を読んでいる声だった。湊は少し笑った。

「おじさんも、気持ちを込めて」

 源一郎は眉を寄せた。

「何の気持ちだ」

「出ていく気持ち」

「出ていくのに、気持ちが要るか」

「要るよ」

「残る人がいるから」

 源一郎は台本を見た。次の台詞を読むまでに、長い時間がかかった。湊は、難しい字があるのかと思い、覗き込んだ。難しい字はなかった。

*

 五月の連休、庭へ出た湊は、源一郎が買ってきた凧を持って走った。何度走っても、芝生を引きずるばかりだった。源一郎が縁側から声を掛けた。

「風に逆らって走れ。凧は向かい風で上がる」

「向かい風って、どっち?」

「顔に風が当たる方だ」

 湊は走った。凧がふわりと浮き、枝を越えた。

「上がった! おじいちゃん、上がった!」

 源一郎は目を細めた。

「……隆史もな、最初はまったく上がらなかった」

「隆史って?」

「わしの、本当の息子だ」

 湊は凧糸を握ったまま、縁側に近づいた。

「おじいちゃん、本当の家族、いるの?」

「いる。いや……いた、と言うべきか」

「どうして一緒にいないの」

「わしが、追い出した」

 湊は源一郎の隣に座った。

「凧揚げも、自転車も、キャッチボールも、わしは教えていない。全部、母親がやった。わしは仕事ばかりで、隆史が初めて自転車に乗れた日のことも、後から写真で知った」

「僕のお父さんも、三歳のときにいなくなったから、何も教わってない」

 源一郎は湊を見た。

「僕は、教えてもらっていいの」

 源一郎は少し笑い、咳き込んだ。

「湊。お前のその機械、今も回っているのか」

 湊はポケットのICレコーダーを押さえ、頷いた。

「なら、ついでに録っておけ」

 源一郎は空の凧を見上げて、ゆっくりと話した。

「隆史。お前が初めて自転車に乗れた日、わしは会社で、写真を見せられた。お前が泣きながら笑っている写真だった。わしは、その写真を、今でも財布に入れている」

 源一郎は内ポケットから古い財布を取り出した。中から、色褪せた写真。補助輪のない自転車にまたがり、泣き笑いの少年。

「おめでとう。……四十年遅れたがな」

 湊は黙って凧糸を握りしめていた。

 亡くなる一週間前、源一郎はその財布を湊へ預けた。隆史に会うことがあれば、渡してほしいと言った。湊は、声も聞かせていい、と確かめた。老人は頷いた。

*

 病院で母は、一通の通知を見せた。治療中の暮らしを支える制度に、以前から申し込んでいた。その費用を出したのが源一郎だったと、久住から連絡があったという。母は、どうお礼を言えばいいのか、と同じところを何度も読んだ。

 湊は録音機を鞄の奥へ入れた。母を助けた人が、源一郎だった。それを知ると、源一郎の声が、少し違って聞こえる気がした。おじいちゃん、と呼んだ声まで、お礼の声に変わってしまう。湊は母に聞いた。

「僕が行かなかったら、お金、返さないといけなかった?」

 優子は顔を上げた。

「そんなことはないわ」

「本当に」

「本当」

「じゃあ、何で言わなかったの」

 優子は毛布の端を揃えた。

「お母さんも、知らなかったの」

「知らないで、僕を行かせたの」

 優子は手を止めた。湊は言いすぎたと思った。母を困らせるために来たのではない。母は病気だ。困らせてはいけない。そう思うと、何も聞けなくなる。湊は膝の上で手を握った。優子が、ゆっくり言った。

「そうね。知らないで、行かせた」

 湊は顔を上げた。

「お母さん、ちゃんと聞けばよかった」

「僕も、聞かなかった」

「湊が聞かなかったことと、お母さんが聞かなかったことは、同じではないの」

 優子は言った。

「大人が、先に聞くことだった」

 湊はしばらく母を見ていた。母が間違えたと言うのを、初めて聞いた気がした。母はいつも、ごめんね、と言った。病院にいること。参観日に行けないこと。迎えに来られないこと。母が悪いわけではないことに、何度も謝った。今日は、母がしたことについて謝った。湊は、その違いを、言葉にはできなかった。

「僕、あそこに行って、よかった」

「でも、知ってたら、違ったかもしれない」

「そうね」

「お礼を言わないといけないと思ったかもしれない」

 優子は頷いた。

「おじいちゃんは、お礼を言えって言わなかった」

 湊は鞄から録音機を出した。母に聞かせるつもりはなかった。けれど、今は聞かせたかった。湊は日付を選んだ。源一郎が将棋で勝ち、湊が、もう一回、と言った日の録音だった。優子は聞きながら笑った。湊は、その笑いを録らなかった。録らなくても、覚えていられると思った。

*

 屋敷に戻ると、真鍋と隆史がいた。沙織が入口で湊を止めた。今日は話さなくていい、と言った。湊はその言葉を、少し嬉しく思った。話さなくていい。いい子でいるために、話さなくてもいい。けれど、隆史を見ていると、渡したいものがあった。源一郎の財布。財布の中の、自転車の写真。

 湊は、何度も渡す場面を考えた。隆史が泣く。ありがとうと言う。源一郎を許す。どれも、台本みたいだった。源一郎は、渡してくれ、と言っただけだった。泣かせろとは言わなかった。湊は写真を持って、隆史の前に立った。声を聞きたいか、と聞いた。隆史はすぐには答えなかった。湊は待った。

 録音が終わったあと、隆史は写真を長く見ていた。

「これ、母が撮った」

「僕も、そう聞いた」

「転んだんだ」

 湊は写真を見た。

「乗れたんじゃないの」

「乗れた。それから転んだ」

「両方だったんだ」

 隆史は少し笑った。

「両方だった」

 湊はその笑いを見た。源一郎の笑いに似ていた。似ていると言うと、嫌がるかもしれないので言わなかった。

「財布も、渡してって」

 湊は財布を差し出した。隆史は受け取った。

「ありがとう」

 湊は頷いた。ありがとうと言われた。けれど、源一郎を許したかどうかは、わからなかった。わからなくていいのだと思った。湊は録音機を自分のポケットへ戻した。沙織が、夕食にしましょう、と言った。隆史は帰るつもりで立った。

 湊は、食べていけば、と言いかけて、やめた。代わりに、今日はハンバーグだよ、と言った。隆史は時計を見た。

「少しだけ」

 湊は椅子を引いた。源一郎の席ではない。自分の隣の席だった。隆史はそこに座った。湊は皿を一枚増やした。人数を数えるとき、初めて、隆史を入れた。

*

 湊の学校で、家族について作文を書く時間があった。先生は、家族の誰かを紹介してくださいと言った。父でも、母でも、祖父母でも、兄弟でもいい。湊は鉛筆を持った。

 母のことなら書ける。病院にいる。よく謝る。湊が笑うと、少し安心した顔になる。父のことは、書けない。顔を覚えていない。源一郎のことは、たくさん書ける。将棋が強い。卵焼きの匂いが好き。凧を揚げるときは、向かい風に走れと言う。眠れない夜がある。家族の誰か。源一郎は、その誰かに入るのだろうか。湊は先生に聞いた。

「一緒に住んでる人でも、いいですか」

 先生は、もちろん、と答えた。湊は、祖父ではない人でも、と続けた。先生は少し考え、紹介したい人を書いていい、と言った。湊は源一郎のことを書いた。途中で、亡くなったことも書いた。書くと、字が紙に残った。声と違う。声は再生すれば、今、話しているように聞こえる。字は、亡くなった、とそこにある。湊は鉛筆を止めた。

 隣の子が、どうした、と聞いた。湊は、何でもない、と答えた。何でもないことは、なかった。それでも、今、説明できなかった。作文は、最後まで書いた。先生は、みんなの前で読んでもいいか、と聞いた。湊は、読まないで、と答えた。先生は頷いた。湊は、その頷きを覚えた。先生は作文を裏返して、ほかの子の紙と別の場所へ置いた。

*

 源一郎が参観日に来た日は、暑かった。教室の後ろには、保護者が並んでいた。源一郎は杖を持ち、タエと一緒に立っていた。湊は何度も後ろを見た。源一郎は、前を見ろ、と口だけで言った。湊は前を向いた。先生が質問すると、湊は手を上げた。答えはわかっていた。源一郎が見ているから、間違えたくなかった。

 指されると、答えを忘れた。教室が静かになった。湊は立ったまま、机を見た。先生が、ゆっくりでいい、と言った。源一郎は何も言わなかった。湊は答えた。少し間違えた。先生が別の子に聞いた。その子が正しい答えを言った。湊は座った。後ろを見なかった。帰り道、源一郎は、よく手を上げた、と言った。

「間違えたよ」

「上げなければ、間違えなかった」

「じゃあ、上げない方がよかった?」

「違う」

 源一郎は足を止めた。

「間違えたことを、知れなかった」

 湊は源一郎を見た。その言葉は、少し難しかった。源一郎は、わしも、もっと早く間違えればよかった、と言った。

「おじいちゃんも、間違えるの」

「間違える」

「いっぱい?」

「いっぱいだ」

 湊は笑った。源一郎も少し笑った。湊はその日、母に電話を掛けた。参観日に来てくれたことを話した。間違えたことも話した。母は、見たかった、と言った。湊は、今度は来て、と答えた。来られないかもしれないと、知っていた。それでも、来てほしいと言った。いい子の台詞ではない。自分の台詞だった。

*

 湊はその日の録音を、隆史へ聞かせなかった。自転車の声を聞かせたあと、ほかにもあるかと聞かれた。ある、と答えた。今日は聞かせない、とも言った。隆史は頷いた。源一郎が参観日に来たことを知れば、隆史は、自分の参観日には来なかった、と言うかもしれない。湊はそれを聞くのが怖かった。

 源一郎が自分にしてくれたことが、誰かにしなかったことと並ぶ。嬉しかった記憶が、悪いものになる気がした。沙織に話すと、沙織は、悪いものにはならない、と言った。

「でも、隆史さんが寂しかったことも、本当なの」

 湊は頷いた。

「両方、覚えていればいい?」

「覚えていられる分だけで、いいわ」

 湊は少し息を吐いた。全部を覚える必要はない。源一郎の全部を、自分が持っていなくてもいい。湊は録音機を机に置いた。今日は、少し早く眠った。

*

 優子は、湊が帰ったあと、録音を聞いたときのことを考えた。自分の知らない息子の声があった。

 源一郎に負けて、もう一回、と言う声。陽菜へ、こっちだよ、と教える声。美羽に、卵焼き、もう少し、と頼む声。病室では、湊は頼まなかった。何か欲しいかと聞くと、いらない、と答えた。困っていることはないかと聞くと、ない、と答えた。母を困らせない子供だった。母を困らせないことが、子供の仕事になっていた。

 優子は、そのことを、よい子だという言葉で受け取っていた。源一郎の家で、湊は、もう少し、と言えた。それが嬉しかった。自分の前では言えなかったことが、寂しかった。嬉しいことと寂しいことが、同じ録音に入っていた。優子は沙織へ電話を掛けた。湊が録音を聞かせたことを話した。沙織は、そうですか、と答えた。

「湊、そちらでは、わがままを言いますか」

「言いますよ」

 沙織は少し笑った。

「宿題をしたくないとか、もう少し起きていたいとか」

 優子は目を閉じた。

「そうですか」

「困ることもあります」

 優子は笑った。困ることがあると、言ってもらえた。息子が、いい子だけではない場所にいる。そのことを、安心だと思った。沙織は、湊はお母さんに会う前、何度も時間を確かめます、と言った。早く行きたい。遅く帰りたい。母に言わない希望を、沙織には言う。優子は、今度、本人に聞いてみます、と答えた。

 沙織は、聞いてあげてください、と言った。電話を切ったあと、優子は窓を見た。中庭のベンチが見える。湊が台詞を練習した場所だった。自分は窓から見ていた。見ていたから、知っていると思った。湊が誰に何を言ったか、全部は知らなかった。

*

 次に湊が来た日、優子は、何時までいたい、と聞いた。湊は、いつもと同じ、と答えた。優子は、いつもと同じでなくてもいい、と言った。湊は母を見た。

「遅くまでいても、疲れない?」

「疲れたら、疲れたって言う」

「言ってくれる?」

「言う」

 湊は頷いた。

「じゃあ、少し長く」

 優子は時計を見た。面会の時間の中で、少し長くいられるようにした。特別なことは、しなかった。湊は学校の話をした。作文の話もした。源一郎のことを書いたと話した。優子は、読んでもいいかと聞いた。湊は、まだ、と答えた。優子は頷いた。母だから、全部を読んでいいわけではない。湊が渡すまで、待つ。

 源一郎の家で起きたことを知ってから、自分にも同じ決まりを作った。湊は鞄から、貰った菓子を出した。半分、母へ渡した。優子は受け取った。湊は、全部は食べないでね、と言った。優子は笑った。全部を母へ渡す子供ではなくなった。半分を、自分のために残す。その変化を、優子は大事に受け取った。

 帰り際、湊は、次も少し長くいていい、と聞いた。優子は、体の具合を見て、決めよう、と答えた。湊は頷いた。優子は湊を見送った。湊は廊下の角で振り返り、手を振った。優子も手を振った。窓から見るより、近い場所で見送れた。

*

 屋敷の門を出た隆史へ、真鍋から電話があった。

「小野寺さんの調査ですが、母親の名前がわかりました」

 隆史は門柱に手をついた。

「春香さん。小野寺春香さんです。お心当たりが、ありますか」

 門の内側で、湊が手を振っていた。隆史は手を上げた。上げたまま、下ろせなくなった。

「隆史さん?」

「続けてください」

 門が閉まり始めた。湊の姿が、少しずつ細くなった。


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