第三章 父の写真
圭介の母は、父の死んだ日を、父の話をしない日にしていた。命日には花を買う。仏壇を拭く。いつもより少し早く夕食を作る。けれど、父の名前は口にしない。圭介が何か聞こうとすると、食べてからね、と言った。食べ終わると、明日早いでしょう、と言った。子供の頃、圭介はそれを、母が悲しいからだと思っていた。
大人になってから、悲しさだけではないと気づいた。話せば、同じ場所へ戻る。母は毎朝、そこから少しずつ離れるために働いていた。圭介は逆に、戻るために資料を集めた。
父の名は佐伯浩二。工事現場で働いていた。事故の記事は短かった。亡くなった人数と、会社の名前と、工事が一時中断されたこと。記事の最後には、原因を調べている、とあった。原因がわかったという記事は、見つからなかった。
調べている、という言葉は、子供の圭介には約束に見えた。大人の圭介には、そこで記事を終えるための言葉に見えた。母の家の押し入れには、書類が二つの箱に分けられていた。ひとつは、生活に必要なもの。もうひとつは、捨てられないもの。父の資料は、後者に入っていた。
圭介は母に、御影の家で仕事をすると伝えなかった。長期の仕事が入った、とだけ言った。母は、よかったね、と言った。
よかったね。その言葉を聞くために、圭介は何度も、仕事が決まったふりをした。実際にはオーディションの二次に進んだだけでも、仕事が入るかもしれない、と言った。母は、かもしれない、を聞かないふりをして、よかったね、と言った。親子で、同じ芝居をしていた。屋敷に来て一か月目、圭介は写真を売った。
源一郎が庭で湊と将棋を指している写真だった。膝掛けがずれ、源一郎の細い足首が見えていた。圭介はその足首を見て、写真を選び直そうとした。だが、記者はそれがいいと言った。病状が伝わる。記者はそう言った。
圭介は病状を伝えたかったのではない。金が欲しかった。支払いの日が近づいていた。月の報酬は、すぐ全部が使えるわけではなかった。母に送る金も、残しておきたかった。だから売った。父のためだという説明を、あとから付けた。付ければ、金のためだけではなくなる。
だが、写真を撮られた源一郎にも、湊にも、その説明は届かない。届いたところで、二人の時間を売っていい理由にはならない。写真が掲載された朝、湊は新聞を見なかった。源一郎も、何も言わなかった。圭介は二人が知らないのだと思い、安心した。安心した自分を、今になっていちばん恥ずかしく思う。
食卓でその話をすると、美羽は箸を置いた。
「いくらだったの」
圭介は金額を答えた。美羽はしばらく黙っていた。
「安いね」
「そうだな」
「写真じゃなくて、信用が」
圭介は頷いた。沙織は何も言わなかった。湊は食卓の端に座っていた。いつもなら圭介の隣に来るのに、今日は一席空けていた。その一席の幅が、どんな言葉より堪えた。
「ごめん」
圭介は湊に言った。湊は頷かなかった。
「僕、写ってた?」
「写ってた」
「僕の写真も、売ったんだね」
圭介は答えられなかった。源一郎の写真を売った、と言えば、湊を外へ置ける。自分がしたことを、少し小さくできる。湊は、それをさせなかった。
「そうだ」
「湊の写真も売った」
湊は皿を持って立った。沙織が呼び止めようとして、やめた。湊は自分で皿を流しへ運び、階段を上がった。圭介は、空いた椅子を見た。源一郎の席とは違う。いなくなった人の席ではなく、ここにいたくなくなった人の席だった。
*
母の家へ行くと、和子は洗濯物を畳んでいた。
「痩せた?」
「そうかな」
「顔が小さくなった」
「顔は元から小さいよ」
和子は笑った。圭介はその笑いを、いつものように受け取れなかった。父の資料を見せてほしいと言うと、和子の手が止まった。
「また、その話」
「また、じゃない。今度は」
「今度は何」
圭介は答えに詰まった。今度は真実がわかる。そう言いたかった。だが、真実がわかれば、母が楽になるのかはわからない。
「俺、御影源一郎の家にいた」
和子は圭介を見た。
「仕事で」
「何の仕事」
「息子の役」
和子は畳みかけのタオルを膝に置いた。圭介は、母が怒ると思った。泣くかもしれないと思った。どちらでも、謝る準備はしていた。和子はただ、そう、と言った。
「知ってたの」
「テレビに映ってた」
「何で言わなかった」
「言うなら、あんたが言うでしょう」
圭介は床を見た。母は、子供に話せないことを持っていた。子供にも、母に話せないことがあると知っていた。和子は押し入れを開けた。捨てられないものの箱を出した。圭介は、初めて母の許可を得て、その箱を開けた。
*
父が足場から降りるところを、圭介は覚えていた。
一九九九年十月。フェンスの向こうから手を振ると、父は片手を上げた。あと少し、と口が動いた。音までは覚えていない。事故の話を何度も聞くうちに、声だけが、あとから記憶へ入ったのかもしれない。
金属の音は覚えている。何が落ちた音だったのかはわからない。父の姿が消え、人が走った。知らない男の腕が、フェンスを掴んでいた圭介を抱き上げた。
その腕をほどこうとして、爪を立てた。男の顔を覚えていない。父のいる方へ行かせてくれなかった人として、その腕だけが残っていた。
*
五月の夜、圭介は書斎の棚から、一九九九年のファイルを抜いた。報告書の最初の頁には、父の名前がなかった。事故当日の配置図をめくり、担当者の一覧を探した。
「そこには、全部はない」
入口に源一郎がいた。圭介はファイルを閉じたが、棚へ戻すことはできなかった。
「何を探している」
「親父の名前です」
言ってしまうと、老人の顔から目を離せなくなった。
源一郎は椅子に座った。長く歩いた人のように息をした。
「持っていってもいい。なくすな」
「あなたの許可が要るんですか」
源一郎は黙った。
圭介はファイルを開き直した。父の名前を見つけた。小さな字で、作業手順違反の疑い、とあった。そこへ指を置くと、源一郎が少し動いた。何か言うかと思った。言わなかった。
「違うなら、今、言ってください」
「調べる」
父が死んだ翌日の新聞にも、同じ言葉があった。圭介はファイルを抱えて部屋を出た。
*
翌月、源一郎の古い仕事仲間が三人、屋敷へ来た。圭介は外出するつもりだったが、玄関で呼び止められた。
「息子さんですか」
白い眉の男に聞かれ、答える前に、源一郎が頷いた。
「一緒に暮らしている」
圭介は老人の顔を見た。源一郎は茶を飲んだ。嘘をついたのか、本当のことだけを選んだのか、わからなかった。
「立派なお父様だ。何もないところから、あれだけの会社を」
「何もなかったわけでは、ないと思います」
自分でも意外なほど、大きな声が出た。
「建てた人がいたでしょう。現場で」
三人が黙った。源一郎は湯呑みを置いた。廊下で食器を運んでいたタエも止まった。
圭介は、すみません、と言わなかった。帰ってきた息子を演じるのなら、父親に嫌なことを言う息子でもいいはずだった。
客の一人が、現場は大変だったな、と話し始めた。圭介の父の話にはならなかった。圭介は、玄関から出るまで鞄を肩に掛けたままでいた。
*
客が帰ったあと、源一郎は圭介を呼んだ。
「いい台詞だった」
「台詞じゃありません」
源一郎は圭介の肩を見た。鞄の紐が、上着に折り目をつけていた。
「俺が誰か、知ってますね」
「ああ」
「なら、俺が何を聞きたいかも、知ってるでしょう」
「資料を揃えている」
「俺は、二十六年待ってます」
源一郎は何も言わなかった。
廊下の向こうから、陽菜が圭介を呼んだ。湊がゲームを始めると言っている。圭介は返事をしかけて、老人の前で止まった。
「今日のこと、報酬から引いてもいいです」
「引かん」
「息子の役を、やめても?」
源一郎が顔を上げた。
圭介は答えを待たずに廊下へ出た。湊には、今行く、と言った。
*
葬儀から十日後、圭介は沙織と美羽に、父の名前が載った報告書を見せた。
「写真は売ったのに、これは売らなかったの」
美羽に言われ、圭介は紙を揃えた。
「父の名前が、出るから」
「もう、出てるでしょう」
「だからだよ。また、事故の人にしたくなかった」
美羽の指が止まった。沙織は、コピーを取ってもいいか、と聞いた。圭介は頷きかけ、少し待って、と言った。
「母に、先に見せます」
美羽は立ち上がって台所へ行った。圭介は、その背中が怒っているのかどうかわからなかった。
しばらくして、三人分の茶を持って戻ってきた。自分の湯呑みだけは、少し離れたところへ置いた。
*
真鍋が圭介へ見せたのは、送金の一覧だった。一九九九年十一月から、源一郎が亡くなった九月まで。毎月十万円。送金先に、母の名前があった。
「支援団体からだと、聞いてました」
「その団体を通じた資金の出所が、源一郎さんだったようです」
真鍋はそこで説明を止めた。圭介は同じ頁を読み返した。大学の入学金を払った月にも、欄が一つ埋まっている。
「お母様には、いつからご存じだったか、お聞きになりますか」
「俺が、聞きます」
隆史が向かいに座っていた。父親を憎んでいる男へ、自分が父親に育てられた数字を見せられていた。
真鍋は別の資料を出した。小さな録音機だった。
「もう一つ、確かめたいものがあります」
再生された声に、圭介は顔を上げた。食器が鳴り、美羽が、熱いから気をつけて、と言う。六月十七日の夕食だった。
『春香。帰ってきたのか』
隆史の手が止まった。
『隆史は、まだ会社か。今日は早く帰るように言ったんだが』
圭介は機械を見つめた。初めて聞く声ではない。あの夜、隣にいた。湊の録音機から自分のパソコンへ移した音だった。
「どこから、これを」
「週刊誌の記者からです。短い記事と一緒に音声を公開する予定だと、確認が来ました」
真鍋は再生を止めた。
「六月二十日の遺言の、三日前です。ご本人が、そこにいない人に話しかけている。作成時の状態を、確認する必要があります」
「俺は、売ってません」
真鍋が圭介を見た。
「売ろうと思ってコピーしました。でも、送ってません」
「では、ほかに誰が持っていたか、ご存じですか」
圭介は自分の机を思い浮かべた。パソコンを閉じたまま、毎朝、部屋を出ていた。
*
帰る前に、圭介は隆史へ聞いた。
「春香さんって、誰ですか」
「昔、知っていた人だ」
隆史は自分で言って、その言葉を嫌ったような顔をした。
「それだけですか」
「今は、話せない」
圭介は頷いた。自分も、同じ答えをいくつも持っていた。
*
圭介は父の事故を知る人に会った。名前は、資料の中にあった。父と同じ現場で働いていた人だった。圭介が連絡すると、会ってもいい、と答えた。小さな喫茶店で待ち合わせた。その人は圭介を見て、似てないな、と言った。圭介は少し驚いた。
「親父に、ですか」
「浩二に」
父を名前で呼ぶ人に、久しぶりに会った。圭介は資料を机に置いた。その人はすぐには読まなかった。
「何を聞きたい」
「事故のことを」
「事故のことだけか」
圭介は答えに詰まった。父のことを聞きたい、と言えばよかった。けれど、父のことと事故のことを、長いあいだ同じにしていた。
「父のことも」
圭介は言い直した。その人は頷いた。父は弁当を早く食べる人だった。昼休みに、ほかの人が食べているあいだ、子供の写真を見せた。写真は一枚しかないのに、毎回、違う話をした。今日は立った。今日は歩いた。今日は、俺の顔を見て笑った。圭介は聞いていた。自分が立った日のことを、知らなかった。
父がそのことを誰かに話したことも、知らなかった。
「事故の前の日は」
圭介は聞いた。その人はコップを持った。
「普通の日だった」
「何か、変わったことは」
「なかった」
圭介は資料を見た。事故の前の日には、何かがあると思っていた。危険を知らせる言葉。やめておけばよかったこと。父が帰ってこなくなる予兆。普通の日だった。そのことが、いちばん怖かった。
「何もなかったから、次の日も行った」
その人は言った。
「俺も、行った」
圭介は顔を上げた。
「あなたは、助かった」
「そうだ」
その人は頷いた。助かった人が、助かった理由を説明できるとは限らない。圭介はその人を見た。圭介は資料を開いた。
「この記録を、読んでもらえますか」
その人は読んだ。何度か、違う、と言った。違う箇所に、圭介は印を付けた。資料の端には、圭介の知らない人の名もあった。帰り際、その人は圭介へ写真を渡した。父と、現場の仲間が写っていた。
「持っていけ」
「いいんですか」
「俺は、コピーを持ってる」
圭介は写真を受け取った。父は笑っていた。事故の記事に載った写真ではない。仕事の途中の写真だった。圭介は鞄に入れた。父が死んだことを示す資料の隣に、父が生きていたことを示す写真を置いた。
*
屋敷に戻ると、湊が庭で凧を直していた。骨が一本、折れていた。圭介は手伝おうとして、止まった。
「手伝っていいか」
湊は顔を上げた。
「直せるの」
「やってみる」
「壊したら」
「ごめんって言う」
「それだけ?」
圭介は少し考えた。
「直す方法を、また考える」
湊は頷いた。圭介は隣に座った。凧の骨を繋ぐには、細い紙を巻く必要があった。圭介の指では上手く巻けない。湊が紙を巻き、圭介が端を押さえた。二人でないと、できない作業だった。源一郎が凧を揚げた日のことを、湊は話した。隆史の自転車の話もした。圭介は父の写真を見せた。
「この人が、俺の親父」
湊は写真を見た。
「似てないね」
圭介は笑った。
「今日、同じことを言われた」
「笑い方は、似てる」
圭介は写真を見た。自分の笑い方を、自分では知らない。湊は知っていた。圭介は写真をしまった。凧は、まだ飛ばさなかった。糊が乾くまで待つ必要があった。待つことが、今日は、仕事の一部だった。
*
その夜、圭介はパソコンを開かなかった。
録音が持ち出されていた。自分が売ろうとして、売れなかったものが、誰かの手で売られていた。自分は売っていない。そう言えば、少しだけ身が軽くなる。だが、コピーしたのは自分だった。湊の声も、源一郎の声も、自分のものではないのに、自分の机の上に置いた。圭介は湊の部屋の前に立った。扉を叩いた。
「今、いいか」
「よくない」
圭介は手を下ろした。
「わかった」
そのまま戻ろうとすると、扉の向こうから声がした。
「何を言うつもりだったの」
「謝るつもりだった」
「もう謝った」
「録音のことは、まだ」
しばらく音がなかった。圭介は待った。扉が少し開いた。湊は顔を出さず、隙間から聞いた。
「僕が録ったの、何でコピーしたの」
「売ろうと思った」
「何で」
「金が欲しかった」
「おじいちゃんから、もらってたのに」
「それでも、足りないと思った」
湊は黙った。圭介は父の話をしなかった。借金の話もしなかった。どちらも本当だが、今、湊に渡せば、許す理由を子供に探させることになる。
「消す」
「コピーは全部、久住さんに確認してもらって消す」
「もう、誰かが持ってるんでしょう」
「そうだ」
「じゃあ、全部じゃない」
「俺が持ってる分を、全部」
湊は少しだけ扉を開けた。
「僕の分は、消さないで」
「消さない」
「僕のは、僕が決める」
「わかった」
湊は扉を閉めた。圭介は廊下に立っていた。扉の向こうで、小さな鍵の音がした。
*
その週の終わり、和子が屋敷へ来た。圭介は玄関で待った。和子は大きな門を見て、こんなところ、と小さく言った。何の続きを言わなかったのか、圭介にはわかった。こんなところに、父を奪った人が住んでいた。あるいは、こんなところに、息子が半年も住んでいた。
和子は靴を揃えて上がった。タエが迎えた。二人は初対面だったが、長いあいだ同じ時代を生きてきた人の挨拶をした。食卓に座ると、和子は上座を見た。
「ここに座ってたの」
「うん」
「偉そうね」
圭介は少し笑った。
「偉そうだったよ」
「そうでしょうね」
和子は鞄から小さな写真を出した。父が圭介を肩車している写真だった。圭介の手が、父の額を押さえている。父は眩しそうに目を細めていた。
「持ってきた」
「何で」
「ここで、見てもらおうと思って」
沙織と美羽が来た。和子は二人に写真を見せた。
「浩二です」
父の名前を、母が口にした。圭介は息を止めた。母は写真の中の父を見ていた。
「圭介が役者になりたいって言ったとき、反対したの。安定した仕事をしてほしかったから」
和子は圭介を見た。
「でも、この人は、人を笑わせるのが好きだった」
圭介は写真を受け取った。
「俺、覚えてない」
「覚えてなくていい。私が覚えてる」
「だから、あんたが全部、取り返さなくていいの」
圭介は写真を机に置いた。父の死を調べることを、父を取り返すことだと思っていた。死んだ理由がわかっても、生きていた父は戻らない。生きていた父は、母の中にも、写真の中にも、圭介が覚えていない時間の中にもいた。それを、事故の資料だけに閉じ込めていた。
圭介は母に、資料を公開したいと話した。自分の恨みのためではなく、同じことが繰り返されないように。和子はすぐには頷かなかった。
「私も、読んでから決める」
「わかった」
圭介は答えた。帰り際、和子は湊に会った。
「圭介が、迷惑をかけたんですってね」
湊は圭介を見た。
「かけた」
和子は頷いた。
「ごめんなさい」
「お母さんは、してない」
湊は言った。和子は少し驚き、それから、そうね、と答えた。圭介は玄関まで母を送った。母が門の外へ出るまで、そこにいた。父の背中を覚えていない圭介は、母の背中を、今夜は覚えておこうと思った。




