第二章 来なかった客
葬儀の翌日、沙織は衣装箱を開けた。妻の役に使った服は、三着だけだった。依頼主の希望で揃えたものではない。自分の家から持ってきた、皺になりにくい服だった。生活を演じるには、毎朝アイロンを掛ける女を演じるより、アイロンを掛けなくてもいい服を選ぶ女を演じる方が容易い。
箱の底には、舞台の写真が一枚あった。舞台そのものの写真ではない。公演が中止になった日の、客席の写真だ。沙織は受付の机から借りたカメラで撮った。最前列の真ん中に、一枚の紙が置かれている。御影様ご予約席。手書きだった。その席には誰も座らなかった。
初日が来なかったのだから、誰も座らなくて当然だった。それでも沙織は長いあいだ、そこに源一郎が来なかったことだけを思い出した。来ると約束した人が来ない。それが、劇場の売却や公演の中止より、自分の中では大きかった。そういう自分が嫌だった。
劇団には二十三人いた。皆、失った。皆、次の日の仕事を探した。沙織だけが、空席の写真を持ち続けた。写真を捨てなかったことを、復讐の準備だと思っていた時期もある。けれど、写真は武器にならない。そこに写っているのは、何もしていない椅子だけだった。扉が叩かれた。久住が、源一郎の書類を持って立っていた。
「今夜のことですが」
「隆史さんも、いらっしゃるのね」
「はい」
「昨日の言い方を、謝るつもりかしら」
久住は返事をしなかった。期待させない人だった。長いあいだ源一郎のそばにいて、期待させないという仕事を覚えたのかもしれない。
「私たちは、いつ出ていけばいいの」
「それは、今夜の説明をお聞きになってから」
「家まで、契約に入っていた?」
「住居の提供は、報酬とは別です」
「そういう意味ではないの」
沙織は写真を箱に戻した。久住は見ないようにした。見ないようにする仕草で、見たことがわかった。
「源一郎さんは、最後まで説明を後回しにしたのね」
「申し訳ありません」
「あなたが謝ることではないわ」
沙織は言った。謝るべき人がいなくなると、残った人が謝る。その仕組みが、どうにも嫌だった。夜、四人は食卓に集まった。陽菜はタエの部屋で絵を描いていた。源一郎の席には、今朝と同じように何もなかった。
隆史は真鍋という弁護士を伴って来た。昨日の濡れたコートではなく、濃い色の背広を着ていた。座る場所を迷い、上座ではなく、入口に近い椅子を選んだ。源一郎の席を避けた。沙織はそのことに気づいたが、言わなかった。
久住は書類を広げた。源一郎の資産は、およそ三百億円。現金だけではない。会社の持分、土地、建物、長い年月をかけて積み上げたものの評価額だった。隆史に総資産の半分、残りを四人に等分して遺贈する旨が記されていた。個々の財産の配分は別紙にあり、屋敷は四人へ残される。会社の経営を自動的に引き継ぐという内容ではなかった。沙織は数字より、そこに自分の本名が書かれていることに驚いた。妻の役の名前ではない。劇場を失ってから、履歴書に何度も書いた名前だった。
源一郎は、その名前を知っていた。当然だ。契約書に書いてある。それでも、自分が演じた名前の下に本名が置かれると、見てはいけないものを見られた気がした。
「契約の報酬とは別です」
久住が言った。
「契約に、遺言の話はありませんでした」
沙織は答えた。
「そのとおりです」
「では、私たちが受け取ると決めたことも、まだないわね」
久住は頷いた。圭介が沙織を見た。美羽は書類に触れなかった。湊は膝の上で両手を組んでいた。隆史が口を開いた。
「金で集めた人間に、金を残す。俺には金を、あんたたちには、この家を」
「その言い方は」
圭介が言いかけた。
「事実だろう」
圭介は黙った。沙織は隆史を見た。源一郎に似ている。目や鼻ではない。自分の言葉が相手に何をするか、確かめずに言い切るところだった。
「事実です」
「私たちは、お金をいただいて、ここへ来ました」
隆史が少し顎を上げた。
「ただ、ここで起きたことを、あなたはまだ知らない」
「知る必要があるか」
「財産をどう分けるかだけなら、ないかもしれません」
沙織は書類を閉じた。
「でも、お父様のことを知りたいなら、あると思います」
隆史は目を逸らした。真鍋が、その間を埋めるように話し始めた。遺言の内容について確認したい。作成時の状況も確かめたい。皆さんに順番に話を聞かせてほしい。沙織は頷いた。自分がこの家に来た理由を、いつか話さなくてはいけないと思っていた。相手が源一郎でなくなっただけだった。
*
翌週、真鍋の事務所へ行く前に、沙織は昔の劇団員へ電話を掛けた。番号は、三度変わっていた。年賀状の住所を辿り、ようやく繋がった。受付をしていた律子は、今は小さな文具店を手伝っていると言った。沙織の声を聞いて、最初に、まだその話、と笑った。
「まだ、なのよ」
「テレビで見た。あの人のお葬式」
「見たのね」
「奥さんみたいな人が、沙織に似てると思った」
「私だった」
電話の向こうが静かになった。
「仕事よ」
沙織は付け加えた。仕事という言葉は便利だった。説明を始める前に、相手の想像を止められる。
「何の仕事」
「妻の役」
律子は笑わなかった。
「大変だったね」
沙織は窓を見た。大変だったね。その言葉は、三十四年前にも言われた。劇場の荷物を運び出す日、律子は受付の机を一緒に持ってくれた。沙織は、あの日の律子の手を思い出した。指の腹に、小さな傷があった。
「あなたは、あの人を恨んでる?」
「恨んでたよ」
「今は」
「今は、腰が痛い」
沙織は少し笑った。
「真面目に聞いてるの」
「真面目に答えてる。恨むのにも、体力がいるでしょう」
律子は言った。
「沙織が覚えててくれたなら、私の分まで覚えてたってことで、いいよ」
「よくないわ」
「じゃあ、私の分は返して」
沙織は黙った。
「自分の分だけ持ってればいいよ」
電話が切れたあと、沙織は長く受話器を見ていた。皆の時間を奪った男。その言葉で、沙織は自分の恨みを大きくしてきた。大きくすれば、自分ひとりの小さな失望ではなくなる。けれど、皆の時間は、皆のものだった。律子の分を返す。どうすれば返せるのかわからなかったが、その言葉を鞄に入れるように覚えた。
*
一九九二年、白鳥座の劇場には、客席の後ろに一本だけ太い柱があった。その横に座る男を、沙織は稽古のたびに見つけた。舞台の上からでは顔が半分しか見えない。終わると、男はもういなかった。
ある夜、沙織は途中で台詞を止めた。
「大家さんでも、非公開の稽古は見ないでください」
源一郎は新聞を畳んだ。芝居を見に来て新聞を読むのも、この男の癖だった。
「家賃を取りに来た」
「三か月分、客席で待っても出ませんよ」
初めて、男が声を上げて笑った。
「次は、お前が主役か」
「『帰り道』。初めてです」
「いい席を空けておけ」
「チケット代はいただきます」
沙織はそう言って稽古に戻った。背中が熱かった。照明のせいだと思うことにした。
予約の紙を自分で書いた。御影様ご予約席。様の字を一度書き直した。初日まで三日という日に、その紙だけが、使う予定のなくなった客席に残った。
*
真鍋の事務所は、受付だけが明るかった。会議室には窓がなく、卓上の録音機の赤い光が沙織の目についた。
「録音してよろしいですか」
真鍋が聞いた。沙織が頷いてから、ボタンを押した。
「源一郎さんを、以前からご存じだった」
「劇場の大家でした」
「売却を決めた人でもある」
「ええ」
「その人の妻を演じるのは、つらくなかったですか」
責める質問だと思っていたので、沙織は少し困った。つらかったと言えば、自分から選んだことが説明しにくい。
「顔を見たかったんです」
「謝ってもらうために?」
「死ぬと聞いたので。どんな顔をしているのかと」
真鍋のペンが動いた。隆史は沙織を見ずに聞いていた。
「会って、どうでした」
沙織は膝の上で指を組んだ。
「腹が立ちました。私のことを、覚えていたから」
*
屋敷に来た最初の夜、沙織は源一郎へ紅茶を運んだ。誰かに命じられたわけではない。妻の役なら、このくらいはするのだろうと思った。
「いつ、本名を言う」
源一郎がカップを受け取らずに聞いた。
「本名と過去を口にするなと、お決めになったのは、あなたです」
「白鳥座」
湯気が二人のあいだを上がった。
「初日の席を空けておけと、言ったな」
沙織はカップを置いた。受け皿が鳴った。
「三十四年もたってから、来たことにしないで」
「来たことには、ならん」
「わかっているなら、どうして呼んだんですか」
源一郎は答えなかった。沙織は、老人の返事を待つ時間まで、自分が用意しなければならないことに苛立った。
「契約は守ります。妻の役もします。でも、あなたを許すために来たんじゃありません」
廊下へ出てから、持ってきた盆を置き忘れたことに気づいた。取りに戻るのが嫌で、そのまま部屋へ帰った。翌朝、盆は台所に洗って伏せられていた。誰が洗ったのか、聞かなかった。
*
その朝、美羽は卵焼きを焦がしかけていた。沙織が火を弱めると、ありがとうございます、と小さな声がした。
「寝てないんですか」
「枕が変わると、駄目なの」
嘘だった。美羽は、そうですか、とだけ言った。
「陽菜ちゃんは」
「ぐっすり。私ばっかり心配して、馬鹿みたいです」
沙織は卵の端を巻き込んだ。菜箸の先に、焦げたところが残った。
「こっちは、取っておきましょう」
「捨てなくても食べますよ。私が」
「私も、端が好き」
二人分の小皿を出した。食卓へ持っていく前に、立ったまま一切れずつ食べた。
*
五月の夕方、庭で薔薇の枝を結んでいると、源一郎が来た。
「劇場を、買い戻そうとした」
沙織は手を止めた。
「もう、ないわ」
「知っている。土地は戻せても、お前がいた舞台は戻らない」
沙織は薔薇の枝を結び直した。
「私の舞台は、あなたが決めるものではないの」
源一郎は頷いた。小さな公演をすることになったのは、梅雨の終わりだった。源一郎が言い出したのではない。湊が、沙織の芝居を見たいと言った。沙織は最初、昔の話よ、と答えた。昔の話だから見たい、と湊は言った。
昔の自分を、今の体で演じることはできない。二十一歳の沙織には、五十五歳の沙織の声はない。五十五歳の沙織には、二十一歳の沙織が知らなかったことがある。沙織は古い台本を持ってきた。白鳥座の座付き作家が書いた、短い芝居だった。題名は『帰り道』。家へ帰る人と、帰らない人が、駅のベンチで話す。
源一郎は台本を見て、中止になった公演のものか、と聞いた。
「ええ。ただし、今の私たちにできるように直します」
源一郎は頷いた。沙織は、昔の自分へ戻るためには演じたくなかった。稽古は食卓を片づけてから始めた。圭介が相手役をした。湊は台本を持って、台詞が抜けると教えた。美羽は陽菜と客席の椅子を並べた。タエが照明をどうするかと聞いた。源一郎は業者を呼ぼうとした。沙織は断った。
「ここにある灯りで、できるわ」
「足りるのか」
「足りないところを、演じるの」
源一郎は黙った。金で足りないものを埋める人だった。足りないまま、何かを始めることに慣れていない。圭介は稽古の途中で何度も笑った。沙織の声が変わるのが面白いと言った。
「いつもの声と、違う」
「いつもの声も、仕事の声かもしれないわよ」
「じゃあ、本当の声は」
沙織は少し考えた。
「喉が痛いときの声かしら」
圭介は笑った。湊も笑った。源一郎は少し離れた椅子で聞いていた。沙織は源一郎を見ないようにした。見れば、見ているかどうかを確かめたくなる。三十四年前と同じになる。公演の日、客席は六つだった。源一郎、湊、美羽、陽菜、タエ、久住。源一郎は最前列へ座ろうとした。沙織は、そこは陽菜ちゃんの席、と言った。
源一郎は後ろへ移った。誰かに席を譲る源一郎を、沙織は初めて見た。芝居は二十分だった。途中で陽菜が話しかけた。美羽が静かに、と言った。沙織は台詞の中で、待っててね、と答えた。台本にはない言葉だった。圭介は一瞬、驚いたが、続けた。終わると、湊が大きく拍手した。源一郎も拍手した。沙織は頭を下げた。
源一郎の拍手だけを聞かないようにした。六人分の拍手を聞いた。それでも、源一郎が拍手したことを、覚えてしまった。公演のあと、源一郎は何も言わなかった。沙織は感想を聞かなかった。翌朝、食卓に一枚の紙があった。よかった。源一郎の字だった。沙織は紙を持ち上げた。
よかった、だけでは足りないと思った。何がよかったのか。誰がよかったのか。どの台詞が届いたのか。役者なら、聞きたくなる。けれど、紙の裏には、別の言葉があった。遅くなった。沙織はその紙を、衣装箱へ入れた。紙は小さく、衣装の下へすぐに隠れた。
*
真鍋の前で公演の話をすると、沙織はあの紙を出さなかった。源一郎が判断できていたことを示すために、よかった、という言葉を使えるのかもしれない。けれど、源一郎が書いた言葉を、勝つための紙にしたくなかった。久住は、必要なら後で確認します、と言った。沙織は頷いた。自分が持っているものを、今、全部出さなくてもいい。
源一郎の家にいた半年は、説明するためだけの時間ではない。沙織は鞄の口を閉じた。
*
「あの人と二人で、舞台をやり直したわけではありません」
「私は圭介さんと演じました。湊くんが台詞を見て、美羽さんが椅子を並べてくれた。あの人は、見に来た人です」
「そのあと、源一郎さんへのお気持ちは変わりましたか」
真鍋の質問に、沙織はすぐ答えられなかった。
「次の日、感想を聞きたくなりました。それが嫌でした」
隆史が初めて沙織を見た。
「まだ、あの人の感想が欲しかったんです」
沙織は鞄を持って立ち上がった。久住が、今日はここまでにしましょう、と言った。
*
その日、圭介の携帯に週刊誌の記者から連絡が来た。
〈御影家の内部写真、追加で買います。前回と同じ五十万で〉
圭介は返信欄を開き、そのまま閉じた。母からの電話にも出なかった。
*
真鍋の事務所を出たとき、外は明るかった。会議室に窓がなかったため、沙織は夕方になったような気がしていた。久住が車を呼ぼうとした。
「少し歩きます」
沙織は断った。隆史が、入口の階段に立っていた。
「白鳥座は、もうないんですね」
「ええ」
「跡地には」
「別の建物が建っています」
「親父の会社の」
「今は、違う会社のものよ」
隆史は頷いた。恨みの相手と土地の持ち主が、いつまでも同じではない。そのことを、沙織は何年もかけて知った。街は、人の恨みを待たずに変わる。
「父は、舞台が好きだったんですか」
「好きだったと思う」
「知らなかった」
沙織は隆史を見た。
「私の知らない源一郎さんを、あなたは知っているでしょう」
隆史は返事をしなかった。
「親父のことを、知ってるんですね」
「知らないことの方が多いわ」
「半年、一緒にいたのに」
「二十年、一緒にいても、知らないことはあるでしょう」
隆史は返事をしなかった。沙織は歩き始めた。隆史はついてこなかった。駅へ向かう途中、古い劇場のあった通りへ寄った。道順は体が覚えていた。角の煙草屋はなくなり、代わりに小さな薬局があった。劇場のあった場所には、白い外壁の建物が立っていた。沙織はその前に立った。ここに舞台があった。
入口から六歩で受付、さらに十歩で客席。舞台袖は狭く、二人がすれ違うと肩が触れた。冬は足元から冷えた。夏は客席の熱が舞台まで届いた。何もないように見える場所に、全部あった。白い建物の入口から若い人が出てきた。沙織を見て、何かお探しですか、と聞いた。
「昔、ここに劇場があったの」
「そうなんですか」
知らないことを、悪いことのように言わない人だった。
「どんな劇場でした」
沙織は少し考えた。
「小さくて、寒くて、よく雨漏りした」
若い人は笑った。
「大変ですね」
「ええ。でも、いい劇場だった」
口にすると、少し違った。いい劇場だった、だけでは足りない。よくないこともあった。演出家は怒鳴った。金が足りず、出演者が受付もした。客が十人しか来ない日もあった。それでも、そこへ戻りたいと思った。沙織は若い人に礼を言い、通りを離れた。帰宅すると、湊が玄関にいた。
「おばあちゃん、遅かったね」
「寄り道したの」
「どこに」
「昔の劇場」
湊は目を上げた。
「まだあるの」
「ないわ」
「ないところに行ったの」
「そう」
湊は少し考えた。
「おじいちゃんも、ない家に行きたいって言ってた」
沙織は靴を脱ぐ手を止めた。
「島の家ね」
「うん」
湊は沙織の鞄を持とうとした。沙織は自分で持った。食卓には、圭介と美羽がいた。圭介が何か言いかけて、やめた。美羽は沙織の顔を見て、卵焼きを皿へ移した。源一郎のいない家で、皆が互いの顔を読むようになっていた。
「話してきたわ」
沙織は座った。
「私が、あの人を恨んでいたこと」
圭介は箸を置いた。
「俺も、話さないといけないことがある」
沙織は頷いた。沙織は湊の皿に、卵焼きを一切れ置いた。
「食べながらでいい?」
圭介は少し笑った。
「その方が、助かります」
上座の椅子は、まだ空いていた。沙織はその空席を見た。劇場の空席とは違う。誰かが来なかった席ではなく、誰かがいた席だった。その違いを、沙織は今夜、初めて考えた。




