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家族を演じる人々  作者: ぽむぽむ


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第一章 空いている椅子

家族のふりをしてください。


 それは、余命を告げられた一人の老人からの依頼だった。妻、長男、長女、孫。それぞれの役を引き受けた人々は、見知らぬ屋敷で、同じ食卓を囲み始める。


 名前の呼び方も、座る場所も、まだぎこちない。笑うところで笑い、求められた言葉を返す。けれど、誰かの帰りが遅ければ時計が気になり、残された料理を見れば、食べられなかった理由を考えるようになる。


 どこまでが仕事で、どこからが自分の気持ちなのか。その境目を確かめる間もなく、日々は過ぎていく。


 この家には、まだ話されていないことがある。


 それでも今夜は、温かいうちに食べよう。向かいの椅子に、誰かが座っているうちに。

人が死んだ家にも、朝は来る。美羽は台所の窓を開けた。昨日まで門の前に立っていた人たちの姿はなく、濡れた石畳に、誰かの落とした透明な傘だけが残っていた。傘の骨は一本折れている。持ち主が戻ってくる気はしなかった。

 冷蔵庫の扉には、陽菜の描いた絵が磁石で留められていた。黄色い屋根の下に、大きさの違う人間が六人。ひとりだけ頭の上に丸がある。髪の毛なのか、帽子なのか、陽菜に聞いても、そのときによって答えが変わった。美羽は卵を五つ出して、ひとつ戻した。戻してから、もうひとつ戻した。

 源一郎は卵を食べなかった。最後の一か月は、ほとんど何も食べられなかった。それでも美羽は毎朝、人数を数えるときに彼を入れていた。食べる人ではなく、いる人を数えていたのだと、いなくなって初めてわかった。背後で椅子を引く音がした。湊が制服のまま座っていた。まだ六時だった。机の上に、小さな録音機を置いている。

「学校は」

「午後から」

「今日は休んでいいんじゃない」

「休む理由、何て書けばいいの」

 美羽は卵を割った。殻のかけらがボウルに落ちた。指で追いかけると逃げた。湊の学校に提出する書類には、源一郎との関係を何と書いてあるのだろう。祖父。雇用主。同居人。どれも、正しくて間違っていた。

「家の用事でいいよ」

「家って、ここ?」

 美羽は答えず、ようやく殻をつまみ出した。湊もそれ以上は聞かなかった。廊下から沙織が入ってきた。喪服ではなかった。灰色のカーディガンを羽織り、髪をいつもより低い位置でまとめている。口紅を塗っていないせいか、昨日より年上に見えた。

「お茶、淹れるわね」

 美羽は頷いた。沙織が棚から急須を取る。湯呑みを五つ並べて、しばらく見つめたあと、ひとつを棚へ戻した。その動作を、三人とも見なかったことにした。圭介が来たのは七時を過ぎてからだった。寝癖のついた髪を手で押さえ、何か言おうとして、やめた。いつもなら、朝から暗い顔してると爺さんに怒られるぞ、とでも言うところだった。

 爺さんは、もう怒らない。食卓の上座には、何も置かれていなかった。昨夜、タエが遺影を運ぼうとしたとき、沙織が止めた。写真を置いてしまうと、その席は永久に人の座れない場所になる気がした。四人は、空いた椅子を避けるように座った。

「陽菜は」

 圭介が聞いた。

「寝てる」

「昨日、遅かったもんな」

「お葬式のこと、まだわかってないみたい」

「わからなくていいよ」

 圭介はそう言って、卵焼きに箸を伸ばした。端が少し焦げている。

「これ、爺さん好きだったよな」

「食べてないよ」

「匂いが好きだった」

 美羽は圭介を見た。匂いが好きだった。そんなことを、源一郎はいつ言ったのだろう。自分の知らない源一郎を圭介が知っている。それが少し悔しく、少し安心でもあった。湊が録音機のボタンを押した。食器の触れ合う音がして、源一郎の声が流れた。

『焦げているぞ』

 美羽の指が止まった。

『焦げてないです。焼き目』

 録音の中の自分が答えた。今よりずっと尖った声だった。

『わしは焦げていると言った。まずいとは言っていない』

 誰かが笑った。圭介だった。続いて陽菜が、こげてる、こげてる、と歌うように繰り返した。湊はそこで止めた。

「ごめん」

 誰に向けた言葉なのか、美羽にはわからなかった。

「消さないで」

 自分の声が思ったより強く出た。湊は録音機を両手で包んだ。

「消さないよ」

 食卓の向こうで、沙織が目を閉じていた。昨日の葬儀では、泣かなかった人だ。美羽は昨日のことを思い出した。祭壇の前に立った男。濡れたコート。焼香もせずに四人を見下ろした目。妻。長男。長女。孫。

 役名を順番に呼ばれたとき、美羽は舞台の袖に立たされたような気がした。ここまで演じてきたものが、照明を消した瞬間、ただの衣装になる。あの男は源一郎の息子だった。そして、美羽がこの家に来た理由でもあった。

 誰にも話していない。話すつもりもなかった。理由を言ってしまえば、この半年の全部が、その理由のためだったことになる。陽菜の熱が下がった朝も、源一郎の毛布を掛け直した夜も、説明のつく行動に変わってしまう。美羽はそれが嫌だった。玄関の呼び鈴が鳴った。

 タエが応対に出る。少しして、久住が入ってきた。いつもと同じ紺の背広を着ていたが、手に持った鞄が、いつもより重そうだった。

「朝のお時間に申し訳ありません」

 誰も、どうぞ、と言わなかった。久住は立ったまま食卓を見た。上座の椅子を見て、ほんの少しだけ顎を引いた。

「今夜、皆さんにお話しすることがあります」

「契約の終了手続きですか」

 沙織が聞いた。

「それもあります」

「それも、って」

 圭介が箸を置いた。

「旦那様がお預けになった書類です。隆史さんにもお越しいただきます」

 美羽は椅子の背を掴んだ。久住の目が、一瞬、美羽の手に向いた。

「皆さんは、今夜もここにいらっしゃいますね」

 質問の形をしていたが、返事を待つ声ではなかった。

「荷物はまだ片づけていません」

 沙織が答えた。

「そうですか」

 久住は小さく頭を下げた。美羽はその仕草に、源一郎の癖を見た。質問をして、相手の返事を自分の都合のいい意味に受け取る。ここにいる、と誰も言っていないのに、今夜ここにいることになった。六か月前も、同じだった。美羽は、まだ温かい卵焼きを見下ろした。ここに来た最初の日には、誰も同じ皿から食べようとしなかった。

*

 三月の初め、美羽は雑居ビルの階段を、陽菜の手を引いて上がった。三階まで上がるあいだに、陽菜は二度、帰りたいと言った。一階のパン屋から甘い匂いがしたからだった。美羽は帰りに買おうね、と答えた。財布には千二百円しかなかった。買うなら一個を半分にする。帰りに、と言えば、今すぐ買わなくて済む。

 扉には、ファミリア、と小さく書いてあった。家族代行サービス。その言葉を初めて見たとき、美羽は、便利な世の中になった、とは思わなかった。家族まで買わなくてはいけない人がいるのかと思った。自分には買う金も、売る家族もない。ただ、家族のふりをすることなら、できるかもしれなかった。

 桐谷礼子は、扉を開ける前から二人を待っていたように立ち上がった。

「お疲れさまでした。階段、大変でしたね」

 陽菜に目線を合わせ、机の引き出しから折り紙を出した。子供が来ると知っていたのだ。美羽は電話で陽菜の年齢まで話しただろうか、と考えた。

「お茶でいいですか」

「結構です。時間がないので」

 実際には、時間だけはあった。昨日、勤めていた店のシフトを減らされた。保育園の迎えに間に合わない時間帯しか人が要らないと言われた。時間がない、は、長く話したくないときの言い方だった。桐谷は気を悪くした様子もなく、書類を一枚出した。

「半年間、住み込みです」

「電話では、家族の代わりって」

「長女の役です」

「住み込みは無理です。この子がいるので」

「お嬢さんも一緒で構いません」

 陽菜が黄色い折り紙を広げた。美羽は書類から目を上げた。

「子供まで、働かせるんですか」

「いいえ。お嬢さんには何も求めません。お母さんと一緒に暮らしていただくだけです」

「それ、何が違うんですか」

 桐谷は答えるまでに一拍置いた。その間を、美羽は覚えておこうと思った。

「違いが曖昧にならないように、契約に書きます」

 少なくとも、気にしすぎです、と笑う人ではなかった。美羽は椅子に座り直した。

「報酬は月額百万円。生活費は依頼主の負担です」

 美羽は数字を見た。百万。六か月で六百万。保育園の延長料金を払うために、レジの前で牛乳を戻したことがある。百万という数字は、そういう生活の延長にはなかった。美羽は数字のあとに続く条件を探した。

「何をするんですか」

「食事を一緒にする。話し相手になる。家族として暮らす。それだけです」

「それだけで、百万」

「それだけ、が難しいのだと思います」

 桐谷の声は静かだった。美羽は依頼主の名前を読んだ。御影源一郎。何度も検索窓に打ち込んだ名前だった。母の日記を読み終えた夜から、その名前だけは、忘れようとしても忘れられなかった。写真で見た顔を思い出した。大きな建物の前で、鋏を持って笑っていた。隣に立つ人たちが、全員、その人の方へ体を傾けていた。

 美羽の知る母は、写真を撮るとき、いつも少し首を傾げた。人の隣に立つことを遠慮しているような癖だった。母の名前と、この男の名前が、同じページに書かれていた。

「ご存じですか」

 桐谷が聞いた。

「有名な人ですよね」

「はい」

 桐谷はそれ以上聞かなかった。美羽は書類を裏返した。裏には何もなかった。何もないことを確かめたかった。

「断ったら」

「もちろん、ご自由です」

「今、決めなくても」

「構いません」

 美羽は陽菜を見た。黄色い紙を半分に折り、もう半分に折っている。何を作るつもりなのか、本人にもわかっていないようだった。

「ママ、おうち」

 陽菜は折り紙を立てた。屋根のない、黄色い四角だった。美羽は書類を表に戻した。

「やります」

 桐谷が息を吐いた。その息の長さを、美羽は後になって思い出すことになる。

*

 沙織は、同じ椅子に三日前に座っていた。依頼主の名前を見ても、指を止めなかった。止めなかったことが、かえって不自然だったと、事務所を出てから思った。女優をやめて三十四年になる。けれど、自分が何を隠しているかは、隠そうとする動作の中に出る。そのことだけは、忘れなかった。

「ご指名です」

 桐谷が言った。

「私を?」

「舞台の経験がある方を、と」

「経験なら、もっと若い人にもあるでしょう」

「長く生きてこられた方を、お望みでした」

「便利な言い方ね」

 沙織は笑った。若くない、と言わずに済ませるための言葉だった。悪意はない。悪意のない言葉の方が、時々、正確に刺さる。源一郎は八十二歳。余命半年。数字を並べれば、物語になる。昔、若い女優のために席を予約した男が、死ぬ前にその女優を呼び戻す。遅れて届いた拍手。最後の舞台。沙織は、そんな物語にされるのが嫌だった。

 あのとき劇場を失ったのは、沙織だけではない。照明を組んでいた人、受付をしていた人、仕事を休んで稽古に来ていた人。誰の名前も新聞には載らなかった。土地の売却額だけが、正確に記録された。御影源一郎は、人の時間を、土地の値段に変えた男だった。

「妻の役です」

「戸籍に入るわけじゃないのね」

「もちろんです」

「では、妻というより、相手役ね」

 桐谷は少し困った顔をした。沙織は契約書を受け取った。紙の端が、きれいに揃っている。舞台の台本は、もっと汚れていた。誰かの鉛筆、消しゴムのかす、飲み物の輪染み。人の手を通るたびに、紙は同じ紙でなくなった。この紙には、まだ誰も生きていない。

「お受けします」

 言ってから、沙織は自分が少し笑っていることに気づいた。源一郎の顔を見たかった。会いたい、とは違う。その違いを、自分にだけは間違えずにいたかった。

*

 圭介は、借金の額を言われたところで、笑うのをやめた。

「八百万」

 桐谷は責める声ではなかった。それが余計に嫌だった。数字が事務的に机に置かれると、言い訳をする場所がなくなる。

「元金は、少し返しました」

「どのくらい」

「十二万」

 桐谷は何も言わなかった。圭介は膝の上で手を組んだ。オーディションで、待ち時間が長くなったときの姿勢だった。背筋を伸ばしていれば、まだ落ちていないように見える。

「長男の役ですね」

「はい」

「役柄の資料は」

「年齢はあなたと同じ。少し頼りないけれど、根は優しい人です」

「少し、なら難しいですね」

 桐谷が笑った。笑わせたことで、圭介は一息つけた。相手が笑えば、その数秒だけは、自分が何を抱えているか見なくて済む。

「依頼主は、御影源一郎さんです」

 圭介は書類を見た。名前の上に、見えないものが重なった。古い新聞の切り抜き。母の押し入れの箱。何度も折られて、折り目のところだけ文字が薄くなった紙。御影。母はその二文字を口にするとき、声を少し低くした。

「お受けいただけますか」

「はい」

 返事は早かった。桐谷はペンを差し出した。圭介は署名欄に佐伯と書き、いったん止めた。

「屋敷では、御影圭介と名乗っていただきます」

「ここには本名でいいんですよね」

「はい。契約は本名です」

 圭介は続きを書いた。佐伯圭介。父が付けた名前だと、母は言っていた。どういう意味なのか聞くと、響きがよかったのよ、と笑った。意味がないわけではなく、父に聞かないとわからないのだろうと思った。父には、もう聞けない。圭介はペンを返した。

「いつからですか」

 声が役者の声になっていた。自分でわかった。感情を消すのではなく、使える大きさに畳む。それが仕事だった。

*

 湊は、同意書を透明な袋に入れて持ってきた。雨が降るかもしれないと、母が言ったからだった。空は晴れていた。けれど、母のいる病室からは、空の一部しか見えない。

「お母さんは」

「病院です」

「今日は、おひとりで」

「駅からの道、調べてきました」

 桐谷は頷いた。褒めなかった。湊はそのことを、少しありがたく思った。ひとりで来られて偉いね、と言われると、ひとりで来たくなかったことを、どこにも置けなくなる。

「学校と、お母さんのお見舞いが先です。役をする時間は放課後と休日のうち、契約に書いた範囲だけ。夜は仕事ではありません」

「孫の役って、仕事じゃない時間も孫なんですか」

 桐谷は紙を見た。

「そこは、これから一緒に考えましょう」

 大人にも答えられないことがあるのだと、湊は思った。

「台本はありますか」

「ありません」

「ないんですか」

「依頼主の希望です」

 湊は鞄の中の台本に触れた。児童劇団の公演用だった。台詞の横に、先生が、ここは寂しく、と書いていた。寂しく、と書いてあれば、寂しい声を出せる。何も書いていないところでは、どんな声を出せばいいのかわからない。

「おじいちゃんに甘えてほしいそうです」

「どのくらい」

「どのくらい、というのは」

「ずっと甘えてたら、疲れると思うので」

 桐谷はしばらく湊を見ていた。湊は自分の言い方が変だったのかと思い、膝を揃えた。

「疲れたら、そう言っていいのよ」

 誰が、と湊は思った。おじいちゃんが疲れたら。自分が疲れたら。両方ならいいと思った。

*

 三月十五日、御影邸の門は、開くのに時間がかかった。圭介は、こんなにゆっくり開く門を初めて見た。急いでいる人が入ることを想定していないのだろう。荷物を置き直すあいだに、門の向こうの庭が少しずつ広がった。砂利の道が曲がっている。玄関まで真っすぐではない。家が大きいことより、その曲がり方に金がかかっている気がした。

 美羽が陽菜の手を握り直した。

「走らないで」

「走ってないよ」

「これからも」

 陽菜は不満そうに口を尖らせた。沙織は門柱の表札を見ていた。湊は、門が閉まるところを見ていた。四人は事務所で一度顔を合わせていた。桐谷が、それぞれの役を紹介した。妻、長男、長女、孫。自己紹介をしようとすると、桐谷は、詳しいお話は後ほど、と言った。後ほどは、来なかった。玄関でタエが待っていた。

「篠原でございます」

 名前を言う前に、四人の靴を見た。雨は降っていなかったが、湊の靴の縁には乾いた泥がついていた。タエは小さな布を出し、何も言わずに手渡した。圭介は、何も言わない方が人を困らせることもあるのだと知った。ホールには階段が二つあった。

「すげえ」

 声に出てしまった。美羽が横目で見た。圭介は、何も触ってないよ、と両手を上げた。

「お部屋へご案内する前に、旦那様がお会いになります」

 タエは四人を順番に見た。

「奥様。圭介様。美羽様。湊様」

 圭介は、様、と呼ばれるのが落ち着かなかった。劇場では、出演者も裏方も名字にさんだった。様を付けられると、足の置き方まで決められた気がする。

「陽菜ちゃん」

 タエが最後に呼んだ。陽菜は顔を上げた。

「こんにちは」

「こんにちは」

 タエの声が、そこだけ少し違った。二階から、杖の音がした。源一郎は階段の上に立っていた。写真より小さかった。写真ではいつも背広を着ていたが、今日は薄い茶色の上着だった。肩の線が、体より外にあった。圭介は、その肩を見た。こんなに小さな体で、人の暮らしを変えられるのか。

 源一郎は一段ずつ降りた。誰も動かなかった。手を貸すべきなのか、貸すと怒られるのか、まだわからなかった。最後の段で、杖の先が滑った。湊が動いた。

「危ない」

 両手で源一郎の腕を掴んだ。源一郎はその手に体重を預けなかった。杖を置き直し、ゆっくり床に足を下ろした。

「おじいちゃん」

 湊は少し遅れて言った。役名を思い出したような遅れだった。

「合格だ」

 源一郎は言った。湊は笑わなかった。圭介はそのことを覚えていた。自分なら笑っただろう。相手が喜ぶ顔を、反射的に作ったはずだった。源一郎は四人を見回した。

「決まりは三つだ」

 沙織が鞄を床に置いた。

「この家では、互いの本名と過去を口にするな」

 美羽の指が、陽菜の肩に食い込んだ。

「わしの前では、芝居をやめるな」

「休み時間は」

 圭介が聞いた。

「わしが寝ているときだ」

「労働時間、長いですね」

 圭介は笑ったが、桐谷は笑わなかった。

「源一郎さん。休む時間は、契約のとおりです。湊くんには、もっと短い時間しかお願いしていません」

 源一郎は桐谷を見て、わかっている、と答えた。湊は、鞄の中の同意書の袋を押さえた。

「三つ目は」

 沙織が聞いた。

「わしが死んだら教える」

 陽菜が源一郎を見た。

「しんだら、しゃべれないよ」

 タエが目を伏せた。源一郎は、陽菜の方へ体を向けた。

「そうだな」

「じゃあ、いまいって」

 美羽は陽菜の肩を引いた。

「陽菜」

「この子には決まりはない」

 源一郎が言った。美羽は手を緩めなかった。

「この子のことは、私が決めます」

 源一郎は美羽を見た。短い沈黙だった。圭介には長く感じられた。

「そうだな」

 源一郎はもう一度言った。今度は、陽菜ではなく美羽に向けていた。

*

 部屋は二階にあった。美羽と陽菜の部屋には、小さな机と低いベッドが用意されていた。窓の鍵は陽菜の手の届かない位置にあった。誰かが考えて置いた部屋だった。その誰かを、美羽はまだ信用したくなかった。鞄から服を出し、引き出しに入れた。引き出しの底には白い紙が敷かれていた。新品の紙の匂いがした。

 陽菜はベッドに座り、踵を上下させている。

「ママ、ここ、ホテル?」

「違うよ」

「じゃあ、うち?」

 美羽は畳んだ服を持ったまま止まった。

「しばらくいるところ」

「しばらくって、なんかいねるの」

「たくさん」

 陽菜は指を折り始めた。十まで数えて、もう一度最初から数えた。美羽は鞄の内側のファスナーを確かめた。古い封筒は、そこにあった。母の写真と、母の日記から切り離した一枚。切り離すとき、紙の端が少し破れた。日記そのものを持ってくる勇気はなかった。持ってくれば、母までこの家に入れてしまう気がした。

 陽菜が窓へ行こうとした。

「そこは駄目」

 美羽の声が強くなった。陽菜は振り返り、黙った。駄目と言う必要はなかった。鍵は届かない位置にある。窓の外には、手入れされた庭がある。ここは前の部屋のように、窓を開ければすぐ道路という場所ではない。けれど、場所が変わっても、美羽の声は変わらなかった。美羽は膝をついた。

「ごめん。見ていいよ。一緒に」

 陽菜はすぐには来なかった。美羽は待った。待つ時間があることに、まだ慣れていなかった。

*

 沙織の部屋は、源一郎の寝室と廊下を挟んで向かいだった。窓際に、鏡台があった。鏡の角度が少し下を向いている。座る人の背丈に合わせた角度だった。沙織は鏡を上げた。自分の顔が映った。

 役を引き受けるとき、最初にするのは、顔を変えることではない。どこに立つかを決めることだ。相手に近づくのか、離れるのか。何を見て、何を見ないのか。妻の役なら、源一郎の方を向いている時間が長くなる。それが嫌だった。沙織は鏡台の椅子を窓の方へ向けた。庭の端に、薔薇が植わっていた。まだ花は少なかった。

 あの劇場の楽屋には窓がなかった。鏡の横に、誰かが造花を置いていた。水を替える必要のない花は、いつまでも同じ顔をしていた。沙織は持ってきた化粧道具を机に並べた。舞台用ではない。日常の顔を作るためのものだ。日常にも顔を作る必要があると知ったのは、舞台をやめてからだった。

*

 圭介の部屋には、大きな机があった。引き出しを開けた。空だった。もうひとつ開けた。こちらも空だった。人の家で引き出しを開けるのは、行儀が悪い。母ならそう言う。だが、ここは自分の部屋ということになっている。自分の部屋なら、開けてもいい。自分の部屋、という言葉が、こんなに都合よく働くとは思わなかった。

 圭介はノートパソコンを机に置いた。鞄の底に入れた新聞のコピーを取り出し、画面の下に滑り込ませた。コピーには、父の名前があった。小さな記事だった。隣には新しい商業施設の広告が載っていた。父の名前より、開店日の数字の方が大きかった。圭介はコピーを裏返した。父のことを調べに来た。そう自分に言った。

 月に百万もらえるということを、理由の外へ追い出そうとした。追い出せなかった。金は理由の真ん中に、しっかり座っていた。圭介は机の前に座り、天井を見上げた。この家の天井には、染みがない。自分の部屋では、雨の降る夜、天井の染みが少し濃くなった。大家に言っても、様子を見てくださいと言われた。

 ここでは、誰が様子を見るのだろう。

*

 湊は、荷物を全部出さなかった。帰るときに忘れ物をしないように、必要なものだけ出す。母が入院してから、親戚の家に泊まるときに覚えたやり方だった。机に教科書を並べ、ベッドの横に録音機を置いた。

 録音機は古かった。ボタンの字が薄くなっている。母が昔、仕事で使っていたものだ。スマートフォンでも録れると言われたが、湊はこれがよかった。押すと、押した感触があった。声は見えない。だから、残したとわかる感触が欲しかった。窓の外で、庭師が枝を切っていた。切った枝を、一本ずつ同じ向きに揃えている。

 湊は録音機を持ち上げ、ボタンを押した。枝を切る音。遠くの車。廊下を歩く足音。まだ、源一郎の声は入っていない。湊は一度止め、もう一度押した。最初の録音に、知らない音ばかり入っているのが嫌だった。

*

 夕食は六時半だった。十人は座れるテーブルに、六人分の皿が並んでいた。席は決められていた。源一郎の右に沙織、左に圭介。向かいに美羽と陽菜、その隣に湊。圭介は、テーブルの下で膝を伸ばした。誰の足にも当たらなかった。料理は冷め始めていた。

 源一郎が来るまで待つようにと言われたわけではない。それでも、誰も手をつけなかった。源一郎はタエに付き添われて入ってきた。椅子に座るまで、全員が見ていた。

「見世物ではないぞ」

 源一郎が言った。圭介は目を逸らした。沙織は逸らさなかった。

「皆さん、初日ですもの」

「初日」

「ええ。慣れるまで、少し時間をください」

 源一郎は沙織を見た。美羽は、その二人の間に、言葉より古いものがある気がした。

「食え」

 源一郎が言った。圭介が箸を取った。

「いただきます」

 陽菜が続いた。湊も続いた。美羽は二人を見てから手を合わせた。沙織は源一郎の前の小さな皿を見た。

「あなたは」

「食えん」

「少しも」

「見ていればいい」

 圭介は肉を噛んだ。味がわからなかった。見られながら食べるということが、こんなに落ち着かないとは思わなかった。

「家族は、何を話す」

 源一郎が聞いた。誰も答えなかった。

「普段、何を話して飯を食う」

「今日あったこととか」

 美羽が答えた。

「では、圭介」

 圭介は肉を飲み込んだ。

「今日は、父さんの家に来ました」

「自分の家に、来たとは言わん」

「帰ってきました」

「下手だな」

 圭介は箸を置いた。借金がある。仕事だ。半年。そういう言葉を頭の中で並べた。並べても、胸の奥の苛立ちは小さくならなかった。

「父親の役も、そっちがやってくださいよ」

 沙織が圭介を見た。

「圭介」

「俺だけ直されても、芝居にならないでしょう」

 源一郎は圭介を見つめた。

「どうすればいい」

 その質問は、圭介の予想になかった。

「いきなり下手だって言わないとか」

「本当のことだ」

「本当でも、言わないことがあるんですよ」

 源一郎は少し口を開き、それから閉じた。圭介は、言いすぎたと思った。言いすぎたというより、まだ言い足りないことに気づいてしまった。父親なら。その続きを、ここで言うことはできなかった。湊が自分のハンバーグを切った。半分にしようとして、片方が大きくなった。大きい方を、源一郎の皿へ移した。

「一口だけ」

「食えんと言った」

「全部じゃなくていい」

 源一郎は皿を見た。湊は、食べて、ともう一度言わなかった。圭介はその沈黙に救われた。誰かが何かをしなければならない空気が、少しだけ薄くなった。源一郎は箸を取った。小さく切って、口に運んだ。ゆっくり噛んだ。飲み込むまでに時間がかかった。

「うまいな」

 湊は頷いた。それだけだった。陽菜が自分の皿を見て、ハンバーグを箸で突いた。

「ひなも、はんぶん」

「陽菜は自分のを食べて」

 美羽が言った。

「おじいちゃん、おなかいっぱい?」

 源一郎は少し笑った。

「いっぱいだ」

 美羽はその笑いを見ないように、陽菜の皿の野菜を小さく切った。タエが食器を運びに来た。目の縁が赤かった。誰もそのことを言わなかった。圭介は再び箸を取った。今度は、肉の味がわかった。

*

 初めの一週間、源一郎は家族を採点した。口には出さなかったが、圭介にはわかった。湊が帰宅すると顔を上げる。美羽が陽菜を叱ると眉を寄せる。沙織が新聞を畳むと、その手を見ている。理想の家族を注文した客が、届いた品物を確かめている。圭介はそう考えた。だから、自分も客を採点することにした。

 朝は機嫌が悪い。午後は眠る。夕方、庭を見る時間には少し話す。誰かが心配すると、心配されるほどではないと言う。誰も心配しないと、咳払いをする。面倒な爺さんだった。面倒だと思うことで、圭介は安心した。憎むべき相手を、面倒な相手として見てしまう。

 ある朝、源一郎が髭を剃れと言った。

「タエさんに頼めば」

「お前に頼んでいる」

 圭介は電気剃刀を受け取った。充電器から外すと、思ったより重かった。源一郎の顎に近づける。

「手が震えている」

「人の顔に機械当てるの、初めてなんで」

「役者は、何でもやるのではないか」

「役者にも専門があります」

「お前の専門は」

 圭介は少し考えた。

「待つことです」

 源一郎が目を開けた。

「呼ばれるのを待つ。結果を待つ。次の仕事を待つ」

「わしと同じだな」

 圭介は剃刀を止めた。

「何を待ってるんですか」

 源一郎は答えなかった。圭介は剃刀を動かした。顎の下の皮膚は薄く、骨の形がよくわかった。こんなに近くで人の顔を見たことは、しばらくなかった。

*

 美羽は朝食を作るようになった。頼まれたわけではない。タエが全部用意してくれるのが落ち着かなかった。自分の手を使わずに食べると、借りが増える気がした。タエは最初、手伝いますと言った。美羽が断ると、調味料の場所だけ教えた。それがありがたかった。

 沙織が台所に来るのは、七時前だった。初めはお茶を淹れるだけだった。三日目には皿を出した。五日目には卵焼きを巻いた。

「上手ですね」

 美羽が言った。

「三十四年、台所にいたから」

「ずっと?」

「ずっとではないけれど、舞台にいた時間より長いわ」

 沙織は卵焼きを皿へ滑らせた。美羽は、自分が知らない話を聞いたことに気づいた。過去を口にするな。それは源一郎の前だけなのか、どこでもなのか、誰も確認していなかった。

「舞台、戻りたいと思わなかったんですか」

 沙織はフライパンを流しに置いた。

「思う日と、思わない日があった」

「今は」

「今は、朝ご飯を焦がさないことで精いっぱい」

 美羽は笑った。答えたくないことを、答えたくないと言わずに済ませる。陽菜が廊下を走ってきた。

「ママ、くつしたない」

「昨日、脱いだところにあるでしょ」

「ない」

「ちゃんと見た?」

 声が強くなりかけた。沙織が火を止めた。

「一緒に探しましょうか」

「甘やかさなくていいです」

 美羽は言ってから、口を閉じた。沙織は何も言わなかった。陽菜が二人を見比べている。美羽はしゃがんだ。

「ママと探そう」

 陽菜は頷いた。階段を上がりながら、美羽は台所を振り返った。沙織は皿を並べていた。怒った顔でも、許す顔でもなかった。その普通の横顔に、美羽は少し救われた。

*

 湊は初めの夕食で、声を残していいかと一人ずつ聞いた。家の外の人へ聞かせるときには、また聞く。そういう約束で、皆が頷いた。

 録音を増やした。将棋の駒が盤に当たる音。源一郎が新聞をめくる音。タエが廊下の窓を閉める音。源一郎は録音機に気づいていた。

「何を録る」

「声」

「わしの」

「みんなの」

「わしの声は高く売れるか」

 湊は源一郎を見た。

「売らないよ」

 源一郎は、冗談だ、と言わなかった。

「そうか」

 それだけだった。湊はその日の録音を、夜、ひとりで聞き直した。売らないよ、と言った自分の声は、少し怒っていた。怒っていいのだろうか。台本があれば、怒るところには、怒る、と書いてある。ここでは、何も書いていない。湊は録音機を枕の横に置いた。翌日、源一郎は将棋盤を出した。

 湊は二回続けて負けた。三回目、源一郎が庭の方を見ている隙に、駒を動かした。

「それは、そこには行けん」

 源一郎は庭を見たまま言った。湊は駒を戻した。

「ごめんなさい」

「なぜ動かした」

「勝ちたかった」

「なぜ勝ちたい」

 湊は盤を見た。答えはあったが、言うと小さな子供みたいだった。

「負けてばかりだと、つまらないと思うから」

「お前が」

「おじいちゃんが」

 源一郎は庭から顔を戻した。湊は、もう遊んでもらえないかもしれないと思った。仕事だから遊ぶ。仕事なら、上手くできない人は、替えられる。源一郎は盤の端に置いた駒を取り、湊の前へ戻した。

「負けても遊んでやる」

 湊は顔を上げた。

「何回でも」

「わしが勝てるうちはな」

 湊は少し笑った。その笑いを、源一郎は採点しなかった。

*

 圭介が書斎の場所を確かめたのは、入居して九日目の夜だった。トイレを探していたのは本当だった。広い家では、昼に通った廊下が、夜になると別の廊下に見える。壁の絵も、灯りがなければただの四角になる。書斎の扉の下から光が漏れていた。咳が聞こえた。

 圭介は立ち止まった。声を掛けるか迷った。源一郎は心配されるのが嫌いだった。心配しなければ、こちらが気づかなかったことにできる。咳が続いた。圭介は扉を叩いた。返事はなかった。

「入りますよ」

 源一郎は机に手をついていた。呼吸を整えるのに時間がかかっている。圭介は水差しを見つけ、コップに水を注いだ。差し出すと、源一郎は受け取らず、少し待て、と指で示した。圭介は待った。待つことなら、得意だった。やがて源一郎が椅子に座り、コップを受け取った。

「タエさん、呼びますか」

「寝かせておけ」

「医者は」

「今夜は、これで落ち着く」

 圭介は机の端を見た。薬の袋が、日付順に並べてあった。勝手に触ってはいけないとわかる並び方だった。

「お前は、なぜ来た」

 源一郎が聞いた。圭介は、水差しを戻した。

「金です」

「正直だな」

 正直ではない。圭介は思った。嘘でもない。いちばん説明しやすい本当のことを選んだだけだ。

「借金があるので」

「役者は儲からんか」

「儲かる人もいます」

「お前は」

「待ってるところです」

 源一郎は小さく笑った。机の奥に、伏せた写真立てがあった。圭介の視線がそこへ行くと、源一郎は手を伸ばし、写真立てを少し奥へ押した。見せたくないものを、鍵のかからない部屋に置いている。圭介は棚を見た。年号の書かれたファイルが並んでいる。一九九九年。目がそこで止まった。

「何を見ている」

「本が多いなと思って」

「本ではない」

「資料も、本みたいなものですよ」

「下手だな」

 圭介は源一郎を見た。源一郎は疲れた顔をしていた。人を見抜く力まで、疲れているようには見えなかった。

「役者は嘘をつく仕事だろう」

「違います」

 圭介は反射的に答えた。

「違うのか」

「嘘を、本当だと思ってもらう仕事です」

「同じではないか」

「少し違います。嘘をついてる自分を見せたら、駄目なんです」

 源一郎はコップを置いた。

「では、わしにも本当だと思わせてくれ」

 圭介は返事をしなかった。

「最後まで」

 源一郎は言った。命令の形だった。けれど、圭介には、命令より頼みごとに近く聞こえた。その聞こえ方を、信用したくなかった。

「契約の範囲でやります」

 源一郎は頷いた。

「それでいい」

 圭介は部屋を出た。廊下に戻ってから、トイレを探していたことを思い出した。

*

 沙織は、源一郎が眠ったあとに庭へ出た。まだ夜風が冷たかった。カーディガンの前を合わせ、薔薇のそばに立った。土の匂いがした。この家の中では、匂いがいつも薄かった。掃除が行き届いているからだろう。人が長くいた場所の匂いがしない。沙織はそれを、清潔とは別の言葉で考えた。何も残さない家。

 人が出ていっても、すぐに元に戻せる家。

「冷えますよ」

 タエが廊下から声を掛けた。

「少しだけ」

「旦那様は」

「お休みです」

 タエは頷いた。沙織は薔薇の枝を見た。切り口が新しかった。

「奥様が、お好きだったの」

 タエはすぐには答えなかった。

「静江様は、白い花がお好きでした」

 初めて聞く名前だった。妻の役をしているのに、前の妻の名前を知らない。沙織は枝から手を離した。

「この薔薇は」

「旦那様が、後から植えさせました」

「そう」

 タエは沙織の横顔を見た。

「お部屋にお茶をお持ちしましょうか」

「ありがとう。自分で淹れるわ」

 タエは戻っていった。沙織は、静江、という名前を心の中で一度だけ呼んだ。源一郎に奪われた時間を数えるとき、自分以外の人の時間を、数えずにいた。そのことが、急に恥ずかしくなった。庭の窓に、二階の灯りが映っていた。美羽の部屋だった。陽菜の声が微かに聞こえた。寝る前の話をねだっているらしい。

 沙織はその声を聞きながら、もう少しだけ庭にいた。

*

 美羽は母の写真を、陽菜が眠ってから出した。若い母は、今の美羽より若かった。隣の男が笑っている。男の名前を、美羽は知っていた。写真の裏には、母の字で、タカシさんと、と書いてある。母は写真の中で、隆史の肩に顔を寄せていた。

 母はこの写真を捨てなかった。美羽はそのことを、長いあいだ、弱さだと思っていた。今は、わからなかった。陽菜が寝返りを打った。美羽は写真を封筒に戻した。ここへ来たよ。母にそう言おうとして、やめた。来たことを、母が喜ぶかどうかわからない。美羽は枕元の灯りを消した。

 暗くなると、家の音が増えた。配管を流れる水。遠くの扉。誰かの足音。前の部屋では、陽菜が眠ると、隣の部屋のテレビの音だけが聞こえた。ここでは、同じ家の中に人がいる。安心してはいけないと思った。安心するために来たのではない。美羽は陽菜の手を握った。陽菜は眠ったまま、握り返した。

*

 その夜、湊は母に電話を掛けた。病室では長く話せない。母は声を低くして、元気、と聞いた。

「元気」

「ご飯は」

「食べた」

「迷惑かけてない」

 湊は机の上の将棋の駒を見た。源一郎が、覚えるまで持っていろ、と貸してくれたものだった。

「かけてないと思う」

「いい子にしてね」

「うん」

 電話が切れた。湊はしばらく画面を見た。いい子にしてね。母は悪い意味で言ったのではない。心配しているだけだ。湊は知っていた。知っていても、少し疲れた。いい子でいるためには、相手が何を望んでいるか、ずっと考えなくてはいけない。おじいちゃんは、何を望んでいるのだろう。湊は録音機を再生した。

『負けても遊んでやる』

 声が部屋に広がった。湊はもう一度聞いた。負けても。失敗しても、と言われたように聞こえた。湊は録音を止め、教科書を閉じた。鞄に入れたままだった服を、引き出しへ移した。全部ではない。明日着る服と、その次の日の服だけ。それでも、引き出しの中に自分のものがあると、部屋が少し変わった。

*

 久住が屋敷を訪ねたのは、四人が来て十日目だった。

 書斎の扉は開いていた。机の上に大学ノートが一冊あり、源一郎はそれを閉じてから、入れ、と言った。表紙に、家族、と書いてあった。源一郎の会社で使う紙には、必ず会社の名前が入っている。大学ノートを自分で買ったのかと、久住は少し意外に思った。

「皆さんに、選んだ理由をお話しになるおつもりは」

「急ぐな」

「急がなければ、いつですか」

 源一郎は窓の外を見た。庭には誰もいなかった。

「言えば、帰る」

「帰るかどうかを、決めるのは皆さんです」

「だから、今は言わん」

 久住は椅子に座らなかった。源一郎はそのことに気づいていたが、座れとも言わなかった。

 廊下で小さな音がした。湊がコップを持って歩いていた。二人を見ると、足を止めた。

「水、もらった」

「いちいち断らんでいい」

 湊は頷いた。去りかけて、また振り返った。

「明日も、将棋していい?」

「宿題が終わったらな」

「終わってる」

「では明日だ」

 湊はコップを両手で持ち直して、廊下を曲がった。

 源一郎は机の端の駒を拾った。歩だった。置く場所を少し迷い、ノートの上に立たせた。

「今日、負けてやろうと思った」

 久住は黙っていた。

「できなかった。勝ちたくなった」

 廊下の奥で、コップを置く音がした。源一郎はそちらへ顔を向けた。久住がまだ立っていることを、忘れたようだった。


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