第一章 空いている椅子
家族のふりをしてください。
それは、余命を告げられた一人の老人からの依頼だった。妻、長男、長女、孫。それぞれの役を引き受けた人々は、見知らぬ屋敷で、同じ食卓を囲み始める。
名前の呼び方も、座る場所も、まだぎこちない。笑うところで笑い、求められた言葉を返す。けれど、誰かの帰りが遅ければ時計が気になり、残された料理を見れば、食べられなかった理由を考えるようになる。
どこまでが仕事で、どこからが自分の気持ちなのか。その境目を確かめる間もなく、日々は過ぎていく。
この家には、まだ話されていないことがある。
それでも今夜は、温かいうちに食べよう。向かいの椅子に、誰かが座っているうちに。
人が死んだ家にも、朝は来る。美羽は台所の窓を開けた。昨日まで門の前に立っていた人たちの姿はなく、濡れた石畳に、誰かの落とした透明な傘だけが残っていた。傘の骨は一本折れている。持ち主が戻ってくる気はしなかった。
冷蔵庫の扉には、陽菜の描いた絵が磁石で留められていた。黄色い屋根の下に、大きさの違う人間が六人。ひとりだけ頭の上に丸がある。髪の毛なのか、帽子なのか、陽菜に聞いても、そのときによって答えが変わった。美羽は卵を五つ出して、ひとつ戻した。戻してから、もうひとつ戻した。
源一郎は卵を食べなかった。最後の一か月は、ほとんど何も食べられなかった。それでも美羽は毎朝、人数を数えるときに彼を入れていた。食べる人ではなく、いる人を数えていたのだと、いなくなって初めてわかった。背後で椅子を引く音がした。湊が制服のまま座っていた。まだ六時だった。机の上に、小さな録音機を置いている。
「学校は」
「午後から」
「今日は休んでいいんじゃない」
「休む理由、何て書けばいいの」
美羽は卵を割った。殻のかけらがボウルに落ちた。指で追いかけると逃げた。湊の学校に提出する書類には、源一郎との関係を何と書いてあるのだろう。祖父。雇用主。同居人。どれも、正しくて間違っていた。
「家の用事でいいよ」
「家って、ここ?」
美羽は答えず、ようやく殻をつまみ出した。湊もそれ以上は聞かなかった。廊下から沙織が入ってきた。喪服ではなかった。灰色のカーディガンを羽織り、髪をいつもより低い位置でまとめている。口紅を塗っていないせいか、昨日より年上に見えた。
「お茶、淹れるわね」
美羽は頷いた。沙織が棚から急須を取る。湯呑みを五つ並べて、しばらく見つめたあと、ひとつを棚へ戻した。その動作を、三人とも見なかったことにした。圭介が来たのは七時を過ぎてからだった。寝癖のついた髪を手で押さえ、何か言おうとして、やめた。いつもなら、朝から暗い顔してると爺さんに怒られるぞ、とでも言うところだった。
爺さんは、もう怒らない。食卓の上座には、何も置かれていなかった。昨夜、タエが遺影を運ぼうとしたとき、沙織が止めた。写真を置いてしまうと、その席は永久に人の座れない場所になる気がした。四人は、空いた椅子を避けるように座った。
「陽菜は」
圭介が聞いた。
「寝てる」
「昨日、遅かったもんな」
「お葬式のこと、まだわかってないみたい」
「わからなくていいよ」
圭介はそう言って、卵焼きに箸を伸ばした。端が少し焦げている。
「これ、爺さん好きだったよな」
「食べてないよ」
「匂いが好きだった」
美羽は圭介を見た。匂いが好きだった。そんなことを、源一郎はいつ言ったのだろう。自分の知らない源一郎を圭介が知っている。それが少し悔しく、少し安心でもあった。湊が録音機のボタンを押した。食器の触れ合う音がして、源一郎の声が流れた。
『焦げているぞ』
美羽の指が止まった。
『焦げてないです。焼き目』
録音の中の自分が答えた。今よりずっと尖った声だった。
『わしは焦げていると言った。まずいとは言っていない』
誰かが笑った。圭介だった。続いて陽菜が、こげてる、こげてる、と歌うように繰り返した。湊はそこで止めた。
「ごめん」
誰に向けた言葉なのか、美羽にはわからなかった。
「消さないで」
自分の声が思ったより強く出た。湊は録音機を両手で包んだ。
「消さないよ」
食卓の向こうで、沙織が目を閉じていた。昨日の葬儀では、泣かなかった人だ。美羽は昨日のことを思い出した。祭壇の前に立った男。濡れたコート。焼香もせずに四人を見下ろした目。妻。長男。長女。孫。
役名を順番に呼ばれたとき、美羽は舞台の袖に立たされたような気がした。ここまで演じてきたものが、照明を消した瞬間、ただの衣装になる。あの男は源一郎の息子だった。そして、美羽がこの家に来た理由でもあった。
誰にも話していない。話すつもりもなかった。理由を言ってしまえば、この半年の全部が、その理由のためだったことになる。陽菜の熱が下がった朝も、源一郎の毛布を掛け直した夜も、説明のつく行動に変わってしまう。美羽はそれが嫌だった。玄関の呼び鈴が鳴った。
タエが応対に出る。少しして、久住が入ってきた。いつもと同じ紺の背広を着ていたが、手に持った鞄が、いつもより重そうだった。
「朝のお時間に申し訳ありません」
誰も、どうぞ、と言わなかった。久住は立ったまま食卓を見た。上座の椅子を見て、ほんの少しだけ顎を引いた。
「今夜、皆さんにお話しすることがあります」
「契約の終了手続きですか」
沙織が聞いた。
「それもあります」
「それも、って」
圭介が箸を置いた。
「旦那様がお預けになった書類です。隆史さんにもお越しいただきます」
美羽は椅子の背を掴んだ。久住の目が、一瞬、美羽の手に向いた。
「皆さんは、今夜もここにいらっしゃいますね」
質問の形をしていたが、返事を待つ声ではなかった。
「荷物はまだ片づけていません」
沙織が答えた。
「そうですか」
久住は小さく頭を下げた。美羽はその仕草に、源一郎の癖を見た。質問をして、相手の返事を自分の都合のいい意味に受け取る。ここにいる、と誰も言っていないのに、今夜ここにいることになった。六か月前も、同じだった。美羽は、まだ温かい卵焼きを見下ろした。ここに来た最初の日には、誰も同じ皿から食べようとしなかった。
*
三月の初め、美羽は雑居ビルの階段を、陽菜の手を引いて上がった。三階まで上がるあいだに、陽菜は二度、帰りたいと言った。一階のパン屋から甘い匂いがしたからだった。美羽は帰りに買おうね、と答えた。財布には千二百円しかなかった。買うなら一個を半分にする。帰りに、と言えば、今すぐ買わなくて済む。
扉には、ファミリア、と小さく書いてあった。家族代行サービス。その言葉を初めて見たとき、美羽は、便利な世の中になった、とは思わなかった。家族まで買わなくてはいけない人がいるのかと思った。自分には買う金も、売る家族もない。ただ、家族のふりをすることなら、できるかもしれなかった。
桐谷礼子は、扉を開ける前から二人を待っていたように立ち上がった。
「お疲れさまでした。階段、大変でしたね」
陽菜に目線を合わせ、机の引き出しから折り紙を出した。子供が来ると知っていたのだ。美羽は電話で陽菜の年齢まで話しただろうか、と考えた。
「お茶でいいですか」
「結構です。時間がないので」
実際には、時間だけはあった。昨日、勤めていた店のシフトを減らされた。保育園の迎えに間に合わない時間帯しか人が要らないと言われた。時間がない、は、長く話したくないときの言い方だった。桐谷は気を悪くした様子もなく、書類を一枚出した。
「半年間、住み込みです」
「電話では、家族の代わりって」
「長女の役です」
「住み込みは無理です。この子がいるので」
「お嬢さんも一緒で構いません」
陽菜が黄色い折り紙を広げた。美羽は書類から目を上げた。
「子供まで、働かせるんですか」
「いいえ。お嬢さんには何も求めません。お母さんと一緒に暮らしていただくだけです」
「それ、何が違うんですか」
桐谷は答えるまでに一拍置いた。その間を、美羽は覚えておこうと思った。
「違いが曖昧にならないように、契約に書きます」
少なくとも、気にしすぎです、と笑う人ではなかった。美羽は椅子に座り直した。
「報酬は月額百万円。生活費は依頼主の負担です」
美羽は数字を見た。百万。六か月で六百万。保育園の延長料金を払うために、レジの前で牛乳を戻したことがある。百万という数字は、そういう生活の延長にはなかった。美羽は数字のあとに続く条件を探した。
「何をするんですか」
「食事を一緒にする。話し相手になる。家族として暮らす。それだけです」
「それだけで、百万」
「それだけ、が難しいのだと思います」
桐谷の声は静かだった。美羽は依頼主の名前を読んだ。御影源一郎。何度も検索窓に打ち込んだ名前だった。母の日記を読み終えた夜から、その名前だけは、忘れようとしても忘れられなかった。写真で見た顔を思い出した。大きな建物の前で、鋏を持って笑っていた。隣に立つ人たちが、全員、その人の方へ体を傾けていた。
美羽の知る母は、写真を撮るとき、いつも少し首を傾げた。人の隣に立つことを遠慮しているような癖だった。母の名前と、この男の名前が、同じページに書かれていた。
「ご存じですか」
桐谷が聞いた。
「有名な人ですよね」
「はい」
桐谷はそれ以上聞かなかった。美羽は書類を裏返した。裏には何もなかった。何もないことを確かめたかった。
「断ったら」
「もちろん、ご自由です」
「今、決めなくても」
「構いません」
美羽は陽菜を見た。黄色い紙を半分に折り、もう半分に折っている。何を作るつもりなのか、本人にもわかっていないようだった。
「ママ、おうち」
陽菜は折り紙を立てた。屋根のない、黄色い四角だった。美羽は書類を表に戻した。
「やります」
桐谷が息を吐いた。その息の長さを、美羽は後になって思い出すことになる。
*
沙織は、同じ椅子に三日前に座っていた。依頼主の名前を見ても、指を止めなかった。止めなかったことが、かえって不自然だったと、事務所を出てから思った。女優をやめて三十四年になる。けれど、自分が何を隠しているかは、隠そうとする動作の中に出る。そのことだけは、忘れなかった。
「ご指名です」
桐谷が言った。
「私を?」
「舞台の経験がある方を、と」
「経験なら、もっと若い人にもあるでしょう」
「長く生きてこられた方を、お望みでした」
「便利な言い方ね」
沙織は笑った。若くない、と言わずに済ませるための言葉だった。悪意はない。悪意のない言葉の方が、時々、正確に刺さる。源一郎は八十二歳。余命半年。数字を並べれば、物語になる。昔、若い女優のために席を予約した男が、死ぬ前にその女優を呼び戻す。遅れて届いた拍手。最後の舞台。沙織は、そんな物語にされるのが嫌だった。
あのとき劇場を失ったのは、沙織だけではない。照明を組んでいた人、受付をしていた人、仕事を休んで稽古に来ていた人。誰の名前も新聞には載らなかった。土地の売却額だけが、正確に記録された。御影源一郎は、人の時間を、土地の値段に変えた男だった。
「妻の役です」
「戸籍に入るわけじゃないのね」
「もちろんです」
「では、妻というより、相手役ね」
桐谷は少し困った顔をした。沙織は契約書を受け取った。紙の端が、きれいに揃っている。舞台の台本は、もっと汚れていた。誰かの鉛筆、消しゴムのかす、飲み物の輪染み。人の手を通るたびに、紙は同じ紙でなくなった。この紙には、まだ誰も生きていない。
「お受けします」
言ってから、沙織は自分が少し笑っていることに気づいた。源一郎の顔を見たかった。会いたい、とは違う。その違いを、自分にだけは間違えずにいたかった。
*
圭介は、借金の額を言われたところで、笑うのをやめた。
「八百万」
桐谷は責める声ではなかった。それが余計に嫌だった。数字が事務的に机に置かれると、言い訳をする場所がなくなる。
「元金は、少し返しました」
「どのくらい」
「十二万」
桐谷は何も言わなかった。圭介は膝の上で手を組んだ。オーディションで、待ち時間が長くなったときの姿勢だった。背筋を伸ばしていれば、まだ落ちていないように見える。
「長男の役ですね」
「はい」
「役柄の資料は」
「年齢はあなたと同じ。少し頼りないけれど、根は優しい人です」
「少し、なら難しいですね」
桐谷が笑った。笑わせたことで、圭介は一息つけた。相手が笑えば、その数秒だけは、自分が何を抱えているか見なくて済む。
「依頼主は、御影源一郎さんです」
圭介は書類を見た。名前の上に、見えないものが重なった。古い新聞の切り抜き。母の押し入れの箱。何度も折られて、折り目のところだけ文字が薄くなった紙。御影。母はその二文字を口にするとき、声を少し低くした。
「お受けいただけますか」
「はい」
返事は早かった。桐谷はペンを差し出した。圭介は署名欄に佐伯と書き、いったん止めた。
「屋敷では、御影圭介と名乗っていただきます」
「ここには本名でいいんですよね」
「はい。契約は本名です」
圭介は続きを書いた。佐伯圭介。父が付けた名前だと、母は言っていた。どういう意味なのか聞くと、響きがよかったのよ、と笑った。意味がないわけではなく、父に聞かないとわからないのだろうと思った。父には、もう聞けない。圭介はペンを返した。
「いつからですか」
声が役者の声になっていた。自分でわかった。感情を消すのではなく、使える大きさに畳む。それが仕事だった。
*
湊は、同意書を透明な袋に入れて持ってきた。雨が降るかもしれないと、母が言ったからだった。空は晴れていた。けれど、母のいる病室からは、空の一部しか見えない。
「お母さんは」
「病院です」
「今日は、おひとりで」
「駅からの道、調べてきました」
桐谷は頷いた。褒めなかった。湊はそのことを、少しありがたく思った。ひとりで来られて偉いね、と言われると、ひとりで来たくなかったことを、どこにも置けなくなる。
「学校と、お母さんのお見舞いが先です。役をする時間は放課後と休日のうち、契約に書いた範囲だけ。夜は仕事ではありません」
「孫の役って、仕事じゃない時間も孫なんですか」
桐谷は紙を見た。
「そこは、これから一緒に考えましょう」
大人にも答えられないことがあるのだと、湊は思った。
「台本はありますか」
「ありません」
「ないんですか」
「依頼主の希望です」
湊は鞄の中の台本に触れた。児童劇団の公演用だった。台詞の横に、先生が、ここは寂しく、と書いていた。寂しく、と書いてあれば、寂しい声を出せる。何も書いていないところでは、どんな声を出せばいいのかわからない。
「おじいちゃんに甘えてほしいそうです」
「どのくらい」
「どのくらい、というのは」
「ずっと甘えてたら、疲れると思うので」
桐谷はしばらく湊を見ていた。湊は自分の言い方が変だったのかと思い、膝を揃えた。
「疲れたら、そう言っていいのよ」
誰が、と湊は思った。おじいちゃんが疲れたら。自分が疲れたら。両方ならいいと思った。
*
三月十五日、御影邸の門は、開くのに時間がかかった。圭介は、こんなにゆっくり開く門を初めて見た。急いでいる人が入ることを想定していないのだろう。荷物を置き直すあいだに、門の向こうの庭が少しずつ広がった。砂利の道が曲がっている。玄関まで真っすぐではない。家が大きいことより、その曲がり方に金がかかっている気がした。
美羽が陽菜の手を握り直した。
「走らないで」
「走ってないよ」
「これからも」
陽菜は不満そうに口を尖らせた。沙織は門柱の表札を見ていた。湊は、門が閉まるところを見ていた。四人は事務所で一度顔を合わせていた。桐谷が、それぞれの役を紹介した。妻、長男、長女、孫。自己紹介をしようとすると、桐谷は、詳しいお話は後ほど、と言った。後ほどは、来なかった。玄関でタエが待っていた。
「篠原でございます」
名前を言う前に、四人の靴を見た。雨は降っていなかったが、湊の靴の縁には乾いた泥がついていた。タエは小さな布を出し、何も言わずに手渡した。圭介は、何も言わない方が人を困らせることもあるのだと知った。ホールには階段が二つあった。
「すげえ」
声に出てしまった。美羽が横目で見た。圭介は、何も触ってないよ、と両手を上げた。
「お部屋へご案内する前に、旦那様がお会いになります」
タエは四人を順番に見た。
「奥様。圭介様。美羽様。湊様」
圭介は、様、と呼ばれるのが落ち着かなかった。劇場では、出演者も裏方も名字にさんだった。様を付けられると、足の置き方まで決められた気がする。
「陽菜ちゃん」
タエが最後に呼んだ。陽菜は顔を上げた。
「こんにちは」
「こんにちは」
タエの声が、そこだけ少し違った。二階から、杖の音がした。源一郎は階段の上に立っていた。写真より小さかった。写真ではいつも背広を着ていたが、今日は薄い茶色の上着だった。肩の線が、体より外にあった。圭介は、その肩を見た。こんなに小さな体で、人の暮らしを変えられるのか。
源一郎は一段ずつ降りた。誰も動かなかった。手を貸すべきなのか、貸すと怒られるのか、まだわからなかった。最後の段で、杖の先が滑った。湊が動いた。
「危ない」
両手で源一郎の腕を掴んだ。源一郎はその手に体重を預けなかった。杖を置き直し、ゆっくり床に足を下ろした。
「おじいちゃん」
湊は少し遅れて言った。役名を思い出したような遅れだった。
「合格だ」
源一郎は言った。湊は笑わなかった。圭介はそのことを覚えていた。自分なら笑っただろう。相手が喜ぶ顔を、反射的に作ったはずだった。源一郎は四人を見回した。
「決まりは三つだ」
沙織が鞄を床に置いた。
「この家では、互いの本名と過去を口にするな」
美羽の指が、陽菜の肩に食い込んだ。
「わしの前では、芝居をやめるな」
「休み時間は」
圭介が聞いた。
「わしが寝ているときだ」
「労働時間、長いですね」
圭介は笑ったが、桐谷は笑わなかった。
「源一郎さん。休む時間は、契約のとおりです。湊くんには、もっと短い時間しかお願いしていません」
源一郎は桐谷を見て、わかっている、と答えた。湊は、鞄の中の同意書の袋を押さえた。
「三つ目は」
沙織が聞いた。
「わしが死んだら教える」
陽菜が源一郎を見た。
「しんだら、しゃべれないよ」
タエが目を伏せた。源一郎は、陽菜の方へ体を向けた。
「そうだな」
「じゃあ、いまいって」
美羽は陽菜の肩を引いた。
「陽菜」
「この子には決まりはない」
源一郎が言った。美羽は手を緩めなかった。
「この子のことは、私が決めます」
源一郎は美羽を見た。短い沈黙だった。圭介には長く感じられた。
「そうだな」
源一郎はもう一度言った。今度は、陽菜ではなく美羽に向けていた。
*
部屋は二階にあった。美羽と陽菜の部屋には、小さな机と低いベッドが用意されていた。窓の鍵は陽菜の手の届かない位置にあった。誰かが考えて置いた部屋だった。その誰かを、美羽はまだ信用したくなかった。鞄から服を出し、引き出しに入れた。引き出しの底には白い紙が敷かれていた。新品の紙の匂いがした。
陽菜はベッドに座り、踵を上下させている。
「ママ、ここ、ホテル?」
「違うよ」
「じゃあ、うち?」
美羽は畳んだ服を持ったまま止まった。
「しばらくいるところ」
「しばらくって、なんかいねるの」
「たくさん」
陽菜は指を折り始めた。十まで数えて、もう一度最初から数えた。美羽は鞄の内側のファスナーを確かめた。古い封筒は、そこにあった。母の写真と、母の日記から切り離した一枚。切り離すとき、紙の端が少し破れた。日記そのものを持ってくる勇気はなかった。持ってくれば、母までこの家に入れてしまう気がした。
陽菜が窓へ行こうとした。
「そこは駄目」
美羽の声が強くなった。陽菜は振り返り、黙った。駄目と言う必要はなかった。鍵は届かない位置にある。窓の外には、手入れされた庭がある。ここは前の部屋のように、窓を開ければすぐ道路という場所ではない。けれど、場所が変わっても、美羽の声は変わらなかった。美羽は膝をついた。
「ごめん。見ていいよ。一緒に」
陽菜はすぐには来なかった。美羽は待った。待つ時間があることに、まだ慣れていなかった。
*
沙織の部屋は、源一郎の寝室と廊下を挟んで向かいだった。窓際に、鏡台があった。鏡の角度が少し下を向いている。座る人の背丈に合わせた角度だった。沙織は鏡を上げた。自分の顔が映った。
役を引き受けるとき、最初にするのは、顔を変えることではない。どこに立つかを決めることだ。相手に近づくのか、離れるのか。何を見て、何を見ないのか。妻の役なら、源一郎の方を向いている時間が長くなる。それが嫌だった。沙織は鏡台の椅子を窓の方へ向けた。庭の端に、薔薇が植わっていた。まだ花は少なかった。
あの劇場の楽屋には窓がなかった。鏡の横に、誰かが造花を置いていた。水を替える必要のない花は、いつまでも同じ顔をしていた。沙織は持ってきた化粧道具を机に並べた。舞台用ではない。日常の顔を作るためのものだ。日常にも顔を作る必要があると知ったのは、舞台をやめてからだった。
*
圭介の部屋には、大きな机があった。引き出しを開けた。空だった。もうひとつ開けた。こちらも空だった。人の家で引き出しを開けるのは、行儀が悪い。母ならそう言う。だが、ここは自分の部屋ということになっている。自分の部屋なら、開けてもいい。自分の部屋、という言葉が、こんなに都合よく働くとは思わなかった。
圭介はノートパソコンを机に置いた。鞄の底に入れた新聞のコピーを取り出し、画面の下に滑り込ませた。コピーには、父の名前があった。小さな記事だった。隣には新しい商業施設の広告が載っていた。父の名前より、開店日の数字の方が大きかった。圭介はコピーを裏返した。父のことを調べに来た。そう自分に言った。
月に百万もらえるということを、理由の外へ追い出そうとした。追い出せなかった。金は理由の真ん中に、しっかり座っていた。圭介は机の前に座り、天井を見上げた。この家の天井には、染みがない。自分の部屋では、雨の降る夜、天井の染みが少し濃くなった。大家に言っても、様子を見てくださいと言われた。
ここでは、誰が様子を見るのだろう。
*
湊は、荷物を全部出さなかった。帰るときに忘れ物をしないように、必要なものだけ出す。母が入院してから、親戚の家に泊まるときに覚えたやり方だった。机に教科書を並べ、ベッドの横に録音機を置いた。
録音機は古かった。ボタンの字が薄くなっている。母が昔、仕事で使っていたものだ。スマートフォンでも録れると言われたが、湊はこれがよかった。押すと、押した感触があった。声は見えない。だから、残したとわかる感触が欲しかった。窓の外で、庭師が枝を切っていた。切った枝を、一本ずつ同じ向きに揃えている。
湊は録音機を持ち上げ、ボタンを押した。枝を切る音。遠くの車。廊下を歩く足音。まだ、源一郎の声は入っていない。湊は一度止め、もう一度押した。最初の録音に、知らない音ばかり入っているのが嫌だった。
*
夕食は六時半だった。十人は座れるテーブルに、六人分の皿が並んでいた。席は決められていた。源一郎の右に沙織、左に圭介。向かいに美羽と陽菜、その隣に湊。圭介は、テーブルの下で膝を伸ばした。誰の足にも当たらなかった。料理は冷め始めていた。
源一郎が来るまで待つようにと言われたわけではない。それでも、誰も手をつけなかった。源一郎はタエに付き添われて入ってきた。椅子に座るまで、全員が見ていた。
「見世物ではないぞ」
源一郎が言った。圭介は目を逸らした。沙織は逸らさなかった。
「皆さん、初日ですもの」
「初日」
「ええ。慣れるまで、少し時間をください」
源一郎は沙織を見た。美羽は、その二人の間に、言葉より古いものがある気がした。
「食え」
源一郎が言った。圭介が箸を取った。
「いただきます」
陽菜が続いた。湊も続いた。美羽は二人を見てから手を合わせた。沙織は源一郎の前の小さな皿を見た。
「あなたは」
「食えん」
「少しも」
「見ていればいい」
圭介は肉を噛んだ。味がわからなかった。見られながら食べるということが、こんなに落ち着かないとは思わなかった。
「家族は、何を話す」
源一郎が聞いた。誰も答えなかった。
「普段、何を話して飯を食う」
「今日あったこととか」
美羽が答えた。
「では、圭介」
圭介は肉を飲み込んだ。
「今日は、父さんの家に来ました」
「自分の家に、来たとは言わん」
「帰ってきました」
「下手だな」
圭介は箸を置いた。借金がある。仕事だ。半年。そういう言葉を頭の中で並べた。並べても、胸の奥の苛立ちは小さくならなかった。
「父親の役も、そっちがやってくださいよ」
沙織が圭介を見た。
「圭介」
「俺だけ直されても、芝居にならないでしょう」
源一郎は圭介を見つめた。
「どうすればいい」
その質問は、圭介の予想になかった。
「いきなり下手だって言わないとか」
「本当のことだ」
「本当でも、言わないことがあるんですよ」
源一郎は少し口を開き、それから閉じた。圭介は、言いすぎたと思った。言いすぎたというより、まだ言い足りないことに気づいてしまった。父親なら。その続きを、ここで言うことはできなかった。湊が自分のハンバーグを切った。半分にしようとして、片方が大きくなった。大きい方を、源一郎の皿へ移した。
「一口だけ」
「食えんと言った」
「全部じゃなくていい」
源一郎は皿を見た。湊は、食べて、ともう一度言わなかった。圭介はその沈黙に救われた。誰かが何かをしなければならない空気が、少しだけ薄くなった。源一郎は箸を取った。小さく切って、口に運んだ。ゆっくり噛んだ。飲み込むまでに時間がかかった。
「うまいな」
湊は頷いた。それだけだった。陽菜が自分の皿を見て、ハンバーグを箸で突いた。
「ひなも、はんぶん」
「陽菜は自分のを食べて」
美羽が言った。
「おじいちゃん、おなかいっぱい?」
源一郎は少し笑った。
「いっぱいだ」
美羽はその笑いを見ないように、陽菜の皿の野菜を小さく切った。タエが食器を運びに来た。目の縁が赤かった。誰もそのことを言わなかった。圭介は再び箸を取った。今度は、肉の味がわかった。
*
初めの一週間、源一郎は家族を採点した。口には出さなかったが、圭介にはわかった。湊が帰宅すると顔を上げる。美羽が陽菜を叱ると眉を寄せる。沙織が新聞を畳むと、その手を見ている。理想の家族を注文した客が、届いた品物を確かめている。圭介はそう考えた。だから、自分も客を採点することにした。
朝は機嫌が悪い。午後は眠る。夕方、庭を見る時間には少し話す。誰かが心配すると、心配されるほどではないと言う。誰も心配しないと、咳払いをする。面倒な爺さんだった。面倒だと思うことで、圭介は安心した。憎むべき相手を、面倒な相手として見てしまう。
ある朝、源一郎が髭を剃れと言った。
「タエさんに頼めば」
「お前に頼んでいる」
圭介は電気剃刀を受け取った。充電器から外すと、思ったより重かった。源一郎の顎に近づける。
「手が震えている」
「人の顔に機械当てるの、初めてなんで」
「役者は、何でもやるのではないか」
「役者にも専門があります」
「お前の専門は」
圭介は少し考えた。
「待つことです」
源一郎が目を開けた。
「呼ばれるのを待つ。結果を待つ。次の仕事を待つ」
「わしと同じだな」
圭介は剃刀を止めた。
「何を待ってるんですか」
源一郎は答えなかった。圭介は剃刀を動かした。顎の下の皮膚は薄く、骨の形がよくわかった。こんなに近くで人の顔を見たことは、しばらくなかった。
*
美羽は朝食を作るようになった。頼まれたわけではない。タエが全部用意してくれるのが落ち着かなかった。自分の手を使わずに食べると、借りが増える気がした。タエは最初、手伝いますと言った。美羽が断ると、調味料の場所だけ教えた。それがありがたかった。
沙織が台所に来るのは、七時前だった。初めはお茶を淹れるだけだった。三日目には皿を出した。五日目には卵焼きを巻いた。
「上手ですね」
美羽が言った。
「三十四年、台所にいたから」
「ずっと?」
「ずっとではないけれど、舞台にいた時間より長いわ」
沙織は卵焼きを皿へ滑らせた。美羽は、自分が知らない話を聞いたことに気づいた。過去を口にするな。それは源一郎の前だけなのか、どこでもなのか、誰も確認していなかった。
「舞台、戻りたいと思わなかったんですか」
沙織はフライパンを流しに置いた。
「思う日と、思わない日があった」
「今は」
「今は、朝ご飯を焦がさないことで精いっぱい」
美羽は笑った。答えたくないことを、答えたくないと言わずに済ませる。陽菜が廊下を走ってきた。
「ママ、くつしたない」
「昨日、脱いだところにあるでしょ」
「ない」
「ちゃんと見た?」
声が強くなりかけた。沙織が火を止めた。
「一緒に探しましょうか」
「甘やかさなくていいです」
美羽は言ってから、口を閉じた。沙織は何も言わなかった。陽菜が二人を見比べている。美羽はしゃがんだ。
「ママと探そう」
陽菜は頷いた。階段を上がりながら、美羽は台所を振り返った。沙織は皿を並べていた。怒った顔でも、許す顔でもなかった。その普通の横顔に、美羽は少し救われた。
*
湊は初めの夕食で、声を残していいかと一人ずつ聞いた。家の外の人へ聞かせるときには、また聞く。そういう約束で、皆が頷いた。
録音を増やした。将棋の駒が盤に当たる音。源一郎が新聞をめくる音。タエが廊下の窓を閉める音。源一郎は録音機に気づいていた。
「何を録る」
「声」
「わしの」
「みんなの」
「わしの声は高く売れるか」
湊は源一郎を見た。
「売らないよ」
源一郎は、冗談だ、と言わなかった。
「そうか」
それだけだった。湊はその日の録音を、夜、ひとりで聞き直した。売らないよ、と言った自分の声は、少し怒っていた。怒っていいのだろうか。台本があれば、怒るところには、怒る、と書いてある。ここでは、何も書いていない。湊は録音機を枕の横に置いた。翌日、源一郎は将棋盤を出した。
湊は二回続けて負けた。三回目、源一郎が庭の方を見ている隙に、駒を動かした。
「それは、そこには行けん」
源一郎は庭を見たまま言った。湊は駒を戻した。
「ごめんなさい」
「なぜ動かした」
「勝ちたかった」
「なぜ勝ちたい」
湊は盤を見た。答えはあったが、言うと小さな子供みたいだった。
「負けてばかりだと、つまらないと思うから」
「お前が」
「おじいちゃんが」
源一郎は庭から顔を戻した。湊は、もう遊んでもらえないかもしれないと思った。仕事だから遊ぶ。仕事なら、上手くできない人は、替えられる。源一郎は盤の端に置いた駒を取り、湊の前へ戻した。
「負けても遊んでやる」
湊は顔を上げた。
「何回でも」
「わしが勝てるうちはな」
湊は少し笑った。その笑いを、源一郎は採点しなかった。
*
圭介が書斎の場所を確かめたのは、入居して九日目の夜だった。トイレを探していたのは本当だった。広い家では、昼に通った廊下が、夜になると別の廊下に見える。壁の絵も、灯りがなければただの四角になる。書斎の扉の下から光が漏れていた。咳が聞こえた。
圭介は立ち止まった。声を掛けるか迷った。源一郎は心配されるのが嫌いだった。心配しなければ、こちらが気づかなかったことにできる。咳が続いた。圭介は扉を叩いた。返事はなかった。
「入りますよ」
源一郎は机に手をついていた。呼吸を整えるのに時間がかかっている。圭介は水差しを見つけ、コップに水を注いだ。差し出すと、源一郎は受け取らず、少し待て、と指で示した。圭介は待った。待つことなら、得意だった。やがて源一郎が椅子に座り、コップを受け取った。
「タエさん、呼びますか」
「寝かせておけ」
「医者は」
「今夜は、これで落ち着く」
圭介は机の端を見た。薬の袋が、日付順に並べてあった。勝手に触ってはいけないとわかる並び方だった。
「お前は、なぜ来た」
源一郎が聞いた。圭介は、水差しを戻した。
「金です」
「正直だな」
正直ではない。圭介は思った。嘘でもない。いちばん説明しやすい本当のことを選んだだけだ。
「借金があるので」
「役者は儲からんか」
「儲かる人もいます」
「お前は」
「待ってるところです」
源一郎は小さく笑った。机の奥に、伏せた写真立てがあった。圭介の視線がそこへ行くと、源一郎は手を伸ばし、写真立てを少し奥へ押した。見せたくないものを、鍵のかからない部屋に置いている。圭介は棚を見た。年号の書かれたファイルが並んでいる。一九九九年。目がそこで止まった。
「何を見ている」
「本が多いなと思って」
「本ではない」
「資料も、本みたいなものですよ」
「下手だな」
圭介は源一郎を見た。源一郎は疲れた顔をしていた。人を見抜く力まで、疲れているようには見えなかった。
「役者は嘘をつく仕事だろう」
「違います」
圭介は反射的に答えた。
「違うのか」
「嘘を、本当だと思ってもらう仕事です」
「同じではないか」
「少し違います。嘘をついてる自分を見せたら、駄目なんです」
源一郎はコップを置いた。
「では、わしにも本当だと思わせてくれ」
圭介は返事をしなかった。
「最後まで」
源一郎は言った。命令の形だった。けれど、圭介には、命令より頼みごとに近く聞こえた。その聞こえ方を、信用したくなかった。
「契約の範囲でやります」
源一郎は頷いた。
「それでいい」
圭介は部屋を出た。廊下に戻ってから、トイレを探していたことを思い出した。
*
沙織は、源一郎が眠ったあとに庭へ出た。まだ夜風が冷たかった。カーディガンの前を合わせ、薔薇のそばに立った。土の匂いがした。この家の中では、匂いがいつも薄かった。掃除が行き届いているからだろう。人が長くいた場所の匂いがしない。沙織はそれを、清潔とは別の言葉で考えた。何も残さない家。
人が出ていっても、すぐに元に戻せる家。
「冷えますよ」
タエが廊下から声を掛けた。
「少しだけ」
「旦那様は」
「お休みです」
タエは頷いた。沙織は薔薇の枝を見た。切り口が新しかった。
「奥様が、お好きだったの」
タエはすぐには答えなかった。
「静江様は、白い花がお好きでした」
初めて聞く名前だった。妻の役をしているのに、前の妻の名前を知らない。沙織は枝から手を離した。
「この薔薇は」
「旦那様が、後から植えさせました」
「そう」
タエは沙織の横顔を見た。
「お部屋にお茶をお持ちしましょうか」
「ありがとう。自分で淹れるわ」
タエは戻っていった。沙織は、静江、という名前を心の中で一度だけ呼んだ。源一郎に奪われた時間を数えるとき、自分以外の人の時間を、数えずにいた。そのことが、急に恥ずかしくなった。庭の窓に、二階の灯りが映っていた。美羽の部屋だった。陽菜の声が微かに聞こえた。寝る前の話をねだっているらしい。
沙織はその声を聞きながら、もう少しだけ庭にいた。
*
美羽は母の写真を、陽菜が眠ってから出した。若い母は、今の美羽より若かった。隣の男が笑っている。男の名前を、美羽は知っていた。写真の裏には、母の字で、タカシさんと、と書いてある。母は写真の中で、隆史の肩に顔を寄せていた。
母はこの写真を捨てなかった。美羽はそのことを、長いあいだ、弱さだと思っていた。今は、わからなかった。陽菜が寝返りを打った。美羽は写真を封筒に戻した。ここへ来たよ。母にそう言おうとして、やめた。来たことを、母が喜ぶかどうかわからない。美羽は枕元の灯りを消した。
暗くなると、家の音が増えた。配管を流れる水。遠くの扉。誰かの足音。前の部屋では、陽菜が眠ると、隣の部屋のテレビの音だけが聞こえた。ここでは、同じ家の中に人がいる。安心してはいけないと思った。安心するために来たのではない。美羽は陽菜の手を握った。陽菜は眠ったまま、握り返した。
*
その夜、湊は母に電話を掛けた。病室では長く話せない。母は声を低くして、元気、と聞いた。
「元気」
「ご飯は」
「食べた」
「迷惑かけてない」
湊は机の上の将棋の駒を見た。源一郎が、覚えるまで持っていろ、と貸してくれたものだった。
「かけてないと思う」
「いい子にしてね」
「うん」
電話が切れた。湊はしばらく画面を見た。いい子にしてね。母は悪い意味で言ったのではない。心配しているだけだ。湊は知っていた。知っていても、少し疲れた。いい子でいるためには、相手が何を望んでいるか、ずっと考えなくてはいけない。おじいちゃんは、何を望んでいるのだろう。湊は録音機を再生した。
『負けても遊んでやる』
声が部屋に広がった。湊はもう一度聞いた。負けても。失敗しても、と言われたように聞こえた。湊は録音を止め、教科書を閉じた。鞄に入れたままだった服を、引き出しへ移した。全部ではない。明日着る服と、その次の日の服だけ。それでも、引き出しの中に自分のものがあると、部屋が少し変わった。
*
久住が屋敷を訪ねたのは、四人が来て十日目だった。
書斎の扉は開いていた。机の上に大学ノートが一冊あり、源一郎はそれを閉じてから、入れ、と言った。表紙に、家族、と書いてあった。源一郎の会社で使う紙には、必ず会社の名前が入っている。大学ノートを自分で買ったのかと、久住は少し意外に思った。
「皆さんに、選んだ理由をお話しになるおつもりは」
「急ぐな」
「急がなければ、いつですか」
源一郎は窓の外を見た。庭には誰もいなかった。
「言えば、帰る」
「帰るかどうかを、決めるのは皆さんです」
「だから、今は言わん」
久住は椅子に座らなかった。源一郎はそのことに気づいていたが、座れとも言わなかった。
廊下で小さな音がした。湊がコップを持って歩いていた。二人を見ると、足を止めた。
「水、もらった」
「いちいち断らんでいい」
湊は頷いた。去りかけて、また振り返った。
「明日も、将棋していい?」
「宿題が終わったらな」
「終わってる」
「では明日だ」
湊はコップを両手で持ち直して、廊下を曲がった。
源一郎は机の端の駒を拾った。歩だった。置く場所を少し迷い、ノートの上に立たせた。
「今日、負けてやろうと思った」
久住は黙っていた。
「できなかった。勝ちたくなった」
廊下の奥で、コップを置く音がした。源一郎はそちらへ顔を向けた。久住がまだ立っていることを、忘れたようだった。




