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第4章 王子が負けても、世界は勝ったことにする

1.完全無欠の王子を、本気で負けさせる

 王子を負けさせるため、東区闘技場は朝から三千人を呑み込んだ。

 入場券には試合の条件が十二項目で印刷されている。

 相手の背を地面へ三秒つけるか、武器を落とさせ降参させれば勝ち。王族への礼譲は無効。演武ではない。勝者の名は当日中に、軍学校、賭場、救護院の記録へ使われる。

「これでも美談にされます」

 レイは十一項目ではなく、余った一項へ赤丸をつけた。

「どこが」とミラが聞いた。

「『王族への礼譲は無効』。わざわざ書くと、王子が礼譲を望まない清廉な人だと読めます」

「実際、望んでないでしょ」

「事実でも、今は不要です」

「じゃあ削る。見出しは『王子、本気で負けます』」

「結果が出る前です」

「『王子、本気で負ける予定』」

「予定は反証になりません」

 ミラは「予定」の活字を箱へ戻した。

 闘技場中央には、元版を載せる審判台が組まれていた。

 王子は決して敗れない。

 王冠第三親版から作られた軍学校用の派生版だ。千人以上が戦術判断へ使い、縁の黒点は二重に膨れている。

 その横に、訂正用の空版がある。

 王子は、シオン・クロイツとの公開試合に敗れた。

 組んだのはシオンだが、封印はない。敗北前に封じれば、嘘へ黒点を集める。王立印刷局から闘技場結果版を委任された封印官とエルゼが、認可印を伏せて待っていた。対象欄は東区闘技場。勝者確定まで印は起こさない。

「主語、相手、条件、時刻、証人を限定しました」とシオンは言う。「一度の敗北を、能力すべての否定へ広げないためです」

「『弱い王子』へ新しい定説が移る可能性は」

「あります。試合後二時間で封印を解き、事実記録だけを複製します。継続判断には使わせません」

「観客が別の文を作った場合は」

「止められません」

 シオンは答えを飾らなかった。

 反証はまだ起きていない。元版は審判台。訂正文は未封印。

 観客三千人のうち千二百人が、試合結果を次の行動へ使う。剣術教師は授業表を変え、賭場は払戻し、救護院は負傷に応じて寝台を配る。

 今あるのは手順と人だけだ。敗北、訂正版の認可封印、旧版交換は、勝敗後にしか始められない。

 人の解釈だけは、どの枠にも入らなかった。

 三千人が同じ一撃を見る。だが三千の頭の中で、勝敗は別々の文になる。今日の敵は剣より先に、その書き換えだった。

 観客を入れる前、百人で解釈の予行をした。

 シオンがアレンの手から木剣を落とす。

 審判が「武器喪失」と読む。

 百人へ、見た事実を自分の一行で書かせた。

 王子が剣を落とした、と書いた者は二十一。

 クロイツ隊長が剣を落とさせた、は十七。

 王子は相手の力量を示すため武器を手放した、が四十八。

 残る十四人は口頭で答え、そのうち九人が「王子は余裕だった」と言った。

「予行で六割近く美談。本番の熱なら、もっと増える」

「入場券へ『故意ではない』と足せますか」とアレンが聞いた。

「あなたが故意に手放さなかったことは、他人から証明できません」とレイが答えた。

「なら、シオンが私の指を折る」

「今提案した時点で、指を差し出す美談になります」

「難しいな」

「難しいのは負けることではなく、負けたと認めてもらうことです」

 賭場の記録係が集計を覗いた。

「金を払う時は、勝者を間違えない。褒める言葉と帳簿は別だ」

「その分け方を、本番でも使ってください」とレイが言った。

「負け券を持ってる客は怒るぞ」

「怒られても」

「払う。賭場は美談で銭を作れない」

 勝敗後、封印済みの同文を読み、その判断で払えば、彼は一人ぶんになる。

 残る千百九十九人が同じように動く保証はない。

 控室では、アレンが儀礼冠を被っていた。

 本物の王冠ではない。祭礼で用いる銀製の輪で、額の中央に四枚翼がある。第三親版と同じ版番号を刻んだものを身につけなければ、試合が王子の公的敗北として認証されない。

「重いですか」

「頭を下げると落ちる」

「頭を下げないための設計ですね」

「王族の道具は大体そうだ」

 アレンは鏡の前で留め具を直した。

 頬の傷は薄い線になり、昨日の薪割りでできた掌の豆には布が貼られていた。

 レイはそれを見た。

 何かを書いた気がして手帳を開く。焦げたパンと、不揃いな包帯の絵。

 場面は思い出せる。まだ。

 シオンが入ってきた。肩章を外し、試合用の胴着に替えている。細剣は元版片の刃ではなく、刃引きした鉄だった。

「刃を替えたんですか」

「元版片は語災に備えて審判台の下です。対人戦で使えば、殿下の公的記録まで切りかねません」

「その剣で勝てますか」

「四十七回やって、四十七回勝った」

 アレンが鏡越しに言った。

「四十六回だ」

「四十七です」

「最後は盤をひっくり返した」

「敗北を認めず盤をひっくり返した者の負けです」

 シオンは鎧袋から、角を青い蝋で接いだ盤上遊戯の黒い塔を出した。

「これが証拠です」

「なぜ持ってきた」

「殿下が、試合前に返せと言った」

 アレンは困ったように眉を寄せた。

「私は君に預けたつもりだった」

「十一歳の殿下は『次に勝つまで担保』と記録しています。以来、一度も勝っていません」

「七年ぶんの延滞料は」

「今日、私に負ければ免除します」

「取立人が勝敗条件を決めている」

「異議は公証人へ」

 壁際のエルゼが書類から顔を上げた。

「七年前の口約束は本日の校正契約外です」

 アレンが短く笑う。シオンは塔を審判台へ置き、旧版、未封印の訂正版、黒い塔へ証拠番号を振った。

 手続きへ入った顔から、幼い時間が消える。

「殿下。試合中、王太子への護衛義務を外れます。降参の強要を含め、勝つための攻撃を行います」

「許可する」

「許可ではありません。条件への同意を」

 アレンは言い直した。

「同意する」

「負傷します」

「承知している」

「私を止める命令権はありません」

「行使しない」

「最後は不要です。権限がありません」

 アレンは一度、目を閉じた。

「そうだった」

 シオンはレイを見た。

「赤筆は最後です。物理反証を先に完成させる。使用判断はあなたにありますが、使わなくても試合は続行します」

「分かりました」

「代償が出たら、内容を声にしてください。証人二名が記録します」

「それは拒否します」

「理由は」

「消える私的記憶を、観客の前で読み上げたくありません」

 シオンはエルゼを見た。

 エルゼが頷く。

「拒否できます。代わりに私が表示の有無と文字数だけを証言します」

「採用します」

 シオンはすぐに手順を直した。

 場外の鐘が鳴る。

 三千人の足踏みが、石の控室を揺らした。

 黒い塔が審判台の袋の中で、振動にかすかに鳴った。七年残った私的な負けの証拠が、これから公的な敗北のそばへ置かれる。

 アレンは扉へ向かった。

「シオン」

 彼女が振り返る。

「今日は盤をひっくり返さない」

「審判台が固定されています」

「手続きの話ではなかった」

「私は手続きの話しかしていません」

 それでもシオンの口元が、ほんの少し緩んだ。

「負けてください、アレン」

 公の記録へ入らない呼び方だった。


2.王子は負けた。だから王子の勝ちになった

 開始の鐘が消える前に、アレンの剣が折れた。

 シオンは正面から刃を合わせ、力ではなく角度で鍔元を割る。切っ先が砂へ突き立った。

 観客席が沸いた。

 敗北を見た歓声ではなかった。

「武器を捨てて本気を引き出した!」

「さすが殿下だ!」

 審判台の旧版へ黒点が増えた。

 王子は決して敗れない。

 アレンは折れた剣を捨て、空の両手を構えた。

「予備武器を使え」とシオンが言った。

「武器を落とさせた時点で、君の勝ちでは」

「折損は落としたことに含めない。条件書第三区分です」

「細かい」

「負ける準備をしたのはあなたです」

 係員が予備の槍を投げ入れた。

 アレンは受け取り、間合いの外から突く。王族の演武としては十分に速い。シオンは柄へ刃を滑らせ、半歩内へ入った。肩で槍を押し上げ、アレンの脇腹へ足を打ち込む。

 鈍い骨の音が、審判台のレイまで届いた。

 アレンが片膝をつく。

「敵へ勝ち筋を見せるためだ!」

「負傷してなお立つ!」

 歓声が、痛みを賛辞へ組み替えていく。

 勝敗確定後の行動まで準備できた者、二百。

 旧版には、それより速く粒が増えていた。

「結果を使う千二百人へ、条件を再確認」とレイが言った。

 ミラが伝声筒を掴んだ。

「剣術教師! 今の動きを授業へ採用するなら、勝った方の動きを書いて! 賭場は情を捨てて金を払う! 救護院は怪我人を王族扱いしない!」

 教師たちが練習用の記録板へシオンの名を書く。本番で結果を読み直し、自分の授業表へ移す準備が増えた。

 四百三十一。

 誰もがシオンを正当に評価したわけではない。

 老教官は勝者欄へ彼女の名を書きながら、「殿下が育てた剣だ」と余白へ付け足した。王子中心の考えを捨ててはいない。それでも翌週の授業で使う足運びとして、シオンの動きを選んだ。

 賭場の胴元は、王子が最後には逆転すると言い張った。だが規則どおり、その時点の有効打をシオンへ加算した。思想ではなく、賭け札を無効にすれば客に刺されるという判断だった。

 救護院の見習いは、王子の肋を見て青ざめた。

「殿下なら痛くないはず」

 そう言いながら、重傷者用の担架を一台、王族席へ回した。傷つく者として扱う準備だけを、確認票へ記録した。

 反証へ賛成しなくても、勝敗の後に目の前の事実を一度使えばよい。

 人の考えは、活字のように一度では組み替わらない。

 シオンの剣がアレンの胸当てを叩く。

 五百十二。

 槍を絡め取り、砂へ落とす。

 六百八十。

 アレンが低く踏み込み、シオンの足を払った。彼女は倒れながら手をつき、身体を回してアレンの顎を蹴り上げる。

 二人とも砂へ落ちた。

 先に立ったのはシオンだった。

「なんという慈悲だ!」

 誰かが叫んだ。

「殿下は臣下に勝利を譲られる!」

 旧版が裂けた。

 中から紙の前脚が出た。

 何百枚もの試合評が重なり、巨大な獅子になる。鬣は金の号外、爪は勝敗表、牙は王子の演武教本。喉の奥まで同じ一文が並んでいた。

 王子は決して敗れない。

 紙獅子が砂場へ降りた。

 シオンを勝者と認める記録板から、文字を舌で舐め取る。教師の手元から彼女の名が消え、代わりに「王子の指導」が浮いた。

「観客を退避!」とハンナが叫ぶ。

 出口へ人が殺到した。

 アレンが立ち、伝声筒を取ろうとする。

「話さないでください」とレイが止めた。「あなたが群衆を救えば、旧版の根拠が増えます」

「踏まれる人が出る」

「ハンナが流れを作っています」

「間に合わない」

 北側の階段で、子どもが転んだ。

 紙獅子はシオンへ跳んだ。

 審判台の下から元版片の細剣を抜く。紙の前脚を切っても、断面へ「王子の試練」が生え、前より太くつながった。

「反証を完成させろ!」とシオンが叫んだ。「殿下の背を三秒つける!」

 彼女は獅子の腹を潜り、アレンの腕を取った。

 投げる。

 アレンの背が砂へ落ちる寸前、紙獅子の尾が彼を支えた。

 定説が、起きかけた事実を押し返す。

 勝者確定後、すぐ行動へ移れる確認票は九百八十七。

 千へ届くには、あと十三人がシオンの勝利を読み、理解し、自分の判断へ使わなければならない。

 だが、その十三人は紙獅子に追われ、記録板を捨てていた。

 レイは旧版へ走った。

 アレンが叫ぶ。

「使わなくていい!」

「使うかは私が決めます!」

「それも分かっている!」

 彼は紙獅子の尾を両腕で押さえた。儀礼冠が額へ食い込み、銀の縁から血が出る。

「ただ、君の手は昨日より悪い!」

 昨日。

 右手の包帯を見る。誰かが巻いた。焦げたパンの絵。皿洗い。失えば、すべて文字だけになる。

 紙獅子の爪がシオンの左肩を裂いた。

 北側の階段では、ハンナが子どもを義手で抱え上げた。その後ろから人が押し寄せる。

 レイは旧版へ赤筆を置いた。

 ――訂正料。この記憶。

 水桶の冷たさ。

 泡のついたアレンの袖。焦げたパンの片側だけが黒く、その反対側をさらに焦がそうとする手。

 ――包帯を巻いてもいいか。

 触れる前に止まった指。

 結び目は手首の外側。掌へ重ねないで。お願いします。

 失いたくなかった。

 まだ一日も経っていない。

 新しい記憶が、古い記憶より軽い理由などない。

「使用は、拒否できます」

 エルゼが隣で言った。

 欄外注の見えない彼女は、文字数とレイの沈黙だけを数えていた。

「はい」

「今の返答は、使用への同意ではありません」

「分かっています」

 紙獅子が口を開いた。

 シオンの身体を、勝者の記録ごと呑もうとする。

 レイは選んだ。

「訂正します」

 決して。

 三文字へ赤線を引いた。

 断定を留めていた楔が抜けた。

 紙獅子の身体が一度だけ透けた。

「六十秒!」

 シオンが砂を蹴った。

 透けた前脚を抜け、アレンの胸へ肩を入れる。背負うように持ち上げ、今度こそ砂へ叩きつけた。

 一秒。

 アレンが起き上がろうとする。

 シオンの膝が胸当てを押さえた。

 二秒。

 紙獅子の尾が戻ってくる。

「冠を割って!」

 レイは叫んだ。

 シオンの剣が、アレンではなく儀礼冠へ落ちた。

 三秒。

 銀の四枚翼が、砂へ砕けた。

 審判の鐘が鳴る。

「勝者、シオン・クロイツ!」

 王立印刷局から委任された封印官が、審判台の後ろで勝者証明を受け取った。

 四秒。

 結果、主語、相手、対象欄を照合する。

 五秒。

 封印官が訂正版へ委任認可印を押し、エルゼが立会保全印を重ねた。対象、東区闘技場。

 ミラが、封じられたばかりの一文を伝声筒で読み上げる。

「王子は、シオン・クロイツとの公開試合に敗れた!」

 六秒。

 百二十の行動区画が同時に動いた。剣術教師は来週の授業表へ勝者の足運びを書き、賭場は実際の払戻し札を渡し、救護院はアレンを負傷者として寝台割当へ入れる。

 各区画の二人の観察者が、同文を読んだか、意味を自分の言葉で確かめたか、それを理由の一つに選んだか、実際に手を動かしたかを順に見る。

 九秒。

 四百三十一。

 十四秒。

 九百八十七。

 記録板を捨てて逃げた十三人を、誰も呼び戻さなかった。代わりに、待機していた四人の教官、五人の払戻し係、四人の救護員が、封印文を読み直す。教官は授業表を裏返し、払戻し係は金網を上げ、救護員は空の寝台札を負傷者列へ移した。

 一人ずつ意味を答え、一人ずつ選び、二人ずつが見届ける。

 二十二秒。

 訂正版へ千個目の黒点が出た。

 紙獅子が崩れ、号外と勝敗表が砂へ降る。

 アレンは仰向けのまま、息を吸った。肋を押さえ、苦痛に顔を歪めている。

 王子が負けた。

 反証は完成した。訂正版も、事実になった後で封じられ、千人に使われた。

 残るのは、審判台の旧派生元版を物理的に交換することだった。シオンが枠へ手をかける。ここまでを終えて初めて、三条件が閉じる。

 観客席から拍手が起きた。

「見事な敗北だ!」

「臣下の力を国へ示すため、ご自身を投げ出された!」

「負けても、殿下の勝ちだ!」

 訂正版の文字が変わった。

 王子は、シオン・クロイツへ勝利を譲った。

 千の黒点が、新しい美談へ濁った。

 赤線の残り時間は三十八秒。

「違う!」とミラが伝声筒へ叫んだ。「今のは負け! 譲ってない! 肋までやってるのよ!」

「そこまでして臣下を立てるとは!」

「美談じゃない!」

「謙虚であられる!」

 否定まで謙遜の証拠として使われた。

 紙獅子は仔獅子まで縮み、割れた冠へ丸くなる。消えていない。読み方だけ変えて生き延びた。

 レイは赤筆を元版へ突き立てようとした。

「やめろ」

 ハンナが真鍮の手で手首を掴んだ。

「一語は一回だ。残りを焼くだけになる」

「訂正文を戻さないと」

「観客の頭へ筆は入らない」

 六十秒が切れた。

 旧版へ「決して」が戻る。

 王子は決して敗れない。

 割れた儀礼冠の内側で、その文だけが赤く光った。

 アレンは物理的に敗れた。

 校正は失敗した。

 そしてレイの中から、水桶の冷たさが消えた。

 包帯を巻いた人が誰かも。

 焦げたパンを見て、何を言ったかも。

 絵と記録だけが、他人の思い出を写した頁として残った。

 右手の包帯が、掌の内側から赤く染まった。二度目の水疱が裂け、その両側へ新しい熱が走る。親指、人差し指、中指の付け根を横切る三本の線になった。

 指を一本ずつ曲げる。動く。痛みも感覚も残っている。

 第三回。運動可能、出血あり。

 そう記録し、覚えていない相手が巻いた包帯を、自分で替えた。


3.幼なじみの名が、肩書に変わる

 崩れた退避列を止めるため、アレンは立った。

 止めるな、とレイは言おうとした。

 その前に、彼の視界の横へ黒い線が走った。

 レイにも読めた。

 幼い二人が、長い晩餐卓の下に盤を隠している。

 十一歳のアレンが黒い塔を進め、十三歳のシオンが白い王を追い詰める。卓上では大人たちが国境税を話し、卓下では二人が笑いを噛み殺していた。

 黒い塔が折れる。

 アレンが青い封蝋で角をつなぐ。

 ――次に勝つまで、担保。

 黒い欄外注だった。

 公的な王子として呼びかければ、アレンはこの一場面を失う。

「話さないでください」

 レイは審判台から手を伸ばした。

 アレンは北側の階段を見た。

 出口へ向かう二つの人波が衝突し、子どもを抱いたハンナが柵へ押されている。護衛の命令は悲鳴に沈んだ。

 アレンは黒い欄外注を読んだ。

 拒む権利はあった。

 それでも伝声筒を取った。

「皆、席へ戻ってくれ」

 声が闘技場を一周した。

 群衆の呼吸が揃う。

「勝者はシオン・クロイツだ。私は肋を打たれ、冠を割られ、規定の三秒を地面で数えた。この敗北を、私の慈悲にしないでほしい」

 寸分の乱れもない公の文だった。だから三千人が聞いた。

「今、北側の出口が詰まっている。前列から座り、係員の指示を待ってくれ。怪我人を先に通す」

 人波が止まった。

 ハンナが子どもを柵の外へ渡す。転んだ老人が起こされる。出口に空間ができた。

 黒い欄外注が閉じた。

 盤。折れた塔。青い封蝋。

 それを見送るように、アレンの目から私的な温度だけが抜けた。

 救護員が彼を担架へ乗せようとしたが、アレンは歩くと言った。三歩で息が止まり、結局担架へ座った。

 シオンが左肩を押さえて近づく。切創は浅いが、胴着が赤くなっている。

「アレン」

 彼は礼儀正しく顔を上げた。

「負傷者の導線を、試合前に分けるべきでした」

 シオンの口が閉じた。

「そうですね、クロイツ隊長」

 肩書だけが残った呼び方だった。

「塔のことを覚えていますか」

 アレンは審判台の証拠袋を見た。

「盤上遊戯の駒ですね。なぜ証拠に?」

 シオンは、時計なら二つ進む長さだけ黙った。

「試合前の会話記録と、殿下の記憶欠落を証明するためです」

「私の?」

「はい」

「記録を読ませてください」

「救護院の後です」

 彼女は答えを手順へ戻した。肩から血が落ちても、声だけは揺らさなかった。

 レイは何も言えなかった。

 レイも同じように、残骸の文字だけを受け取った。

 資料不足で笑う。

 包帯を巻いていいか。

 アレンが自分で失った記憶を、レイが説明すれば、彼の穴をこちらの言葉で埋めることになる。

 昨日、同じ理由で説明しないでほしいと言ったらしい。

 そう願った場面さえ、もうない。

 午前十一時半、控室。

 シオンは治療を後回しにし、割れた儀礼冠を白布の上へ並べた。四枚翼を一枚ずつ裏返す。

 内側には版番号が刻まれていた。

 親一・傷・王冠庫北列二。

 親二・飢・王冠庫北列三。

 親三・敗・王冠庫北列四。

 四枚目には番号がなかった。

 削った傷はない。そこだけ、初めから銀が滑らかだった。

「白雨の親版だけ、所在がない」

 レイは指で縁を追った。

「また、空白」とミラが言った。

「空白は、存在しなかった証拠ではありません」

 留め具には鉛粉が詰まっていた。厨房の陶板にはない粒で、西区の版倉で使う湿気止めの灰に似ている。

「採取します」とシオンが言った。「第三区分証拠、冠片四。証人、レイ、ミラ、エルゼ。時刻十一時三十七分」

「肩を縫ってからにしてください」

「採取後です」

「血が証拠へ落ちます」

 シオンは肩を見た。

「治療を先にします」

 救護院は闘技場から徒歩五分だった。

 アレンとシオンが縫合を受けるあいだ、ヨハクは廊下の壁へ貼られた古い入院案内を見ていた。

「五年前?」

 印刷された日付を指す。

「白雨当日の臨時小児棟です」と看護師が答えた。「今は倉庫。記録は封鎖されています」

「紙、ある」

「鍵もあります」

「鍵、紙じゃない」

 ヨハクは入院案内へ片足を入れた。

 看護師が悲鳴を上げる前に、シオンが処置台から言った。

「止まりなさい。封鎖記録への侵入は証拠能力を失わせます」

 ヨハクは膝まで紙面に沈んだ姿で止まった。

「見るだけも?」

「令状を取ります。あなたが発見者であること、経路も記録する」

「時間、かかる」

「かけます」

 ヨハクは紙面から足を抜いた。

「正しい人、遅い」

「早い誤りで、人は死にました」

 シオンの声が、縫合糸より細くなった。

 レイは彼女の父を資料の一行だけで知っていた。誤報で封鎖扉を閉じ、避難民を白雨側へ残した校正官。その娘は、手順を飛ばす正しさを恐れている。

 ヨハクは入院案内の前へ座った。

「待つ」

 午後四時二十八分、令状が届いた。

 倉庫の鍵を開け、エルゼと救護院長が立ち会う。ヨハクは古い案内へ入り、封鎖された小児棟の壁に残る当日の配置図から出た。

 棚には、緑の腕輪が束になっていた。

 一つずつ仮登録番号がある。名前を書けない子どもにも、防壁入力欄を割り当てる腕輪だった。

 主台帳では、番号が連続していない。

 二〇七七の次が、二一九一。

 百十三番ぶん、飛んでいる。

「欠番」とヨハクが言った。

 別棚に、薄い転記帳があった。

 表紙には「未成年・例外処置」とある。頁をめくると、欠番と同じ百十三の番号が並んでいた。名前欄は黒い紙片で覆われている。

 処置結果の欄だけが読めた。

 白化確認。

 白化確認。

 白化確認。

 同じ青印が百十二。

 百十三件目だけ、印が違った。

 生存。西・鉛版倉へ搬送。

「誰を?」

 ミラが黒い紙片へ爪をかけた。

 シオンが手首を止める。

「剥がせば封印破壊です」

「じゃあ、どう読むの」

「記録院の抹消版と照合する」

「戴冠まで五日しかない」

「だから、今日のうちに請求する」

 レイは最後の番号を写した。

 仮児二一九〇。

 赤い手帳の内表紙に押された仮登録番号は、水で半分消えている。

 末尾だけが読めた。

 九〇。

 午後八時、校正局作戦室。

 机の中央へ四枚の紙が置かれた。

 五年前の配給、十万百十三杯。

 防壁の上限、十万名。

 未成年腕輪の欠番、百十三。

 例外処置、白化百十二、生存搬送一。

 四つの数字は、誰の証言より先に同じ場所へ着いた。

 百十三は、帳簿の誤差ではない。

 全員、子どもだった。

 百十二人は白くなり、一人だけ鉛版倉へ運ばれた。

「私ですか」

 レイは誰へともなく尋ねた。

 アレンが答えようとした。

 だが彼の記憶にも、その子どもの名はない。

 ハンナは砂糖を噛まなかった。

「原本を読んでからだ」

 否定しない答えだった。

 レイはハンナを見た。

 右の真鍮指だけが、机の陰へ隠されていた。

「あなたは、答えを知っていますね」

「知ってることと、証明できることは違う」

「私が聞いたのは、証明ではありません」

「今夜は答えない」

「契約条項を忘れましたか。発見した事実を隠さない」

「俺は依頼者じゃない」

「追加しました。ハンナにも同じ義務を求めると」

 ハンナは初めて、レイの目を避けた。

 アレンが口を開く。

「私から命じる」

「やめてください」

 レイは遮った。

「命令で出た証言は、後で命令のせいにできます。本人が話すかを記録します」

 作戦室の時計が一度鳴った。

 ハンナは椅子を引き、立った。

「明朝、食堂、防壁設計庫、白雨捜索庫を分けて調べる。三つが一致したら話す」

「今夜は?」

「話さない」

 レイは白紙の手帳へ、そのまま書いた。

 ハンナ・ロウ。問いへ回答せず。期限、三系統の資料一致後。

「逃げないでください」

「逃げるなら、おまえを拾った日に逃げてる」

 証言より先に、その一言だけが落ちた。

 ハンナは部屋を出た。

 レイは追わなかった。

 机の数字を、もう一度並べる。

 十万百十三。

 十万。

 百十三。

 百十二と一。

 式は正しい。

 だから傷つけたのは計算の誤りではない。

 誰を、引く数にしたかだった。

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