第5章 十万人の正しさから、百十三人がこぼれた
1.余った百十三杯は、誰のものか
夜明け前の食堂で、百十三杯が証拠として一列に並んだ。
椀ではない。五年前の配給原簿に押された青印だ。ミラが登録番号を細紙へ写し、レイが未成年腕輪の欠番と照合する。窓の黒が灰色へ薄まる頃、最後の番号が一致した。
「余りの一杯じゃなかった」
ミラは床へ座ったまま言った。巻き毛には、三本だった鉛筆が六本刺さっている。
「百十三人が、ここにいた」
「少なくとも配給を受けました」
「そこ、違う?」
「食べ終えたかは記録されていません」
白雨警報の夜、食堂は臨時避難所だった。子どもは椀を受け取り、配給腕輪を防壁の入力台へ通す。青印は食事と登録、両方の証明だった。
百十三人は、一度は防壁へ入った。後から切られたのだ。
「この紙、見て」
ミラが原簿の綴じ目を開いた。糸の下に、薄い灰色の粉が詰まっている。
「鉛です」とレイは言った。
「食堂で?」
「版を入れ替えた者の手からついた可能性があります」
粉のそばには、縦三本を横線で受ける圧痕。イレーナの職人印だ。祭礼公報にもあった。
レイは粉と圧痕を別々の証拠紙へ取った。シオンが封印し、時刻と証人を書き込む。
「イレーナは、五年前もこの食堂へ来ていた?」
「出勤票を確認します」とシオンが答えた。「現時点では、印だけです」
「本人に聞けば早い」
「暗殺未遂の被疑者です。肋骨の治療中で、聴取には弁護人が立つ。先に資料を固めます」
地下では、ただの鍋へ戻った銀鍋が乾かされていた。三十七人の手形は残っても、名前はまだない。
過去の百十三人まで数だけにすれば、また誰かの都合へ使われる。
午前七時四十分、レイたちは南区の防壁設計庫へ移った。
扉を開けたのはオスカー・ヴァルツだった。
宰相の顔より先に、レイは机の食事を見た。
黒パン、豆、薄い肉。皿には白い脂の膜。何時間も手をつけていない。
次に袖口の石粉。その後で、ようやく痩せた顔を見た。
「レイです」
「仮登録番号、現行レイ。十七歳。祭礼校正局見習い。確認した」
「名乗りへの返答としては過剰です」
「不足よりよい」
オスカーは冗談を言った顔をしなかった。
壁には五年前の負荷試験表が十二枚。十万までは水平だった線が、十万と一人目で落ちる。十万百十三では、防壁四層のうち三層が連鎖的に割れていた。
「試験は何回」
「小規模模型九百六十回。実寸部分試験二十四回。結果の幅はここだ」
「十万百十三人を残した場合の予測は」
「全層崩壊、七十八・四パーセント。部分崩壊、二十一・六。完全維持、零」
「十万人に減らした場合は」
「完全維持、九十六・二。局地損傷、三・八」
「百十三人を外した場合の死者予測は」
「百十二から百十三」
「残した場合は」
「期待値七万九千五百七十一」
声は一定だった。レイは数字のたび紙へ枠を描いた。七万九千五百七十一個は描けない。だから数字のまま受け取るしかない。
「除外案を作ったのは、あなたですか」
「そうだ」
オスカーは鍵束から一本を選び、鉄の抽斗を開けた。
中には「緊急負荷調整案」と題した紙がある。閲覧請求済みの写しで、原本は記録院に封じられている。
「誰を除外するか、なぜ未成年の仮登録者にしたのです」
「年齢は基準ではない。入力順と物理配置だ」
設計図の最外周に、細枠が百十三並んでいた。
「臨時避難所の受付が遅れ、仮登録札は正規戸籍の後に外周枠へ並んだ。白雨まで十一分。外周枠なら九十二秒で切れる。内側を選び直せば、最短六時間四十分」
「本人たちへ知らせる時間は」
「なかった」
「家族へは」
「なかった」
「避難場所を変える時間は」
「西の鉛版倉へ全員を運べば、最短十九分。白雨まで十一分だった」
「一人は運べた」
オスカーの視線が、初めて試験表から外れた。
「それは結果記録で知った。命令時には知らない」
「同じ条件なら、また同じ案を出しますか」
「出す」
ミラの鉛筆が紙の上で止まった。
「百十三人が子どもだって分かってても?」
「年齢を変えても、七万九千五百七十一と百十三の大小は変わらない」
「だから正しいって?」
「正しいとは言っていない。期待生存者数を最大にすると言っている」
「同じことじゃない」
「同じなら、言葉を分ける必要がない」
オスカーは机の別の束へ手を置いた。
「私は選ばないという案も書いた。その期待死者数は七万九千五百七十一。全員を守ると宣言し、実際には大半を死なせる案だ。採用しなかった」
「百十三人へ選択を伝えなかった」
「伝えれば入力枠から名を戻す者が出る。十一分で暴動が起きれば、十万人の固定も失敗する」
「つまり、反対されないために隠した」
「そうだ」
ためらいなく認められると、怒りの置き場が消える。
謝罪なら許すか拒むかを選べる。正当化なら反証できる。オスカーは行為に名前をつけず、数字と手順だけを机へ出した。
「この石粉は何です」
レイは彼の袖口を指した。
「五年前から増設している物理防壁の材料。貯水槽、地下連絡路、耐圧扉、移動印刷機を四地区へ置いた。入力が十万百十三でも、魔法防壁の不足を二層まで補える」
「なぜ公表しないのです」
「王冠版の完全性を疑わせれば、反対派が工事予算を止める確率が高かった」
「また隠した」
「工事は八十七パーセント完成した」
「質問への答えではありません」
「隠した。だが完成率は八十七パーセントだ」
オスカーの黒パンは、数字の横で冷え切っていた。
レイは設計図の余白を見た。四地区の貯水槽と避難路が、細い線でつながっている。王子の力だけを前提にした図ではない。
人が扉を開け、火を運び、隣の地区へ水を回す図だった。
「この設備を、四地区の文で動かせますか」
「同じ主語、同じ行為、別々の対象欄を持つ版が四枚あれば、理論上は可能。試験はしていない」
「なぜ」
「王冠庫の親版を外す権限がない。戴冠後の王だけが持つ」
レイは設計図の番号を書いた。
今の目的は百十三人の証拠だ。それでも、この細い線は後で必要になる。
午前十一時、東区の白雨捜索庫。
五年前の遺留品は、色ごとに棚を分けられていた。
灰色は石。黒は焼けた物。白は、白雨へ触れて形を失った物。
白い棚には百十二の箱がある。
中身は靴紐、髪留め、乳歯、木匙。身体は白い薄片になり、風で散った。残った持ち物だけに処置番号がある。
未成年腕輪の欠番と、百十二箱の番号が一致した。
レイは一箱ずつ、番号だけを確かめた。
中身まで見れば、その子を知った気になってしまう。知らないまま、証拠として扱う必要があった。
百十二番目の次に、空の場所がある。
棚札には「生存搬送・西鉛版倉」と記されていた。
「搬送車の記録は」
シオンが保管官へ尋ねた。
「車体番号西六。御者名は消えています。出発時刻、午前零時三分」
「白雨到達は」
「零時四分です」
一分。百十三人全員は運べない。一人なら間に合った。
「誰が選んだんです」
レイは棚札を見たまま尋ねた。
保管官は帳簿を開いた。
「搬送責任者欄は、職人印だけです」
三本の縦線を、一本の横線が受けている。
イレーナ。
「出勤票が届きました」
エルゼが封筒を持って入ってきた。
五年前、イレーナは王立印刷局の臨時植字工として北食堂へ派遣されていた。業務は仮登録札の追加と、配給原簿の版交換。
退勤の署名はない。
同じ出勤簿に、彼女の息子の臨時腕輪番号が記されていた。
番号は、白い箱の一つと一致した。
ミラが紙を伏せた。
「名前は」
「本文にはありません」とシオンが言った。「遺族であるイレーナの同意を得るまで、補わない」
「新聞にも?」
「まだ何も刷りません」
ミラは返事をしなかった。
午後五時、三つの場所から資料が校正局へ集まった。
食堂は、百十三人が配給と防壁入力を受けたと示す。
設計庫は、百十三枠を後から外したと示す。
捜索庫は、百十二人の白化と一人の搬送を示す。
記録を作った人間も目的も違う。同じ誤記を相談して作るには、部署が離れすぎていた。
「裏面証拠検査の条件は整いました」とシオンが言った。「市民公証人、王家側書記、当事者代理人。今夜一時に記録院の封印閲覧室で行います」
「八時間後?」
「湿度を下げてからでなければ、抹消版の裏面圧痕が崩れます。封印解除の立会人も交代させない」
「八時間で戴冠が近づきます」
「急いで壊せば、永久に読めません」
レイは時計を見た。
目を閉じれば眠れそうだった。
けれど瞼の裏には、百十二の白い箱がもう並んでいた。
2.月を盗んだ魚と、二人だけの半券
午後七時半、シオンはレイとアレンを、文字どおり記録院から追い出した。
「一時まで入館を認めません。食事を取り、二時間は横になること」
「眠れると思いますか」とレイが聞いた。
「思いません。命令は休息です。睡眠ではありません」
「私も?」とアレンが言った。
「肋を打った負傷者は、質問する前に横になってください」
「クロイツ隊長は」
「私は証拠の引継ぎがあります」
呼び方を訂正する者はいない。
アレンは黒い塔の記録を読んだ。それでも、シオンを幼なじみの名で呼ぶことは戻らなかった。
記録院の食堂は閉まっていた。
二人は護衛を一人だけ連れ、下町へ歩いた。表通りを避け、アレンの白髪を灰色の頭巾へ隠す。結び目がひどく雑だったが、レイは手を出さなかった。
裏通りのパン屋で、豆の包みを二つ買った。
隣の空地から、太鼓が聞こえた。
人形劇の幕が上がるところだった。
横倒しの木箱へ赤布を掛けただけの舞台。入場料は銅貨一枚。題は「月を盗んだ魚」。券には「月を盗んだ馬」。魚の活字が足りなかったらしい。
「誤植です」
レイは券を売る老人へ言った。
「馬の人形ならあるぞ」
「題と一致するかの話です」
「魚が壊れたら馬を出す」
「話は成立しますか」
「子どもは太鼓が鳴れば笑う」
資料としては、まるで足りない。
アレンが二枚買った。
「休息命令に、人形劇は禁止されていない」
「横になること、と言われました」
観客は地面の敷物へ座るか、寝転んでいた。
「条件を満たす」
アレンは敷物へ仰向けになった。レイも反論を失い、その隣へ横向きに身を伸ばした。
劇は、券よりさらに間違っていた。
魚は初めから片目がなく、月を盗む理由を途中で忘れた。海の王だけ声が甲高く、老人の腕は何度も幕から出た。
子どもたちは、そのたびに笑った。
魚が月を呑み込む場面では、舞台の裏で白い皿を落とす。皿は割れず、地面を転がってレイの膝へ当たった。
レイは拾い、舞台へ返した。
「月、返った!」
前列の子どもが叫ぶ。
老人は一拍も迷わず筋を変えた。
「人間の娘が月を校正したので、海は明るくなりました」
「勝手に配役されました」
「公演料を請求するか」とアレンが小声で言った。
「一行だけなので、銅貨四分の一です」
「細かい」
「適正です」
アレンの口元が動いた。
レイはそれを見た。
手帳には「資料不足で笑う」とある。今の笑いと比べる記憶はない。
それでも、今の場面は今のものだった。
劇の途中で魚が壊れ、宣言どおり馬が海へ飛び込んだ。
「あれは好きだ」とアレンが言った。
「何が」
「壊れたことを隠さず、馬を出したところ」
「物語は破綻しています」
「魚のふりをさせるよりいい」
四本脚で水を掻くたび、馬は幕へ絡んだ。老人はほどくのを諦め、海ごと持ち上げた。
「あなたは何が好きですか」
「質問の範囲が広すぎます」
「仕事に関係ないもの」
考えた。
好きな色。好きな料理。好きな季節。
どれを選んでも、採点される気がした。
「本の最後にある白い頁」
「何も書かれていない頁?」
「本文が終わった後にも、紙が一枚残っていると安心します。書き足せるから」
「私は焦げたパンの端」
アレンは豆の包みから、パンの黒い部分だけをちぎった。
「それは今も覚えているんですか」
問いが出てから、レイの手が止まった。
昨日の焦げたパンは、自分から消えた。アレンには残っている。
「覚えている。だが、昨日の内容は言わない」
彼は豆を一粒、紙の端へ転がした。
「君に頼まれない限り、穴へ足さないと約束したらしい。記録で読んだ」
「約束した場面を、私は失いました」
「そうか」
彼は残念とも申し訳ないとも言わなかった。その沈黙が、いちばん境界に近かった。
舞台の海が裏返り、布の裏に書かれた値段が見えた。
赤布一枚、銅貨三。
月の皿、借り物。
観客には見えないはずの制作費だった。老人は慌てて布を戻す。子どもたちは海の値段を知って、さらに笑った。
「王宮の幕には、値段が書いてありません」とアレンが言った。
「帳簿にはあります」
「観客から見えない」
「見せたくないからでしょう」
「海が銅貨三枚だと分かると、物語が壊れる?」
「壊れません。安く作った人の工夫が見えます」
アレンは幕から出た老人の肘を見た。三体ぶんの糸が、腕へ食い込んでいる。
「王子の奇跡にも、値段を書けばよかった」
「誰が払ったかも」
「そうだな」
会話が仕事へ戻りかけ、アレンが豆を一粒、指で転がした。
「仕事に関係ない質問を続けても?」
「一つずつ」
「右頁と左頁なら」
「左」
「理由は」
「めくった直後に全体が見える」
「窓側と通路側」
「通路。何人出入りしたか数えやすい」
「理由が全部仕事に戻る」
「あなたは」
「窓側。逃げられない会議でも、空は議事録に入らない」
「雲を数えるのは仕事ですか」
アレンは少し考えた。
「仕事から逃げるための作業」
「非効率です」
「非効率な好みを聞いている」
レイは自分の手を見た。
赤筆を使うたび、役に立たない場面から消えるように見える。命を救った事実は記録へ残り、笑い方、水桶の冷たさ、焦げた味が抜けていく。
「白紙の手帳を買う時、同じ紙でも表紙の色を比べます」
「何色を選ぶ」
「その時、棚で一番少ない色」
「理由は」
「売れ残っているように見えるので」
「それは救助か?」
「購買です」
アレンが笑った。
レイは今度、すぐ手帳を開かなかった。数秒だけ、笑いを現在のまま置いた。
舞台では、月を盗んだ馬が罪を問われていた。月を返したので無罪にする、と海の王が言う。前列の少女が「盗んだのは消えない」と反論し、老人が慌てて刑を一日追加した。
「私とあなたが五年前に会った証拠が、今夜出るかもしれません」
レイは舞台を見たまま言った。
「そうだな」
「私が何を思っていたか、あなたが覚えていても、先に言わないでください」
「分かった」
「証拠に必要な事実は聞きます。手帳を渡した。言葉を言った。何時だった。その範囲です」
「感情は」
「聞きません」
「君が私へ持っていた感情も?」
「あなたが私へ持っていた感情も」
アレンは返事を急がなかった。
人形の糸が一本切れた。馬の首が落ち、子どもが笑った。
「もし、聞きたくなった時は」
「その時に、今の私が頼みます」
「では、私も同じにする。君が覚えていない過去を、私の望む形へ使わない。私が忘れたことを、君に演じさせない」
「シオンとの記憶も?」
「記録を読んだから、幼なじみらしい振る舞いをすることはできる。しない。彼女が必要としているのは演技ではないと思う」
「本人に確認してください」
「そうする」
レイは豆の包みを折った。
「この境界を、議事録へ入れますか」
「入れない方がいい」
「なぜ」
「仕事に関係ないものを、一つくらい持ってみたい」
王子には危険な答えだった。レイは訂正しなかった。
入場券の「馬」へ赤鉛筆で小さく線を引き、隣へ「魚」と書く。現実を変えない、ただの校正だった。
「半分ください」
券を縦へ裂いた。
一方をアレンへ渡す。
「記録しないのでは?」
「記録ではありません。半券です」
「違いは」
「私たちだけが、何の券か知っています」
アレンは半券を受け取った。
護衛が少し離れた場所から、時計を示した。
休息時間が終わる。
結末では、月を返した馬が海の番人になった。罪を消す代わりに、次の夜から自分で月の位置を確かめる。
前列の少女は、今度は反論しなかった。
帰り道、アレンが訊いた。
「安い人形劇は、好きなものに入りますか」
「活字が足りない入場券は入ります」
「劇は?」
レイは少し考えた。
「結末だけなら」
記録院の時計が、遠くで八時半を打った。
五年前の原本が開くまで、あと四時間半だった。
3.白紙の裏から、私の名が呼ぶ
午前一時、王立記録院の封印閲覧室に、十人が入った。
レイ、アレン、シオン、エルゼ、ミラ、ヨハク、王家側書記、保全官二名、市民側の版職人一名。
ハンナは入室を断られた。
五年前の処置を実行した当事者だからだ。オスカーも別室にいた。
誰かの証言へ合わせて原本の読み方を変えないため、先に物を読む。
現王の許可なしに解けないのは、抹消版の表面を覆う王権封印だ。今夜の令状が許すのは、外箱の開封と裏面の非破壊検査だけ。削られた表面を刷り直すことも、消えた本文を復元することもできない。
市民証拠院の令状番号をエルゼが読み、王家側書記が許可範囲を復唱した。二人の文が一致してから、保全官は外箱へ触れた。
抹消版は、三重の沈黙に収められていた。
木箱。鉄箱。最後に、透明な封蝋で固めた鉛の版。
表面は平らだった。
活字を抜いたのではない。文字ごと削り、二度と刷れないよう溶かしてある。滑らかな鉛面に、名前も番号もない。
「裏返します」
保全官が四隅の留め具を外した。
裏には薄い木板が貼られていた。表で活字を締めた圧力が、木の繊維まで届いている。
光を斜めから当てる。
逆向きの文字が浮かんだ。
「読める」
ミラが息を吸った。
「声にしないでください」とシオンが言った。「まず拓本。原位置と照明角度を記録します」
墨は使えない。木が湿気を吸う。市民側の版職人が薄紙を置き、乾いた黒鉛を寝かせた。凹みだけが白く残り、鏡写しの文字が浮く。
百十三行。
すべて、仮登録児の番号だった。
二〇七八から二一九〇。各行に名前がある。黒い紙片で覆われた腕輪台帳と違い、ここには削る前の圧力が残っていた。
「鏡で反転します」
保全官が拓本の前へ鏡を立てた。
ヨハクが、印字の向きへ首を傾けた。
「内側、もっと読める」
「何がある」
「紙、重なった前」
保全官が、鉛版と木板の間から別の一枚を取り出した。
五年前、確認刷りを包んだ封印間紙だった。今作った拓本ではない。両面を当時の印刷機で黒く潰され、証拠番号つきの糸で木板へ留められている。紙層には、黒で隠す前の印圧が残っていた。
新規拓本にあるのは、表から読める逆圧痕だけ。五年前の間紙には、刷り潰された黒の内側へ、消された確認刷りの順序が残っている。
「入れますか」とレイが聞いた。
「黒、入口。裏、出口ある」
「封印手順第十二条」とシオンが言った。「紙面内の観察者を使う場合、見た文字を本人に復唱させ、二名が別々に転記する。物品を持ち出さない。ヨハク、同意する?」
「する」
「途中で苦しくなったら」
「出る」
「戻れない場合は」
「別の印刷面。壁の目録」
「許可します」
ヨハクは間紙の黒へ手を置いた。
指先が平らになり、手首、肩、横顔の順に紙へ沈む。踵が消えると、黒鉛の面へ小さな波紋が広がった。
室内の壁に、封印物目録が貼られている。
三分後、その「抹消版」の行からヨハクの顔が出た。
「逆」
彼は上下も左右も反対のまま言った。
「戻ってから話して」とミラが言った。
「こっちが戻り方」
ヨハクは紙面の外へ身体を回し、床へ落ちた。鼻から黒鉛を一度吹いた。
「百十三。名前、全部。最後、エルナ」
レイの指先から、紙の感触が消えた。
「番号は」
「仮児二一九〇」
名前だけで、レイと同一人物にしてはいけない。
仮児二一九〇が生き残った。
現在のレイの仮登録末尾が九〇。
番号を後から流用した可能性もある。王宮が生存者へ都合のよい身元を貼った可能性も残る。
レイは自分から反証候補を挙げた。
「別人説を残します。身体特徴、筆跡、所持品の移動を独立に照合してください」
「本人が、それを言うの?」とミラが聞いた。
「私だからです。エルナであってほしい期待が、読み方へ混ざります」
保全官は三つの照合票を出した。
一枚目、身体。
左手首の二本傷だけでは弱い。五年前の救護記録には、右膝の火傷痕、上顎の欠けた乳歯、左利きとある。
レイの右膝には、三日月形の痕がある。
欠けた乳歯はすでに抜けているが、宿舎へ来た時の診療票に同じ位置が記録されていた。
筆記は右手で行う。だが物を投げる時と、扉を押す時は左が先に出る。
二枚目、筆跡。
十二歳と十七歳では字形が変わる。見るのは筆順だ。エルナの「ナ」は二画目を途中で止め、戻って払い直す。レイが急いで「名」と書く時も、最後の払いに同じ二重圧ができる。
市民側の筆跡鑑定人が、別人三十人の資料と混ぜて比較した。
「同一人物の成長筆跡である確率、高。ただし単独では確定に使わない」
三枚目、所持品。
赤い手帳の背には、仮児二一九〇の腕輪から移った緑色の染料がある。手帳を遺留品として受け付けた時刻と、レイが版倉で回収された時刻の間は十一分。受付署名はハンナ。途中で別の子へ渡る経路は記録上ない。
三本の証拠の鎖が、同じ一点へ集まる。
王家の証言がなくても。
アレンが運命的な再会だと言わなくても。
現在の身体、筆跡、物だけで、仮児二一九〇とレイはつながった。
赤い手帳の内表紙。
水で消えた番号の末尾、九〇。
「他に何が」
「赤い手帳。本人記入、エルナ。保護者なし。十二歳。左手首、二本の傷」
レイは左手首を出した。
古傷が二本ある。平行ではなく、先で交わる。いつ、何で切ったかは覚えていない。
保全官が遺留品台帳を開いた。
仮児二一九〇。所持品、赤表紙手帳一。本人記入あり。封印によりインク消失。
調査のため証拠庫へ預けていた赤い手帳が運ばれる。
内表紙へ斜めの光を当てると、白紙から圧痕が浮いた。
エルナ。
十二歳の筆圧だった。最初の「エ」だけが深く、最後の払いが右へ長い。
その下には、別の筆跡がある。
名前が決まるまで、君が見たものを書いておく。
アレンの指が、椅子の背を白く握った。
「私の字です」
「記憶は」
「雨音。小さな手。そこから先はない」
境界を決めた。
レイは、彼が何を感じたか聞かなかった。
「手帳を渡した事実だけ、証言してください」
「五年前、北食堂の裏倉で、この手帳を少女へ渡した。時刻は不明。彼女が名を書いた場面は覚えていない」
エルゼと書記が、視線を交わさず別々に記す。
名前を見ても、記憶は戻らなかった。
胸の空白へ収まる感じもしない。
エルナは、まだ資料に書かれた人物だった。レイより先にこの身体を使っていた、十二歳の少女。
証拠は、もう一つあった。
緊急処置の原本三通。
一通目は、オスカーの計算書。
防壁入力、十万百十三。上限超過。外周仮登録百十三枠の切離しを推奨。予測生存者十万人。予測除外死者百十三人。
二通目は、緊急命令書。
外周仮登録枠を防壁入力集合から除外し、十万名を固定せよ。
署名、アレン・ヴェルム。
十三歳の筆跡は今より丸い。最後の一画だけ、紙を破りそうに強かった。
三通目は、実施証明。
二十三時五十二分、外周枠百十三を切離し。担当、ハンナ・ロウ。
その下へ、追記がある。
零時十九分、西鉛版倉にて生存児一名を回収。識別札なし。処置責任者、ハンナ・ロウ。
「イレーナの搬送は零時三分です」
レイは時刻を見た。
「ハンナは十六分後に私を見つけた」
「資料上は、そうなります」とシオンが答えた。
「その時に手帳を取り上げ、遺留品として記録院へ渡した」
遺留品受付にも、ハンナの署名。
「識別札なし、は嘘です。手帳と腕輪があった」
「はい」
シオンは「嘘」を、薄い言葉へ直さなかった。
室の扉が二度叩かれた。
治療拘束中のイレーナが、護衛二名と弁護人に挟まれて入った。胸は布で固め、右耳には集音具。
彼女は抹消版を見た。次に、レイの左手首。
「エルナ」
名詞を一つ、二人の間へ置いた。
「私を、そう呼んでいましたか」
「一晩だけ」
「なぜ私を運んだんです」
イレーナは聞こえる左耳を向けた。
「手が届いた」
「私を選んだ理由は」
「最初に、手が届いた」
特別だったからではない。運ぶ価値を百十三人へつけたのでもない。
ただ、そこに手が届いた。
「他の子へ戻ろうとした?」
「白雨が来た」
「あなたの息子も」
イレーナの指が、もうない活字を組むように動いた。
「残った」
それ以上は答えなかった。
レイは質問を変えた。
「なぜ鉛版倉へ」
「壁が厚い。鉛は文字を通さない。白い雨も少し遅れる」
「ハンナへ渡した?」
「見つけさせた。私は戻った」
「ハンナが私の身元を隠すと知っていましたか」
「知らない」
イレーナはアレンを見なかった。
「祭礼で私を見て、誰だと」
「大きくなったエルナ。王子を守る側」
「だから矢を射た」
「矢は王子へ」
「私へは」
「来るな、と言いたかった」
「言葉ではなく?」
「五年前、言葉で百十三人が消えた」
弁護人が腕へ触れ、聴取を止める合図をした。
イレーナは退室する前、赤い手帳を見た。
「紙、悪い」
ただの、職人の品質評だった。
「水を吸う。長く残す物じゃない」
「でも、残りました」
「圧だけ」
彼女は護衛とともに出ていった。
午前六時、すべての拓本と原本照合が終わった。
エルナという名。百十三人の番号。オスカーの案。アレンの署名。ハンナの実行。イレーナの搬送。赤い手帳の来歴。
ばらばらだった証拠が、一本の線になった。
線がつながっても、記憶は一つも戻らなかった。
事実は記憶を治さない。
ただ、誰が空白を作ったかだけは、もう隠せない。
4.消された名を前に、私は赤筆を置く
午前九時、校正局の対質室には、責任者の椅子が三脚並んだ。
オスカー、アレン、ハンナ。
机の向こうはレイ一人。隣にエルゼ。シオンは証拠袋を守り、ミラとヨハクは傍聴席。
「原本の内容を認めますか」
レイはオスカーから聞いた。
「認める」
「除外案を作った」
「作った」
「本人と家族へ知らせないことも提案した」
「提案書の第六項だ」
「今も正しいと?」
「当時の条件で期待生存者数を最大化した。手続きには、当事者の異議申立て、事後公開、独立審査が欠けていた」
「百十三人は、事後公開を受けられません」
「死者へは不可能だ。遺族と記録へ行う」
「自分から?」
「命令が出れば」
「命令がなければ」
「防壁更新を優先する」
オスカーは変わらない。レイは、その変わらなさまで記録した。
「アレン・ヴェルム。命令書の署名を認めますか」
「認める」
「十三歳だったから、責任はないと考えますか」
「考えない」
「オスカーの計算を信じた」
「信じた。十一分で他案を検証できず、父王は白雨の負荷で意識を失っていた。私に緊急署名権が移った」
「選択肢は二つだと?」
「全員を残して防壁を割るか、百十三枠を外すか。その二つだけだと聞いた」
「署名した理由は」
アレンの顔が儀礼の形へ整いかける。彼は一度、口を閉じてそれを崩した。
「十万人を生かすためだ」
「百十三人を殺すためではない、と続けますか」
「続けない。目的欄へ何を書いても、結果は百十三人を防壁の外へ出した」
「一人が生き残ったと、いつ知りました」
「三日後。遺留品台帳だけを見た。生存児記録は封印され、身元は知らされなかった」
「なぜ手帳を保管した」
「自分が署名した対象の物を、廃棄命令へ回せなかった」
「返す相手を探しましたか」
「探さなかった」
「なぜ」
「百十三人を選んだ者が、一人の遺留品を大切にすることで、自分を許そうとした」
淡青の目が、まっすぐレイへ向いた。
「それを責任と呼んでいた。違った」
レイは視線を返した。
「私が生存者だと分かってから、依頼した」
「依頼前に確定はしていなかった。封印警報で可能性を知り、知った範囲を説明した」
「私に校正させれば、あなたの罪を私が直す形になります」
「そうなる危険を考えた。だから停止権を入れた」
「私が入れました」
「君が入れ、私は署名した」
言い換えて功績を奪わなかった。それでも、命令書の署名は消えない。
「ハンナ・ロウ」
真鍮の義手が、切断具のように机へ置かれていた。
「百十三枠を切りましたか」
「切った」
「誰の命令で」
「アレンの署名。オスカーの手順」
「実行を拒めましたか」
「法では拒めた。拒めば実行が一分遅れた。俺は切る方を選んだ」
「私を版倉で見つけた」
「見つけた」
「手帳と腕輪を持っていた」
「腕輪は白く割れてた。番号は読めた。手帳にはエルナって圧が残ってた」
「識別札なしと書いた」
「書いた」
「なぜ」
ハンナは砂糖袋へ伸ばした手を止めた。
「名前を戻せば、防壁が十万一になるかもしれなかった。白雨の余波が残ってた」
「余波が終わった後は」
「戻せば、命令が表に出る。おまえを証拠として王宮に取られると思った」
「だから隠した」
「俺の宿舎へ入れ、仮名で働けるようにした」
「質問への答えは」
「隠した」
「私が誰か知っていたのに、三年、見習いのまま戸籍院を回らせた」
「知ってた」
「私が名前を欲しがるたび、今の私なら知っている、と答えた」
「言った」
「守ったつもりですか」
ハンナの左手が拳になった。
「最初は、生かすだけでよかった。次は王宮から隠せばいいと思った。その次は、もう少し待てば話せると思った。毎日、今日じゃない理由を作った」
「答えを」
「守ったつもりだった」
「私は守られたと思っていません」
「分かった」
「今、分かったのですか」
ハンナは答えなかった。
「返事をしてください」
「分かってなかった」
レイは白紙の手帳へ書こうとした。指が動かなかった。
手帳には、ハンナとの三年がある。食べた物。修理した靴。初めて校正局へ入った日。記憶は失われていない。
だから今、一つずつ裏返る。
現場では説明より命を優先する人。
その判断を、危機が終わった後も続けた人。
レイの身体を救い、選ぶ権利を五年間奪った人。
「私の名は、エルナですか」
誰も答えなかった。
原本には、そうある。イレーナは一晩そう呼んだ。ハンナは知っていた。アレンは赤い手帳を渡した。
それでも、その名を今のレイへ貼る権限は、誰にもなかった。
「質問を変えます」
レイは契約書を出した。
「四つの定説を直せば、百十三人が外された事実は直りますか」
「直らない」とシオンが答えた。
「私の戸籍名は」
「別の審査が必要です」
「次の白雨で、名簿にない子どもが来たら」
オスカーが言った。
「現行制度では、容量を越えれば同じ問題が起きる」
「では、この依頼は狭すぎます」
レイは契約書の最初の頁へ赤線を引いた。
魔法の赤筆ではない。
普通の赤鉛筆だった。
「私は、失った旧名を取り戻すために原本を追いました。違いました」
逃げずに言い切るため、レイは主語を選び直した。
「直すべきなのは私の名前ではなく、誰を数に入れるか決める文の主語です」
アレンが息を吸った。
「契約を広げるなら」
「広げません」
停止条項を開く。
依頼者の許可を要さず、受任者レイはいつでも作業を停止できる。
「午前十一時四十六分。この条項により、作業を停止します」
エルゼが時刻を確認した。
「理由を記録しますか」
「はい。依頼対象の根に、依頼者と班員が作り、私へ隠した重大な事実があった。信頼関係は失われました」
「再開条件は」
「今は定めません」
レイは立った。
臨時通行証を机へ置く。王冠庫の閲覧請求札。作戦室の鍵。赤筆だけは自分の腰へ戻す。
シオンが証拠封筒を差し出した。
「赤い手帳は所有権があなたへ移っています。署名命令書と拓本は、被害当事者への証拠貸出しとして封印します。開封にはエルゼの立会いが必要です」
「班を離れても?」
「証拠への権利は、契約報酬ではありません」
赤い手帳、命令書の原本、百十三人の番号。
封筒は、百十三人を入れた重さではなかった。
アレンが椅子から立った。
「送らせてほしい」
「必要ありません」
「では、せめて」
シオンが一歩入り、二人の間へ境界を引いた。
「契約が切れている。彼女の空白を、殿下の後悔で埋めないでください」
アレンは止まった。
人形劇の半券が、胸ポケットから一角だけ出ていた。
レイの半分は、白紙の手帳に挟んである。
境界は、まだ覚えている。
「分かった」
アレンはそれだけ言った。
呼び戻すとも、待つとも言わなかった。
ハンナは扉の脇へ退いた。
手を伸ばさない。
今の謝罪をレイに受け取らせないため、口を閉じたように見えた。
その解釈も、レイは記録しなかった。
正午、レイは校正局を出た。
空には白い雲が薄く広がる。まだ白雨ではない。それでも道行く人は何度も上を見た。
戴冠まで三日。
四つの定説は残っている。
防壁の上限も変わらない。
レイは、自分で一人になった。
宿舎までの道で、二度、名を呼ばれた。
一度目は北区のパン屋だった。
「レイさん、手」
焼きたての丸パンを紙袋ごと差し出している。声は聞こえた。自分宛てだとも分かる。
足だけが止まらなかった。
店主が追いつき、正面へ回る。
「違う人だったか」
「いいえ」
「じゃあ、嫌いな具だった?」
袋から焦がし葱の匂い。好きかどうかの記録はない。
「呼ばれたことに、身体が反応しませんでした」
店主が慰めの言葉を探す前に、レイは袋を受け取った。
「代金は」
「昨日、うちの窯の経路を引いた分」
「報酬契約はありません」
「なら試食だ。嫌なら返せ」
断れる形だったので、レイは受け取った。
二度目は、宿舎の受付だった。
「エルナさん」
帳簿を見た若い事務員が、確かめるように呼んだ。
今度は振り返った。
その途端、胃が強く縮んだ。朝から何も食べていないのに、酸味が喉まで上がる。腕へ力が入り、温かいパンが潰れた。
「その名を、どこで」
「王宮から照合通知が。仮登録の欄へ――」
「今は使わないでください」
声が大きくなり、受付の二人がこちらを見た。
レイは呼吸を四つ数えた。数え直しても、脈は速いままだった。
「レイだけです。エルナを否定する意味ではありません。まだ、呼び名として許可していません」
事務員はすぐ帳簿を閉じた。
「承知しました。誰に共有しますか」
「この宿舎の受付担当だけ。王宮への返送文には、本人確認中と」
手順を言い終えて、ようやく指が紙袋から離れた。
部屋で、赤い手帳と白紙の手帳を並べた。
赤い方の最初の頁へ、エルナと書こうとした。鉛筆の先が紙へ触れない。
白い方へ、レイと書こうとした。
今度は二画目で線が止まった。れ、と書きかけた字が、名前ではない傷のように残る。
証拠上、二つは同じ人間を指す。身体は、その結論を受理しなかった。
レイは二冊の間へ、潰れた丸パンを置いた。葱の焦げた側から齧る。味は分かった。温かい。少し苦い。
名前を書けない間にも、腹は減る。食べれば満ちる。
その事実にだけは、誰の証言もいらなかった。
彼女は新しい白紙を一枚出した。
日付と時刻だけを書く。
旧名を呼ばれ、嘔気。現名を呼ばれ、反応遅延。どちらも選択の証拠として用いない。
最後の一行を、書けないまま残した。
赤い手帳の最初の頁には、逆向きの圧痕でエルナとある。
白紙の手帳の表紙には、自分でレイと書いた。
どちらを名乗るか、誰にも尋ねなかった。
決めないことだけを、自分で決めた。




