↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/12

第5章 十万人の正しさから、百十三人がこぼれた

1.余った百十三杯は、誰のものか

 夜明け前の食堂で、百十三杯が証拠として一列に並んだ。

 椀ではない。五年前の配給原簿に押された青印だ。ミラが登録番号を細紙へ写し、レイが未成年腕輪の欠番と照合する。窓の黒が灰色へ薄まる頃、最後の番号が一致した。

「余りの一杯じゃなかった」

 ミラは床へ座ったまま言った。巻き毛には、三本だった鉛筆が六本刺さっている。

「百十三人が、ここにいた」

「少なくとも配給を受けました」

「そこ、違う?」

「食べ終えたかは記録されていません」

 白雨警報の夜、食堂は臨時避難所だった。子どもは椀を受け取り、配給腕輪を防壁の入力台へ通す。青印は食事と登録、両方の証明だった。

 百十三人は、一度は防壁へ入った。後から切られたのだ。

「この紙、見て」

 ミラが原簿の綴じ目を開いた。糸の下に、薄い灰色の粉が詰まっている。

「鉛です」とレイは言った。

「食堂で?」

「版を入れ替えた者の手からついた可能性があります」

 粉のそばには、縦三本を横線で受ける圧痕。イレーナの職人印だ。祭礼公報にもあった。

 レイは粉と圧痕を別々の証拠紙へ取った。シオンが封印し、時刻と証人を書き込む。

「イレーナは、五年前もこの食堂へ来ていた?」

「出勤票を確認します」とシオンが答えた。「現時点では、印だけです」

「本人に聞けば早い」

「暗殺未遂の被疑者です。肋骨の治療中で、聴取には弁護人が立つ。先に資料を固めます」

 地下では、ただの鍋へ戻った銀鍋が乾かされていた。三十七人の手形は残っても、名前はまだない。

 過去の百十三人まで数だけにすれば、また誰かの都合へ使われる。

 午前七時四十分、レイたちは南区の防壁設計庫へ移った。

 扉を開けたのはオスカー・ヴァルツだった。

 宰相の顔より先に、レイは机の食事を見た。

 黒パン、豆、薄い肉。皿には白い脂の膜。何時間も手をつけていない。

 次に袖口の石粉。その後で、ようやく痩せた顔を見た。

「レイです」

「仮登録番号、現行レイ。十七歳。祭礼校正局見習い。確認した」

「名乗りへの返答としては過剰です」

「不足よりよい」

 オスカーは冗談を言った顔をしなかった。

 壁には五年前の負荷試験表が十二枚。十万までは水平だった線が、十万と一人目で落ちる。十万百十三では、防壁四層のうち三層が連鎖的に割れていた。

「試験は何回」

「小規模模型九百六十回。実寸部分試験二十四回。結果の幅はここだ」

「十万百十三人を残した場合の予測は」

「全層崩壊、七十八・四パーセント。部分崩壊、二十一・六。完全維持、零」

「十万人に減らした場合は」

「完全維持、九十六・二。局地損傷、三・八」

「百十三人を外した場合の死者予測は」

「百十二から百十三」

「残した場合は」

「期待値七万九千五百七十一」

 声は一定だった。レイは数字のたび紙へ枠を描いた。七万九千五百七十一個は描けない。だから数字のまま受け取るしかない。

「除外案を作ったのは、あなたですか」

「そうだ」

 オスカーは鍵束から一本を選び、鉄の抽斗を開けた。

 中には「緊急負荷調整案」と題した紙がある。閲覧請求済みの写しで、原本は記録院に封じられている。

「誰を除外するか、なぜ未成年の仮登録者にしたのです」

「年齢は基準ではない。入力順と物理配置だ」

 設計図の最外周に、細枠が百十三並んでいた。

「臨時避難所の受付が遅れ、仮登録札は正規戸籍の後に外周枠へ並んだ。白雨まで十一分。外周枠なら九十二秒で切れる。内側を選び直せば、最短六時間四十分」

「本人たちへ知らせる時間は」

「なかった」

「家族へは」

「なかった」

「避難場所を変える時間は」

「西の鉛版倉へ全員を運べば、最短十九分。白雨まで十一分だった」

「一人は運べた」

 オスカーの視線が、初めて試験表から外れた。

「それは結果記録で知った。命令時には知らない」

「同じ条件なら、また同じ案を出しますか」

「出す」

 ミラの鉛筆が紙の上で止まった。

「百十三人が子どもだって分かってても?」

「年齢を変えても、七万九千五百七十一と百十三の大小は変わらない」

「だから正しいって?」

「正しいとは言っていない。期待生存者数を最大にすると言っている」

「同じことじゃない」

「同じなら、言葉を分ける必要がない」

 オスカーは机の別の束へ手を置いた。

「私は選ばないという案も書いた。その期待死者数は七万九千五百七十一。全員を守ると宣言し、実際には大半を死なせる案だ。採用しなかった」

「百十三人へ選択を伝えなかった」

「伝えれば入力枠から名を戻す者が出る。十一分で暴動が起きれば、十万人の固定も失敗する」

「つまり、反対されないために隠した」

「そうだ」

 ためらいなく認められると、怒りの置き場が消える。

 謝罪なら許すか拒むかを選べる。正当化なら反証できる。オスカーは行為に名前をつけず、数字と手順だけを机へ出した。

「この石粉は何です」

 レイは彼の袖口を指した。

「五年前から増設している物理防壁の材料。貯水槽、地下連絡路、耐圧扉、移動印刷機を四地区へ置いた。入力が十万百十三でも、魔法防壁の不足を二層まで補える」

「なぜ公表しないのです」

「王冠版の完全性を疑わせれば、反対派が工事予算を止める確率が高かった」

「また隠した」

「工事は八十七パーセント完成した」

「質問への答えではありません」

「隠した。だが完成率は八十七パーセントだ」

 オスカーの黒パンは、数字の横で冷え切っていた。

 レイは設計図の余白を見た。四地区の貯水槽と避難路が、細い線でつながっている。王子の力だけを前提にした図ではない。

 人が扉を開け、火を運び、隣の地区へ水を回す図だった。

「この設備を、四地区の文で動かせますか」

「同じ主語、同じ行為、別々の対象欄を持つ版が四枚あれば、理論上は可能。試験はしていない」

「なぜ」

「王冠庫の親版を外す権限がない。戴冠後の王だけが持つ」

 レイは設計図の番号を書いた。

 今の目的は百十三人の証拠だ。それでも、この細い線は後で必要になる。

 午前十一時、東区の白雨捜索庫。

 五年前の遺留品は、色ごとに棚を分けられていた。

 灰色は石。黒は焼けた物。白は、白雨へ触れて形を失った物。

 白い棚には百十二の箱がある。

 中身は靴紐、髪留め、乳歯、木匙。身体は白い薄片になり、風で散った。残った持ち物だけに処置番号がある。

 未成年腕輪の欠番と、百十二箱の番号が一致した。

 レイは一箱ずつ、番号だけを確かめた。

 中身まで見れば、その子を知った気になってしまう。知らないまま、証拠として扱う必要があった。

 百十二番目の次に、空の場所がある。

 棚札には「生存搬送・西鉛版倉」と記されていた。

「搬送車の記録は」

 シオンが保管官へ尋ねた。

「車体番号西六。御者名は消えています。出発時刻、午前零時三分」

「白雨到達は」

「零時四分です」

 一分。百十三人全員は運べない。一人なら間に合った。

「誰が選んだんです」

 レイは棚札を見たまま尋ねた。

 保管官は帳簿を開いた。

「搬送責任者欄は、職人印だけです」

 三本の縦線を、一本の横線が受けている。

 イレーナ。

「出勤票が届きました」

 エルゼが封筒を持って入ってきた。

 五年前、イレーナは王立印刷局の臨時植字工として北食堂へ派遣されていた。業務は仮登録札の追加と、配給原簿の版交換。

 退勤の署名はない。

 同じ出勤簿に、彼女の息子の臨時腕輪番号が記されていた。

 番号は、白い箱の一つと一致した。

 ミラが紙を伏せた。

「名前は」

「本文にはありません」とシオンが言った。「遺族であるイレーナの同意を得るまで、補わない」

「新聞にも?」

「まだ何も刷りません」

 ミラは返事をしなかった。

 午後五時、三つの場所から資料が校正局へ集まった。

 食堂は、百十三人が配給と防壁入力を受けたと示す。

 設計庫は、百十三枠を後から外したと示す。

 捜索庫は、百十二人の白化と一人の搬送を示す。

 記録を作った人間も目的も違う。同じ誤記を相談して作るには、部署が離れすぎていた。

「裏面証拠検査の条件は整いました」とシオンが言った。「市民公証人、王家側書記、当事者代理人。今夜一時に記録院の封印閲覧室で行います」

「八時間後?」

「湿度を下げてからでなければ、抹消版の裏面圧痕が崩れます。封印解除の立会人も交代させない」

「八時間で戴冠が近づきます」

「急いで壊せば、永久に読めません」

 レイは時計を見た。

 目を閉じれば眠れそうだった。

 けれど瞼の裏には、百十二の白い箱がもう並んでいた。


2.月を盗んだ魚と、二人だけの半券

 午後七時半、シオンはレイとアレンを、文字どおり記録院から追い出した。

「一時まで入館を認めません。食事を取り、二時間は横になること」

「眠れると思いますか」とレイが聞いた。

「思いません。命令は休息です。睡眠ではありません」

「私も?」とアレンが言った。

「肋を打った負傷者は、質問する前に横になってください」

「クロイツ隊長は」

「私は証拠の引継ぎがあります」

 呼び方を訂正する者はいない。

 アレンは黒い塔の記録を読んだ。それでも、シオンを幼なじみの名で呼ぶことは戻らなかった。

 記録院の食堂は閉まっていた。

 二人は護衛を一人だけ連れ、下町へ歩いた。表通りを避け、アレンの白髪を灰色の頭巾へ隠す。結び目がひどく雑だったが、レイは手を出さなかった。

 裏通りのパン屋で、豆の包みを二つ買った。

 隣の空地から、太鼓が聞こえた。

 人形劇の幕が上がるところだった。

 横倒しの木箱へ赤布を掛けただけの舞台。入場料は銅貨一枚。題は「月を盗んだ魚」。券には「月を盗んだ馬」。魚の活字が足りなかったらしい。

「誤植です」

 レイは券を売る老人へ言った。

「馬の人形ならあるぞ」

「題と一致するかの話です」

「魚が壊れたら馬を出す」

「話は成立しますか」

「子どもは太鼓が鳴れば笑う」

 資料としては、まるで足りない。

 アレンが二枚買った。

「休息命令に、人形劇は禁止されていない」

「横になること、と言われました」

 観客は地面の敷物へ座るか、寝転んでいた。

「条件を満たす」

 アレンは敷物へ仰向けになった。レイも反論を失い、その隣へ横向きに身を伸ばした。

 劇は、券よりさらに間違っていた。

 魚は初めから片目がなく、月を盗む理由を途中で忘れた。海の王だけ声が甲高く、老人の腕は何度も幕から出た。

 子どもたちは、そのたびに笑った。

 魚が月を呑み込む場面では、舞台の裏で白い皿を落とす。皿は割れず、地面を転がってレイの膝へ当たった。

 レイは拾い、舞台へ返した。

「月、返った!」

 前列の子どもが叫ぶ。

 老人は一拍も迷わず筋を変えた。

「人間の娘が月を校正したので、海は明るくなりました」

「勝手に配役されました」

「公演料を請求するか」とアレンが小声で言った。

「一行だけなので、銅貨四分の一です」

「細かい」

「適正です」

 アレンの口元が動いた。

 レイはそれを見た。

 手帳には「資料不足で笑う」とある。今の笑いと比べる記憶はない。

 それでも、今の場面は今のものだった。

 劇の途中で魚が壊れ、宣言どおり馬が海へ飛び込んだ。

「あれは好きだ」とアレンが言った。

「何が」

「壊れたことを隠さず、馬を出したところ」

「物語は破綻しています」

「魚のふりをさせるよりいい」

 四本脚で水を掻くたび、馬は幕へ絡んだ。老人はほどくのを諦め、海ごと持ち上げた。

「あなたは何が好きですか」

「質問の範囲が広すぎます」

「仕事に関係ないもの」

 考えた。

 好きな色。好きな料理。好きな季節。

 どれを選んでも、採点される気がした。

「本の最後にある白い頁」

「何も書かれていない頁?」

「本文が終わった後にも、紙が一枚残っていると安心します。書き足せるから」

「私は焦げたパンの端」

 アレンは豆の包みから、パンの黒い部分だけをちぎった。

「それは今も覚えているんですか」

 問いが出てから、レイの手が止まった。

 昨日の焦げたパンは、自分から消えた。アレンには残っている。

「覚えている。だが、昨日の内容は言わない」

 彼は豆を一粒、紙の端へ転がした。

「君に頼まれない限り、穴へ足さないと約束したらしい。記録で読んだ」

「約束した場面を、私は失いました」

「そうか」

 彼は残念とも申し訳ないとも言わなかった。その沈黙が、いちばん境界に近かった。

 舞台の海が裏返り、布の裏に書かれた値段が見えた。

 赤布一枚、銅貨三。

 月の皿、借り物。

 観客には見えないはずの制作費だった。老人は慌てて布を戻す。子どもたちは海の値段を知って、さらに笑った。

「王宮の幕には、値段が書いてありません」とアレンが言った。

「帳簿にはあります」

「観客から見えない」

「見せたくないからでしょう」

「海が銅貨三枚だと分かると、物語が壊れる?」

「壊れません。安く作った人の工夫が見えます」

 アレンは幕から出た老人の肘を見た。三体ぶんの糸が、腕へ食い込んでいる。

「王子の奇跡にも、値段を書けばよかった」

「誰が払ったかも」

「そうだな」

 会話が仕事へ戻りかけ、アレンが豆を一粒、指で転がした。

「仕事に関係ない質問を続けても?」

「一つずつ」

「右頁と左頁なら」

「左」

「理由は」

「めくった直後に全体が見える」

「窓側と通路側」

「通路。何人出入りしたか数えやすい」

「理由が全部仕事に戻る」

「あなたは」

「窓側。逃げられない会議でも、空は議事録に入らない」

「雲を数えるのは仕事ですか」

 アレンは少し考えた。

「仕事から逃げるための作業」

「非効率です」

「非効率な好みを聞いている」

 レイは自分の手を見た。

 赤筆を使うたび、役に立たない場面から消えるように見える。命を救った事実は記録へ残り、笑い方、水桶の冷たさ、焦げた味が抜けていく。

「白紙の手帳を買う時、同じ紙でも表紙の色を比べます」

「何色を選ぶ」

「その時、棚で一番少ない色」

「理由は」

「売れ残っているように見えるので」

「それは救助か?」

「購買です」

 アレンが笑った。

 レイは今度、すぐ手帳を開かなかった。数秒だけ、笑いを現在のまま置いた。

 舞台では、月を盗んだ馬が罪を問われていた。月を返したので無罪にする、と海の王が言う。前列の少女が「盗んだのは消えない」と反論し、老人が慌てて刑を一日追加した。

「私とあなたが五年前に会った証拠が、今夜出るかもしれません」

 レイは舞台を見たまま言った。

「そうだな」

「私が何を思っていたか、あなたが覚えていても、先に言わないでください」

「分かった」

「証拠に必要な事実は聞きます。手帳を渡した。言葉を言った。何時だった。その範囲です」

「感情は」

「聞きません」

「君が私へ持っていた感情も?」

「あなたが私へ持っていた感情も」

 アレンは返事を急がなかった。

 人形の糸が一本切れた。馬の首が落ち、子どもが笑った。

「もし、聞きたくなった時は」

「その時に、今の私が頼みます」

「では、私も同じにする。君が覚えていない過去を、私の望む形へ使わない。私が忘れたことを、君に演じさせない」

「シオンとの記憶も?」

「記録を読んだから、幼なじみらしい振る舞いをすることはできる。しない。彼女が必要としているのは演技ではないと思う」

「本人に確認してください」

「そうする」

 レイは豆の包みを折った。

「この境界を、議事録へ入れますか」

「入れない方がいい」

「なぜ」

「仕事に関係ないものを、一つくらい持ってみたい」

 王子には危険な答えだった。レイは訂正しなかった。

 入場券の「馬」へ赤鉛筆で小さく線を引き、隣へ「魚」と書く。現実を変えない、ただの校正だった。

「半分ください」

 券を縦へ裂いた。

 一方をアレンへ渡す。

「記録しないのでは?」

「記録ではありません。半券です」

「違いは」

「私たちだけが、何の券か知っています」

 アレンは半券を受け取った。

 護衛が少し離れた場所から、時計を示した。

 休息時間が終わる。

 結末では、月を返した馬が海の番人になった。罪を消す代わりに、次の夜から自分で月の位置を確かめる。

 前列の少女は、今度は反論しなかった。

 帰り道、アレンが訊いた。

「安い人形劇は、好きなものに入りますか」

「活字が足りない入場券は入ります」

「劇は?」

 レイは少し考えた。

「結末だけなら」

 記録院の時計が、遠くで八時半を打った。

 五年前の原本が開くまで、あと四時間半だった。


3.白紙の裏から、私の名が呼ぶ

 午前一時、王立記録院の封印閲覧室に、十人が入った。

 レイ、アレン、シオン、エルゼ、ミラ、ヨハク、王家側書記、保全官二名、市民側の版職人一名。

 ハンナは入室を断られた。

 五年前の処置を実行した当事者だからだ。オスカーも別室にいた。

 誰かの証言へ合わせて原本の読み方を変えないため、先に物を読む。

 現王の許可なしに解けないのは、抹消版の表面を覆う王権封印だ。今夜の令状が許すのは、外箱の開封と裏面の非破壊検査だけ。削られた表面を刷り直すことも、消えた本文を復元することもできない。

 市民証拠院の令状番号をエルゼが読み、王家側書記が許可範囲を復唱した。二人の文が一致してから、保全官は外箱へ触れた。

 抹消版は、三重の沈黙に収められていた。

 木箱。鉄箱。最後に、透明な封蝋で固めた鉛の版。

 表面は平らだった。

 活字を抜いたのではない。文字ごと削り、二度と刷れないよう溶かしてある。滑らかな鉛面に、名前も番号もない。

「裏返します」

 保全官が四隅の留め具を外した。

 裏には薄い木板が貼られていた。表で活字を締めた圧力が、木の繊維まで届いている。

 光を斜めから当てる。

 逆向きの文字が浮かんだ。

「読める」

 ミラが息を吸った。

「声にしないでください」とシオンが言った。「まず拓本。原位置と照明角度を記録します」

 墨は使えない。木が湿気を吸う。市民側の版職人が薄紙を置き、乾いた黒鉛を寝かせた。凹みだけが白く残り、鏡写しの文字が浮く。

 百十三行。

 すべて、仮登録児の番号だった。

 二〇七八から二一九〇。各行に名前がある。黒い紙片で覆われた腕輪台帳と違い、ここには削る前の圧力が残っていた。

「鏡で反転します」

 保全官が拓本の前へ鏡を立てた。

 ヨハクが、印字の向きへ首を傾けた。

「内側、もっと読める」

「何がある」

「紙、重なった前」

 保全官が、鉛版と木板の間から別の一枚を取り出した。

 五年前、確認刷りを包んだ封印間紙だった。今作った拓本ではない。両面を当時の印刷機で黒く潰され、証拠番号つきの糸で木板へ留められている。紙層には、黒で隠す前の印圧が残っていた。

 新規拓本にあるのは、表から読める逆圧痕だけ。五年前の間紙には、刷り潰された黒の内側へ、消された確認刷りの順序が残っている。

「入れますか」とレイが聞いた。

「黒、入口。裏、出口ある」

「封印手順第十二条」とシオンが言った。「紙面内の観察者を使う場合、見た文字を本人に復唱させ、二名が別々に転記する。物品を持ち出さない。ヨハク、同意する?」

「する」

「途中で苦しくなったら」

「出る」

「戻れない場合は」

「別の印刷面。壁の目録」

「許可します」

 ヨハクは間紙の黒へ手を置いた。

 指先が平らになり、手首、肩、横顔の順に紙へ沈む。踵が消えると、黒鉛の面へ小さな波紋が広がった。

 室内の壁に、封印物目録が貼られている。

 三分後、その「抹消版」の行からヨハクの顔が出た。

「逆」

 彼は上下も左右も反対のまま言った。

「戻ってから話して」とミラが言った。

「こっちが戻り方」

 ヨハクは紙面の外へ身体を回し、床へ落ちた。鼻から黒鉛を一度吹いた。

「百十三。名前、全部。最後、エルナ」

 レイの指先から、紙の感触が消えた。

「番号は」

「仮児二一九〇」

 名前だけで、レイと同一人物にしてはいけない。

 仮児二一九〇が生き残った。

 現在のレイの仮登録末尾が九〇。

 番号を後から流用した可能性もある。王宮が生存者へ都合のよい身元を貼った可能性も残る。

 レイは自分から反証候補を挙げた。

「別人説を残します。身体特徴、筆跡、所持品の移動を独立に照合してください」

「本人が、それを言うの?」とミラが聞いた。

「私だからです。エルナであってほしい期待が、読み方へ混ざります」

 保全官は三つの照合票を出した。

 一枚目、身体。

 左手首の二本傷だけでは弱い。五年前の救護記録には、右膝の火傷痕、上顎の欠けた乳歯、左利きとある。

 レイの右膝には、三日月形の痕がある。

 欠けた乳歯はすでに抜けているが、宿舎へ来た時の診療票に同じ位置が記録されていた。

 筆記は右手で行う。だが物を投げる時と、扉を押す時は左が先に出る。

 二枚目、筆跡。

 十二歳と十七歳では字形が変わる。見るのは筆順だ。エルナの「ナ」は二画目を途中で止め、戻って払い直す。レイが急いで「名」と書く時も、最後の払いに同じ二重圧ができる。

 市民側の筆跡鑑定人が、別人三十人の資料と混ぜて比較した。

「同一人物の成長筆跡である確率、高。ただし単独では確定に使わない」

 三枚目、所持品。

 赤い手帳の背には、仮児二一九〇の腕輪から移った緑色の染料がある。手帳を遺留品として受け付けた時刻と、レイが版倉で回収された時刻の間は十一分。受付署名はハンナ。途中で別の子へ渡る経路は記録上ない。

 三本の証拠の鎖が、同じ一点へ集まる。

 王家の証言がなくても。

 アレンが運命的な再会だと言わなくても。

 現在の身体、筆跡、物だけで、仮児二一九〇とレイはつながった。

 赤い手帳の内表紙。

 水で消えた番号の末尾、九〇。

「他に何が」

「赤い手帳。本人記入、エルナ。保護者なし。十二歳。左手首、二本の傷」

 レイは左手首を出した。

 古傷が二本ある。平行ではなく、先で交わる。いつ、何で切ったかは覚えていない。

 保全官が遺留品台帳を開いた。

 仮児二一九〇。所持品、赤表紙手帳一。本人記入あり。封印によりインク消失。

 調査のため証拠庫へ預けていた赤い手帳が運ばれる。

 内表紙へ斜めの光を当てると、白紙から圧痕が浮いた。

 エルナ。

 十二歳の筆圧だった。最初の「エ」だけが深く、最後の払いが右へ長い。

 その下には、別の筆跡がある。

 名前が決まるまで、君が見たものを書いておく。

 アレンの指が、椅子の背を白く握った。

「私の字です」

「記憶は」

「雨音。小さな手。そこから先はない」

 境界を決めた。

 レイは、彼が何を感じたか聞かなかった。

「手帳を渡した事実だけ、証言してください」

「五年前、北食堂の裏倉で、この手帳を少女へ渡した。時刻は不明。彼女が名を書いた場面は覚えていない」

 エルゼと書記が、視線を交わさず別々に記す。

 名前を見ても、記憶は戻らなかった。

 胸の空白へ収まる感じもしない。

 エルナは、まだ資料に書かれた人物だった。レイより先にこの身体を使っていた、十二歳の少女。

 証拠は、もう一つあった。

 緊急処置の原本三通。

 一通目は、オスカーの計算書。

 防壁入力、十万百十三。上限超過。外周仮登録百十三枠の切離しを推奨。予測生存者十万人。予測除外死者百十三人。

 二通目は、緊急命令書。

 外周仮登録枠を防壁入力集合から除外し、十万名を固定せよ。

 署名、アレン・ヴェルム。

 十三歳の筆跡は今より丸い。最後の一画だけ、紙を破りそうに強かった。

 三通目は、実施証明。

 二十三時五十二分、外周枠百十三を切離し。担当、ハンナ・ロウ。

 その下へ、追記がある。

 零時十九分、西鉛版倉にて生存児一名を回収。識別札なし。処置責任者、ハンナ・ロウ。

「イレーナの搬送は零時三分です」

 レイは時刻を見た。

「ハンナは十六分後に私を見つけた」

「資料上は、そうなります」とシオンが答えた。

「その時に手帳を取り上げ、遺留品として記録院へ渡した」

 遺留品受付にも、ハンナの署名。

「識別札なし、は嘘です。手帳と腕輪があった」

「はい」

 シオンは「嘘」を、薄い言葉へ直さなかった。

 室の扉が二度叩かれた。

 治療拘束中のイレーナが、護衛二名と弁護人に挟まれて入った。胸は布で固め、右耳には集音具。

 彼女は抹消版を見た。次に、レイの左手首。

「エルナ」

 名詞を一つ、二人の間へ置いた。

「私を、そう呼んでいましたか」

「一晩だけ」

「なぜ私を運んだんです」

 イレーナは聞こえる左耳を向けた。

「手が届いた」

「私を選んだ理由は」

「最初に、手が届いた」

 特別だったからではない。運ぶ価値を百十三人へつけたのでもない。

 ただ、そこに手が届いた。

「他の子へ戻ろうとした?」

「白雨が来た」

「あなたの息子も」

 イレーナの指が、もうない活字を組むように動いた。

「残った」

 それ以上は答えなかった。

 レイは質問を変えた。

「なぜ鉛版倉へ」

「壁が厚い。鉛は文字を通さない。白い雨も少し遅れる」

「ハンナへ渡した?」

「見つけさせた。私は戻った」

「ハンナが私の身元を隠すと知っていましたか」

「知らない」

 イレーナはアレンを見なかった。

「祭礼で私を見て、誰だと」

「大きくなったエルナ。王子を守る側」

「だから矢を射た」

「矢は王子へ」

「私へは」

「来るな、と言いたかった」

「言葉ではなく?」

「五年前、言葉で百十三人が消えた」

 弁護人が腕へ触れ、聴取を止める合図をした。

 イレーナは退室する前、赤い手帳を見た。

「紙、悪い」

 ただの、職人の品質評だった。

「水を吸う。長く残す物じゃない」

「でも、残りました」

「圧だけ」

 彼女は護衛とともに出ていった。

 午前六時、すべての拓本と原本照合が終わった。

 エルナという名。百十三人の番号。オスカーの案。アレンの署名。ハンナの実行。イレーナの搬送。赤い手帳の来歴。

 ばらばらだった証拠が、一本の線になった。

 線がつながっても、記憶は一つも戻らなかった。

 事実は記憶を治さない。

 ただ、誰が空白を作ったかだけは、もう隠せない。


4.消された名を前に、私は赤筆を置く

 午前九時、校正局の対質室には、責任者の椅子が三脚並んだ。

 オスカー、アレン、ハンナ。

 机の向こうはレイ一人。隣にエルゼ。シオンは証拠袋を守り、ミラとヨハクは傍聴席。

「原本の内容を認めますか」

 レイはオスカーから聞いた。

「認める」

「除外案を作った」

「作った」

「本人と家族へ知らせないことも提案した」

「提案書の第六項だ」

「今も正しいと?」

「当時の条件で期待生存者数を最大化した。手続きには、当事者の異議申立て、事後公開、独立審査が欠けていた」

「百十三人は、事後公開を受けられません」

「死者へは不可能だ。遺族と記録へ行う」

「自分から?」

「命令が出れば」

「命令がなければ」

「防壁更新を優先する」

 オスカーは変わらない。レイは、その変わらなさまで記録した。

「アレン・ヴェルム。命令書の署名を認めますか」

「認める」

「十三歳だったから、責任はないと考えますか」

「考えない」

「オスカーの計算を信じた」

「信じた。十一分で他案を検証できず、父王は白雨の負荷で意識を失っていた。私に緊急署名権が移った」

「選択肢は二つだと?」

「全員を残して防壁を割るか、百十三枠を外すか。その二つだけだと聞いた」

「署名した理由は」

 アレンの顔が儀礼の形へ整いかける。彼は一度、口を閉じてそれを崩した。

「十万人を生かすためだ」

「百十三人を殺すためではない、と続けますか」

「続けない。目的欄へ何を書いても、結果は百十三人を防壁の外へ出した」

「一人が生き残ったと、いつ知りました」

「三日後。遺留品台帳だけを見た。生存児記録は封印され、身元は知らされなかった」

「なぜ手帳を保管した」

「自分が署名した対象の物を、廃棄命令へ回せなかった」

「返す相手を探しましたか」

「探さなかった」

「なぜ」

「百十三人を選んだ者が、一人の遺留品を大切にすることで、自分を許そうとした」

 淡青の目が、まっすぐレイへ向いた。

「それを責任と呼んでいた。違った」

 レイは視線を返した。

「私が生存者だと分かってから、依頼した」

「依頼前に確定はしていなかった。封印警報で可能性を知り、知った範囲を説明した」

「私に校正させれば、あなたの罪を私が直す形になります」

「そうなる危険を考えた。だから停止権を入れた」

「私が入れました」

「君が入れ、私は署名した」

 言い換えて功績を奪わなかった。それでも、命令書の署名は消えない。

「ハンナ・ロウ」

 真鍮の義手が、切断具のように机へ置かれていた。

「百十三枠を切りましたか」

「切った」

「誰の命令で」

「アレンの署名。オスカーの手順」

「実行を拒めましたか」

「法では拒めた。拒めば実行が一分遅れた。俺は切る方を選んだ」

「私を版倉で見つけた」

「見つけた」

「手帳と腕輪を持っていた」

「腕輪は白く割れてた。番号は読めた。手帳にはエルナって圧が残ってた」

「識別札なしと書いた」

「書いた」

「なぜ」

 ハンナは砂糖袋へ伸ばした手を止めた。

「名前を戻せば、防壁が十万一になるかもしれなかった。白雨の余波が残ってた」

「余波が終わった後は」

「戻せば、命令が表に出る。おまえを証拠として王宮に取られると思った」

「だから隠した」

「俺の宿舎へ入れ、仮名で働けるようにした」

「質問への答えは」

「隠した」

「私が誰か知っていたのに、三年、見習いのまま戸籍院を回らせた」

「知ってた」

「私が名前を欲しがるたび、今の私なら知っている、と答えた」

「言った」

「守ったつもりですか」

 ハンナの左手が拳になった。

「最初は、生かすだけでよかった。次は王宮から隠せばいいと思った。その次は、もう少し待てば話せると思った。毎日、今日じゃない理由を作った」

「答えを」

「守ったつもりだった」

「私は守られたと思っていません」

「分かった」

「今、分かったのですか」

 ハンナは答えなかった。

「返事をしてください」

「分かってなかった」

 レイは白紙の手帳へ書こうとした。指が動かなかった。

 手帳には、ハンナとの三年がある。食べた物。修理した靴。初めて校正局へ入った日。記憶は失われていない。

 だから今、一つずつ裏返る。

 現場では説明より命を優先する人。

 その判断を、危機が終わった後も続けた人。

 レイの身体を救い、選ぶ権利を五年間奪った人。

「私の名は、エルナですか」

 誰も答えなかった。

 原本には、そうある。イレーナは一晩そう呼んだ。ハンナは知っていた。アレンは赤い手帳を渡した。

 それでも、その名を今のレイへ貼る権限は、誰にもなかった。

「質問を変えます」

 レイは契約書を出した。

「四つの定説を直せば、百十三人が外された事実は直りますか」

「直らない」とシオンが答えた。

「私の戸籍名は」

「別の審査が必要です」

「次の白雨で、名簿にない子どもが来たら」

 オスカーが言った。

「現行制度では、容量を越えれば同じ問題が起きる」

「では、この依頼は狭すぎます」

 レイは契約書の最初の頁へ赤線を引いた。

 魔法の赤筆ではない。

 普通の赤鉛筆だった。

「私は、失った旧名を取り戻すために原本を追いました。違いました」

 逃げずに言い切るため、レイは主語を選び直した。

「直すべきなのは私の名前ではなく、誰を数に入れるか決める文の主語です」

 アレンが息を吸った。

「契約を広げるなら」

「広げません」

 停止条項を開く。

 依頼者の許可を要さず、受任者レイはいつでも作業を停止できる。

「午前十一時四十六分。この条項により、作業を停止します」

 エルゼが時刻を確認した。

「理由を記録しますか」

「はい。依頼対象の根に、依頼者と班員が作り、私へ隠した重大な事実があった。信頼関係は失われました」

「再開条件は」

「今は定めません」

 レイは立った。

 臨時通行証を机へ置く。王冠庫の閲覧請求札。作戦室の鍵。赤筆だけは自分の腰へ戻す。

 シオンが証拠封筒を差し出した。

「赤い手帳は所有権があなたへ移っています。署名命令書と拓本は、被害当事者への証拠貸出しとして封印します。開封にはエルゼの立会いが必要です」

「班を離れても?」

「証拠への権利は、契約報酬ではありません」

 赤い手帳、命令書の原本、百十三人の番号。

 封筒は、百十三人を入れた重さではなかった。

 アレンが椅子から立った。

「送らせてほしい」

「必要ありません」

「では、せめて」

 シオンが一歩入り、二人の間へ境界を引いた。

「契約が切れている。彼女の空白を、殿下の後悔で埋めないでください」

 アレンは止まった。

 人形劇の半券が、胸ポケットから一角だけ出ていた。

 レイの半分は、白紙の手帳に挟んである。

 境界は、まだ覚えている。

「分かった」

 アレンはそれだけ言った。

 呼び戻すとも、待つとも言わなかった。

 ハンナは扉の脇へ退いた。

 手を伸ばさない。

 今の謝罪をレイに受け取らせないため、口を閉じたように見えた。

 その解釈も、レイは記録しなかった。

 正午、レイは校正局を出た。

 空には白い雲が薄く広がる。まだ白雨ではない。それでも道行く人は何度も上を見た。

 戴冠まで三日。

 四つの定説は残っている。

 防壁の上限も変わらない。

 レイは、自分で一人になった。

 宿舎までの道で、二度、名を呼ばれた。

 一度目は北区のパン屋だった。

「レイさん、手」

 焼きたての丸パンを紙袋ごと差し出している。声は聞こえた。自分宛てだとも分かる。

 足だけが止まらなかった。

 店主が追いつき、正面へ回る。

「違う人だったか」

「いいえ」

「じゃあ、嫌いな具だった?」

 袋から焦がし葱の匂い。好きかどうかの記録はない。

「呼ばれたことに、身体が反応しませんでした」

 店主が慰めの言葉を探す前に、レイは袋を受け取った。

「代金は」

「昨日、うちの窯の経路を引いた分」

「報酬契約はありません」

「なら試食だ。嫌なら返せ」

 断れる形だったので、レイは受け取った。

 二度目は、宿舎の受付だった。

「エルナさん」

 帳簿を見た若い事務員が、確かめるように呼んだ。

 今度は振り返った。

 その途端、胃が強く縮んだ。朝から何も食べていないのに、酸味が喉まで上がる。腕へ力が入り、温かいパンが潰れた。

「その名を、どこで」

「王宮から照合通知が。仮登録の欄へ――」

「今は使わないでください」

 声が大きくなり、受付の二人がこちらを見た。

 レイは呼吸を四つ数えた。数え直しても、脈は速いままだった。

「レイだけです。エルナを否定する意味ではありません。まだ、呼び名として許可していません」

 事務員はすぐ帳簿を閉じた。

「承知しました。誰に共有しますか」

「この宿舎の受付担当だけ。王宮への返送文には、本人確認中と」

 手順を言い終えて、ようやく指が紙袋から離れた。

 部屋で、赤い手帳と白紙の手帳を並べた。

 赤い方の最初の頁へ、エルナと書こうとした。鉛筆の先が紙へ触れない。

 白い方へ、レイと書こうとした。

 今度は二画目で線が止まった。れ、と書きかけた字が、名前ではない傷のように残る。

 証拠上、二つは同じ人間を指す。身体は、その結論を受理しなかった。

 レイは二冊の間へ、潰れた丸パンを置いた。葱の焦げた側から齧る。味は分かった。温かい。少し苦い。

 名前を書けない間にも、腹は減る。食べれば満ちる。

 その事実にだけは、誰の証言もいらなかった。

 彼女は新しい白紙を一枚出した。

 日付と時刻だけを書く。

 旧名を呼ばれ、嘔気。現名を呼ばれ、反応遅延。どちらも選択の証拠として用いない。

 最後の一行を、書けないまま残した。

 赤い手帳の最初の頁には、逆向きの圧痕でエルナとある。

 白紙の手帳の表紙には、自分でレイと書いた。

 どちらを名乗るか、誰にも尋ねなかった。

 決めないことだけを、自分で決めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。