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第3章 王子の慈善鍋は、三十七人を食べた

1.厨房には、三十七人ぶんの不在がいる

 北区の慈善食堂は、昼前から夕食の匂いを吐いていた。

 煮豆、玉葱、古い香草。地下へ一段下りるたび、空腹そのものが薄くなる。満たされるのではない。腹が減っていた事実を、匂いに消されていく。

「吸い込むな」

 先を行くハンナが、濡れ布を投げた。

「鼻を使わず歩けません」

「口を塞げって意味だ」

「最初からそう言ってください」

 布には酢が染みていた。酸味の奥で、煮豆の甘さだけが腐っている。

 地下厨房の入口に、白い陶板が掛かっていた。

 王子は民を飢えさせない。

 黒点は文字の縁を埋め尽くしている。公報から写した派生版だ。右下に、配給版について王立印刷局の委任を受けた慈善局封印官の認可印と、王立記録院の保全印。その下で数字が勝手に増えていた。

 本日配給済み、五百六十二名。

 扉の外には、まだ百人以上が並んでいる。

「朝に五百六十二人へ?」

 食堂監督のパウラが、白い前掛けの紐を結び直した。

「二百杯だけです。釜を開けたら帳簿は五百を越えていて。閉めようにも、鍵が利かなくて」

「料理人は何人」

「三人です」

「前掛けは四十枚あります」

 パウラは、余り物を数える子どもを見るようにレイを見た。

「寄付ですよ。昔から余分に――」

「昨夜、何枚洗いました」

「使った分を毎晩……」

 声がしぼむ。洗濯籠で乾いているのは三枚。残る三十七枚は奥の鉤に掛かり、胸には油、裾には今朝の泥が跳ねていた。

 裾の長さが違う。右脇だけ緑糸で繕ったもの、香草の丸い染みがあるもの、小麦袋で左腰だけ白く擦れたもの。

 備品四十枚ではない。四十人の身体に馴染んだ作業着だった。

 靴棚にも三十七の空きがある。靴はなく、泥の跡だけが残る。大きい足、小さい足、片方の踵を引きずる足。埃だけが、その人たちの歩き方を覚えていた。

 レイは泥跡と前掛けを順に結んだ。小柄な足には短い裾。踵を引いた跡には、右側だけ擦れた布。名前がなくても、身体の差分は消え切っていない。

 数だけなら三十七で終わる。布を見れば、一人ずつ違った。

「給与簿を」

「三人分なら事務室に」

「四十人分を探してください」

 金庫には、今月の給与袋が四十あった。名があるのは三つ。三十七は宛名の墨だけ、紙の繊維ごと白く抜けている。

 硬貨の枚数は袋ごとに違った。

「働いていない人へ、なぜ別々の額を?」

「予備、かしら」

「勤務日数を数えた人がいます」

 パウラは自分の袋と、隣の白い袋を数え比べた。

「これは、私より二日少ない」

「誰が休んだ二日ですか」

「分からない」

 その一言で、彼女の顔に初めて恐怖が浮いた。

 シオンが三十七袋を証拠箱へ移す。

「名から追えないなら、勤務区域、靴の寸法、繕い糸、給与額で家族を照会します」

「家族も忘れてたら?」とミラが言った。

「椅子や寝床までは忘れない」

 正午前、最初の照会が返った。厨房裏の老女宅に、使われない椅子が一脚ある。食事は一人分なのに椅子は二脚。押入れには、去年仕立てた男物の上着。近所は、夫なら二十年前に死んだと言った。

 その上着と前掛けの一枚が、同じ緑糸で繕われていた。

 名は戻らない。

 ただ、その人が働き、誰かと食べた空間だけが先に戻った。

 老女は、二脚目を捨ててよいか尋ねたという。誰の椅子か分からないのに、捨てると胸が痛む、と。記憶より先に身体が拒んでいた。

「この結び目は、あなたのものですか」

 レイは右だけ二重になった腰紐を示した。

「違います」

「三人のうち、誰が」

「三人?」

 パウラが、自分で答えた数に怯えて瞬いた。

 奥で包丁が動いた。

 誰の手もないのに、干し肉が同じ厚さへ切られていく。別の台では、空の袖が粉をこねていた。人を消した後も、仕事だけが働かされている。

 ミラの鉛筆が紙を引っかいた。

「前掛け四十。働く影三十七。生きてる料理人三人。一面で算数を――」

「まだ刷るな」とシオンが切った。「家族照会と職員台帳の原本が先です」

 レイは陶板へ指を近づけ、触れずに熱を測った。

「文はまず、食事を配ったことにする。それでも『飢えた民』が残れば、飢えを知る人を記録から消す。配給不足を毎日見る料理人は、最初に邪魔になる」

「誰を消したっていうんです」

「名前はまだありません。人数は三十七です」

「そんな人、最初から――」

 腹の鳴る音が、パウラの否定を切った。

 扉脇に子どもが座り込み、空の木椀を抱えていた。短い髪、緑の配給腕輪。自分の腹が声を出したことに驚いている。

 レイは膝をついた。

「名前は」

「ノア」

「最後に食べたのは」

 子どもは陶板を見上げた。

「朝」

「今日の?」

「たぶん」

 小札には、ノア・フェル、保護施設七番、八歳。裏の今日、昨日、一昨日すべてに、配給済みの青印がある。

 だが頬の内側は乾き、爪は青い。三日食べていない身体だった。

 椀の縁には歯形があった。中身がなくても、噛めば空腹を黙らせられると思ったのかもしれない。レイはそう決めつけず、傷の数だけを覚えた。

「この子へ今すぐ」

 鍋へ向かうハンナを、レイは止めた。

「待てる顔か」

「同じ鍋から出せば、また配ったことにされます。別の食料を」

 ヨハクが献立表へ腕を差し入れた。輪郭が紙面へほどけ、五秒後、反対側の納品票から未開封の乾パン箱を抱いて出る。

「裏倉庫。四十八」

 ハンナが乾パンを砕き、湯へ浸した。ノアは椀を見つめたまま、受け取らない。

「青い印、あるよ」

「印は食事ではありません」

「でも、もらったって」

「帳簿が間違っています」

 レイは同じ箱から一片を取り、先に噛んだ。固く、古い油の味がした。

「これは帳簿へ載せません。あなたが今、食べる分です」

「食べても、いいの」

「あなたの空腹に許可はいりません」

 ノアが口へ運ぶ。

 一口目は長く噛み、二口目は急いだ。三口目でようやく、椀を抱く肩から力が抜けた。

 陶板の数字が五百六十三へ増えた。

「この一口まで、鍋は自分の実績にしました」

 陶板の奥で、爪が金属を掻いた。

 地下中央の銀鍋は、三人で囲むほど大きい。建国五十年に王家から贈られ、胴には若いアレンが貧しい子へスープを渡す姿が彫られていた。

 アレンが彫刻を見た。

「あの日、私はここにいなかった」

「贈呈式ですか」

「熱で寝ていた。代役の手を写し、顔だけ後で私に直した」

「でも、殿下が最初の一杯を」

 パウラの声へ、アレンは事実だけを返した。

「記録はそうなっている」

 彫刻の王子は、湯気の向こうで笑っている。入口のアレンは笑わなかった。訂正を求める顔ではなく、自分の不在を証言する顔だった。

 鍋の蓋が浮いた。

 スープはない。銀色の活字が煮立っていた。

 無数の「配給済み」が泡となり、弾けるたび献立表へ青印が増える。空の袖が一斉に鍋を向き、存在しない手で柄を掴んだ。

 油と鉛の臭いが酢布を突き抜ける。食べ物の匂いだったはずのものが、文字を煮る臭いへ裏返った。

「下がれ!」

 シオンが剣を抜く。

 料理人の青年が、床を滑った。背を向けていたのに、前掛けの紐だけが銀の縁へ引かれている。ハンナは義手で調理台を掴み、左手で青年の腕を取った。

「紐を切れ!」

 刃が走り、前掛けだけが鍋へ落ちた。

 次に引かれたのは、青年の名だった。

 胸の木札から墨が剥がれ、銀鍋へ吸われる。パウラが呼ぼうと口を開いた。

「あなた、誰」

 青年の顔から血の気が失せる。

 足首が、もう透けていた。

「三十八人目」

 レイは陶板へ駆けた。


2.あなたの笑顔で、六十秒を買う

 陶板を割れば、厨房の派生版は止まる。

 同じ版番号で結ばれた帳簿、倉庫、三つの食堂も止まる。代わりの文を用意せず壊せば、今夜の食事まで失わせる。

「反証はあります」

 レイは膝まで透けた青年を見た。

「配給済みなのに飢えたノア。存在を消される料理人。文は破綻しています」

「訂正文がない。使う千人もいない」とシオンが言う。「赤筆以外では止められません」

「分かっています」

 レイは赤鉛筆を抜いた。

「待ってくれ」

 アレンが一歩だけ出た。

「使うかは私が決めます」

「止めない。契約の確認だ」

 そこで足を止める。

「代償が私との記憶なら、説得する資格は私にない。だが君には、使わない権利がある。急いでいる時ほど、それを言わせてほしい」

 ハンナの義手が調理台へ食い込み、石床へ筋を刻む。もう青年の腿まで消えていた。

 王子は民を飢えさせない。

 主語と述語のあいだに、三十七人分の空白が挟まっている。

 その空白へ、いまジルの身体が少しずつ沈んでいく。規則を待てば間に合わない。規則を捨てれば、次の食事が消える。どちらを選んでも、誰かの腹へ届く判断だった。

「確認しました」

「返事は」

「使います」

 赤筆を述語へ当てた。

 世界の本文が遠のく。

 ――訂正料。この記憶。

 作戦室。天井のひび、二十三本。

 資料へ埋もれたレイが、五年前と四つの親版を問い詰めている。向かいの白髪の青年は、息を一つ崩した。

 笑った。

 幅まで整えた祭礼の微笑ではない。困った時だけ片方の肩が落ちる、不揃いな笑い。

 ――王族への第一声が、資料不足か。

 なくても生きられる。

 それでも、差し出してよいと他人には決めさせない。

 レイは自分で選んだ。

 あの笑いを覚えている最後の数秒に、惜しいと思った。惜しさは拒否の理由にも、使用の義務にもならない。ただ自分のものだと確かめてから、筆を下ろした。

「訂正します」

 飢えさせない。

 赤線が六文字を断つ。銀鍋の煮立ちが途絶えた。

 青年の足、膝、胸が戻る。最後に木札へ墨が浮いた。

「ジル!」

 パウラの声と同時に青年が崩れ、ハンナが首筋へ指を当てた。

「生きてる。運べ」

 一語の停止は六十秒。

 三十七枚の前掛けも床へ落ちた。レイは一枚を拾う。木札だけは空白のまま、粉を払った五本指と、鍋へ触れ続けた油染みが残っている。

「戻りませんか」

 願いではなく、確認として尋ねた。

「今消されていたジルには反証が届いた」とシオンが答える。「三十七人は、存在資料も訂正文の対象指定もない」

 一秒待つ。

 空の布には、誰も戻らない。

 油染みだけが、そこに身体があった高さを示していた。レイの指では届かない高い染みもある。低い位置には、鍋へ近づくたび裾をつまんだ皺が残る。三十七という同じ数の中に、違う癖が閉じ込められていた。

 六十秒は救済の時間ではない。次の一人を失わないための猶予だった。

「残り五十二」

 シオンが時計を読む。

「鍋を封印布で包め。全員出せ」

「床の配給管と一体です。運べません」

「管を切る」

「今夜の食料が止まります」

「命が先だ」

「今夜の食料も命です」

「残り四十四」

 ハンナが鍋へ鉄鎖を回した。アレンも掴もうとし、肘で押し返される。

「殿下は触るな。あんたが持てば、美談が食いつく」

「何をすればいい」

「人を出せ。名を聞け。抜けた奴がいないか数えろ」

 アレンは出口へ走った。

 レイは封印番号を写す。北食二七四。王冠第二親版の系統。派生先は三食堂、二倉庫、一救護院。

 数字を書き終えるたび、陶板の赤は薄くなる。急げと命じる代わりに、時計が紙の余白を食べていった。

「残り三十」

 ヨハクが鍋へ掌を置いた。

「紙、入れる」

「中は活字です。出口がないかもしれない」

「道、見るだけ」

「却下します」

「レイ、命令する人?」

「違います。根拠を示しました」

 ヨハクは瞬き、手を離した。

「分かった」

 ミラが大紙を床へ開く。

「手回し機も活字も上にある。足りないのは千人」

「ここには百人強です。北区に一万いても、読ませるだけでは黒点にならない」

「残り十八」

 三十七人は戻らない。名さえない。ジル一人を救って、成功とは呼べない。

 それでも、三十九人目を食べさせない手順は作れる。

 救えなかった数を理由に、次の一人まで諦めない。救えた一人を理由に、失った三十七人を済ませない。その二つを同じ頁へ置くしかなかった。

 パウラが前掛けを抱えた。

「乾物庫に百二十食。救護院の粥を薄めれば四十」

「治療食の基準を下回ります」

「じゃあ、どうするの」

 壁の配給図は、王家から厨房へ向く矢印しか持たない。厨房同士を結ぶ線は一本もなかった。

 レイは黒鉛筆を取り、三つの食堂を結んだ。穀物。火。水。別々なら、どれも食事にならない。

「同じ壊れた仕組みの中で代わりを探しません。食堂の外の食べ物も、王家の実績へ入れない」

「寄付を集める?」

「その見出しも早い。誰が何を持ち、誰へ渡せるか、一件ずつ聞きます」

「残り十四」

 地図の余白へ最初の問いを書く。

 今夜、隣の人と一皿を分けられるか。

「三食堂と救護院へ連絡。食料と空き寝台の実数を」

「訂正文は?」とシオンが問う。

「事実を先に作ります」

「残り十」

 赤線が透け始めた。

「違う人を千人。食べる側と渡す側に、同じ事実を判断へ使ってもらう」

「何を」

「王子がいなくても、目の前の隣人を飢えさせないと」

 六十秒が切れた。

 六文字が戻る。

 王子は民を飢えさせない。

 銀鍋が息を吸い、鎖が張った。ハンナの義手が軋む。封印布の下から「配給済み」が虫のように這い出す。

 さっきまで静かだった活字が、靴底の下でぱちぱちと歯を鳴らした。踏めば潰れる。だが一字潰すたび、別の一字が鍋の縁から生えた。

「全員、上へ!」

 最後に見えたのは、鍋へなびく三十七枚の前掛けだった。

 作った人のいない料理を、食べたことにされた人へ配ろうとしている。

 階段で掌の赤線が水疱になった。

 何を失ったか、分からない。

 白紙の手帳に、自分の字があった。

 資料不足で笑う。

 誰が。どんな顔で。なぜ残した。

 答えは一字も出ない。

 胸は痛まなかった。痛む理由ごと抜かれた空白が、その無痛だけで大きさを知らせていた。

 その下へ書き足す。

 第二回。喪失内容、上記に関係する可能性。

 記録は記憶にならない。

 それでも、空白が最初から白かったという嘘は防げる。


3.千人目は、王子の名を呼ばなかった

 赤筆が切れて十二分後、厨房の派生元版だけを地上へ運び出した。

 配給管と一体の銀鍋は動かせない。封印布と鉄鎖で地下へ残す。陶板の証拠箱には、王立印刷局から配給版の認可を委任された慈善局封印官、北区の市民公証人、陶板職人が立ち会った。

 訂正文より先に、一件の事実が要る。

 裏口で、名札のない荷運び人が腹を押さえていた。厨房助手は救護係を待たず、自分の黒パンを二つに割った。

「先に名前を」と書記が言う。

「飲み込んでからでいい」

 助手は水とパンを渡した。公証人と二人の観察者が行動を記録する。助手はまだ訂正文を読んでいない。だから黒点にはならない。

 だが、この一件で文は先に事実になった。

 北区の隣人は、名を問わず隣人へ食事を渡した。

 陶板の二重封印を解く。一字ずつ焼いた白磁片から古い文を外し、陶板職人が訂正片を真鍮溝へ入れた。レイとエルゼは先行事実の証明番号、北区という対象、主語、時制を照合する。

 午後零時四十八分。

 慈善局封印官が王立印刷局の委任認可印を押し、市民公証院の立会保全印が重なる。物理訂正した元版は、対象欄を北区として再封印された。

 印が乾くまで、誰も陶板へ触れない。地下では鎖が鳴り続けている。文字を直しただけでは、まだ一人の夕食も増えていなかった。

 ミラが認証大紙と一人用の票を刷る。参加者は同文を先に読み、または正確に聞く。最初の一件を事実と理解し、判断材料に選び、食事を渡す、受け取る、運ぶ。その順を二人が確認して初めて、陶板へ黒点が出る。

 午後一時。北区の鐘楼から、食べ物を持ち寄れという白布が下がった。飢饉の年の合図で、王家の慈善食堂ができてから一度も使われていない。

 最初は向かいの靴直しだった。籠には干した蕪が十二個。

 ミラが認証票の文を読み、黒パンを渡した助手の証明番号を見せた。

「先にやった人がいる。次をどうするかは、あなたが決めて」

「王子様の鍋が壊れたのか」

「鍋ではなく文です」とレイは答えた。

「食えるように言ってくれ」

「食堂の配給が止まりました。今夜、隣家と一皿を分けられますか」

「一皿なら」

「隣家の名は」

「知らん。昨日越してきた」

「名を答えなければ、渡しませんか」

 男は蕪を睨んだ。

「腹に名札はねえ。持ってけ」

 文をもう一度読み、知らない隣家へ籠を運ぶ。二人の観察者が、読んだ、理解した、選んだ、行った、へ別々に印を入れた。

 戸口の向こうから、女が半分だけ顔を出した。礼も名も言わず、籠の片側を持つ。靴直しも手を離すだけで、善人らしい言葉を探さなかった。

 陶板と認証大紙へ、最初の黒点が浮く。

「過去形なんだな」とアレンが尋ねた。

「『これから守る』では事実になりません」

「私の名は」

「入れません」

「承知した」

 アレンは礼装と勲章を脱いだ。白髪へハンナが粉袋を被せる。

「前が見えない」

「見えたら殿下だと分かる。裏で薪を割れ」

「薪割りはしたことがない」

「今日やれ」

 シオンは止めず、刃から三歩離して護衛二人を置いた。王子の薪割りを千人の判断へ入れれば、古い定説を育てる。

 だからアレンは、人目のない場所で働いた。

 斧が薪の節へ挟まり、三度に一度はハンナの舌打ちが飛ぶ。それでも表へ運ばれた木片には、割った者の名をつけなかった。火だけが、誰の手柄か知らずに燃えた。

 広場に三つの机を出す。食料、空の椀、記録用紙。同じ人を二度数えないよう、右手首へ青い糸を結んだ。

「一人が二回動いても一点です。別人千人が要ります」

「一人一票ね」とミラが言った。

「投票ではありません」

「一面で説明するなら、の話」

「一面より先に事実を」

 ミラは口を尖らせ、次の紙へ文章を写した。

 三食堂から鍋と穀物が届く。東の救護院は寝台を十六床空け、患者用の麦湯を出した。ハンナが列を二つへ割る。

「食う奴は右、働ける奴は左! 両方なら食うのが先だ!」

「働いた者を先にすべきでは」

 荷車を押してきた商人が言った。

「腹が減ってる奴が先だ」

「怠け者でも?」

「腹の中を見て怠け者か決められるならやれ。できないなら豆を出せ」

 商人は豆袋を置いた。

 袋の口をほどいたのは、さっき怠け者と呼ばれた老人だった。商人は止めなかった。二人とも互いの名を尋ねず、豆だけが鍋へ落ちていく。

 三百七十人で、広場の住民が尽きた。あと六百三十。

「三食堂の利用者を回せます」とシオンが言った。「署名だけは無効です」

「食事の割当を変えます」

 レイは北区の地図を開いた。

 主食の余る食堂。鍋はあっても燃料のない食堂。火はあっても水道管の割れた食堂。飲み込めない患者のいる救護院。

 地区全体なら、足りないものは重ならない。

「ここの麦を二丁目の窯へ。焼いたパンを救護院へ。救護院の井戸水を広場へ。運ぶ人も分けます」

 パウラが地図を覗いた。

「誰が命令を?」

「各場所で、渡すか受け取るかを決めてもらいます」

「断ったら」

「別の経路を探します」

「殿下の名で徴発すれば早い」

「その速さが、銀鍋を作りました」

 地下で鎖が鳴った。パウラが知らない三十七人の前掛けも、まだそこにある。

「私は何をすれば」

「北区の料理人へ助けを頼んでください。王子の命令とは言わずに」

「断られたら?」

「断られたと記録します」

 パウラは前掛けの紐を結び直した。

「名前も?」

「公表はしません。判断の数だけを残します」

 彼女は頷き、走った。

 午後三時、黒点は五百十二。

 四時、七百四十九。

 数が増えるほど、同じ形の善意は減った。パンを割る者、井戸の順番を譲る者、泣く子の椀を持つだけの者。嫌々運んだ荷車も、見返りを断った一皿も、手順を満たせば一人だった。

 五時には、空の椀より洗った椀が多くなった。青い糸を結んだノアが、年下の子へ乾パンを半分渡す。互いに名を聞かない。

 大紙へ黒点が一つ増えた。

 九百九十九。

 広場に残るのは、すでに数えた者ばかり。鐘楼の影が伸び、地下の封印布が銀色に滲み始めた。

「外から一人?」とミラが言った。

「この地区で判断していなければ、北区版の根拠になりません」

「王子はまだ数えてない」

 レイは薪置場を見た。

 アレンは粉袋を外していた。割った薪より、砕いた木片の方が多い。

「彼は食事を渡しましたか」

「火を作った」

「その火の食事を受け取り、彼を理由に判断した人は?」

 答えはない。古い文なら、それでも王子一人の功績にできた。

 新しい文は、足りない一人を英雄で埋めない。

 足りない数字を見れば、アレンを使うのが最短だった。だからこそ、その一人を使わずに待つ時間が、文の主語を試していた。

 広場の端でジルが身を起こした。戻った身体は、まだ紙のように白い。

 パウラが駆け寄った。

「寝てなさい」

「鍋、止まった?」

「まだよ」

 ジルは、名の戻った木札を見た。

「俺、さっきまで誰だった」

 パウラの口が歪んだ。

「粉をこねるのが下手で、塩は必ず多いジル」

「ひどい紹介だ」

「戻ってきたんだから聞きなさい」

 パウラは泣かなかった。泣けば、知らないままの三十七人まで認めることになるような顔だった。

 ジルはその顔を見て、冗談を続けなかった。切れた前掛けを胸へ寄せる。戻った名の重さを、自分でも測り直しているようだった。

「俺にも渡せるもの、ある?」

「今は休むことが仕事です」とレイが言った。

「じゃあ、受け取る」

 ノアが麦湯を持ってきた。パウラが票を読み、ジルは先に食事を渡した人々がいること、その事実を使って受け取ると決めたことを、途切れながら言い直す。

 ジルは子どもの名を聞かなかった。両手で椀を受け取り、一口飲んだ。

 最後の黒点が浮いた。

 千。

 地下から、銀の割れる音がした。

 鍋は、ただの鍋へ戻っていた。胴のアレンの顔が剥がれ、その下から名もない四十人の手形が現れる。空の袖は落ち、包丁も止まった。

 大きな手、指の短い手、火傷で二本だけ曲がった手。四十の跡は重ならず、銀の胴を一周していた。美談の肖像が隠していたのは、同じ形の群衆ではなかった。

 物理訂正した陶板の白磁片は、その位置のまま赤く光っていた。

 北区の隣人は、名を問わず隣人へ食事を渡した。

 王子の名はない。

 アレンは陶板を見上げた。

「これでいい」

「成功かは、集成枠へ挿してからです」

「そうだった」

 アレンは笑ったようだった。失った笑いと同じか、レイにはもう分からない。

 午後六時二十分。北区集成所。

 シオンが食堂派生版を真鍮枠へ差し、二重封印を閉じた。千の黒点が枠の一角へ、一つも欠けず継承される。

「親版は王冠庫のままです」とシオンが言った。「これは局地版で、黒点も七十二時間後に失効する。ただ、手順は使えます」

「四地区で同じことができれば」

「四親版へ差し替える道がある」

 蕪を出した靴直し。豆袋を置いた商人。名を聞かなかったノア。麦湯を受け取ったジル。

 どの一人も、王子へ置き換えられない。黒点の列が、初めて人の群れに見えた。

 千点目だけが特別に輝くこともなかった。最初と最後を区別しない黒さが、かえって正しかった。

 エルゼはノアと保護施設責任者を別室へ呼んだ。三日分の誤配給印がある腕輪を借りるなら、食事と避難に使える代わりが先に要る。

 同じ登録番号で青印のない腕輪を発行し、入力台を通して次の配給を受け取れることまで確かめた。

「古いの、返ってくる?」

「審理が終わったら返します。貸したくないなら、写しだけを取ります」

 ノアは新しい腕輪を撫で、自分で古い方を外した。エルゼと施設責任者が封印袋へ署名し、受領票の一通をノアへ渡す。

 空腹を証明する物のために、持ち主を証拠の外へ追い出さなかった。


4.触れる前に、王子は許可を聞いた

 食堂へ戻ると、祝声の代わりに皿の山が待っていた。

 床には潰れた豆、炉には燃え残りの薪。借りた鍋の持ち主を示す札は、湯気で半分剥がれている。成功した事実ほど、片づけなければすぐ誰かの物語になる。

 ハンナは祝いを一語も挟まず、仕事を割った。

「シオンは版を局へ。ミラは帳簿。ヨハクは寝ろ。殿下は鍋。レイは手」

「手?」

「見せろ」

 右手を開く。赤線は水疱へ膨れ、人差し指を曲げるたび、皮膚の内側だけが裂けた。

「冷やしてから巻く。そこ座れ」

「皿を数えます」

「数える前に冷やせ」

「濡れた紙でも数は」

「レイ」

 ハンナの声が低くなった。

 レイは水桶の前へ座った。

 右手を浸す。指先から熱が逃げ、痛みの下にある空白だけが鮮明になった。

 資料不足で笑う。

 自分の字なのに、他人の観察記録に見えた。

 ハンナは包帯箱を置くと、別の鍋を運びに行った。

 アレンが隣へ来た。

 礼装の袖を肘まで上げ、泡をつけている。薪割りで手袋を破り、掌には小さな豆ができていた。

「王子も皿を洗うんですか」

「今夜の皿に、王子用の欄がなかった」

「落とさないでください。借り物です」

「二枚割った」

「洗わない方が貢献できます」

「ハンナにも言われた」

 彼は桶から手を出した。

「包帯を巻いてもいいか」

 レイは自分の右手を見た。

 何を失ったかとは聞かない。見せろとも、任せろとも言わない。触れる前に、触れてよい範囲だけを尋ねている。

「一人で巻けます」

「分かっている」

「きつさを確認します」

「そうしてくれ」

「結び目は手首の外側。掌へ重ねないでください」

「承知した」

 左手で包帯を取ろうとして、まだ問いへ答えていないと気づく。

「お願いします」

 アレンは椅子を水桶の反対へ動かした。先に距離を作り、手は取らず、包帯の端だけを掌へ置く。

「ここでいいか」

「はい」

 一周ごとに、指が動くのを待つ。

 幅は揃わず、二周目だけ斜めになった。救護院なら巻き直す出来だったが、レイは直さなかった。

 上手だから残すのではない。頼んだ範囲で止まり、一周ごとに待った手順が残っている。包帯の斜め一本が、その事実の印だった。

 最後の結び目を作ってから、アレンが尋ねた。

「今日、何を失った」

 レイは手帳を開いた。

「あなたが、資料不足という言葉で笑ったこと」

 彼の指が止まった。

「覚えていないのか」

「文字は読めます。場面がありません」

「私にはある」

「説明しないでください」

 声が強くなる。アレンはすぐ手を引いた。

「すまない」

「あなたの記憶で埋められたら、どこまでが私の記憶か分からなくなります」

「分かった。君から頼まれない限り、内容を足さない」

 指は動く。結び目も外側にある。

「笑った事実だけは、契約記録と一致しますか」

「一致する」

「それで十分です」

「十分かは、君が判断する」

 彼は礼装の内側から、薄い黒表紙の冊子を出した。

「私も、消える前に表題だけを記録している」

 頁は一枚ずつ封蝋で閉じられていた。

 幼い日の食卓。

 初めて海を見た日。

 シオンと盤上遊戯。

 読めるのは表題と消失時刻、どの公的役割を演じたかだけだった。

「なぜ封を」

「失った直後、読んで振る舞いを再現した。『海を見て喜んだ人』らしく話し、『幼なじみ』らしく近づいた」

「成功しましたか」

「悲しませた。その後で怒らせた」

「誰を」

 アレンは冊子の「シオンと盤上遊戯」を見た。

「まだ、この頁は失っていない。だから答えられる。シオンだ」

「失った頁は、本人が望むまで開けない?」

「今はそうしている。公的責任に必要な事実は別紙。私的な内容は、当時の相手と公証人が鍵を持つ」

 レイは自分の手帳を見た。

 資料不足で笑う。

 こちらも表題だけで、中身はない。

「私の頁にも、鍵が必要ですか」

「決める権利は君にある。私は鍵を求めない」

 彼は黒い冊子をしまった。

「ただ、失ったことを最初からなかったと扱わないため、表題は残す」

 レイは記録へ、封印の選択肢、と足した。

 忘れた記憶へ他人を入れない。それでも、存在しなかったことにはしない。

 二つは両立するらしい。

 その言い方を、どこかで聞いた気がする。穴が増えるほど、似た形の言葉が縁へ寄ってくる。確かめる術はなかった。

 炉から焦げ臭い煙が上がった。

「殿下!」

 パウラが叫んだ。

 アレンが入れた薪は太さが揃わず、火が片側だけ強い。上のパンも半分だけ黒かった。

「王族は、パンを左右対称に焦がす教育を受けないんですか」

「王族を何だと思っている」

「印刷された肖像より左右対称な人です」

 アレンは焦げたパンを裏返した。

「反対側も焦がせば対称になる」

「誤りを増やして整えないでください」

 パウラが笑い、アレンもつられた。レイは二人の口元を見比べる。

 今の笑いは記録できる。失ったものとは違うはずだが、差分を取る原本がない。

 手帳へ焦げたパンを描き、その横へ、包帯を巻く前に許可を聞いた、と書く。

 アレンは覗かなかった。

 見ないという動作は小さい。けれど、名も記憶も他人に開かれてきたレイには、閉じた頁を閉じたまま扱われることが目に見えるほど新しかった。

 午後八時四十五分、帳簿室からミラの声がした。

「ねえ。十万って、零はいくつ?」

「五つ」とヨハクが、寝台から答えた。

「じゃあ、これは何」

 ミラが抱えたのは五年前の配給原簿だった。厚い革表紙に白雨前夜の印。水を吸った頁は波打ち、数字だけが青鉛筆で何度も集計されている。

 北食堂、二万八千四百二十一杯。

 東食堂、二万五千二百八杯。

 南食堂、二万三千九百七十六杯。

 西食堂、二万二千五百八杯。

「合計は」

 レイは包帯の巻かれた指で数字を追った。

「十万百十三」

 全員が陶板を見る。本日配給済み、という数字は、食べた人数と一致しない。

 五年前、防壁が守った登録名は十万。配ったとされた椀は十万百十三。

「一人が二杯食べた可能性は」

「個別腕輪で一人一杯を照合した原簿です」とミラが答えた。「重複なら赤丸がつく。ここにはない」

「旅人を含めた?」

「腕輪を持たない人は別冊。これ、登録児童用の集計よ」

 末尾は一一三。

 三十七人分の前掛けと同じ罠だった。最初は余分な布、今度は余分な椀に見える。

 数が余ったのではない。数えた後で、人を余りにした者がいる。

 レイは配給原簿を閉じなかった。

「五年前の防壁入力原簿と照合します」

 アレンの顔から表情が引き、仕事の静けさだけが残った。

「私の署名も」

「最初から対象です」

 焦げたパンの匂いが、帳簿室まで追ってきた。

 包帯の下で、掌の赤線が熱を持つ。

 十万百十三人のうち百十三人だけが、誰かの正しい式からこぼれていた。

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