第2章 私の名を消した王子と、七日間の契約
1.私の名を消した命令に、あなたの署名がある
面談室の扉が開いた時、レイの手首に拘束具はなかった。
代わりに、机を挟んで三人の立会人がいた。
シオンは窓側。市民側公証人エルゼ・モーンはレイの隣。王立記録院の書記は扉のそば。三者の視線が互いを牽制する。
アレンは机の向こうへ一人で座っている。礼装から勲章を外し、頬の傷には細い包帯だけを貼っていた。
「この面談は依頼の説明であって、契約の締結ではありません」
エルゼが最初に言った。五十歳ほどの女性で、指にインクではなく封蝋の色が染みている。
「レイさんは、いつでも退室できます。発言しないこともできます。今日の沈黙は、いかなる条項への同意とも扱いません」
レイは頭の中で読み直した。主語が明確で、範囲も期限もある。
「分かりました」
アレンが書記へ目をやった。書記は黒い箱を机へ置き、封を切った。
中から赤い手帳が出てきた。
レイの呼吸が、一字ぶん抜けた。
知らない手帳だった。角は丸く擦れ、表紙の赤も褪せている。なのに触れる前から、自分の指幅に馴染むと分かった。
「今日、君が赤筆を使った直後、記録院で封印警報が鳴った」
アレンの声は祭礼の時より低かった。
「この手帳と、五年前の抹消記録が、君の仮登録番号へ反応した。君が私を主語とする文を直したためだと、記録院は判断している」
レイは手帳を見たまま尋ねた。
「私とあなたが、五年前に会っていたという意味ですか」
「その可能性が高い」
「覚えていますか」
「連続した記憶としては、覚えていない」
アレンは一度言葉を選び、その間を隠さず続けた。
「雨音。赤い表紙。小さな手の感触。それだけが残っている。今日まで、それが誰のものか分からなかった」
「なぜ忘れたのです」
「私の定説も、記憶を食べる」
彼は右手を机へ置いた。指先から血の気が引いていた。
「人前で『完全な王子』を演じ、人々がそれを事実として使うたび、私的な一場面が黒い欄外へ出る。内容を見て、役を引き受けるかは選べる。大抵は引き受けてきた」
「今日も?」
「今日は、君が先に文を切った。だから私は頬の傷だけで済んだ」
レイは同情ではなく、説明の穴を探した。
「私の番号に反応する抹消記録に、あなたは関係していますね」
「いる」
アレンは目を逸らさなかった。
「五年前、君の公的な名を消した命令に、私の署名がある」
書記のペンが止まった。シオンは動かない。エルゼだけが、レイの右手を見た。掌の赤線を拳へ隠していないか確かめている。
レイは指を開いたままにした。
「内容を覚えていないのに、署名したことは分かるのですか」
「署名台帳は残っている。封印表紙に私の署名がある。中身は王冠版と結ばれ、現王の許可なしには開かない」
「現王陛下は」
「三か月前から意識が戻らない。だから七日後に私が戴冠し、許可権を継ぐ」
「戴冠すれば、あなた自身で開けられる」
「同時に四つの定説が私へ固定される。開けたいと思う私が残る保証はない」
アレンは赤い手帳を、机の中央を越えてレイ側へ置いた。
「これは五年前、抹消対象者の遺留品として王宮へ回収された。私物を国家が保管する理由はない。今日から君のものだ」
「中を見ても?」
「所有者に、私が許可することではない」
レイは手帳を開いた。
紙はすべて白い。だが指でなぞると、書かれた文字の圧だけが裏へ残っている。封印はインクを消しても、押しつけた力までは消せなかった。
「私の名が書かれていますか」
「分からない」
「あなたは知っていて、報酬として戻すのでは」
「しない」
答えだけが速かった。
「名の回復を契約の報酬にはしない。君が依頼を断っても、手帳と記録への請求権は君に渡す。私が署名者である以上、名を与える側に立つべきではない」
レイは初めて、手帳から顔を上げた。
王子の微笑みはない。十八歳の青年が、返事を奪わないために口を閉じていた。
「四つ目の定説が、私に関係しているのですか」
「封印警報が示したのは、そこまでだ。それ以上の具体的経緯は、私はもう思い出せない」
「思い出せないことと、隠している事実を区別できますか」
「私一人の言葉ではできない。だから記録への全面アクセスと、第三者監査を契約へ入れる」
アレンは書類の束を机へ置いた。
「今日、署名する必要はない。持ち帰ってくれ」
レイは最初の頁をめくった。
依頼対象は四つの定説。期限は七日。報酬は校正官資格試験の受験権。名の回復とは切り離す。
停止権の欄は空白だった。
エルゼが契約案を閉じた。
「ここから先は、依頼者と王家側の者に退室してもらいます」
アレンが頷き、立った。
シオンは動かなかった。
「私は手続き監督です」
「王太子直属の実働隊長でもあります。廊下で待機してください」
「被拘束者の安全を」
「市民公証院の護衛が二名います」
扉の外に、灰色の制服が見えた。
シオンは人数と出口を確認し、退室した。アレンも赤い手帳へ手を伸ばさず、部屋を出る。
扉が閉まる。
エルゼは鍵をかけなかった。
「レイさん。今の説明を受けて、王太子の依頼を断れますか」
「契約前なので、断れます」
「法の話ではなく、実際に」
レイは扉を見た。
外には王太子、実働隊長、記録院書記。レイには正式名も資格もない。断った翌日、祭礼局の席が残る保証はなかった。
「不利益があると思います」
「具体的には」
「職を失う。戸籍審査を遅らされる。赤筆の無許可使用で起訴される」
「王太子が、いずれも行わない保証を文書へ入れても、恐怖は残りますか」
「残ります」
「では、今夜は市民公証院の宿舎を使えます。王家と校正局へ居場所を伝えません。依頼を断る場合、私が通知します」
「なぜそこまで」
「自由意思は、条文に書くだけでは足りないからです」
エルゼは白紙を一枚出した。
「今、この場で断る練習をしましょう。私を依頼者だと思ってください」
「何を」
「王太子の四文を校正してください」
レイは一拍置いた。
「断ります」
「理由は不要です」
「断ります」
「受理します」
何も起きなかった。廊下から誰も入らず、職も名も、その場では奪われない。
エルゼは白紙へ時刻を書いた。
「今の拒否は練習であり、契約判断ではありません。これも記録します」
それから扉を開けた。
アレンは、入室を許されるまで敷居の外にいた。
レイは赤鉛筆を取り出した。
シオンの手が剣へ行く前に、エルゼが片手を上げた。
「契約案への手書き修正は認められます」
「助かります」
レイは、空白だった欄へ書いた。
依頼者の許可を要さず、受任者レイはいつでも作業を停止できる。
次の欄へ。
赤筆を使うか否かは、レイだけが決める。
さらに。
依頼者は現在知る事実と今後知った事実を、受任者へ隠さない。
書き終え、アレンへ向けた。
「この三行が入らなければ、検討しません」
アレンは三行を読み、言い訳をしなかった。
「クロイツ隊長。法的な欠陥は」
「王太子が依頼者であることを理由に停止権を制限できない旨を追加すべきです」
「追加してくれ」
レイは赤い手帳と契約案を抱え、立ち上がった。
「返事は明朝にします」
アレンも立った。だが、机の向こうから近づかなかった。
「待っている」
「待つことを、同意として記録しないでください」
エルゼが初めて、わずかに笑った。
「その一文も議事録へ入れます」
2.「断ります」を言うための夜
校正局の宿舎では、眠る場所にまで仕事が侵入していた。
レイの部屋には寝台一つ、机一つ、白紙の手帳が二十七冊。買った順に背色が違う。何も書かれていない頁は、まだ誰にも否定されていない可能性に見えた。
赤い手帳だけが、その列へ入らなかった。
机の中央に置き、契約案を左右へ広げる。
エルゼは一行ずつ読み、その意味をレイ自身の言葉で確かめた。
「全記録へのアクセス。ただし証拠保全手続に従う。どういう意味ですか」
「見せてもらえるが、勝手に持ち出せない」
「閲覧を拒否された場合は」
「拒否した者の氏名、権限、理由を記録し、シオン隊長とあなたへ異議を出せる」
「王太子が異議を止めた場合は」
「契約違反。私は作業を停止できる」
「赤筆を使わなかったことで人が死んだ場合、あなたに刑事責任を負わせる条項は」
「ありません」
「よろしい」
エルゼは急かさない。沈黙のたび、封蝋箱の同じ場所を拭いて待った。
廊下で重い足音が止まった。
ハンナが砂糖袋を提げて入ってきた。
「まだ字を食ってるのか。夕飯が冷える」
「契約書は食べられません」
「比喩だ」
「ハンナが比喩を使うのは珍しいです」
「寝てないからな」
ハンナは椅子へ座らず、壁へ背を預けた。真鍮の義手が小さく鳴る。
レイは赤い手帳を指した。
「これを知っていますか」
ハンナの左手が砂糖袋を握り潰した。
「王宮の物に見える」
「見え方は聞いていません」
「今は契約を読め」
「あとで話す、ですか」
ハンナは答えなかった。
沈黙が同意でないなら、否定とも限らない。
「王太子は、私の名を消した命令へ署名したそうです」
「聞いた」
「驚きませんね」
「驚いて手を止めたら、何か戻るのか」
「戻りません」
「なら今やることをやる」
ハンナは砂糖を一欠片、奥歯で砕いた。
「あの王子のために働けとは言わん。名前のためにも働くな。生きて帰れる条件か、自分で読め」
「いつも、生きて帰る方を選ぶんですね」
「現場じゃ、それしか後から直せない」
その言葉は正しい。
正しすぎた。
レイは手帳の白い頁へ指を置いた。忘れた場所が、掌の赤線と同じ熱で疼いた。
「あなたは、私が誰だったか知っていますか」
ハンナは義手を見た。
「今のおまえなら、知ってる」
「前の私を聞いています」
「今夜の答えには関係ない」
「私が決めます」
「そうだ」
ハンナは壁から離れた。
「だから、俺の言葉で決めるな」
廊下へ出ていく背中を、レイは呼び止めなかった。
エルゼが何も言わず、契約案の次の行を指した。
王太子は、発見した事実を隠さない。
レイはその横へ、小さく書き足した。
ハンナにも同じ義務を求める。
夜半までかけ、契約は十二か所直された。
エルゼが帰った後、レイは赤い手帳を枕元へ置いた。何か思い出すかもしれない。だが眠りも白紙だった。
朝、レイは誰にも迎えを頼まず、自分の足で校正局へ戻った。
面談室にはアレンがいた。昨夜と同じ席に座り、天井のひびを数えている。
「二十三本です」とレイは言った。
アレンが顔を下ろした。
「何が」
「ひびです。数えていたのでしょう」
「二十二本だと思っていた」
「窓の上の短いものを落としています」
アレンは見上げ、確認した。
「本当だ」
レイは契約書を机へ置いた。
「署名します」
アレンはペンを取らなかった。
「理由を聞いてもいいか」
「聞くことはできます。答えるとは限りません」
「では聞く。なぜ」
レイは赤い手帳を、自分の胸へ抱え直した。
「あなたのためではありません。私の名だけのためでもない。消された文があるなら、校正官として読みます」
「十分だ」
「十分かは、私が判断します」
彼女は契約へ「レイ」と署名した。
法にはまだ仮名でも、その二字は自分で書いた。
3.十万人の壁から、料理人が消えた
臨時班の作戦室には、椅子が五つ。集まったのは六人。余った王子が立っていた。
「殿下、座ってください」とシオンが言った。
「誰かが立つなら、いちばん手を動かさない者が適任だ」
「依頼者には説明を受ける仕事があります」
「ではヨハク、半分座らせてくれ」
ヨハクは椅子の上で横へずれ、半分だけ空けた。
「狭い」
「王子、大きい」
「反論しづらいな」
ミラが声を上げて笑い、巻き毛から鉛筆を一本落とした。
「一面で見せるなら、配達少年に椅子を奪われる王子ね。『完全無欠、着席に敗北』」
「まだ負けていない」とアレンが言った。
「立ってる時点で負けてる」
シオンが机を指で二度叩いた。
「雑談は記録しません。紹介を始めます」
レイは、椅子を占める顔ぶれを見回した。
シオン・クロイツ。二十歳。校正局実働隊長。版片の細剣と、止まった時計を腰に下げている。
ミラ・ベル。十七歳。零細紙『朝の余白』の発行人兼挿絵師。両手が黒い。
ヨハク。姓も出生記録もない。見た目は十二歳。印刷された紙面の中へ入り、別の紙面から出る。
ハンナ・ロウ。三十四歳。現場主任。レイの保護者で、質問を仕事で埋める人。
アレン・ヴェルム。十八歳。王太子。依頼者。国でいちばん大きな誤植を名乗る人。
レイ自身を含めて六人。
班外協力者の署名だけが、壁一面の設計図の下にあった。
王立記録院長兼宰相、オスカー・ヴァルツ。
「オスカー宰相は?」
「防壁管制室だ」とシオンが答えた。「計画への協力者ではありますが、校正班の指揮には入れません。利益が衝突するためです」
レイは頷いた。
壁の中央には首都防壁の断面図。登録名を入れる細枠が、蜂の巣のように並んでいた。
「防壁が処理できる名は十万」
シオンが棒で図を示した。
「戸籍名と、白雨当日に避難所へ入力した仮登録名を含む。十万と一人目が入れば、全体の強度が閾値を割る」
「一人だけ外れるのではなく?」
「全体が割れる。五年前の試験記録も同じだ」
十万。
数字は大きすぎると景色になる。レイは十万個の四角として見た。その外側には、枠すら描かれていない。
「七日後の白雨は、いつから予測されていました」
「周期予測は一年前。確定は三か月前。戴冠日に王冠版を更新し、最大強度で受ける」
シオンは別の図へ棒を移した。
四枚の金属版が、一つの枠へ組まれている。
「王冠版は四親版の集成枠。表面の四文は、首都全域の防壁へ王族の権威を割り当てる。同時に、親版から各施設の派生版が作られる」
「食堂や学校の『王子のおかげ』ですね」とミラが言った。「どこを切っても王子が出る金太郎飴」
「その語は議事録へ入れません」
「じゃあ、王子飴」
「入れない」
シオンは二枚の小さな訓練版を机へ置いた。それぞれ縁に、黒点が十個ずつ並んでいる。訓練用なので現実化する閾値は低く封じられていた。
「同じ訂正文でも、対象地域ごとの版が必要。各版が条件を満たした後、集成枠へ挿す」
二枚を真鍮枠へ差すと、版の黒点が淡く光り、枠の縁へ同じ数だけ現れた。
「黒点を別の版へ移せる?」
レイが身を乗り出した。
「移動ではない。封印済みの版を集成し、同じ文として継承する。一枚でも条件不足なら成立しない」
「黒点の有効期限は」
「七十二時間」
レイは図を見た。
「七日後のために、今日集めても失効します」
「そのとおり。だから最終訂正文は、最後の三日以内に事実として使わせる必要がある」
「王冠版の元を直すには、王冠庫へ入る必要がある」
「そのとおり」
「入れますか」
「通常手続では、現王か戴冠後の王だけ」
「つまり、入れる頃には依頼者が依頼を忘れている可能性がある」
「そのとおりだ」
三度同じ答えを聞いて、状況は一字も良くならなかった。
だが壁には、石壁、貯水槽、地下厨房、救護路の図面もあった。端には五年分の負荷試験表。袖に石粉をつけた誰かが、何度も引き直した線だ。
「これはオスカー宰相が?」
「五年前から増設している」とシオンが言った。「魔法防壁が薄くても、四地区の設備を連結すれば生存率を補える。ただし、それらを一つの防壁として動かす主語がない」
王子が都市を守る。
その文しか、国は用意していない。
レイは資料をめくった。親版、派生版、封印規則、白雨周期、地区別負荷表。必要な頁の間へ、王家の沿革と賛辞が何十頁も挟まっている。
「説明が足りません」
思わず言った。
作戦室が静まった。
アレンが、短く笑った。
祭礼の微笑みではない。息が一度だけ、形を崩してこぼれた。
「王族への第一声が、資料不足か」
「実際に不足しています。四つの親版が、なぜあなたの人格を消すのか。五年前の署名と白雨が、どうつながるのか。抹消記録を誰が封じたのか」
「全部、もっともだ」
「笑うところではありません」
「すまない。笑わないようにする」
「それも違います」
アレンは困った顔をした。
その困り顔は、公報のどこにもなかった。
レイの手が勝手に白紙の手帳を開き、書いた。
資料不足で笑う。
なぜ残したいのかは、まだ分からなかった。
扉が乱暴に開いた。
若い局員が息を切らし、報告書を差し出した。
「北厨房区の慈善食堂から語災疑い! 料理人が、今月だけで三人消えました」
ミラが鉛筆を止めた。
「三人だけ?」
「記録上は三人です。でも、残ってる前掛けが四十枚。名簿には三人しかいません」
レイは立ち上がった。
「三人ではありません」
「まだ見てもいないのに?」
「前掛け四十枚を三人では使いません。数えられていない人がいる」
ハンナが砂糖を噛み砕き、真鍮の手で扉を押さえた。
「話は歩きながら聞く。全員、北へ」
レイは赤い手帳を懐へ入れた。忘れた頁と、これから失うかもしれない頁が、胸の上で重なった。




