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第一章 「王子は傷つかない」を、私は赤で消した

1.矢は薔薇に、美文は四枚翼に

 矢は王子の左目を狙っていた。

 射線、風向き、馬車の速度。そのすべてが、王子の左目という一点へ収束していた。

 シオンが剣を抜く。ハンナが馬車へ跳ぶ。どちらも間に合わない。

 切っ先がアレンまで一歩となった時、矢羽根がほどけた。

 木の軸が緑へ変わり、鉄の鏃が白い花弁に割れた。矢は空中で白薔薇となり、勢いまで忘れてアレンの足元へ落ちる。

 群衆は息を呑み、その息を次の瞬間には歓声へ変えた。

「奇跡だ!」

「王子は傷つかない!」

 千回より多く刷られた言葉が、千人より多い口から返ってくる。

 公報の一文がレイの手の中で熱くなった。

 石門の王子像が首を動かした。

 像の背から新聞紙が噴き出し、祭礼旗と祈祷札を巻き込んだ。石の胴へ紙の筋肉が重なり、四枚の翼が大通りを覆う。翼には黒い文字が脈のように走っていた。

 王子は傷つかない。

 王子は傷つかない。

 王子は傷つかない。

 語災。

 人々が使った文が矛盾を抱えると、現実は歪みを形にして吐き出す。閉じない扉。尽きない水差し。誰も読み終えられない手紙。

 これは小さくなかった。

 紙天使の顔には目も口もなく、王家の紋章だけがあった。四枚の翼が打たれる。足場が船のように揺れ、白薔薇は屋根の女へ向きを変えた。

 花弁の縁が刃になっていた。

 最初の羽ばたきは、射手より先に大通りを襲った。

 祝祭天幕が四張り、杭ごと抜けた。白布が人々へ覆いかぶさり、出口の黒矢印まで隠す。道を失った群衆は、金の馬車を目印にした。

 王子のそばなら安全だ。

 その叫びを合図に、人波が紙天使の真下のアレンへ寄った。乳母車の片輪が浮き、老女が倒れ、助けようとした男へ後ろの三人がのしかかる。怪物を止める前に、人が人を潰す。

 アレンは馬車の手すりへ上がった。

「私から離れろ! 北と南、近い出口へ分かれてくれ!」

 王子から離れろという王子の命令に、人々は一瞬だけ止まった。その隙間へ実働隊が身体を入れ、剣ではなく肩と背で波を二つに割った。

 ハンナは転んだ老女を義手で抱え、乳母車を左足で引き寄せた。

「見上げるな! 足元の生きてる奴を見ろ!」

 意味まで届いた者は少ない。それでも視線を下げた者が出た。乳母車の母親は王子ではなく隣の荷運び人を掴み、男は舌打ちしながら車輪を石溝から持ち上げた。

 その頭上を、刃の花弁が通り過ぎた。

 祭礼旗が縦に裂ける。旗に刷られたアレンの笑顔だけが、左右へ分かれてなお微笑んでいた。

 レイは怪物の動きを数えた。

 一度目は群衆を押し、王子の周囲へ盾を集めた。二度目は、矢を放った女へ刃を向けた。守っているのはアレンの身体ではない。「傷ついた」という結論へ届く証人を、順に消している。

「射手を伏せさせろ!」

 シオンの命令が飛ぶ。

 実働隊が屋根へ走る。しかし紙天使の腕が伸び、女の立つ工房を掴んだ。石壁に亀裂が入る。

 王子を傷つけようとした者を消せば、「王子は傷つかない」は守られる。

 文は善悪を選ばない。主語と述語の間を、最短距離で埋めるだけだ。

 レイは足場の手すりへ上がった。

 上官が腕を掴もうとした。

「待て、見習い!」

「待つ根拠を」

「命令だ!」

「理由ではありません」

 レイは手を振りほどき、大通りへ跳んだ。

 二階分の空白。真下でハンナが顔を上げ、真鍮の手を伸ばした。

「馬鹿、落ちるぞ!」

「落とさないでください!」

「注文が逆だ!」

 義手が腰帯を掴んだ。レイは振り子のように回り、その勢いで紙天使の翼へ赤鉛筆を突き立てる。

 紙の層が悲鳴を上げた。

 レイは翼へぶら下がり、靴先を折り目へ押し込んだ。下でハンナが何か怒鳴っていたが、風と歓声に切られた。

 翼の文字が目の前を流れる。

 同じ文でも版は違う。新聞。護符。教本。慈善食堂の献立表。王子の無傷を根拠に使われた紙が、怪物の肉になっている。

 斬っても終わらない。千人の判断と、封印された元版が残っている。

 だが一時的に止められれば、屋根の女を救える。

 レイは翼を這い上がった。腕が振られるたび、紙の縁が指を裂く。白い祭礼の中で、その赤だけが生き物の色だった。

 王子の馬車が小さく見える。

 アレンは避難していなかった。

 群衆を下がらせながら、こちらを見上げている。微笑みは消え、淡青の目だけがレイを追う。

 レイは翼の中央へ着いた。

 そこに、他の文字より深く押された一文があった。

 王子は傷つかない。

 赤鉛筆の黒布を解く。

 隠されていた赤が、白い翼の上へ現れた。


2.訂正料は、あなたとの記憶

 赤筆は、握っただけでは使えない。

 文へ触れ、その主語を直接知る時だけ、現実の欄外が開く。

 レイの視界の右端へ、赤い細線が走った。

 紙天使も群衆もそこにいる。ただ、世界の本文から一字ぶん外へ押しやられたように遠い。

 赤い文字が浮いた。

 ――訂正料。この記憶。

 雨の音。

 白い薄片が戸を叩く。暗い倉の隅で、十二歳の少女が膝を抱えていた。髪も服も濡れ、自分の名を言おうとしても音にならない。

 白髪の少年がいた。

 少年は赤い手帳を差し出した。手は震えている。それでも少女から目を逸らさない。

 ――名前が決まるまで、君が見たものを書いておく。

 少女が受け取る。

 二人の指が触れる。

 そこで記憶は終わった。

 レイは息を吸った。初めて見るのに、自分の内側から切り出された場面だと身体だけが知っていた。

 少年の顔は見えない。下にいる王子と同じ白髪だけでは、同一人物の証拠にならない。

 だが赤筆は、訂正する文の主語を取り違えない。要求しているのは、アレンとの記憶だ。

 これを失えば、二度と思い出せない。

 レイは消える場面を、証拠庫の棚のように見回した。

 雨の強さ。倉の板壁に打ちつける白い薄片。少年の右袖にあった、乾ききらない泥。手帳の角が一度、水を吸って膨らんだ跡。少女の爪の中に入った黒い土。

 残せる物を探す。赤い欄外は、何一つ選ばせなかった。

 場面は一つで、切り分けられない。少年の顔だけを差し出すことも、雨音だけを残すこともできない。少女が手帳を受け取るまで、すべて失う。

 どれほど大切な場面か、レイにはまだ分からない。分からないものにも、失う痛みはあった。

 使わない選択もできる。

 屋根で石が砕けた。

 紙天使の指が外壁を剥がし、弓の女が足を滑らせた。鉛粉の染みた頬。祭礼公報に残っていた、三本線の職人印。

 レイは覚えていない。

 だが女はレイを見て口を開き、声にならない一音を噛み潰した。

 理由は後で調べられる。命は後から戻せない。

 レイは赤鉛筆の先を「ない」へ置いた。

「訂正します」

 赤線を引く。

「ない」の二字が翼から剥がれた。

 王子は傷つく。

 世界の本文が、六十秒だけ書き替わる。

 紙天使の四枚翼へ、同時に裂け目が走った。新聞が紙吹雪となり、石の腕が重さを取り戻す。工房を掴んでいた指が崩れ、屋根の女は実働隊に引き上げられた。

 白薔薇が空中で裏返る。

 花弁が矢羽根へ、茎が木の軸へ、棘が鉄の鏃へ戻った。

 矢は落下した。

 アレンの頬を、切っ先がかすめた。

 赤い一滴が白い花びらへ落ち、歓声が止まった。

 誰もが、その日初めて許された色を見るように血を見た。

 レイも見た。

 その瞬間、雨の夜が消えた。

 白髪の少年も、赤い手帳も、触れた指も、初めからなかったものになった。

 失った物の輪郭だけが残った。抜けた活字の周囲に、隣の文字の圧痕が残るように。

 レイの手から赤鉛筆が滑った。

 紙天使の翼が崩れる。

 身体が落ちた。


3.血を流した王子は、自分を誤植と呼んだ

 落下は長くなかった。

 ハンナが受け止めたからだ。

 正確には、真鍮の義手がレイの腰帯をさらい、二人まとめて花壇へ転がった。白い花が潰れ、土が礼服へ跳ねる。

「立てるか」

「数秒ください」

「三秒だ」

「短すぎます」

「口が動くなら立てる」

 ハンナはレイを引き起こした。義手の関節が抗議するように鳴った。

 紙天使は大通りの中央で膝をついていた。六十秒だけ、怪物は紙と石の塊に戻る。実働隊が群衆を遠ざけ、シオンが元版の所在を叫んだ。

「祭礼公報、北門掲示、祈祷札の配布を停止! 版番号を照合しろ! 怪物を斬るな、紙片を証拠袋へ!」

 命令が一つずつ具体的だった。混乱の中では、それだけで人は動ける。

 屋根の女は両腕を押さえられ、地上へ下ろされていた。

「イレーナ・ヴァルク。王太子暗殺未遂で拘束する」

 シオンが名を告げた。

 イレーナ。

 レイはその名を頭の中で組んだ。公報の職人印と一致する。なのに、知っていた感触だけがある。

 イレーナは王子を見ない。レイだけを見た。

「おまえ、生きて」

 言葉の後半を、ハンナが遮った。

「救護院へ運ぶ。肋をやってる」

「待ってください。今、私に」

「あとだ」

 ハンナは新しい仕事を周囲へ割り振り、イレーナを荷車へ乗せさせた。質問する隙間を作らない声だった。

 右手が熱い。掌を一本の赤線が走っていた。火傷に似ているのに、冷たい土へ押しつけても記憶の奥が灼けた。

「赤筆を使ったな」

 シオンが細剣を納め、レイの前へ立った。

「はい」

「許可は」

「ありません」

「元版の所在は」

「祭礼公報系統。親版までは未確認」

「効果時間」

「一語なので六十秒です。残り」

 紙天使の翼が動いた。

「ありません」

 文字が翼へ戻っていく。

 王子は傷つかない。

 紙天使が立ち上がろうとした。だが六十秒の間に、公報は止まり、祈祷札は集められた。千人の判断が残っても、身体に戻る紙が足りない。怪物は片翼しか起こせなかった。

 シオンが版片の剣を一閃した。文字ではなく、翼を支える石像の関節だけを切る。怪物は横倒しになり、実働隊が封印布を被せた。

 群衆の中で、一人の少年が叫んだ。

「王子が血を流した!」

 父親が口を塞ごうとする。

「王子は傷つかない」という文へ、初めて公の反証が届く。

 少年はその事実を、逃げる判断に使った。

「奇跡が止まったなら、石門から離れろ!」

 家族の手を引き、紙天使の影から出る。

 別の者も続いた。

「傷つくなら、殿下を囲むな!」

 群衆が王子へ押し寄せる代わりに、道を空け始める。

 旧文の黒点は消えない。それでも今の血を根拠にした判断が増えるたび、怪物へ戻る紙が減った。

 赤筆が作ったのは真実ではない。人々が、目の前の事実を使い直すための六十秒だった。

「応急処置としては有効」とシオンは言った。「手続き違反としては明白」

「どちらが先に記録されますか」

「両方だ」

 都合のいい記録だけを残さない。その点だけは、レイにも信頼できた。

 その時、群衆が割れた。

 アレンが歩いてきた。

 頬の傷へ白布を当てている。白布の中央に、赤が広がっていた。護衛が囲んでいるのに、彼自身がいちばん静かだった。

 レイの両手へ拘束具がはまった。赤筆の無許可行使、王太子への傷害。法の上では、どちらも反逆に近い。

 アレンはレイの前で止まった。

「君は、何を失った」

 罪状より先に問われ、レイは答えを用意できなかった。

「分かりません」

「分からない?」

「何かを失った場所は分かります。中身がありません」

 アレンは白布を少し下げた。頬の傷は浅い。だが血は本物だった。

「赤い手帳を覚えているか」

 胸のどこかで、空白の縁だけが痛んだ。

「いいえ」

 アレンの指が止まった。

 微笑みはない。淡青の目がレイの顔に、もう見つからない物を探した。

 やがて彼は親指へ自分の血を取り、白しかなかった祭礼公報へ線を引いた。

「この者の処刑と尋問を停止する」

 護衛が息を呑んだ。

「殿下、しかし」

「クロイツ隊長。彼女がいなければ射手は語災に殺されていた。生きた証人が一人増えた。その事実から記録してくれ」

 シオンは一拍だけ置き、頷いた。

「記録します。拘束は継続します」

「それでいい」

 アレンはもう一度レイを見た。

 今度の微笑みは、馬車の上より少しだけ片側へずれていた。

「見習い校正官。依頼がある」

「私は拘束されています」

「だから、今は聞くだけでいい」

 彼は血のついた公報をレイへ向けた。

「七日後、私はこの四文を王冠版として引き受ける。そうなれば、傷つかない王子は、傷つけられない王になる」

「意味が同じに見えます」

「違う。前者は私の身体を守る。後者は、私を傷つける事実を国から消す」

 遠くで、封印された紙天使がまだ軋んでいた。

「私を、この国でいちばん大きな誤植として扱ってほしい」

 祭礼で最初の赤は、王子の血だった。

 二つ目は、レイがその依頼へ心の中で引いた保留線だった。

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