プロローグ 王子が傷つかない国で、矢は放たれた
1.名簿にいない、四十二人目
建国祭の朝、王都から赤が消えた。
窓の旗は白と青。舗道の花びらも白。苺飴は青い糖衣に隠され、肉屋の血抜き桶には白布が被せられていた。
赤は間違いを指す色だから、完全無欠の王子が巡る日にはふさわしくない。
祭礼校正室の末席で、レイはそう印刷された注意書きに赤い丸をつけた。
赤を追放したせいで、間違いまで堂々と紛れ込んでいた。
救護所の案内は、危険な薬品名を普段なら赤枠で囲む。今日は青枠へ替えたため、飲料水の印と区別がつかない。
巡行路の退避図では、通行禁止の道と推奨経路が同じ青線だった。
食物アレルギーの札は、赤字を白へ刷り直され、菓子箱の飾りに埋もれている。
レイは三枚とも修正票をつけた。
主任の机には、同じ票が二十八枚。「祭礼後に処理する」と束ねられ、もう封までされていた。
間違いは、赤を隠しても正しくならない。
見つけた者の指先だけが、行き場を失う。
「見習い」
背後から呼ばれた。
レイは返事をせず、丸の横へ小さく書き込んだ。
理由と結論が逆。
「見習い。聞こえないのか」
「聞こえています。名前がなかったので、私宛てか確認していました」
振り向くと、祭礼印刷の主任が眉間へ皺を寄せていた。白い礼服の胸に、王立印刷局の金属章が重そうに下がっている。
「今日の担当名簿を見たか」
「はい」
「なら自分の持ち場も分かるだろう」
「私の名前はありませんでした」
主任の視線が名簿へ落ちた。正規校正官三十二人、見習い九人。合計四十一人。室内には四十二人いる。
表の最下段、欄外に鉛筆で「仮一名」とある。
それがレイだ。
「仮で十分だ。おまえはまだ戸籍照合が済んでいない」
「採用から三年目です」
「三年でも十年でも、原簿にない名は印字できん。文句は戸籍院へ言え」
戸籍院では、存在を証明する記録を求められる。記録院では、記録を請求する戸籍名を求められる。
輪の内側にいる者だけが回れる、きれいな円環だった。
レイは名簿の欄外へ赤線を引きかけ、やめた。正式な文書へ見習いが手を入れれば処分される。正しい訂正にも、順序がある。
「巡行路の検閲台へ行け」と主任が言った。「違法な刷物を見つけたら、上官に報告。触るな。勝手に直すな」
「何を探せば」
「王子殿下に不敬な文だ」
「不敬の定義は?」
「読めば分かる」
「資料不足です」
主任のこめかみが動いた。
レイは祭礼公報を一枚取った。刷りたての紙は、油と煤を混ぜた匂いがした。上には、今日十八歳になる王太子アレンの横顔。下には四行の美辞。
王子は傷つかない。
王子は民を飢えさせない。
王子は決して敗れない。
王子は白雨からすべての子どもを救った。
最初の一文の縁には、黒い粒がびっしり浮いていた。印刷汚れではない。一粒ごとに、誰かがその文を事実として使った痕だ。
レイは粒の列を目で追った。千個目に届いた文だけが持つ、ぬるい圧力が指先へ伝わってくる。
「ここに誤りがあった場合は」
「ない」
主任は即答した。
「まだ読んでいません」
「王立封印を受けた祭礼文だ。おまえの赤鉛筆で触れていい文ではない」
レイは腰を見た。黒い作業着に、鞘へ収めた赤鉛筆型の校正具が下がっている。鉛筆より太く、短剣より長い。見習いには目立ちすぎるため、普段は黒布を巻いていた。
その赤だけは、祭礼の日にも消せなかった。
「誤りがない文ではなく、訂正を許されない文ですね」
「巡行路へ行け」
主任はそれ以上、レイを見なかった。
室を出る直前、レイは公報の端に小さな圧痕を見つけた。植字工が版へ活字を組む時につける、個人印だった。三本の縦線を、左下で一本の横線が受けている。
どこかで見たことがあった。
思い出そうとした途端、頭の中に白い頁が開いた。何もないのではない。何かを削った場所だけが、不自然になめらかだった。
レイは公報を持ち上げた。
「これは借ります」
「持ち場へ急げ」
許可ではない。だが禁止でもない。レイは、その一字ぶんの差分を採用した。
2.完全無欠の王子へ、矢を放つ女
建国祭大通りには、王都の名簿より多い顔があった。
窓から身を乗り出す者。街灯へ登る者。父親の肩で白い花を振る子ども。よそから来た商人も巡礼者も市民名簿には入らない。今日ここに何人いるか、誰にも分からなかった。
分からないことを喜びと呼べる人々が、レイには少し羨ましかった。
検閲台は、大通りをまたぐ石門の脇へ組まれた仮設足場だった。レイは二階分の梯子を上り、配られる紙を一枚ずつ見た。
王子の肖像。白雨の奇跡。慈善鍋の由来。王子に触れると病が治るという、認可封印を流用した護符。
護符の裏には、祭礼小版を委任された版元の真正印。対象欄は「王都祭礼区域」。だが番号を照合すると、登録本文は慈善鍋の由来だった。本物の封印を、偽の効能へ着せている。
「それ、どこで刷りました」
護符を抱えた男へ尋ねると、男は肩をすくめた。
「買ったんだよ。王子様の御利益だ」
「この封印番号は慈善鍋の図版用です。治癒文へ使う認可はありません」
「祭りの日くらい、細かいことを言うな」
「祭りの日だから言っています。今日だけで千人が使えば、明日には細かいことではなくなります」
男は意味を理解しないまま笑い、護符を懐へ押し込んだ。取り上げる権限はレイにない。上官へ報告札を送る。
護符を買った母親が、熱い額の子どもへ紙を握らせた。
「これで救護所へ並ばなくていいね」
子どもは返事もできず、母親の肩へ額を押しつけていた。
護符の縁へ、黒い粒が一つ浮いた。
読んだだけでは出ない。治ると信じ、救護所へ行かない判断に使った黒点だ。
「待ってください」
レイは母親を止めた。
「また不敬だって?」
「子どもの呼吸が速い。紙は取りません。救護所にも行ってください」
「王子様を疑えっていうの」
「護符を刷った人を疑っています。番号はありますが、別の文へ流用した封印です」
「でも、みんな持ってる」
「何人が持っていても、その子の熱は下がっていません」
母親は列を見た。
救護所までは百人ほど並んでいる。
レイは検閲台の上官へ合図した。
「呼吸困難、一名。順番を前へ」
「診断は救護官が」
「だから救護官へ渡します」
上官は不満そうに札を切り、母子を救護列の前へ通した。
母親は護符を握ったまま列へ向かった。それでいい。判断が一つ変わり、黒点は増えなかった。
レイは護符の版元を報告札へ追記した。
紙の言葉が人を動かすのは、怪物になってからだけではない。
下の大通りで、鐘が三つ鳴った。
王太子の馬車が来る。
歓声が通りの両端から折り重なり、石壁を震わせた。先導の騎兵。校正局実働隊の黒い外套。その中央を、屋根のない青い馬車が進んでくる。
アレン・ヴェルムは立っていた。
白髪は祭礼の光を吸い、淡い灰色に見えた。青い礼装には勲章が多すぎる。だが背筋は揺れず、子どもへ手を振り、老人へ頷き、どの窓にも同じ角度の微笑みを返した。
印刷された肖像より整っている。
それが、レイには不気味だった。
完全な左右対称は、版を裏返して写した時にできる。生き物なら、もう少しずれるはずだった。
レイは王子ではなく、周囲を見た。
実働隊長シオン・クロイツが馬車の左を歩いている。剣の柄へ手を置き、屋根、窓、群衆の順に視線を動かしていた。右側にはハンナ・ロウ。真鍮の義手で子どもが飛び出さないよう柵を押さえ、砂糖の欠片を奥歯で噛んでいる。
ミラ・ベルは規制線の外から、王子ではなく群衆の顔を素早く描いていた。その足元では、配達少年ヨハクが号外用の紙束に腰掛けている。
知っている顔は全員、下にいた。
だから、屋根の上に一人だけ余った。
大通り北側、活版工房の三階。白布の陰に、女が膝をついている。祭りの日に職人が屋根へ上がる理由は、旗の修理か煙突の確認くらいだ。
女の手には弓があった。
「北三番屋根、弓!」
レイが叫んだ。
声は歓声に潰された。叫び直すより、女の指が速い。
弦が鳴る。
その細い音だけが、何千人の声を縫ってレイの耳へ届いた。
矢は白い空へ飛び出した。




