閑話② 光の王女の極秘任務
炙り肉の串が一本で、銅貨一枚。
この裏通りで三十年、その値でやってきた。看板もない。屋号もない。あるのは煤けた屋台と、じじいの背丈ほどの炭の壺と、俺の焼く串だけだ。
昼を少し過ぎた刻限。石畳が陽を吸って、むっとした熱を足元から返してくる。どこかの二階から、洗濯物と煮えた豆の匂い。路地の奥で誰かの飼い猫がだるそうに鳴いた。
俺は火吹き筒で炭を煽いだ。ぱち、と火の粉が跳ねて脂が落ちて、じゅう、と煙が立つ。
この煙が、俺の看板だ。
「親父。二本」
「あいよ」
昼下がりの常連は荷運びのダンナだ。この爺さん、腰は曲がってるくせに口だけは達者でいけねえ。
「聞いたかい。北の通りにまた新しい相談箱が置かれたとよ」
「知らねえ」
「あんた、ほんとに何も知らねえな。世の中ってのはなあ、親父」
「串、焦げるぞ」
「おっと」
いつものなんてことのない王都の裏通りだ。
――そこへ、その男がふらりと現れた。
黒い外套。銀の髪。
ダンナの口が、ぴたりと止まった。串を持つ手が宙で固まっている。
「……お、おい、親父」
「言うな」
「あ、あれ、く、黒宰相さまじゃ」
「言うなって」
王都で知らねえ人間は、いねえ。処刑台から成り上がった、あの悪名高い宰相さまだ。王からも神からも税を取り立てる、って評判の。
ダンナは口をぱくぱくさせながら、俺の袖を引っ張った。
「なんでこんな裏通りに! いや、それより親父、あんた、なんで平気な顔してんだ!」
「……別に」
俺は火吹き筒を置いた。
それから無言で、串を一本、いつもの位置に置いた。焼き上がりの一番いいやつを。
ダンナが変な顔をした。
「……親父?」
「常連だからな」
「は」
「三月前から、月に一度。必ず来る」
ダンナの顎が外れそうなくらい下がった。
「聞いてねえぞ、そんな話!」
「言ってねえからな」
炙り肉屋ってのは、客のことをべらべら喋らねえもんだ。それがこの三十年の、俺の商売だ。
宰相さまが屋台の前で足を止めた。
「……一本、もらおう」
「へい」
銅貨が一枚、きっちり置かれた。まけろとも釣りはいらねえとも言わねえ。いつも通り、ただ一枚。妙に律儀な払い方だ。
串を渡すとき俺はその横顔を、ちらと見ちまった。
目が死んでる。
いや、正確に言えば――前より濁ってやがる。三月前に初めて来たときも、こいつは疲れた目をしていた。だが、来るたびに少しずつ深くなってやがるのだ。井戸の水位がじりじり下がっていくみてえに。
(……国で一番偉いお人ってのは、こんなにすり減るもんかね)
わけは知らねえ。俺は炙り肉屋だ。宰相さまの事情なんざ、知ったこっちゃない。
と。
宰相さまが串を口元に運びかけて――ふと、止めた。
そして。
ふうっ、ふうっ、と。
焼きたての肉に、そっと息を吹きかけ始めたのである。
ダンナの手から串が落ちた。
「…………」
「…………」
じゅう、と炭の上で、脂が鳴った。
「……親父」
「言うな」
「あの、王からも神からも取り立てるっていう、あの黒宰相さまが」
「言うな」
「猫舌かい」
「言うなって言ってんだろ」
宰相さまはじゅうぶんに冷ましてからようやく、一口目を齧った。三月見てきたが、この人は絶対に熱いまま食わねえ。
そして、去り際。
いつものあれが来た。
「……親父」
「へい」
「二本裏の炭屋。同じ質の樫炭を俵で二割安く出している。先月、山からの道が繋がった分だ。仕入れを変えろ」
「……へい」
「それと、香草油の壺。日向に置くな。夏場は三日で味が落ちる」
それだけ言って、宰相さまは串を手にぶらりと歩いていった。
残されたダンナが幽霊でも見たような顔で俺を見た。
「……なあ親父。今の」
「毎回だ」
「毎回!?」
「三月前は串の焼き方について言われた。炭の高さが二寸高い、脂が落ちすぎる、ってな」
俺は火吹き筒を取って、また炭を煽いだ。
「……で、直したら旨くなった」
ダンナはしばらく口を開けたまま、宰相さまの背中を見送っていた。それから、しみじみと呟いた。
「……王都で一番偉いお人が、なんだって裏通りの炙り肉屋の炭の値段なんざ知ってんだ」
知らねえよ。
だが、あの目をした男が俺の店の仕入れ値を正確に覚えて帰るのだけは確かだった。
◇◇◇
「親父。親父ってば」
「うるせえな、なんだ」
「あれ」
ダンナが顎で示した先を見て俺は串を落としそうになった。
娘が一人。
宰相さまが去った方角へ、こそこそと明らかに尾けていくのだ。
「町娘、だよなあ?」
「……いや」
俺は目を細めた。三十年、この通りで客を見てきた目だ。財布の中身も、育ちも、噓も、面を見りゃ大体わかる。
「あれは町娘じゃねえ」
「なんで分かる」
「まず、あの服だ。地味に染めてあるが日に透けたところから絹の照りが出てる。あんな上物、この通りの娘は一生袖を通せねえ」
「ほお」
「髪もだ。乱れ髪のつもりだろうが、あの乱れ方は櫛を入れすぎて逆に整いすぎてる。後れ毛の一本まで計算ずくって面だ」
「なるほどなあ」
「極めつけは歩き方よ。石畳の汚ねえとこを無意識に避けてやがる。あれは汚れる靴しか履いたことのねえ人間の歩き方じゃねえ」
ダンナが、うんうん、と感心して頷いた。それからこう言った。
「じゃあ、あれだな。どっかの良いとこの箱入りが家出でもしてきたな」
「……まあ、そんなとこだろ」
まさか、あの光の王女さまだ、なんてことは露ほども思わねえ。思うわけがねえ。王女さまが炙り肉屋の裏通りをこそこそ歩くわけがねえだろう。
で。
その「良いとこの箱入り」の尾行が、これまた。
「あっ」
ダンナが声を上げた。
娘が細い柱の陰にさっと隠れたのだ。隠れた。
ただ、柱が細すぎた。
上等なドレスの裾が、ぴらり、と思いっきりはみ出している。
「……親父。あれ、隠れてるつもりか」
「たぶんな」
「はみ出てるぞ」
「言うな。可哀想だろ」
次に娘は、道端に積んであった空樽の陰へ勢いよく飛び込んだ。今度はちゃんと隠れた。隠れたはいいが、その拍子に樽を蹴っ飛ばした。
からから、からん。
樽が派手な音を立てて石畳を転がっていく。
娘は真っ青になって樽を追いかけ、抱きとめ、そのまま樽ごと、そうっと元の位置に戻した。戻しながら、宰相さまの背中を恐る恐る窺っている。
「……なあ親父。あの宰相さま、絶対気づいてるよなあ」
「気づいてるだろうな」
「なんで振り返らねえんだ」
「……疲れてんだろ、たぶん」
極めつけはそのあとだ。
宰相さまがふと立ち止まった。すると娘は慌てて、ぴゃっと明後日の方を向き、なんと口笛を吹き始めたのである。
これが、また。
「……親父」
「言うな」
「口笛が上品すぎねえか」
「言うなって」
どこぞの宮廷楽師でも連れてきたみてえな、澄んだ音程だった。しかも、ご丁寧に旋律がちゃんと三つの音で完結している。裏通りの空気から、完全に浮いてやがる。
娘は自分では完璧に紛れているつもりらしい。胸を張って堂々とうろついている。
通りを行く八百屋のかみさんがそんな娘をちらりと見た。それから俺と目が合った。かみさんは何も言わずにそっと目を逸らして、行ってしまった。
うん。この通りの人間は、みんな大人だ。
◇◇◇
宰相さまが俺の屋台から少し離れた路地の角で足を止めた。そして串を食い始めた。
その食い方を見て、俺とダンナは同時に口を開けた。
「……速えな」
「速えなあ」
速い、なんてもんじゃねえ。
さっきまで猫みてえにふうふう冷ましていた男が、いざ口に入れ始めたらまるで別人だった。味わうとか、そういう次元じゃねえ。肉を次から次へと、ほとんど噛まずに胃へ流し込んでいく。飯を食うのが片付けなきゃならねえ仕事みてえに。
俺の焼いた串をあんな食い方をされたのは三十年であの人だけだ。
「親父。怒らねえのか」
「……怒らねえよ」
腹は立たなかった。ただ、なんだか見ていて妙に切なくなった。
「……あのお人、飯を旨いと思って食ったこと、あるのかね」
ダンナは何も言わなかった。串の先っぽをちょっとだけ齧って、それから、しみじみ言った。
「……俺の若い頃に似てらあ。石運びで飯を食う間も惜しかった時分のよ」
「奇遇だな。俺もそう思った」
――と。
物陰の方がなにやら騒がしい。
見れば、あの尾行娘、懐から小さな帳面を引っ張り出して、猛烈な勢いで何か書きつけているのだ。
しかも、この娘。
書きながら思ったことを全部、声に出す癖があるらしい。
「……対象、歩きながらの、驚異的な速度での摂食を確認」
丸聞こえだった。
「親父」
「聞こえてる」
「丸聞こえだな」
「聞こえてるって言ってんだろ」
娘は俺たちの存在などまるで眼中になく、真剣そのものの顔で続けた。
「……これは、そう。毒を盛られる隙を敵に与えぬための、高度な自衛の術に違いないわ! 立ち止まって食事をすれば狙撃の的になる。ゆえに、常に動き、最短の時間で栄養を摂取する……! さすが、黒宰相。食事の一つにすら隙がない……!」
しん、とした。
俺とダンナは顔を見合わせた。
「……なあ、親父」
「なんだ」
「あれ、ただ腹減ってて急いで食ってるだけじゃねえのか」
「俺もそう思う」
「なんであんな難しい話になってんだ」
「知らねえよ」
娘はなおもうんうん唸りながら書き続けている。
「……ええ、間違いないわ。あの速度、あの角度。すべてが計算され尽くしている。……ああ、なんて恐ろしい男」
ダンナがそっと俺に囁いた。
「……親父。あの娘、宰相さまに惚れてんじゃねえのか」
「……串、焦げるぞ」
「おっと」
だが、そこで娘の羽根ペンが、ふと、止まった。
娘は宰相さまの横顔をじっと見つめていた。それから、さっきまでの興奮した声とはまるで違う、小さな声で、ぽつりとこう呟いたのだ。
「……でも。……あんなに急いで食べているのに」
娘は帳面の隅に小さく何かを書き足した。
「……あの人、一度も。おいしそうな顔をしなかった」
……ダンナが、串を齧る手を止めた。
俺も炭をいじる手を止めた。
路地を、風が抜けていった。炭の煙がゆらりと横に流れて、消えた。
「……なあ、親父」
「言うな」
「今の、ちょっと」
「言うなって」
俺は、新しい串に乱暴に香草油を塗った。
◇◇◇
やがて宰相さまは串を食い終え、木串を屑籠にきちんと放ってぶらりと去っていった。最後まであの死んだ目のままで。
娘はその背中が見えなくなると物陰から、ほうっと、大きく息を吐いた。肩からふっと力が抜けるのが遠目にも分かった。
そして――どういう風の吹き回しか。
俺の屋台にまっすぐやってきた。
ダンナが慌てて串を咥えたまま、二歩、後ずさった。
娘は俺の前に立つと、こほん、と可愛らしく咳払いをして、それから妙にぎこちない言葉で言った。
「……えっと。その。さ、さきほどの殿方が、召し上がっていたものを。ひ、一つ、所望します。……いえ。く、ください、な」
(……所望、ときたか)
俺は噴き出しそうになるのをこらえた。庶民の言葉を必死にしゃべろうとしている。だが、その「ください、な」の「な」の付け方が、もう、育ちの良さを隠しきれてねえ。
ダンナが横で肩を震わせていた。俺は無言でその足を踏んだ。
「……へい。一本」
串を焼いて、差し出す。
娘はそれを両手でうやうやしく受け取った。そして、外套の内側から上品な絹の小袋を取り出すと、その中身を俺の掌に、ころん、と置いた。
――金貨だった。
俺は、固まった。
ダンナが串を落とした。今日、二本目だ。
「……お、お嬢さん」
「あ、足りませんか?」
娘が心配そうに眉を寄せる。俺は金貨と娘の顔を三往復ほど見比べた。
「……足りねえどころじゃねえ」
「では、もう一枚――」
「待て待て待て待て」
俺は慌てて娘の手を押しとどめた。
こいつは炙り肉の串が一本だ。銅貨一枚だ。金貨一枚といやあ、この通りの職人が一年働いてようやく手元に残るかどうかって額だぞ。
「お嬢さん。……あんた、串一本の値段を知らねえのか」
娘は、ぱちぱち、と瞬きをした。
それから、みるみるうちに耳まで真っ赤になった。
「……し、知りません」
消え入りそうな声だった。
「わたくし、その……お金というものを、自分の手で払ったことが……その、一度も、なくて」
俺は絶句した。ダンナも絶句していた。
この娘、生まれてこの方、自分で買い物をしたことがねえのだ。
娘は真っ赤な顔で俯いてしまった。串を持つ手が恥ずかしそうに震えている。せっかく買った串を、返さなきゃならねえと思ったのかもしれねえ。
俺は頭を掻いた。それから、金貨を娘の手にそっと押し返した。
「……ダンナ」
「お、おう」
「銅貨、一枚」
ダンナが慌てて懐から銅貨を一枚出して、屋台の板に置いた。
俺はそれを指さして娘に言った。
「串一本は、これだ。銅貨一枚。……今日は、この爺さんの奢りってことにしとけ」
娘は目を丸くして、銅貨とダンナの顔を見比べた。
それからその場で、深々と頭を下げたのである。
貴人が荷運びの爺さんに。
「……お借りします。この御恩は、必ずお返しします。……銅貨、一枚。相違ありませんね?」
「へ、へい」
「必ず、お返しします。……ええ。約束、ですわ」
ダンナはしどろもどろになって、何度も頷いた。
俺は内心で唸っていた。
(……銅貨一枚の借りを、国と国の盟約みてえな顔で背負いやがった)
◇◇◇
そして娘は。
炙り肉の串を、まるで宝物みてえに両手で捧げ持って、おそるおそる、齧りついた。
その瞬間だった。
娘の顔が、変わった。
澄まして、気取って、貴人ぶっていた面が――ふっと、剥がれ落ちた。
脂と、煙と、粗い塩。宮廷じゃあ逆立ちしても出てこねえ、下品で、暴力的に旨い、庶民の味だ。それが、この娘の澄ました仮面をたった一口で、粉々に砕いたのだ。
「……おいしい」
と、娘はこぼした。
ぎこちない庶民言葉でも、取り繕った貴人の物言いでもない。ただの年相応の、どこにでもいる娘の声で。
俺は炭をいじっていた。娘の顔なんざ、まじまじとは見ちゃいねえ。見ちゃいねえが。
(……ああ)
と、思った。
あの綺麗なだけで澄まし返ってた娘が。串一本で急にただの娘の顔になりやがった。
三十年、串を焼いてきてこの顔を見るのだけは、何べん見ても悪くねえ。
娘は、はっと我に返り、素の顔が出ちまったのを恥じるように、また、こほん、と咳払いをした。そして真っ赤な顔のまま、しかし、どこか満ち足りた足取りで去っていった。
◇◇◇
日が傾いてきた。
石畳が茜に染まる。炭の火が赤から橙へ、静かに落ちていく。
俺は店じまいを始めた。
「……なあ、親父」
「なんだ」
「今日は、なんだったんだ」
「変な客が、二人。それだけの日だ」
俺は屑籠を片付けようとして――ふと、手を止めた。
「……おい、ダンナ」
「なんだい」
「あの娘の木串、屑籠にねえぞ」
ダンナが目をしばたたいた。
俺たちはしばらく、屑籠を覗き込んでいた。宰相さまの捨てた木串は一本、きちんと入っている。だが、娘の分はどこにもない。
落としたわけじゃねえ。あの娘は食い終わった木串を、そっと、外套の内側にしまい込んで帰ったのだ。
「……なんで持って帰るんだ、串を」
「知らねえよ」
「初めて自分で買ったもんだから、かね」
「……知らねえって言ってんだろ」
俺は屋台の日除け布に手をかけた。かけて、少しだけ手が止まった。
――そういやよ、と、ダンナが言った。
「あの二人、去っていった方角、同じだったな」
言われてみりゃ、そうだ。死んだ目の宰相さまと、下手くそな尾行娘。まるで片方がもう片方を追いかけていくみてえに。
「……知らねえよ」
「知らねえのかい」
「知らねえ。串、焦げる」
「もう火、落としたろうが」
俺は日除け布を下ろした。
――王都で一番偉い男が月に一度、裏通りの炙り肉を猫舌で冷ましながら食い、炭の値段を心配して帰ること。
――王都で一番高貴な娘が、生まれて初めて自分で買った炙り肉の串を宝物みたいに持って帰ったこと。
その日、その両方を見ていたのは、この通りの名もなき炙り肉屋と、口の減らねえ荷運びの爺さんの二人きりだった。
もっとも、その二人ですら自分たちが何を見ていたのかを生涯、正しく知ることはなかったのだけれど。




