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第8話 塩を弄ぶ者は塩漬けにする

 異変は台所から始まった。


「塩が、銅貨十六枚?」


 視察帰りの馬車の中、市場で拾った声が耳に残った。塩一袋、先月まで銅貨十枚。それが十六枚。パンが銅貨二枚の国で、この上がり方は尋常ではない。


 帝国の関税改定はまだ発動していない。通告が来ただけだ。それなのに、なぜ先に値が動く。


 執務室に戻ると答えはすでに机の上で待っていた。影務庁の黒い封蝋(ふうろう)である。


「――買い占めです」


 セラフィーナの報告はいつも通り簡潔だった。卓上に広げられた大陸図の王国内の塩街道沿いに、黒い碁石がいくつも置かれていく。


「この二月、各地の塩問屋からまとまった量の塩が静かに買い上げられております。買い手は毎回別名義。ですが金の流れを洗うと、一点で合流します。……例の、紋の抜けた川筋と」


「残党か」


「はい。買い付けの証文は一枚も契紋(けいもん)を通っておりません。今どき紋なしの大口取引など、それ自体が名乗りを上げているようなものです。合流先は――バルド・クレッセン男爵。摘発された十七家の縁戚で、先代から塩街道の関所利権を握っていた家です。摘発では証拠が挙がらず、取り逃した男です」


 セラフィーナは最後に一枚の紙片を置いた。焦げ跡のある血判状(けっぱんじょう)の断片。ヴェンデルの川筋から拾い上げた最新の一枚だ。暗号は影務庁(えいむちょう)がすでに割っている。


 読み下せば、こうだ。


『関税の報、近く公になる。塩は騒ぎの種となろう。種は蒔かれる前に買え。民の不満は黒宰相に向く。値は我らが作り、罪は彼奴(きゃつ)が被る』


(……なるほどな。絵図を描いたのは帝国にいるヴェンデル。実行役が国内のクレッセン。狙いは俺の首じゃなく、俺の評判か)


 仕組みは単純で、それゆえに悪辣(あくらつ)だった。


 関税倍増が公表されれば塩は必ず値上がりする――と誰もが思う。パニックが起きる前に安値で買い占め、騒ぎが始まったら高値で小出しに売る。儲けはそのまま残党の軍資金になり、市中には流言を撒く。「塩が高いのは黒宰相の改革のせいだ」「帝国を怒らせたからだ」と。


 民の台所を人質に取った、評判の暗殺。武器はひと粒の塩である。


「閣下。買い占めの現場と倉の位置はほぼ押さえております。ご命令があれば、今夜にでも一斉に踏み込めます」


 セラフィーナの声には珍しく、急く色があった。


「塩は貧しい家ほど骨身に応えます。冬の漬け込みの季節も近い。値が上がった分だけ、どこかの椀が軽くなる。……一日でも早く、と具申します」


(その通りだ。今すぐ潰せば、塩の値は明日にも落ち着く。……だが)


 俺は血判状の断片を指先で叩いた。


 今クレッセンを挙げても罪状は、「塩をたくさん買ったこと」にしかならない。買い占めそのものはこの国の法ではまだ罪ではないのだ。ヴェンデルとの繋がりは血判状で示せるが、帝国にいる本人には届かない。トカゲの尻尾を切って、値を少し戻して、終わり。絵図を描いた奴は次の尻尾でまた同じことをする。


 それに――俺の中の経理部員がそろばんを弾きながら囁いていた。


 買い占め屋の急所は買い占めた瞬間から始まっている。奴らは今、高値で膨れ上がる在庫を抱えている。在庫とは値が上がり続ける間だけ資産で、値が下がった瞬間、ただの重荷になる。


(潰すな。破産させろ)


「セラフィーナ。踏み込みは待て。――三日だ。三日だけくれ」


「……理由を伺っても」


「三日後、塩は今より安くなる。買い占めた奴らの倉ごと、値崩れの下敷きにする。約束しよう」


 セラフィーナは俺をじっと見た。灰色の瞳が報告書と俺の顔を二度往復した。


「三日。影務庁はその間も倉の監視を続けます。……万一、閣下の仰る三日目が来なければ」


「来なければ、備蓄をぶちまけて値だけは戻す。民の椀は軽くさせん。それも約束だ」


「――承知しました」


 氷は、頷いた。


 


     ◇◇◇


 


 それからの三日間、宰相府は静かに、猛烈に動いた。


 一日目。俺は港区の海商の頭目を裏口から呼んだ。布告第6号の礼に来た、あの群島の男である。


「以前、『恩は船で返す』と言ったな。取り立てに来た」


「……黒宰相さまは恩まで取り立てなさるか」


「私の台帳に貸し倒れの欄はない。――群島の塩田(えんでん)の塩、船で運べるだけこちらの言い値で買う。契紋付きの証文でだ。ただし着くまで他言無用。できるか」


 男はしばらく黙り、それから、潮焼けした顔をくしゃりと崩した。


「海の塩はな、宰相さま、岩塩より安くて量だけは馬鹿みたいにあるんだ。売り先がなくて困ってたのさ。……三日で最初の船団を入れてやるよ。群島の男の契紋は破れねえぜ」


 二日目。マレクに国内の岩塩鉱の増産手配と、王家・教会の塩倉の在庫確認を命じた。新大司教は「飢える者のためなら」と、教会領の備蓄塩を二つ返事で供出した。布告第6号の利子である。


 そして俺はついでのつもりで言った。


「ちょうどいい機会だ。マレク、この際、国が塩と麦を買い占める仕組みを作れ。市場の連中が慌てて買う前に、国庫が先に誰よりも多く抱え込む。……買い占めには買い占めだ。国のやる買い占めに勝てる商人はいない」


「国が、先に、誰よりも多く……」マレクの動きが止まり、例の光が目に灯った。「――戦略備蓄。凶作の年、戦の年、今回のような投機の年に、国庫が蔵を開けて値を鎮める……常設の、飢饉(ききん)と混乱への備え……! 閣下、それは買い占めではありません。国家という名の、巨大な平衡錘(へいこうすい)です!」


「錘でも占めでも好きに呼べ。三日目に間に合わせろ」


「はっ!」


 三日目の朝。港に白い帆が並んだ。


 群島の船団、塩俵(しおだわら)にして数千。荷揚げを見物する野次馬の間を噂が火のように走った。その日の午後、俺は宮廷の広間で宣言と共に布告を発した。


 


『布告第7号


 恐怖せよ。塩を弄ぶ者は、塩漬けにする。


 王国はこれより、塩と穀物の常備蔵(じょうびぐら)を置く。国庫は誰よりも深く買い、市場が乱れた日には、誰よりも安く蔵を開ける。本日、王都と各郡都にて、塩を平時の値で無制限に売り出す。慌てて買う必要はない。塩は、必ず足りる。


 なお、この二月の間に塩を買い集めた者たちの名と量は、すべて私の台帳にある。買い占めは罪に問わん。私は寛大である。――ただし、諸君が高値で抱えたその塩の山を、明日から誰が買うのかは、諸君の帳簿と相談することだ。


 安心して食え。値札は私が見張っている。 黒宰相』


 


     ◇◇◇


 


 効果は雪崩に似ていた。


 「塩は必ず足りる」の一文と、港に積み上がった白い俵の山。放出所の「平時の値・無制限」の札。それだけで市中の買い急ぎはその日のうちに止まった。パニックとは要するに「明日はもっと高い」という信心であって、信心は目の前の俵の山に勝てないのである。


 塩の末端値は二日で銅貨十一枚に戻り、四日目には十枚を割った。群島の海塩が想定より安かったせいで、一部の郡では騒動前より安くなるという珍事まで起きた。


 そして、高値の在庫を抱えた者たちの帳簿が音を立てて崩れ始めた。


 匿名で買い集めた塩は匿名のままでは売れない。まともな問屋は契紋証文を求め、紋を通せば素性が割れる。売るに売れず、値は下がり続け、買い付けの借金の利子だけが積もっていく。


 七日目の夜、クレッセン男爵は倉の塩を国境へ運び出そうとした。帝国領へ持ち込んで売り抜けるつもりだったのだろう。


 塩街道の関所で荷馬車の列を待っていたのは黒外套の一団だった。


「バルド・クレッセン男爵。深夜の峠越えとは、お急ぎのようで」


 先頭に立つセラフィーナは松明(たいまつ)の灯りの下、氷の声で言ったという。


「荷を検めます。――ああ、お手間は取らせません。紋のない荷物の中身なら、影務庁は二月前から存じ上げておりますので」


 荷から出たのは塩と、そして荷の底に隠された血判状の写しと帳簿一式。国外への無届け搬出と、亡命者ヴェンデルとの通謀(つうぼう)の証拠。今度は、言い逃れの利かない罪状だった。


 残党の国内の金蔵は塩の山と借金に変わって潰れた。剣を抜く前に帳簿で死んだのである。


 


     ◇◇◇


 


「――で、酒場では早くも『塩漬けの刑』が流行語だそうよ。『嘘をつくと黒宰相に塩漬けにされるぞ』って、子供まで使っているとか」


 事後報告の夜、リュシアは窓辺の定位置で心底楽しそうだった。


「悪名としては及第点だと思うのだが」


「残念ながら。市場のおかみさんたちの評は『値札の守り神』ですって。塩壺の横にあなたの版画を貼る家が出始めているそうよ。台所の魔除けに」


「魔除け!?」


(悪役が、台所で、塩の隣に祀られている)


 俺は頭痛をこらえ、机の上の最後の一件に取りかかった。この数日、ずっと考えていた仕上げである。


「マレク、書き物を頼む。宛先は帝国宮廷、ダリウス・ヴェンデル伯。……いや、写しを帝国の外務当局と使節レオンハルト・ヴォルクリン殿にも」


「は、はい。文面は」


「請求書だ」


 羽根ペンを走らせるマレクに俺は口述した。


「一、貴殿の指図による塩の投機で、王国が被った市場安定化の費え、しめて金貨四百枚。一、貴殿が国内に残した資産は、判明分をすべて差し押さえ、右の費えに充当した。一、なお不足分金貨百二十枚。――貴殿の身柄は帝国法の保護下にあるそうだが、貴殿の借りは私の台帳の保護下にある。利子は年一割。大陸のどこへ逃げようと、私は取り立てる」


 マレクのペンが止まった。


「か、閣下。これは外交文書としては、その、前例のない……」


「前例ならこれから作る。それと最後に一行、追伸だ」


 俺は少し考え、口の端を上げた。処刑台以来、いちばん悪役らしい気分だった。


「『追伸。台秤どのへ。貴国にお預けした亡命者は、ご覧の通りの不良債権である。帳簿を大切になさる貴国が、いつまで抱えておかれるか、私の台帳と共に楽しみにしている』――以上だ。契紋を刻んで、封をしろ」


 その夜のうちに黒い封蝋の請求書は東へ発った。


 国境を越える頃、荷の中で契紋が静かに銀色の光を放っていたという。

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