第9話 沈黙の統治
「閣下。本日の陳情ですが、その、少々申し上げにくい件が」
「言え。慣れた」
「『次の布告はいつ出るのか』という問い合わせが、各方面から計三十七件。加えて王都の酒場では『第8号は何の布告か』を当てる賭けが開帳されておりまして、胴元の倍率表がこちらに」
マレクが差し出した紙には、几帳面な字でこう並んでいた。
本命・水道整備令(二倍)。対抗・学舎設立令(三倍)。大穴・貴族廃止令(三十倍)。番外・黒宰相様ご成婚布告(百倍)。
「最後のは何だ」
「大穴の、さらに外だそうです」
(賭けの対象になっている。俺の政治が、競馬になっている)
俺は倍率表を伏せ、天井を仰いだ。
処刑台から数えて、およそ一年。布告七つ。税制、影務庁、王領課税、契紋公証、度量衡、宗教共存、常備蔵。我ながらよく働いた。働きすぎた。そして働くたびに、悪名は遠のき、人気だけが積み上がった。
原因は分かっている。俺が動くからだ。
動けばマレクが翻訳する。セラフィーナが実装する。民が熱狂する。この一年で証明された、鉄の因果である。
(……なら、逆はどうだ)
動かなければ翻訳されない。翻訳されなければ善政にならない。善政にならなければ人気は上がらない。ついでに俺は休める。完璧な論理だった。前世の社畜生活と今世の激務で俺の疲労はとうに帳簿の赤字域に達している。
俺は決裁の山を脇に押しやり、宣言した。
「マレク。当分、布告は出さん」
「……と、仰いますと」
「読んで字の如くだ。私は沈黙する。問い合わせにはこう答えろ。――『黒宰相は、何も語らぬ』と」
我ながら実に不気味な文言だった。よし。不気味なだけで中身は昼寝である。
「何も、語らぬ……」
マレクの目に見慣れた光が灯りかけた。俺は先手を打った。
「翻訳するな。そのまま伝えろ」
「はっ! 『翻訳するな、そのまま伝えろ』――含めて、そのまま伝えます!」
「待て。それは伝えなくていい」
嫌な予感を残して王国史上初の「何もしない」政策は始動した。
◇◇◇
最初の異変は五日目に財務庁から来た。
「閣下、財務庁より自主監査の報告が。……過去三年分の帳簿を庁を挙げて洗い直したそうです。軽微な計算違いから経費の付け替えまで、百件余りを自己申告の上、是正したと」
「命じていないが」
「はい。ですが庁内ではこう囁かれているそうで。――『閣下の沈黙は観察である。次に台帳へ載る名を、静かに選んでおられるのだ』と。それならば載る前に自分で正すが吉、という理屈かと」
七日目、今度は貴族たちが動いた。
北部の伯爵家が小作料を自主的に一割下げた。理由を問われた家令いわく「黒宰相様が動かれる時は、いつも動かれる前が一番静かだった。税制の前も、影務庁の前も。……今のこの静けさは、あの静けさに似ている」。
それを聞いた近隣の男爵家が慌てて追随し、ついでに抱えていた私兵を減らした。維持費の帳簿を見られたら困る、という判断らしい。誰も見に行っていないのだが。
十日目には商人ギルドが雪崩を打った。
パン職人組合が秤の自主検査制度を作り、織物ギルドが徒弟の待遇規約を定め、金貸し組合に至っては利息の上限を自分たちで決めて公証所に契紋登録しに来た。ギルド長の弁。「次の布告はうちの業界だという噂で持ちきりでして。布告で決められる前に自分で決めた方が、まだ言い分が通りますから」
「……マレク。私はこの十日、執務室で茶を飲んでいただけだが」
「はい。存じております」
「なぜ国が勝手に綺麗になっていく」
「畏れながら閣下、皆、学んだのです。この一年で。――黒宰相の台帳に載ってから正すのと、載る前に正すのとでは痛みがまるで違うと」
マレクは報告書の束を恭しく揃えた。
「鞭は振るわれている間より、壁に掛かっている間の方が雄弁だと申します。閣下の沈黙は王国中の壁に掛かった鞭にございます」
(俺はただ昼寝がしたかっただけなんだ。誰か信じてくれ)
◇◇◇
だが、沈黙は空白でもある。そして空白には必ず何かが湧く。
十五日目、影務庁の黒い封蝋が届いた。
「偽布告です」
セラフィーナが卓に置いたのは、市中に出回り始めたという一枚の写しだった。題して『布告第8号(内示)』。それらしい威圧文体で、こう書かれていた。
『恐怖せよ。河川の材木流送は、本日より王都材木商会の独占とする。他の者が丸太を流せば、丸太ごと沈める。 黒宰相』
「……文体の物真似は、五十点というところだな。『丸太ごと沈める』は悪くない」
「感心なさっている場合ではありません。上流の村々では、材木を安く買い叩く動きがすでに出ております。『どうせ独占になるなら今のうちに売れ』と。仕掛けたのは王都材木商会の理事の一部。閣下の沈黙で『次の布告』への信心が高まりきった今なら、偽物でも市場が信じる――そう踏んだ便乗犯です」
なるほど、頭は回る。俺の沈黙が生んだ「次は何が来る」という期待そのものを、偽札のように刷ったわけだ。
「否定の布告をお出しになりますか。一枚あれば偽物は死にます」
マレクが問うた。当然の献策だった。そして俺は、少しだけ考えて首を横に振った。
「出さん。沈黙は続ける」
「ですが閣下、放置すれば村々の被害が」
「放置とは言っていない。――セラフィーナ、公証所に人をやれ。やることは一つだけだ。所の壁に、こう貼り出せ。『布告の真偽を確かめたい者は、原本の写しを照合に持ち込まれたし。手数料は取らない』。……それだけでいい。あとは黙って見ていろ」
二人は顔を見合わせた。俺は茶を淹れ直した。
仕組みは、もう一年前に作ってあるのだ。
布告第4号の日から、国の重要文書にはすべて契紋が刻まれている。本物の布告の写しには、原本の紋と照合できる副紋が捺される。俺が黙っていても、紋は黙っていない。
三日後、上流の村から来た年寄りの元締めが公証所に例の偽布告を持ち込んだ。係の契紋士が照合盤に載せると――紋のあるべき場所には、何もなかった。
「……こりゃあ、のっぺらぼうだ」
元締めの一言は、その日のうちに川を上って村々に届き、材木の買い叩きは翌日に止まった。偽布告は嘲笑と共に酒場の壁に貼られ、「のっぺらぼう布告」のあだ名で語り草になった。首謀者の理事たちは、紋のない金の流れを影務庁に手繰られ、十日と経たずに検挙された。
報告を読み終えて、俺は写しの偽布告をしばらく眺めた。
「……布告は私が出さずとも、私を守るか」
「閣下?」
「独り言だ」
妙な気分だった。俺が寝ていても俺の作った仕組みが勝手に嘘を殺した。それは頼もしいような、少し薄ら寒いような、初めての感触だった。
◇◇◇
二十日目。ついに宮廷が音を上げた。
定例会議の席で、重臣の一人が意を決したように進み出たのだ。
「宰相閣下! 恐れながら、そろそろ何か布告なりお言葉なりを賜りたく! この静けさに宮廷も市井も、その、落ち着かぬのでございます!」
居並ぶ廷臣たちが一斉に頷いた。玉座の国王までもが心なしか身を乗り出している。
(何か言わないと収まらない空気だな、これは。……よし、ならば「何も言わないこと」を悪役らしく言ってやる)
俺はゆっくりと立ち、広間を見渡した。
「諸卿に問おう。――私が黙っていたこの二十日、この国は何か困ったか?」
誰も答えなかった。俺は続けた。
「財務庁の帳簿は私が命じずとも正された。小作料は私が触れずとも下がった。ギルドの秤は私が検めずとも揃った。偽の布告は私が否定せずとも死んだ。……諸卿。私が毎日何かを命じなければ回らぬ国と、私が黙っていても正しく回る国と、どちらが恐ろしいか分かるか」
しん、とした広間に俺は仕上げの一言を落とした。
「私は今、命じる必要すらない。それこそが支配の完成形だ。――語っている間は、まだ支配が足りぬということよ」
廷臣たちは震え上がり、そして深々と頭を垂れた。会議は史上最短で終わった。
後日、この演説は『沈黙の統治』の名で宮廷の語り草となり、賭けの胴元は「第8号・該当なし」で全額を払い戻したという。
◇◇◇
その夕、いつもの窓辺にいつもの王女がいた。今日は珍しく茶菓子持参だった。
「『語っている間は支配が足りぬ』――傑作だったわね。宮廷中が震え上がっていたわ」
「悪役の演説としては上出来だったろう」
「ええ。それで? 本音は?」
「……何のことだ」
「休みたかっただけでしょう、あなた」
茶を吹きそうになった。王女は涼しい顔で焼き菓子をつまんでいる。
「一年で布告七つ。教会と喧嘩して、帝国と睨み合って、塩相場と殴り合って。……観察録によれば、この半月であなたの目の下の隈は二割薄くなったわ。数字は嘘をつかないのよ、宰相閣下?」
(この人の観察録、俺の隈まで記帳されているのか)
観念して俺は茶を啜った。それから言い訳のように、ぽつりとこぼした。
「……仕組みというのはな、殿下。作った人間が居眠りをしても回るために作るものだ。人の善意や名君の器量は当てにならん。当てにした国から順に悪い人間に食われる。――だから帳簿と、紋と、決まりごとにやらせる。人でなく、仕組みに」
「あなたが眠っても、回る国」
「そうだ。それが一番安上がりで一番裏切らない」
リュシアはしばらく黙って、それから、観察録には書かなさそうな柔らかい声で言った。
「前から思っていたけれど。あなたの言う『支配』って、聞けば聞くほど――誰かが安心して眠るための話に聞こえるわ」
「……悪役の支配論に変な注釈をつけるな」
「ふふ。どうかしら」
◇◇◇
沈黙三十日目。俺は生まれて初めて丸一日の休みを取った。
前世では取れなかった。俺が休むと仕事が回らない気がして、回らないのが怖くて、結局いつも出勤した。今にして思えば回らなかったのは仕事ではなく俺の勇気の方だった。
外套のフードを目深に、供も付けず、冬支度の王都を歩く。
市場では検査済みの焼印が捺された秤が堂々と麦を量っていた。公証所の前には婚礼の誓いに紋を貰いに来た若い二人が頬を赤くして並んでいた。井戸端では直ったばかりの滑車が軽やかに鳴り、塩壺を抱えたおかみさんが「今年は漬け込みが安く済んだ」と笑っていた。
誰も俺に気づかない。誰も俺を必要としていない。
国は回っていた。俺がいなくても。
(……ああ、そうか)
俺がいなくても回るように、俺が作ったのだ。この一年、生き延びるためだけに積んだつもりの帳簿が、いつの間にかこんな音を立てて回っている。
空から初雪が落ちてきた。
市場の子供らが歓声を上げる。誰かの家の煙突から、夕餉の煙が真っ直ぐ立ち上る。
俺はフードの下で少しだけ長く、その音を聞いてから帰った。
執務室の机には決裁待ちの書類が、たった三枚だけ載っていた。




