第10話 一年目の帳簿と、三つの環
処刑台から、まる一年が経った。
王都は年の瀬の雪化粧の下で、湯気と買い出しの喧噪に沸いている。宰相執務室では、マレクが年次報告の締めくくりとして実に余計な一枚を読み上げていた。
「――以上が本年の財政収支です。それから閣下、恒例といたしまして市井における閣下の呼び名の変遷を影務庁がまとめましたので」
「恒例にするな」
「春、『王からも取り立てる化け物』。初夏、『黒衣の聖者』。秋、『値札の守り神』。塩の一件以降、『塩漬け卿』。そして沈黙の統治を経て、現在最も多い呼び名は――『眠らぬ台帳』。閣下が寝ている間も台帳が国を見張っている、という敬意と畏怖の呼称です」
「畏怖が入っているなら及第点とする」
「なお酒場の賭博は新装開帳しておりまして、演目は『黒宰相は次に何を取り立てるか』。本命・帝国からの債権(一・五倍)、対抗・貴族の昼寝時間、大穴・王女殿下のお心――」
「胴元を検挙しろ」
(最後の大穴はなんだ。誰が張ってるんだ)
平和だった。腹立たしいほど平和な年の瀬だった。
この平和に最初の小石を投げたのは北塔の老人である。
◇◇◇
ギデオン・モルスは先触れを寄越した上で、正装で執務室に現れた。それだけで用件がただ事でないと分かった。この老人が半年間、湯呑み片手の普段着以外で俺の前に立ったことはない。
「閣下。本日は冗談を言いに参ったのではありませんのじゃ」
「座れ。聞こう」
老人は座らなかった。代わりに懐から一枚の証文を取り出し、机に置いた。先週結ばれたばかりのありふれた商いの契紋である。
「紋の『乗り』の話を覚えておいでかな。半年前、布告に紋を刻んだ夜、わしは冗談めかして申しました。近頃は紋の乗りがいい、まるで大陸が聞き耳を立てているようだ、と」
「覚えている」
「あれから乗りは良くなる一方ですじゃ。……閣下、契紋とは本来『借りる』技です。大陸誓約の伝説になぞらえるなら、眠っている大きな誓いから欠片を分けてもらう。だから術士は対価を払う。精を削り、重い紋なら寿命を削る。それが理でした」
老人の皺深い指が証文の紋をなぞった。
「ところが近頃は――削られませんのじゃ。それどころか紋を結ぼうと手を伸ばすと、向こうから手を取られる。喩えではありませんぞ。わしのような枯れた術士の感覚で申せば確かに紙の向こうに『手』がある。差し出される。誂えたように、ぴたりと」
「……術が上達した、という話ではないのだな」
「七十の爺が半年で開眼するなら契紋士は苦労しませんじゃ。それに、わしだけではない。南部の同業から二通、東の隠居から一通、同じ報せが来ております。文面はそれぞれですが、束ねれば一つの言葉になる。――『誰かが、仕事を手伝ってくれている』」
執務室が静かになった。暖炉の薪が、ぱち、と爆ぜた。
「……いつからだ」
「思い返せば布告第4号の頃から。公証制度でこの国の結ばれる紋の数は百倍になりました。婚礼、商い、布告。国中が毎日、何千という誓いを世界に覚えさせておる。……閣下。眠っている者の枕元で、毎日何千回も名を呼べばどうなりますかな」
「起きる、と言いたいのか」
「わしは学者ではありませんのでな。ただの年寄りの、肌の話ですじゃ。……肌がこう言っております。『何かが、寝返りを打った』と」
◇◇◇
小石の二つ目は翌日、大聖堂から来た。
使者は修道士ノエル。あの日、大聖堂で最初に聖句を口にした若者で今は新大司教の秘書である。彼は挨拶もそこそこに写生画を一枚広げた。三つの環が組み合った紋章――聖環教会の、あの聖印である。
「大聖堂の最奥に『誓いの間』という古い祈祷室がございます。建国期からあると伝わる、石壁だけの小部屋で、この三連環が床石に刻まれております。……十日ほど前から夜になると、この環が」
「光るのか」
「いえ。……温いのです」
ノエルは言葉を選ぶように間を置いた。
「触れると人肌ほどに。石なのに、です。古文書係のトマ老が気づきました。老は五十年あの部屋を掃除しておりますが、初めてのことだと。それからこれは関係があるのか分からないのですが――書庫の最古層に建国期の写本があります。封蝋で閉じられ、歴代の司書が誰も開かずに伝えてきたものが三巻。そのうちの一巻の封蝋が先週割れておりました。誰も触れていないのに、内側から押されたように」
「中身は」
「新大司教様のご判断でまだ開いておりません。ただ、背表紙の題箋だけは読めます。古語で――『環は三つ。誓いも三つ』と」
(三つの環。三つの誓い)
嫌な符合だった。国は互いを侵さぬこと。王は民を守るために立つこと。神に仕える者は地上の権に手を伸ばさぬこと。ギデオンの寝物語の三箇条と、この国最大の教会が千年掲げてきた聖印の環の数が同じ「三」。
「トマ老はこう申しております。『聖環とは大陸の三つの誓いの写しである、と、わしの師の師は言うておった。誰も本気にせんかったがの』と」
俺は写生画を見下ろした。
処刑台の演説、税制、契紋、宗教共存令。この一年、俺は生き延びるために手当たり次第に「約束」をいじってきた。誰が払うか。誰が守るか。誰が誓うか。この国の約束の形を根こそぎ変えた。
もし――もしもだ。世界の側に約束の元帳があるのなら。
この一年の俺は他人の帳簿に断りなく赤字も黒字も書き込みまくった男ということになる。
(……やめだ。仮定の上に仮定を積むのは経理のやることじゃない)
「ノエル。報告に感謝する。写本は開けるな、と大司教殿に伝えろ。それから、これは命令ではなく頼みだ。――誓いの間の様子を月に一度でいい、私に報せてくれ」
「かしこまりました」
ノエルが辞したあと、俺はセラフィーナを呼んだ。
「影務庁に新しい帳面を一冊作れ。表題は『異変帳』。ギデオンの紋の件、大聖堂の件、それから――民間の妙な噂も拾え。理屈のつかない話を笑わずに日付と場所つきで記録しろ。判断はするな。集めるだけでいい」
「承知しました。……実は既に似た噂を二件、拾っております。『近頃、破った約束がよく露見する』。契紋のない口約束まで妙な巡り合わせで露見するという市井の与太話ですが」
「それも載せろ」
セラフィーナは一礼して下がった。実害はない。どの報告にも実害だけはまだ、ない。
だから俺は政治家として正しく、それを棚に上げた。世界の側の帳簿など俺の管轄外だ。俺の管轄はこの国の人間の帳簿だけである。
――そのはずだった。
◇◇◇
新年の賀の宴は近年にない華やぎだったという。
国庫は潤い、市中は安定し、宮廷からは陰謀の臭いが消えた。国王は上機嫌で杯を重ね、宴の半ばで俺を露台に呼び勲章をやると言い出した。丁重に辞退した。悪役に勲章は似合わない。代わりに「では何が望みだ」と問われたので「決裁書類の様式統一を」と答えたら大笑いされた。本気だったのだが。
宴を抜け出した露台は雪明かりで青かった。
そして当然のように先客がいた。
「一年ね」
リュシアは欄干に肘をつき眼下の王都を見ていた。祝いの灯が雪の街に点々と暖かい。
「一年前の今頃、わたくしは処刑の触れ書きを読んでいたわ。『黒宰相、明朝斬首』。……それが今夜はどう? 街中があなたの作った台帳の上で、安心して酔っ払っている」
「悪夢のような一年だった」
「あら、誰にとって?」
「主に俺の胃にとってだ」
王女は小さく笑い、それから、ふと真顔になって俺を見た。
「ねえ、黒宰相。一年間、聞かずにおいた質問をしていい? ――処刑台のあの演説。『私を殺せば次の悪はもっと巧妙に隠れる』。あれ、本当はどこまで考えて言ったの?」
(来たか。観察録一年分の、締めの質問だな)
いつもならはぐらかす。悪役の深謀を匂わせて、煙に巻く。この一年、ずっとそうしてきた。
だが今夜は年の瀬で、雪明かりは青く、眼下の灯はあまりに暖かかった。だからだろう。口から出たのは、煙ではなく素の勘定だった。
「……何も」
「え?」
「何も考えていなかった。あの時の私はただ――死にたくなかった。それだけだ。生きたかった。次の日も、その次の日も。考えていたのは、本当に、それきりだ」
言ってから、しまった、と思った。悪役の看板を自分で下ろすような一言だ。
リュシアは目を丸くしていた。それから欄干に向き直り、長いこと黙って雪の街を見ていた。やがて彼女は独り言のように言った。
「……『生きたかっただけ』の男の一年で、国がひとつ、生き返ったのね」
「買い被りだ。仕組みが勝手に回っただけで」
「ええ、知ってる。仕組みは、居眠りしても回るように作るんでしょう?」
王女は俺の言葉を正確に諳んじてみせた。それから、悪戯っぽく付け加えた。
「今のは記帳しないでおくわ。『何も考えていなかった』――観察録に書いたら、あなたの悪名に障るもの」
「……気遣いに感謝する」
「ふふ。年明けの貸しにしておく」
◇◇◇
その貸しの取り立ては思ったより早く来た。
年が明けて七日目。帝国から一通の親書が届いたのである。黒鷲の封蝋。皇帝セルギウス十三世の名。宛名は国王と――「宰相アルベルト・グランディーネ」の連名だった。
文面は、帝国らしく慇懃で、帝国らしく骨だけだった。
『国境三関門の関税、ならびに両国通商の全般につき、会談の席を設けたい。場所は帝国側国境城市グラウデン。貴国よりは、宰相アルベルト・グランディーネ殿の来駕を請う』
「名指し、か」
対策の席は初手から重かった。マレクが青い顔で言う。
「帝国領での会談です。しかもグラウデンは亡命したヴェンデル伯の滞在先に近い。万一の際、閣下の身柄は帝国法の内。……罠の可能性を考慮すべきかと」
「罠でしょうね、半分は」リュシアが地図を睨む。「でも残り半分は本物よ。台秤の報告書が通ったんだわ。帝国は『測るに値する』と結論した。だから卓に呼ぶの。……断れば、測定不能として、次は数字ではない手段で測りに来る」
「行くしかない、ということだな」
俺は親書をもう一度読んだ。黒鷲の封蝋の下、几帳面な筆跡の末尾に、署名がもう一つ添えられている。『交渉次席 レオンハルト・ヴォルクリン』。
(台秤の野郎、追伸の返事がこれか)
恐怖は、ある。処刑台の次くらいのあの冷たさが、もう背中に来ている。だが同時に俺の中の経理部員がそろばんを構え直す音もした。向こうの卓には関税の刃とこちらの債権が載っている。取り立てるべき金貨百二十枚、利子は年一割。
「陛下には私から言上する。――行こう。帝国へ」
俺は立ち上がり、精一杯、悪役らしく笑ってみせた。
「あちらには取り立て中の債権もあることだしな。督促は対面が一番効く」
◇◇◇
出立が決まった、その夜。
宰相府の地下、布告原本の保管庫。錠の下りた暗闇に、七枚の羊皮紙が眠っている。第1号から第7号まで、一年分の恐ろしい文面の善政たち。
誰もいないその部屋で。
七つの契紋が――まったく同時に、ひとつの鼓動のように、淡く明滅した。
一度。二度。
まるで遠くの誰かが頁を繰る指を止めて、顔を上げたかのように。
三度目は、なかった。
保管庫は再び暗闇に戻り、地上では東へ発つ馬車の支度が始まっていた。




