第7話 誤解しない男
布告第6号の余波は、思わぬところまで届いていた。
「閣下。例の版画の件、続報です」
「増刷は止めろと言ったはずだが」
「国内は差し止めました。問題は国外です。……行商の荷に紛れて、帝国領内で流通が確認されました。『西の黒衣の聖者』の題で、一枚銀貨二枚の高値がついているとか」
「帝国で!?」
執務室に、俺の声だけが響いた。マレクは気の毒そうな顔で続けた。
「帝国の民は信心深うございますので。『王からも神からも等しく取り立てる清廉の宰相』の絵姿は、たいそう有難がられているようで」
(悪名を輸出したかったのに、聖人像が輸出されている)
頭を抱えたくなったが、笑い話はそこまでだった。マレクの次の書類は、影務庁の黒い封蝋で閉じられていたからだ。
セラフィーナが直々に運んできたその報告は、三行に要約できた。
一、摘発を逃れた東部辺境伯ダリウス・ヴェンデルは、帝国宮廷に客将として迎えられた。
一、ヴェンデルは国内の旧貴族残党と、密かに文を交わしている。
一、帝国より外交使節が来る。十日後に。
◇◇◇
「まず、密書の件から」
対策の席で、セラフィーナは一枚の紙片を卓に置いた。焦げ跡のある、古風な血判状の断片だった。
「ヴェンデルと残党どもは、契紋を一切使っておりません。すべて旧式の血判と暗号文です」
「当然だろうな。契紋は合意した誓いしか刻めん上、破れば黒く濁って残る。陰謀の道具には最悪だ」
「はい。――ですが閣下、それこそが追跡の目印になります」
セラフィーナの灰色の瞳が、かすかに光った。
「布告第4号以降、この国のまともな約束はすべて契紋を通ります。つまり今この王国で『わざわざ契紋を避けて交わされる文書』は、それだけで疑わしい。影務庁は公証所の記録と照らし、紋のない金の動き、紋のない誓いの流れだけを浮かび上がらせました。……陰謀は、紋の抜けた場所に、川筋のように見えております」
(なるほど。全員に鎖をつけたから、鎖のない奴だけが暗闇で光る。監視網としては秘密警察より性質が悪いな、これは)
「残党の名は割れているのか」
「主立った者は。ただし、泳がせることを具申します。今潰せば、帝国は次の駒を新しく作るだけ。ヴェンデルという分かりやすい糸は、切らずに見ていた方が」
「許可する。……で、本題だ。帝国使節とは、何をしに来る」
それまで窓辺で黙っていたリュシアが、扇を閉じた。
「値踏みよ」
王女は立ち上がり、壁の大陸図の前に立った。王国の東に横たわる、倍以上の版図。
「帝国はね、感情で動かない国よ。信じるのは版図と数字だけ。彼らから見れば、西の隣国がこの一年で妙なことになっている。税収は跳ね上がり、貴族の反乱の芽は消え、民は宰相の似顔絵に祝杯を上げている。――急に強くなる隣人ほど、気味の悪いものはないわ」
「潰しに来ると?」
「まだよ。帝国は測り終える前には殴らない。だから使節を送って、確かめに来るの。この国の変化が『本物』か、『張りぼて』か。そして黒宰相アルベルトが――『危険な野心家』か、『買い叩ける道具』か」
リュシアは振り返った。珍しく、笑っていなかった。
「使節の名は、レオンハルト・ヴォルクリン。歳は二十六。平民の出から帝国文官の登用試験を首席で抜けて、皇帝セルギウス十三世の側近くに仕える男。……気をつけて、黒宰相。帝国の宮廷雀いわく、彼のあだ名は『台秤』。人でも国でも、載せれば正味の目方だけを読むそうよ」
(正味の目方、ね)
嫌なあだ名だった。俺の目方の中身は、悪役の張りぼてを被った経理部員である。
◇◇◇
十日後。謁見の間。
帝国使節レオンハルト・ヴォルクリンは、噂よりさらに若く見えた。
飾り気のない灰青の文官服。剣は佩かず、代わりに分厚い革の書類鞄を従者に持たせている。所作は完璧に慇懃で、そして完璧に温度がなかった。
「皇帝セルギウス十三世が名代、レオンハルト・ヴォルクリンにございます。両国の永き隣誼に、慶賀を申し上げます」
口上は流麗だった。贈り物の目録も豪華だった。そして三つ目の書状から、刃が出た。
「なお、貴国より照会のありましたダリウス・ヴェンデル伯の件。伯は帝国への正式な亡命者であり、帝国法の保護下にあります。身柄の引き渡しには応じかねます」
玉座の国王が眉を寄せる。予想通りの回答ではあった。刃は続く。
「加えて、通商の件で通告がございます。帝国は来季より、国境三関門の関税を改定いたします。塩、鉄、馬具――税率は、従来の二倍に」
謁見の間が、ざわ、と揺れた。
塩と鉄。どちらも王国が帝国からの輸入に頼る品だ。二倍の関税は、市場の塩の値を直撃する。ようやく暮らし向きが上向いた民の台所を、狙い撃ちにする一手だった。
(宣戦布告の一歩手前だな。武器を使わない殴り方だ)
国王が俺を見た。宮廷中が俺を見た。恐怖担当の出番である。
俺は玉座の脇から進み出た。処刑台仕込みの、最上級の冷笑を装着して。
「使節どの。遠路はるばる、脅しに来られたか」
「事実の通告に参りました」
「ではこちらも事実を通告しよう。――この国のすべての銅貨は、私が数えている。神も王も、私の台帳の上にある。帝国の関税ごときで、私の帳簿が揺れると思うたか」
完璧な悪役口上だった。国内なら、ここで相手が青ざめるか、マレクが妙な翻訳を始めるかの二択である。
レオンハルト・ヴォルクリンは、そのどちらでもなかった。
彼は小さく首を傾け、事務的な声で言った。
「承知しました。では演出は済んだものとして――数字の話をいたしましょう、宰相閣下」
「……何?」
「貴国の岩塩の自給率、消費量の三割強。製鉄は良質な鉱脈を欠き、農具の鉄の過半が帝国製。関税が倍になれば、塩の末端価格はおよそ四割上がる。契紋公証で商いの費えを下げた分は、ほぼ相殺されます。――閣下が今なさった威圧は、これらの数字を一つも動かしません。違いますか」
謁見の間が、静まり返った。
(……こいつ)
背筋を、久しく忘れていた冷たさが這った。処刑台の斧とは違う冷たさだ。
この男、誤解してくれない。
俺の吹かした悪役の煙を、手で払って、その奥の帳簿だけを見ている。この一年、王国の誰ひとりしなかったことを、初対面の外国人が平然とやっている。
「……ふ」
笑うしかなかった。そして、切り替えるしかなかった。悪役の演出が効かないなら、残るのは中身――前世十年の、経理の土俵だ。
「いいだろう、使節どの。数字の話をしよう。――マレク、あれを」
マレクが進み出て、書類を広げた。俺は淡々と読み上げる。
「帝国東部三属州、昨年の穀物徴収高、前年比七割。今年の作付けはさらに悪い。長雨と、黒錆病だ。属州の穀物倉の備蓄は、冬を越すに足りない。――違うか?」
レオンハルトの睫毛が、初めて、ぴくりと動いた。
「……出所を伺っても?」
「群島の海商は、穀物相場のためなら鴎の数まで数える連中でな。彼らは近頃、私に義理があるらしい」
俺は一歩、踏み込んだ。
「そちらが塩と鉄を締めるなら、こちらは麦の売り先を選ぶまでだ。契紋公証付きの穀物取引は、いまや大陸中の商人が信を置く。買い手には困らん。……帝国の属州民が飢える冬に、皇帝陛下は関税の増収を喜ばれるか?」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
やがてレオンハルトは、書類鞄から一枚の紙を取り出し、何事かを書き付けた。それから顔を上げ――ほんのわずかに、口の端を動かした。笑ったのだと気づくのに、数拍かかった。
「訂正します、宰相閣下。本国の事前評価では、貴国の改革は『七割方、宣伝』とされていました。……私の報告書では、その数字を書き改めることになります」
「好きに書くがいい」
「関税改定の件は一旦、持ち帰ります。相応の対案を貴国が示されるなら、交渉の卓は用意されましょう。――以上をもって、本日の口上を終わります」
台秤は、一礼して退がった。
最後まで、温度のない目だった。
◇◇◇
その夜の回廊で、俺は帰り支度の使節とはからずも行き会った。従者を先に行かせ、レオンハルトは足を止めた。
「宰相閣下。公務の外で、ひとつだけ伺っても」
「手短にな」
「閣下は奇妙だ。恫喝の言葉と、打たれる手の中身がまるで一致しない。言葉は簒奪者のものなのに、手は……」彼はそこで、適切な語を探すように間を置いた。「……帳簿を守る者のものだ。あの威圧は、誰に向けた演出なのです」
(核心を突くな、初対面で)
「……使節どの。貴殿は帝国で、正直に生きて得をしたことがあるか」
「一度もありません」
「私もだ」
レオンハルトは俺をしばらく見て、それ以上は問わなかった。代わりに去り際、独り言のように言った。
「帝国は測り終えるまでは殴りません。ですが閣下――帝国は必ず、測り終えます。私が、そのための秤ですので」
靴音が、回廊の闇に消えていった。
◇◇◇
「――勝てなかったわね、今回は」
執務室に戻ると、当然のように王女がいた。もう驚かない。
「ああ。引き分けですらない。値踏みされて、棚に戻されただけだ。関税の刃は抜かれないまま、鞘に入っている。ヴェンデルも帝国の懐の中だ」
「でも、張りぼてだと思われたままなら、冬を待たずに刃は抜かれていた。……初めてね、あなたの威圧がまるで効かない相手」
「ああ。……厄介なのはそこじゃない」
俺は窓の外を見た。王都の家々に、夕餉の灯がともり始めている。
「あの男、効かないくせに中身は正確に読んでいく。国内の連中は、俺の言葉を勝手に良い方へ曲げてくれた。あの男は曲げない。まっすぐ量って、まっすぐ帝国に持ち帰る。……次に来る時は、俺の正味の目方に合わせた手を打ってくるだろう」
「怖い?」
「怖いね。処刑台の次くらいに」
正直に言うと、リュシアは小さく笑った。それから、ふと真顔になって、窓の外の同じ灯を見た。
「ねえ、黒宰相。気づいている? あなた今、『俺の首が危ない』じゃなくて、『塩の値が上がる』の心配から始めたわ」
「……何の話だ」
「別に? 観察録が一行増えただけよ」
王女は答えず、上機嫌で帰っていった。
残された俺は、机の上の関税通告書をもう一度めくる。
塩、四割高。それで困るのは俺の首ではなく、あの灯の下の、名前も知らない誰かの台所だ。
(……いつからだ? そんな帳尻の合わない勘定を、俺はいつから始めた)
答えは出さないことにして、俺は蝋燭を消した。
帝国の秤は、もう国境を越えた頃だった。




