第6話 神もまた台帳の上に
布告第5号は、度量衡統一令だった。
升の大きさ、秤の分銅、布の尺。市場ごとにばらばらだった基準を王国全土で揃える、というだけの地味な布告である。例によって『恐怖せよ。汝らの升は今日からすべて私の升である』と威圧的に書いたが、返ってきた民の評は「今度のは細かくて助かる」だった。悪名回復の道は遠い。
そんな折、王宮に一通の牒状が届いた。
差出人は、聖環教会大司教バルタザール・クレフ。この国の魂の半分を預かる男である。
文面は、荘重な聖句の引用で始まり、次の三点で終わっていた。
一、教会ならびに教会領は、神の直轄であるゆえ課税に応じない。
一、契紋公証なる制度は、誓いという神の領分を侵す「悪魔の鎖」であり、信徒には利用を禁じる。
一、黒宰相アルベルト・グランディーネが悔い改めぬ場合、教会は破門をもって応じる用意がある。
「……喧嘩を売られているな、これは」
「喧嘩というより、宣戦布告かと」
マレクの顔は珍しく硬かった。無理もない。この国で教会と事を構えて生き残った政治家は、歴史上ひとりもいないのだ。
◇◇◇
緊急の対策会議には、いつもの顔が揃った。マレク、セラフィーナ、そして招いてもいないのに窓辺の定位置に座っている光の王女。
「まず教会の内情から」マレクが帳面を繰る。「聖環教会は王国最大の地主です。免税特権の時代に寄進で膨れ上がった荘園は、王領に次ぐ広さ。布告第1号は当然そこにも課税しますから、大司教どのが怒るのは、まあ、財布の理屈としては分かります」
「契紋への敵意も財布の理屈です」セラフィーナが資料を重ねた。「影務庁の調べでは、大聖堂は『神前誓約』の独占で稼いでおりました。婚姻、商いの誓い、遺言――誓いごとに献金を取る。公証契紋所はその商売敵です。加えて、こちらを」
彼女が広げたのは、教会領の小作台帳の写しだった。収穫の六割を納めさせる荘園。「魂の平安のため」と称して献金額で祈りの回数が変わる料金表。読み書きのできない小作に署名させた、一方的な借地証文の束。
「訴えは相談箱に山と届いております。ですが相手が教会となると、影務庁の権限では踏み込めません。……踏み込めば、信仰への迫害とされます」
(構図は分かった。腐敗貴族の教会版だ。ただし今度の相手は、剣も帳簿も効かない。民の心の中に城を持っている)
「王家は動けないわ」
リュシアが静かに言った。扇は閉じたままだった。
「王家が教会と争えば、民は魂と忠誠のどちらかを選ばされる。それは国が割れるということ。歴代の王はだから、教会の帳簿から目を逸らし続けてきた。――愛では、教会に触れられないのよ」
王女の視線が、まっすぐ俺に向いた。
「だから、これは恐怖の仕事。あなたの領分よ、黒宰相」
「……つまり、貧乏くじを引けと」
「あら。均衡のお相手に選んだと言ったでしょう?」
(この人は本当に、笑顔で人を戦場に送る)
俺は牒状をもう一度見た。破門。俗世の言葉に直せば「民の信心を武器にした人質取引」だ。放置すれば公証制度は枯れ、税制は穴だらけに戻り、俺の生存基盤は崩れる。
受けて立つしかない。悪役として。
「マレク、大司教に返書を。――『説教壇での果たし合いを所望する。三日後、大聖堂にて。神の帳簿と私の台帳、どちらが正しいか、民の前で決めようではないか』と」
「か、閣下、それは公開討論という意味で……?」
「果たし合いと書け。その方が悪役らしい」
◇◇◇
出立の前夜、俺は北塔のギデオンを訪ねた。契紋が「悪魔の鎖」呼ばわりされた件で、老人がしょげていないか確認――ではなく、術式面の事実確認である。
老人はしょげるどころか、湯気の立つ茶を二杯用意して待っていた。
「大聖堂に乗り込まれるそうで。ほっほ、わしの若い頃にも、教会と契紋士は犬猿でしたじゃ」
「聞きたいことがある。契紋は本当に『神の領分を侵す』のか。教義上の弱点があるなら先に知っておきたい」
「逆ですじゃよ、閣下」
老人は茶をすすった。
「覚えておいでかな、寝物語の三つ目の誓い。――『神に仕える者は、地上の権に手を伸ばさぬこと』。大陸誓約の伝説が本当なら、教会が荘園を抱え、税を拒み、破門で政を動かすことこそ、いちばん古い約束からのはみ出しもの。……まあ、寝物語ですがな」
「……寝物語にしては、今夜もやけに条文めいているな」
「ほっほ。年寄りの話は、たいてい説教くさいものですじゃ」
◇◇◇
三日後。大聖堂は、身動きも取れないほどの人で埋まっていた。
貴族席には様子見の顔、顔、顔。身廊には市井の民。回廊には若い修道士たちが息を詰めて並び、祭壇の前には金糸の祭服をまとった大司教バルタザール・クレフが、黄金の杖を手に立っていた。
「よくぞ神の家に足を運ばれた、黒宰相どの。悔い改めに来られたか」
「取り立てに来た」
堂内がざわりと揺れた。俺は構わず、祭壇へ続く階段の下まで進み出る。
「単刀直入に言おう、大司教。教会領の税、耳を揃えて納めてもらう」
「神の土地に、人の税は及ばぬ!」
バルタザールの声は、さすがに堂々たるものだった。長年、この天井に響かせ続けてきた声だ。
「この地上において教会は神の代理人。代理人の財は神の財。神に税を課すなど、傲慢の極み! 悔い改めよ、さもなくば汝を破門し、汝に従う者すべての魂の門を閉ざす!」
身廊の民が、ざわ、と動揺した。破門。その一言の重さは、貧しい者ほどよく知っている。
(来たな、人質取り。……さて、ここからが本番だ)
俺は、あえてゆっくりと堂内を見回した。黄金の燭台。宝石をちりばめた聖像。天井まで届く金泥の壁画。そして身廊の、継ぎの当たった外套の群れ。
「なるほど、神の財か」
俺は祭壇の黄金の燭台を指した。
「では大司教。神は、ずいぶんと羽振りがよいと見える。――私の影務庁の台帳によれば、貴殿の荘園は小作から収穫の六割を取り、祈りに値札を付け、字の読めぬ者に証文を握らせている。神の代理人の商売としては、なかなか手広い」
「ぶ、無礼な! それらはすべて神の御業のための――」
「ならば言おう」
俺は声を張った。処刑台で覚えた、あの張り方で。
「神は税を払わん。結構だ。私とて神の帳簿までは検められん。――だが、神の名で肥え太る人間は別だ。私は神には触れん。神の代理人を名乗って民から啜る者の懐にだけ、指を突っ込む。それでも足りねば、その祭壇の黄金を溶かしてでも、飢えた者の椀に注いでやる」
言い切った。教会の聖具を鋳潰すと公言したのだ。これはもう冒涜の極みである。石を投げられても文句は言えない。
しん、と堂内が静まり――
その静寂を破ったのは、回廊の若い修道士の、震える声だった。
「……『神殿の黄金は、飢えた者の椀に注げ』……」
全員が振り向いた。まだ二十歳そこそこの、痩せた修道士だった。彼は聖典を胸に抱き、幽霊でも見たような顔で俺を見ていた。
「開祖ソール聖人の言行録、第三巻……聖人が黄金の神殿を建てようとした弟子を叱った、そのままのお言葉です……なぜ、宰相閣下が、一言一句……」
(知らん! 偶然だ! 悪役が言いそうなことを言っただけだ!)
「ノエル! 口を慎め!」バルタザールが杖で床を打つ。
だが遅かった。回廊の若い修道士たちが、次々に聖典を開き始めていた。ページを繰る音が、さざ波のように堂内に広がる。
「本当だ……第三巻十二章……」
「それだけじゃない、『神の代理人を名乗り私腹を肥やす者は、神殿の鼠に劣る』――第五巻……」
「聖人は生涯、麻の衣しか纏われなかった……」
身廊の民のざわめきが、質を変えた。動揺から、別の何かへ。
最前列にいた老いた小作が、ぽつりと言った。
「……黒宰相さまの言ってることの方が、聖人さまの言ってることに、似てねえか」
それが、堤の最初の穴だった。
「六割は取りすぎだって、ずっと思ってた」「祈りに値段があるのは、おかしいって」「破門って言うけど、聖人さまなら、俺たちを閉め出すのか?」
バルタザールの顔から、血の気が引いていった。彼は民を見た。民は彼を見ていなかった。皆、聖典を読み上げる若い修道士たちと、階段の下の黒衣を見ていた。
「だ、黙れ、黙れ! 破門だ! アルベルト・グランディーネ、汝を破門……」
「どうぞ」
俺は一歩、階段に足をかけた。
「破門は貴殿の権能だ、好きに使うがいい。だが大司教、私を神の家から閉め出す前に、ひとつだけ民に説明していけ。――昨年、貴殿の大聖堂に集まった献金、金貨にして三千枚。その行き先を」
セラフィーナが、無言で書面を掲げた。影務庁が半年かけて洗った、献金の流れ。大聖堂の改築名目で、実際には大司教の縁者の商会へ流れた金額が、契紋公証付きの証言と共に、そこにあった。
バルタザールは、書面を見た。
杖の先が、小さく揺れた。
その日、破門は宣告されなかった。
◇◇◇
十日後。バルタザール・クレフは「聖務への専念」を理由に大司教座を退き、辺境の修道院へ移った。後任には、清貧で知られた老司教が、若い修道士たちの推挙で就いた。あの日、最初に聖句を口にしたノエルは、新大司教の秘書に取り立てられたという。
そして布告第6号が、王国全土に貼り出された。
『布告第6号
恐怖せよ。神もまた、私の台帳の外にはいない。
本日より、次を定める。
一、何を信じ、何に祈るかは、各人の自由である。王国はいかなる祈りにも立ち入らず、いかなる祈りも禁じない。
一、祭祀に用いる聖堂と聖具に、税は課さない。ただし営みとしての荘園と商いは、貴族と同じく私の台帳に載る。
一、聖職にある者は、政に手を伸ばしてはならない。代わりに私も、教義には指一本触れない。
祈りは自由である。だが簿外は許さん。
神の国は汝らの心にあれ。地上の帳簿は、私が預かる。 黒宰相』
効果のほどは、もはや言うまでもない。
教会領の小作料は新大司教の手で四割に下げられ、祈りの料金表は撤去され、公証所には修道士が並ぶようになった。「悪魔の鎖」と呼ばれた契紋は、いまや婚姻の誓いの定番である。神前で誓い、契紋で結ぶ。二重に破れない誓いだと、若い夫婦に大人気らしい。
さらに思わぬ客まで来た。王都の港区に細々と暮らしていた、海神を奉じる群島育ちの商人たちだ。異教徒と後ろ指をさされ、店を焼かれても泣き寝入りしてきた彼らは、布告第6号の第一条を読んで、その足で宰相府に礼に来た。
「祈りの自由を、法で守った為政者は、あんたが初めてだ。……群島の海商は、恩を忘れない。いつか必ず、船で返す」
船で返す、の意味はよく分からなかったが、悪い話ではなさそうなので鷹揚に頷いておいた。
◇◇◇
すべてが片付いた夜、マレクが最新の報告を持ってきた。妙に、目が泳いでいた。
「閣下。その、民の間での、閣下の呼び名の件なのですが」
「言え。『金の亡者』か。『神殺し』か。今度こそ悪名だろうな」
「『ソール聖人の再来』です」
「…………は?」
「大聖堂での一件以来、聖句と一致した閣下のお言葉が写本されて出回っておりまして。若い修道士の間では『黒衣の聖者』とも。すでに閣下の説教壇での姿を描いた聖画めいた版画が三種類、市場で――」
「待て。待て待て待て」
悪役が。処刑台から始まった悪役が。教会に喧嘩を売りに行った結果が。
聖人。
(列聖されそうになっている悪役って何だ? 前世のどの物語にもいなかったぞ、そんな奴!)
「か、閣下、お気を確かに。まだ正式な列聖ではありません。死後の審査が必要ですので」
「死んでも困る!」
俺の叫びは、宰相執務室の高い天井に、むなしく響いた。




