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第3話 影務庁の誕生

「――以上が、影務庁(えいむちょう)長官の候補者名簿です」


 翌朝、マレクが差し出した書類には、王国中から選り抜かれた人材が並んでいた。元近衛騎士団長、宮廷監察官、外交官上がりの情報通。


 だが俺の目は、名簿の一番下で止まった。


 セラフィーナ・ヴォルト。元王都衛兵隊第三分隊長。備考欄には一言、「上官との衝突により罷免(ひめん)」。


「マレク、この女は何をやらかした」


「担当区画の商家から袖の下を差し出され、贈った側と受け取った上官の両方を縛り上げて広場に晒したそうです。以来、どの部署も引き取り手がなく」


「……面構えは」


「面会した書記官いわく『氷像に睨まれた方がまだ温かい』と」


(完璧だ)


 賄賂(わいろ)の場を血祭りにあげる苛烈(かれつ)さ。誰にも懐かない孤立ぶり。氷の形相(ぎょうそう)。どこからどう見ても、秘密警察の長官にうってつけの人材である。


「その者にする。すぐに呼べ」


「規律への忠誠で選ばれるとは……閣下は経歴の傷ではなく行いの中身を見るのですね」


「好きに解釈しろ」


 俺は今、顔が怖いという理由で人事を決めた。


 


     ◇◇◇


 


 一刻後、執務室に現れたセラフィーナ・ヴォルトは、噂に違わぬ人物だった。


 背筋は槍のように真っ直ぐ。灰色の瞳は瞬きが少なく、口元は横一文字。歳は二十代半ばだろうに、歴戦の処刑人めいた静けさを纏(まと)っている。


「セラフィーナ・ヴォルト。参りました」


「話は聞いているな。新設する影務庁、その長官はお前だ」


「畏れながら、閣下。私は罷免された身です。人選の誤りかと」


「誤りかどうかは私が決める」


 俺は椅子の背にもたれ、指を組んだ。悪役の面接ポーズである。


「影務庁の任務を言い渡す。よく聞け」


(さあ、ここからが本番だ。昨日の布告で失った悪名を、秘密警察で取り返す)


「第一に――この王都の、路地裏の囁きひとつ残らず、私の耳に届けろ。誰が何に泣き、誰が誰を恨んでいるか。すべてだ」


「第二に――密告を奨励しろ。身分の上下は問わん。最も卑しい者の訴えであろうと、影務庁の扉はくぐれるようにしておけ」


「第三に――民に、影を意識させろ。日の当たる往来にも、夜更けの帰り道にも、影務庁は常にいる。そう骨身に刻み込め」


 我ながら完璧な布陣だった。密告社会。相互監視。遍在(へんざい)する恐怖。悪の帝国の教科書があれば表紙になれる。


 セラフィーナは身じろぎもせず聞いていた。長い、長い沈黙。


 やがて彼女は、深々と頭を下げた。


「……感服いたしました」


「うむ、恐れ入ったか」


「路地裏の囁きとは、つまり――嘆願書(たんがんしょ)を書く字も、役所へ出向く暇もない者たちの声。これまで王国の誰ひとり拾おうとしなかった、声なき声のことですね」


「ん?」


「密告の奨励とは、最も卑しい者の訴えも扉をくぐれるようにせよとの仰せ。つまり、身分ゆえに泣き寝入りしてきた民が、貴族をも訴え出られる窓口を作れと」


「んん?」


「そして第三の任。往来にも夜道にも常にいる、と民に骨身で知らせよ――夜道で襲われる者、往来で搾取される者の傍らに、必ず影務庁が立つように、と」


 灰色の瞳に、初めて熱が灯った。


「私は衛兵時代、賄賂を突き返して職を失いました。正しさは出世の邪魔にしかならないのだと諦めておりました。ですが閣下は、その正しさを国家の任務になさるおつもりだ。……この命、影務庁に捧げます」


(待ってくれ。俺は秘密警察を作れと言ったんだ。どの単語がどう曲がったらそうなる)


 だが「違う、民を監視して怯えさせたいだけだ」と言い直す胆力は、氷の瞳の前では湧いてこなかった。


「……励め」


「はっ!」


 氷像が、ほんの少しだけ溶けた気がした。嫌な予感しかしなかった。


 


     ◇◇◇


 


 その日のうちに、布告第2号が王都中に貼り出された。文面はもちろん俺が書いた。今度こそ震え上がらせるためだ。


 


『布告第2号


 恐怖せよ。本日、影務庁を設立する。


 影務庁は、汝らのすべてを聞いている。路地裏の囁きも、夜更けの溜息も、井戸端の恨み言も、余さず黒宰相の耳に届くと知れ。


 訴えたき者は影務庁の扉を叩け。相手が貴族であろうと騎士であろうと、影は身分を忖度(そんたく)しない。


 夜道を歩む時、背後の気配を数えるがいい。その一つは、必ず影務庁である。


 逃げ場はない。 黒宰相』


 


 張り出された布告の前で、民衆は凍りついた――と、報告では聞いた。


 よし。今度こそ悪名回復だ。


 


     ◇◇◇


 


 三週間後。


「閣下、影務庁の活動報告です」


 マレクが持ってきた報告書をめくり、俺は自分の目を疑った。


 受理案件、初月で八百件超。内訳:井戸の修繕放置への苦情、悪質な家主の追い立て、賃金未払い、迷子の届け出――迷子?


「マレク。なぜ秘密警察が迷子を捜している」


「『路地裏の囁きひとつ残らず』とのご命令ですので、庁員は毎日路地を巡回しております。すると自然、泣いている子供を最初に見つけるのは黒外套の庁員になるわけで」


「…………」


「先週などは、迷子の靴職人の娘を庁員が肩車で送り届けたところ、翌日その職人が礼にと庁の全員分の靴底を張り替えに来たそうです」


 報告書には他にも、悪徳家主に立ち退きを迫られていた寡婦(かふ)の件で、庁員が土地台帳を洗い直して家主側の書類偽造を暴いた事例。賃金を踏み倒した親方が「影が聞いてるぞ」の一言で青ざめて即日全額払った事例。


 そして街角には、いつの間にか黒い箱が設置されていた。「相談箱」と呼ばれているらしい。字の書けない者のために、影務庁員が代筆までしているという。


(俺の秘密警察が……ご意見箱になっている……)


「セラフィーナ長官を呼べ」


 


 やってきたセラフィーナは、以前より血色がよかった。氷像が人間になりかけている。


「長官。……その、なんだ。庁の運営は、お前の裁量に任せてはいるが」


「はっ。ご下命の三原則は一日たりとも忘れておりません」


「そ、そうか」


「それと閣下、本題のご報告が。――例の貴族どもの件、網にかかりました」


 彼女が卓上に広げたのは、一枚の相関図だった。名簿に載った横領貴族たち、その筆頭である東部辺境伯を中心に、資産の隠匿(いんとく)先、買い漁った武具の量、雇い入れた傭兵(ようへい)の頭数までが線で結ばれている。


「なぜここまで分かった。密偵を屋敷に入れたのか」


「いいえ。すべて民からの訴えです」


「……民から?」


「辺境伯家の荷を運んだ荷馬車引きが『妙に重い葡萄酒樽』を相談箱に。屋敷を追い出された下女が『地下蔵の改築』を窓口に。傭兵に酒場で絡まれた給仕が『雇い主の紋章』を庁員に。――閣下、民は見ているのです。ずっと見ていて、話す相手がいなかっただけでした」


 俺は相関図を見下ろした。


 拷問も、買収も、脅迫もなし。秘密警察が百年かけて築くような監視網が、たった三週間で――民が勝手に、進んで、出来上がっている。


(怖い。俺の作った組織が一番怖い)


「明後日、連中は辺境伯領で決起の宴を開きます。ご命令を」


「………………一網打尽にしろ」


「はっ!」


 二日後、影務庁と衛兵隊の合同部隊が宴の最中の屋敷を包囲し、貴族十七名を武器庫ごと押さえた。抵抗はほぼなかった。門番も、料理人も、御者までもが、事前に影務庁へ通じていたからである。


 押収された隠匿資産は、国庫の年収入の二割に相当した。


 


     ◇◇◇


 


 摘発から数日後の夕刻、俺は視察の名目で街に出た。悪名の現状確認である。お忍びだが、この銀髪と黒衣では隠れようもなく、通りの民はすぐに気づいてざわめいた。


 ほら見ろ、怯えている。まだ悪名は死んでいない――


「く、黒宰相さまだ……」


「おい、押すな、馬鹿」


「あの、あのっ! 相談箱、うちの通りにも置いてくだせえ!」


(違う、そうじゃない)


 人垣の中から、老婆がひとり、よたよたと進み出た。周囲が止める間もなく、俺の目の前で腰を折る。


「宰相さま。孫が半年前から行方知れずでねえ……衛兵さまは相手にしてくれなかった。けど影のお役人さまが十日捜して、隣街の工房で見つけてくだすった。質の悪い親方に借金で縛られてたのを、帳簿ごと取り上げて」


 老婆は顔を上げた。皺だらけの目が濡れていた。


「宰相さまは、おっかない。布告を読むたび、心の臓が縮みますよ。……でもねえ。おっかないのに、助けてくれなさる。こんなお上は、あたしの八十年で初めてだ」


 恐ろしいけど、助けてくれる。


 周りの民が、ひとつ、またひとつと頷いていた。


 俺は何か威圧的な台詞を返そうとして――何も出てこなかった。前世の三十年と少し、伝票の山の向こうで、誰かにこんな顔で礼を言われたことは一度もなかった。


「……影は、これからもお前たちを見ている」


 絞り出せたのは、それだけだった。脅し文句のつもりだった。老婆は、なぜか拝むように何度も頭を下げた。


 帰りの馬車の中は、やけに静かだった。


 窓の外を、黒外套の庁員が子供を肩車して通り過ぎていく。


(……悪名は、また今度でいい)


 夕焼けが、目に染みただけである。断じてそれだけである。


 ――なお、この時の俺は知らなかった。摘発の網を唯一すり抜けた東部辺境伯本人が、国境を越えて隣の大国・帝国へ逃げ込んでいたことを。

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