第13話 言葉の請求書
その報せは夜明け前の早馬で来た。
東部国境の町ハルデンの代官から、悲鳴のような急使である。
『帝国側より峠を越えて人が参ります。十人、二十人ではありません。昨日までで二百を超え、後続が続いております。皆、東部属州の農民。痩せて冬支度も満足になく、口々に――麦を数える男の国へ行く、と』
そして、報告の末尾に代官は震える字でこう書き添えていた。
『峠にて凍えて動けなくなった者を三名収容しましたが、うち老人一名、今朝方、息を引き取りましてございます』
執務室で俺はその一枚を長いこと動けずに読んでいた。
窓の外は雪だった。あの峠にも降っている雪だ。
(……歌だ)
腹の虫はどっちの旗が好きか。ひと月前に報告された、あの俗謡。発生源は特定できず――特定するまでもない。源はグラウデンの卓で署名の隣に放った、俺の三行だ。
飢えた者は麦をくれる者の旗を覚える。悪役の見得として、これ以上ないほど決まった三行だった。
その見得がいま、雪の峠を老人に歩かせた。
◇◇◇
昼前には帝国からの公式抗議が届いた。黒鷲の封蝋。差出人は財務卿オットー・ライネケ。文面は氷のように整っていた。
『貴国宰相の公的発言に端を発する扇動により、帝国臣民の不法越境が発生している。帝国は以下を要求する。一、越境者全員の即時送還。二、扇動的言辞の公式な撤回。三、右二件の履行なき場合、帝国はグラウデン協定の穀物条項を停止し、国境を閉鎖する』
緊急の御前会議は重く沈んだ。
「送還やむなし、でございましょう」宮廷府長官が苦い顔で口火を切った。「情において忍びないが、二百の帝国民のために協定と国境を失うわけには参りません。国益の秤は明白です」
「送還とはあの峠を、来た道を、歩いて戻れということですか」
静かに、しかし刃のような声で言ったのはセラフィーナだった。
「影務庁の現地報告を読み上げます。越境者二百四十七名。うち十五歳以下が六十一名。全員が飢えており、三割が凍傷。……この者たちを峠へ戻せば、次の急使が運ぶのは死者の数です。長官殿はその数字も国益の秤にお載せですか」
「り、理想論を申されるな! では帝国と事を構えると!?」
会議は割れた。国王は苦渋の顔で黙し、廷臣は送還派と受け入れ派で言い争い、そして誰もがちらちらと俺を見た。
当然だ。この火を点けたのは俺なのだから。
「……マレク」
俺は隣の副官に半ば習い性で言った。
「何か、ないか。いつもの、お前の」
言いかけて、やめた。マレクは帳面を握りしめたまま、蒼白な顔で俺を見ていた。
「閣下。……申し訳、ございません。これは……これだけは、翻訳のしようが……」
その通りだった。
これは誤解の余地なく、俺の言葉が招いた俺の負債だった。善意に読み替えてくれる魔法は、今度ばかりはどこにもない。
「――会議は一刻、休憩とする」
俺は席を立った。
◇◇◇
執務室で一人、俺は帳簿を広げた。数字ではなく、頭の中の帳簿をだ。
(整理しろ。感傷は後だ。与件は三つ)
一、送還すれば人が死ぬ。二、受け入れれば「扇動」を自白した形になり、協定と国境が飛ぶ。飛べば、鉄も麦も塩も、この一年守ってきた台所が根こそぎ傾く。三、帝国の要求は「送還」と「撤回」。
絵に描いたような板挟み。だが、経理の目で条文を睨み続けるうち、一つの言葉が引っかかった。
送還。……帝国は「臣民を帰せ」と言っている。「今すぐ峠を歩かせろ」とは条文のどこにも書いていない。
(帰り方と、帰る日付は書いていない)
それから、もう一つ。俺の手元にはこの国にしかない道具がある。嘘の合意を弾く紋。強制では決して刻めない紋が。
一刻後、俺は会議室に戻り宣言した。
「送還する。――春に」
ざわめく廷臣を手で制し、続ける。
「越境者は難民ではない。移民でもない。本日只今より、彼らは『出稼ぎの季節労働者』だ。北の鉱山、再鋳庁の炉、冬季の道普請。ちょうど布告第8号で人手はいくらでも要る。彼らを雇う。賃金を払い、屋根と麦を与え、そして雇用契約に契紋を刻む。――『春、雪が解け次第、帰郷する』という一条を含めてだ」
「け、契紋を……?」
「そうだ。諸卿は契紋の性質を思い出せ。紋は強制された合意を弾く。脅されて頷いた誓いは紋にならん。つまり二百四十七の紋が結ばれたなら、それは二百四十七人が自由意志で来て、自由意志で帰ると誓った証明になる。……『扇動』の疑いを晴らす証拠として、これ以上のものがあるか? 私が煽って連れて来たのなら、紋は結ばれんのだ」
会議室が静まり返った。送還派も受け入れ派も口を半開きにしている。
「帝国への回答はこうだ。『越境者は違法者にあらず、契紋契約による季節労働者である。契約満了の春、全員が帰郷する。これをもって送還要求は履行済みと見なされたし』。……形式は送還、実質は保護。帝国は面子を保ち、こちらは峠に死者を出さん」
「し、しかし閣下、帝国が、その理屈を飲みますか」
「飲ませる算段はある。それと――」
俺は一度だけ、短く息を吸った。
「要求の二つ目。発言の撤回。……これは、飲む」
今度こそ、会議室の全員が俺を見た。マレクの顔が歪んだ。
「閣下! なりません、あれは外交の場での駆け引きの一言、撤回など前例が――」
「マレク」
俺は努めて平坦に言った。
「峠で人が一人死んだ。俺の三行が歩かせた道でだ。……言葉の請求書は、言った本人に来る。それが帳簿の理だ。俺は自分の帳簿の理だけは、曲げないことにしている」
◇◇◇
三日後、俺はハルデンにいた。
国境の町は、雪と焚き火の煙と、人いきれの中にあった。教会堂と穀物倉が仮の宿舎に充てられ、影務庁の黒外套が湯気の立つ鍋を配って回っている。セラフィーナが先行して整えた受け入れの陣である。
広場に契約の卓が並んでいた。ギデオンと弟子筋の契紋士が三人、待機している。
俺が姿を見せると、越境者たちの間にさざ波のような囁きが走った。
「……あれが」「麦を数える男」「歌の……」
子供が母親の陰からまじまじとこちらを見ている。皆、痩せていた。頬がこけ、目だけが大きい。この顔の列を、峠へ追い返す絵図を描いた俺の同業者が、帝国の卓にはいるのだ。そして、この顔の列をここまで歩かせた男が、この卓のこちら側にいる。
俺は卓の前に立ち、口を開いた。憐れみの演説はしない。それだけは、来る道すがら決めていた。
「よく聞け。私は黒宰相アルベルト・グランディーネ。――最初に言っておく。私は、施しはせん」
ざわ、と空気が硬くなった。構わず続ける。
「麦は恵まない。売る。屋根はやらない。貸す。金は配らない。払う――働いた者にだけだ。北の山で石を掘る者、炉で鉄くずを溶かす者、雪の道を直す者。仕事は選り取りだ。賃金は王国の民と同じ。一日銀貨一枚。そこから麦を買え。自分の銭でだ」
俺は契約書の束を、卓に置いた。
「そして春、雪が解けたら帰れ。それも契約だ。この紋は嫌々では刻めん。帰りたくない者、働きたくない者は、今この場を去っていい。追いはせん。……ただし残る者は私と対等に契約しろ。物乞いとしてではなく、働き手としてだ。以上」
沈黙が、長かった。
やがて、列の先頭にいた白髪の農夫が一歩、前に出た。日に焼けた木の根のような手の男だった。彼はしわがれた声で言った。
「……宰相さんよ。施しじゃねえん、だな? 俺たちは恵んでもらうんじゃ、ねえんだな」
「くどい。契約だと言った。お前が働き、私が払う。対等だ」
農夫の目に、みるみる水が盛り上がった。彼は袖でぐいと顔を拭い、卓に進み出て、皺だらけの手を差し出した。
「――やらせてくれ。属州じゃあ、税を運ぶ荷馬の方が、俺たちより上等の扱いだった。対等の契約なんてもんは、生まれて初めてだ」
ギデオンがうやうやしく紋を結んだ。銀の線が羊皮紙の上で澄んだ光を放って、結ばれた。強制の欠片もない、まっすぐな合意の色だった。
二人目が続き、五人目が続き、列は夕暮れまで途切れなかった。二百四十七の契約、二百四十七の紋。弾かれた紋は、一つもなかった。
帰り際、俺の外套の裾を小さな手が引いた。あの、母親の陰の子供だった。子供は精一杯の勇気らしき顔で、覚えたての王国語で言った。
「……はたの、おじちゃん。うたの、ひと」
旗の。歌の人。
「……歌は、もう歌うな。寒い日に歩きたくなるからな。――ほら、行け。母のところだ」
子供は駆けていった。俺は雪の広場にもうしばらく立っていた。
◇◇◇
撤回文書に署名したのはその週の終わりの夜だった。
『グラウデンにおける当職の発言――帝国東部の民情に関わる部分――は、外交交渉上の修辞であり、いかなる扇動の意図も含まない。誤解を招いた表現として、当該発言を公式に撤回する。 王国宰相 アルベルト・グランディーネ』
たった三行の見得の代金が、この三行の詫び証文である。羽根ペンはいつもの倍、重かった。
脇で見ていたリュシアが静かに訊いた。
「悔しい?」
「……ああ。悔しいな」
誤魔化さずに言えたのは、たぶん、あの広場の紋の色を見た後だったからだ。
「悪役の見得ひとつ切るにも担保がいると、今回でよく分かった。担保もなしに切った見得の利子が、峠の死者一名と、この詫び証文だ。……高い授業料だった」
「でも、あなたは二百四十六人に冬と対等な契約を渡したわ」
「それは俺の手柄じゃない。紋と、麦と、鉱山の仕組みの手柄だ。……俺の持ち分は死者一名の方だけだ」
リュシアは何か言いかけ、やめて、代わりに文書の端をそっと整えた。それから、観察録には絶対に書かないであろう声で言った。
「その帳簿の付け方、間違っていると思うけれど。……今夜は、直さないでおくわ」
文書は翌朝、帝国へ発った。数日後、レオンハルトから一通の私信が届いた。公式の受領通知とは別の、短い手紙だった。
『契約労働の法理、財務卿は「詭弁」と三度吐き捨てた後、飲みました。帝国法上、送還要求は履行済みと整理されます。条文の読み筋は当方でも一部、整えておきました。貸しにはしません。計測の対価です。
計測結果をひとつ。――貴殿は言葉の代価を自分で払える為政者である。記録しておきます。帝国の宮廷で、これができる者を私は二人しか知りません。
なお、ご報告まで。例の歌は消えていません。属州では二番が生まれました。「春になったら訊いてみな」と歌うそうです。……春に二百四十七人が王国の銀貨と、王国の麦の味を覚えて帰郷します。その後に何が起きるか、私の秤はまだ答えを出せずにいます』
俺は手紙を置き、窓の外を見た。
雪はやんでいた。だが東の空は、まだ厚い雲の下だった。
春になったら、訊いてみな。
撤回した俺の言葉は、しかし、もう俺のものではない形であの雲の下で生き続けている。取り消せたのは証文だけで、蒔かれた種までは、どんな詫び状も掘り返せないのだ。
言葉の請求書は、まだ、全額は来ていない。




