第12話 敗北の値札
王都への帰還は旗と楽の音で迎えられた。
困ったことに凱旋の体裁だった。
「マレク。……この歓迎は、誰の差し金だ」
「宮廷府の判断です。使節の帰還は祝うのが慣例ですので。それに、その、協定の中身はまだ公表前ですから、市中では『黒宰相がまた帝国から何かむしり取ってきた』という観測が主流でして。ちなみに酒場の賭博は新演目を開帳しております。『黒宰相は帝国から何を取ってきたか』。本命・鉄山まるごと(二倍)、対抗・帝国の謝罪(四倍)、大穴・皇帝の禿頭税――」
「胴元はまだ懲りていなかったのか」
(むしり取られて帰ってきたんだ、こっちは)
馬車の窓の外で民が手を振っている。塩壺の版画の男が帝国に負けて帰ってきたとも知らずに。
その光景が胃の底に重かった。
◇◇◇
重臣会議は予想通りの流れになった。
協定の全文を検めた宮廷府長官が渋い顔で、しかし手慣れた調子で言ったのだ。
「……関税一・五倍の件は、公表の仕方に工夫が要りますな。幸い、公証の相互乗り入れと穀物の販路は立派な成果。発表はそちらを頭に据え、関税は『段階的調整』とでも言い換えて、文末に小さく――」
「つまり、負けを埋めて勝ちで蓋をすると」
「言葉は悪うございますが、政とはそういうものです。民に『負けました』と告げる政府がどこにありましょう。動揺を招くだけです」
玉座の国王も、重々しく頷いた。
「アルベルトよ。余とて協定の中身に不満はある。だが長官の言も理じゃ。民に余計な不安を与えるは、治世の要諦に反する。……のう?」
廷臣たちが揃って頷く。会議の空気は、負けを取り繕う方向で固まりかけていた。
(楽な道だな、それは。実際、俺の保身だけ考えるなら満点の道だ)
俺は卓上の協定文書を見た。俺の署名と、契紋。
そして、経理部員の頭が静かに帳簿をめくり始めた。
鉄の関税は三ヶ月後に発動する。発動すれば、鉄の卸値は市場で誰の目にも見える形で上がる。鍬の鉄先は銀貨二枚から二枚半へ。蹄鉄も、鍋も、荷車の箍も。……つまり、この負けは三ヶ月後、王国中の店先で勝手に公表されるのだ。俺が言おうが言うまいが。
その時、民は何を思う? 「段階的調整」の小さな文字と、店先の値札を見比べて、何を思う?
――ああ、隠したな、と思うのだ。
値札の守り神が、値札で嘘をついた。眠らぬ台帳が、都合の悪い頁だけ閉じた。そう思われた瞬間、この一年で積んだ信用は根元から腐り始める。俺の統治の全資産は剣でも血筋でもなく、「あの男の数字は嘘をつかない」という、たった一行の信用なのだ。
(隠すのは高くつく。なら――)
俺は立ち上がった。会議の空気がこちらを向いた。
「諸卿の懸念はもっともだ。だから、こうする。――私の負けは、私が発表する。他人にばらされる前に、私の口でだ」
「な……宰相閣下、正気ですか! 自ら敗北を布告するなど、前代未聞――」
「前例なら作り慣れている」
俺は精一杯、悪役らしく笑ってみせた。
「それにな、長官。考えてもみろ。負けの発表を他人に任せれば、負けは醜聞になる。だが私が自分で発表すれば――負けはただの帳簿になる。醜聞は燃え広がるが、帳簿は精算できる。私は醜聞より帳簿が好きだ」
凍った会議の中でただ一人、扇の陰で笑った者がいた。誰かは言うまでもない。
◇◇◇
布告の起草には二晩かけた。
書き出しの「恐怖せよ」を、初めて消そうかと迷った。負けの報告に威圧もないものだ。だが結局、残した。様式を変えれば、それこそ「様子がおかしい」と余計な憶測を呼ぶ。それに――途中からこの様式のまま書ける文面を思いついてしまったのだ。
発布の朝、王都の掲示板の前はいつも通りの人だかりだった。
『布告第8号
恐怖せよ。と、いつものように書く。だが今日この二文字は、諸君にではなく、私自身に向けて書く。
報告する。私は帝国との交渉で、負けた。
三ヶ月後より三年間、塩と鉄の関税は一・五倍となる。鍬の鉄先は銀貨二枚が二枚半に、蹄鉄も鍋も箍も、それぞれ上がる。原因は単純である。この国は鉄の七割を帝国に頼っており、頼っている側は、卓の上で強く出られない。私の弁舌をもってしても、この数字は動かせなかった。
得たものも記す。関税には三年の期限を刻ませた。麦の販路と、公証の乗り入れを取った。だが差し引きで、負けは負けである。ごまかしはしない。諸君の台所は、三年、私の負けの分だけ重くなる。
よって、以下を命じる。
一、北の山塊に新たな鉄鉱を開く。工期三年。関税の期限が切れる日、この国は自前の鉄を持つ。
一、王国中の鉄くずを、一片残らず私によこせ。各郡都に買い取り所を置き、正価で買う。折れた鍬も、錆びた蹄鉄も、私の炉で溶かして、新しい鉄に鋳直す。捨てる鉄は、今日からこの国に存在しない。
一、鍛冶組合への炉税を三年間免じる。その分、腕を磨け。三年後、帝国の鉄がこの国の市場に戻ってきた時、諸君の鉄が帝国の鉄より良ければ――負けたのは、向こうになる。
三年だ。三年で、この負けは取り返す。それまでの間、私の負けを諸君の台所に付け回すことは許さん。値上がりの請求書は、可能な限り私の帳簿で受ける。
この布告を、負けた日の私を忘れぬために、掲示板の一番高い場所に貼れ。
値札は、引き続き私が見張っている。 黒宰相』
◇◇◇
反応は俺の予想を例によって斜め上に裏切った。
まず酒場の賭博が史上三度目の全額払い戻しで幕を閉じた。演目「黒宰相は負けを何と言い換えるか」――本命『戦略的転進』、対抗『時間差の勝利』、大穴『沈黙』。正解は「そのまま『負けた』と言う」。誰一人張っていなかった。胴元は「この賭博は成立しない。あの御方は読めん」と言い残して廃業したという。
市中の空気を影務庁の聞き取りが拾ってきた。
「――『負けました』って書いてあんの、読んだか? お上が、負けましたって」
「読んだ。婆ちゃんが泣いてた。六十年生きて、負けを認めたお触れは初めて見たって」
「値上がりは痛えけどよ。……先に言われちまったら怒るに怒れねえよなあ」
鉄くず買い取り所には初日から荷車の列ができた。納屋の奥の折れ鍬、戦の代の錆びた槍先、井戸の底から引き上げた古鎖。子供たちは道端の釘を拾い集めて銅貨に換え、「黒宰相の宝探し」と呼んで遊び始めた。マレクの試算では、初月の回収だけで輸入量の一月分に迫るという。
「閣下、この循環の仕組み、常設化の起草を進めております。名称は『再鋳庁』でいかがでしょう。それにしても『一片残らず私によこせ』のご下命が、まさか国土全体を一つの鉱山に変える構想だったとは――」
「マレク。頼むから俺が寝てから感動してくれ」
◇◇◇
数日後、俺は鍛冶街に足を運んだ。炉税免除の実務確認――というのは建前で、本音は負けの請求書が最初に届く場所をこの目で見ておきたかった。
鍛冶街は火の粉と槌音の中にあった。
組合長は腕が丸太のような初老の男だった。彼は俺を見るなり、鎚を置き、油と煤で黒い手を差し出しかけ――慌てて引っ込めた。
「こ、こりゃ失礼を。宰相様に、汚え手を」
「構わん。私の手袋は元から黒い」
握った手は岩のようだった。組合長は炉の前で率直に言った。
「布告は読みました。ありがてえ話です、炉税の三年は。……だがね、宰相様。正直に言わせてもらいやす。帝国の鉄はいい鉄だ。俺たちの北の鉄は、脆くて癖が強い。三年で帝国に追いつけってのは、その、簡単に言ってくれるなと」
周りの職人たちが、ちらちらとこちらを窺っている。不安の目だった。当然だ。彼らは三年間、高い材料で戦えと言われた側なのだ。
(ここで「期待している」なんて言っても、火は点かないだろうな。……なら、悪役の点け方でいく)
「組合長。ひとつ訊く。北の鉄の癖は誰が一番知っている」
「そりゃ……俺たちでさ。爺様の代から、あの癖鉄を騙し騙し打ってきた」
「帝国の鍛冶はその癖を知っているか」
「……知らねえでしょうな。連中は素直な鉄しか打ったことがねえ」
「なら話は終わりだ」
俺は炉の火を指した。
「三年後、市場に戻ってくる帝国の鉄は素直で、良質で、そして誰が打っても同じ物ができる鉄だ。つまり、値段でしか勝負できない鉄だ。――お前たちが癖鉄を捻じ伏せて打った刃物が、帝国の量産品に負けるかどうか、私は帳簿しか読めんから分からん。分からんから、炉税を免じて三年、賭けることにした。私は負け続きでな。そろそろ配当が欲しい」
組合長は俺をまじまじと見て、それから、煤だらけの顔でにやりと笑った。
「……宰相様は、俺たちに『勝て』じゃなくて、『賭けた』と言いなさるか」
「賭け金は布告に書いた通りだ。逃げるなら今のうちだぞ」
「上等だ。おい、野郎ども、聞いたか! 黒宰相様が俺たちに張ったとよ! 王様からも神様からも取り立てる御方が、だ! こいつぁ、負けられねえ賭けになったぜ!」
槌音が、応えるように一斉に鳴った。帰り際、若い職人が駆けてきて、打ちたての小さな火掻き棒を押し付けてきた。「配当の、利子の先払いでさ」と言って。
馬車の中で俺はその不格好で頑丈な火掻き棒を、しばらく眺めていた。
(……おかしいな。俺は保身のために負けを公表しただけのはずなんだが)
信用を守るため。それは嘘ではない。嘘ではないが、帳簿の借方と貸方がどうにも合わない。鍛冶街の火の粉の中で俺は確かに、自分の首の勘定ではないものを数えていた。三年後の、あの連中の配当を。
勘定の合わない帳簿を俺はそっと閉じた。閉じ方だけは、年々上手くなる。
◇◇◇
その夜、執務室に二人の来客があった。
一人目はリュシアで、彼女は珍しく書類を持っていた。
「王家の内帑から、北の鉱山開発に出資するわ。額はこれ。お父様の裁可も取ってある」
「……王家が? 待て、鉱山は三年間、一枚の配当も生まない穴だぞ」
「知ってるわ。だからよ」
王女は書類を机に置いた。
「あなたは負けの請求書を自分の帳簿で受けると布告した。なら王家はその隣に並ぶの。倍払う王家でしょう? 勝ちの時だけ旗を振って、負けの時に頬被りする王家なんて、三年後には誰も愛さないわ。――愛の側の支払いは、わたくしが決める。これは相談ではなくて報告よ」
言うだけ言って、彼女は踵を返し、扉口で一度だけ振り向いた。
「それと。布告第8号、観察録に全文写しておいたわ。……あなたの布告で一番いい布告よ、あれは」
二人目の来客は黒い封蝋だった。
セラフィーナが差し出した薄い報告書には影務庁の国境筋が拾った、小さな、しかし奇妙な話が記されていた。
『帝国東部属州にて、正体不明の俗謡が流行の兆し。歌詞大意――「黒鷲は税を数える、西の男は麦を数える。冬が来たなら訊いてみな、腹の虫はどっちの旗が好きか」。伝播経路は行商および帰還季節労働者。発生源、特定できず』
俺は報告書を二度読んだ。
胃袋に聞け。グラウデンの卓で放った三行が、ひと月で国境の向こうの歌になっていた。
言葉は国境を越えると意味を選べなくなる。
「……セラフィーナ。この歌の件、異変帳ではなく新しい帳面に載せろ。表題は――『帝国東部』だ」
窓の外は雪だった。同じ雪が、いま頃、東部属州の痩せた麦倉にも降っている。
その雪の下で俺の言葉が、俺の知らない誰かの声で歌われていた。




