第14話 翻訳者の帳簿
冬の視察は朝の再鋳庁から始まった。
炉は三基とも赤々と燃え、王国中から集まった鉄くずが、折れ鍬から古鎖まで、順番に生まれ変わりを待っている。働き手の半分は王国民、半分は季節労働の属州民。ふた月前は言葉も硬かった両者が、今では炉の前で同じ弁当をつついていた。
「――で、な。麦のパンってやつをこっちに来て初めて腹いっぱい食ったんだ。属州じゃ黒麦の粥が上等でよ。俺ぁ最初、王国の麦は魔法がかかってると本気で思った」
「魔法じゃねえよ契紋だよ。麦の証文に紋が付いてっから、混ぜ物ができねえの」
「その紋ってやつも見た! 公証所! すげえな、並んでるだけで嘘がつけなくなる建物なんだろ?」
「違えよ!? お前、公証所を何だと思って――あっ、宰相様」
働き手たちが慌てて立ち上がるのを手で制し、俺は炉の帳簿だけ検めて次へ回った。属州民の間で公証所が「嘘のつけない神殿」として観光名所化している件は、後でセラフィーナに訂正の触れを――いや、放っておこう。実害がない上に、微妙に間違ってもいない。
視察にはマレクが随行していた。
いつも通りの生真面目を絵に描いた顔で帳面を抱えて。だが俺は気づいていた。ハルデンの一件から、こいつの翻訳が一度も出ていない。俺が悪役口上を吹かしても、「はっ」と短く応じるだけ。以前なら三倍の熱量で斜め上の解釈が返ってきた場面でもだ。
(あの日の「翻訳のしようが」が、まだ刺さってるな)
どう扱ったものか決めかねているうちに――事件の方から来た。
◇◇◇
二基目の炉の前を通りかかった時だった。
鉄くずの山を検分していたマレクの顔を、炉番の男がふと見た。四十絡みの、無口そうな男だった。男は火掻き棒を持ったまま凍りついたように動きを止め――次の瞬間、地鳴りのような声を上げた。
「……てめえ」
男は火掻き棒を放り出しマレクに掴みかかった。周囲が悲鳴を上げ、影務庁の護衛が割って入るまでの数瞬、男はマレクの襟を締め上げ、吼えた。
「グリンデ村だ! 忘れたとは言わせねえぞ、役人! 十一年前の冬! 俺の村から、最後の種籾まで運び出していった、あの時の徴税官! てめえの顔ぁ、忘れるもんか!」
護衛に引き剥がされながら男は叫び続けた。
「村は終わったんだ! 種籾のねえ村がどうなるか、てめえら知ってて持ってったんだ! 春に蒔く物がねえ! 婆さまと下の妹は次の冬を越せなかった! 皆散り散りだ! 地図から消えたんだよ、グリンデは! ――なあ、答えろよ役人! 覚えてんのか!」
騒然とする炉場で、マレクは抵抗ひとつしなかった。
乱れた襟のまま、彼はまっすぐ男を見て静かに言った。
「……覚えております。グリンデ村。十一年前の、冷害の年。徴収額、麦にして四十二俵と、種籾八俵。……執行の指揮を執ったのは、私です」
言い訳は、一言もなかった。
◇◇◇
男の名はヨルク。グリンデ村の生き残りで、村が消えた後は流れ流れて再鋳庁の募集で炉番になったのだという。
執務室に戻った俺はセラフィーナに調査を命じた。感情で裁くわけにはいかない。まず事実だ。
三日後、彼女が持ってきた調査結果は二つの顔をしていた。
「一つ目。十一年前のグリンデ村の徴税執行は当時の法と、先代――つまり閣下の以前のご命令に照らして完全に適法です。冷害による減免の制度そのものが当時は存在しませんでした。マレク副官は命じられた額を命じられた通りに徴収した。それだけです」
「……二つ目は」
セラフィーナは一通の古い書類を机に置いた。黄ばんで折り目の擦り切れた一枚の具申書だった。
『東部グリンデ村ほか三村、本年冷害につき収穫例年の四割弱。規定額の徴収を強行すれば越冬不能。つきましては特例減免の裁可を伏して具申いたします。 徴税吏 マレク・ベルナルト』
日付は十一年前の秋。そして書類の隅には先代の――この体の前の持ち主の忌々しい癖のある字でたった二文字。
『却下』
「マレク副官の官舎を本人の了承を得て検めました。この具申書は彼の私物の文箱の一番底にありました。……写しではありません。却下された原本を下げ渡しの際に規定に反して持ち帰ったものと思われます。十一年間、保管していたようです」
(……握りつぶされた具申を十一年、持っていたのか)
自分の唯一の弁明になる紙をだ。そして先日の騒動でも彼はこの紙のことを一言も口にしなかった。
「セラフィーナ。マレクを呼べ。……いや、待て。私が行く」
◇◇◇
夜の官舎でマレクは荷物をまとめていた。
几帳面に紐をかけられた書類の箱と着替えの包みがひとつ。机の上には辞任の願い書きが、これも几帳面に真ん中に置かれていた。
「――閣下」
「辞めるのか」
「はい。再鋳庁は閣下の肝煎りの施設。そこで働き手に私のような者が顔を見られたままでは施設の信用に障ります。それに……潮時かと。先日の一件で、私はもう閣下のお役に立てぬと分かりましたので」
「ハルデンの話か。翻訳できなかった、というだけで」
「それだけでは、ありません」
マレクは荷造りの手を止めた。そして、初めて聞く低い声で話し始めた。
「閣下。私がなぜ、閣下の下に残ったか。処刑の決まった宰相の下に、なぜ一人だけ残ったか。……帳簿を燃やすため、と申しました。あれは半分だけ真実です。もう半分は――私は、行く場所がなかったのです。私の官歴は悪政の実務の歴です。徴収、差し押さえ、強制執行。私は命令の字面を誰よりも正確に、誰よりも大量に、執行してきた男です」
「グリンデもその一つか」
「グリンデは……私が最後に字面通りに執行した村です」
彼の声が、わずかに震えた。
「あの冬、私は具申を出しました。却下されました。私は迷い、そして――執行しました。法の通り、命令の通り、一俵も違えず。種籾の俵を荷馬に積む時、村の老婆が私の袖を掴んで言いました。『お役人様、それを持って行かれたら春が来ても春が来ない』と。……私は、規定ですので、と答えました。規定ですので、と」
沈黙が、部屋に積もった。
「それから私は書類の字面が読めなくなりました。正確には――字面をそのまま信じることができなくなった。命令の紙を見るたび、考えるのです。この字面の奥に、別の真意はないか。もっと、誰も死なない読み方はないか、と。……閣下」
マレクは、顔を上げた。
「閣下にお仕えして、閣下の言葉の奥に真意を探し、それが善い形になるたび――私は、あの日の自分がほんの少しだけ許される気がしておりました。ですが先日、気づいてしまったのです。私はずっと、閣下の真意を翻訳していたのではない。私自身の贖罪を、閣下のお言葉に勝手に書き込んでいただけではないのか、と。……そんな翻訳者は、閣下のおそばに置くべきではありません」
(……ああ、そうか。そういうことだったのか)
この一年半のあの熱量の、あの斜め上の、あの祈るような翻訳の数々。あれは盲信ではなかった。忠誠ですらなかったのかもしれない。あれは――二度と字面通りに悪を執行しないと決めた男の、十一年分の悔恨の形だったのだ。
俺は机の辞任願いを取り上げた。それから、懐からもう一枚の紙を出し並べて置いた。黄ばんだ、あの具申書である。マレクが息を呑んだ。
「な……なぜ、それを」
「調査だ。恨むならセラフィーナの仕事の正確さを恨め。――マレク・ベルナルト。ひとつ確認する。お前はこの十一年、この紙を持ち歩きながら、先日の騒動でも一度も出さなかった。出せば『私は減免を具申したのだ』と、いくらでも弁明できた紙だ。なぜ出さん」
「……出せば、私が楽になるからです。あの紙は私の弁明のためにあるのではない。忘れないためにあるのです」
「なるほどな。実にお前らしい非効率な帳簿の付け方だ」
俺は辞任願いを手に取り――そのまま、二つに裂いた。
「閣下!?」
「却下だ。二文字で済ませてやる。先代の真似でな」
俺は裂いた紙を机に置き、代わりに白紙を一枚、彼の前に滑らせた。
「マレク。お前の翻訳が贖罪だろうが祈りだろうが、知ったことか。俺の帳簿には動機の欄はない。結果の欄だけだ。――数えてみろ。お前の翻訳が形にした制度で、今年の冬を越せた台所の数を。均等課税で、常備蔵で、再鋳庁で。数えられるものなら数えてみろ。お前の贖罪とやらの帳尻が合うまで、あと何年かかる?」
「それ、は……」
「合わんだろうな、一生。グリンデの婆様と妹御の欄は何を足しても埋まらん。それが帳簿の理だ。……だから、命令だ」
俺は白紙を指で叩いた。
「北の鉱山の麓に新しい町を建てる。働き手の住む町だ。名前は――グリンデとする。散った村の者を探し出して望む者は呼び戻せ。畑も拓け。種籾は常備蔵から俺の名で出す。……その実務、全部お前がやれ。設計から入植までだ」
マレクの目が限界まで見開かれた。
「執行しろ、マレク。今度も、字面通りにだ。一言一句、違えるな。――今度の字面は、『村を、建てろ』だ」
白紙の上に、ぽた、と音がした。マレクは慌てて袖で紙を拭い、それから、机に額がつくほど頭を下げて絞り出すように言った。
「……執行、いたします。字面通りに。一言一句……違えずに……」
その夜の官舎の灯りは朝まで消えなかったという。翌朝、俺の机に届いた「新グリンデ建設計画・第一草案」は、一晩で書いたとは思えない鬼のように精密な代物だった。
◇◇◇
ヨルクには俺から直接話した。再鋳庁の裏、雪の積もった資材置き場でだ。
男は黙って最後まで聞き、それから、長いこと炉の煙突を見上げていた。
「……許さねえよ、俺は。あいつのことも、あんたの前任のことも。婆さまも妹も、帰ってこねえんだ」
「許せとは言っていない。報せただけだ。グリンデがまた地図に載る。それだけの話だ」
「……けっ。悪辣な宰相様だぜ。許さねえままの俺に、村の再建なんて話を聞かせやがる。……断れるわけ、ねえだろうが。そんなもん」
ヨルクは雪を蹴り、それから、ぶっきらぼうに言った。
「井戸の場所だけは俺が決める。昔のグリンデの井戸は水が良かったんだ。あの役人に伝えとけ。……場所は俺が案内してやるってな」
それが、あの二人の和解と呼べるのかどうか、俺には分からない。ただ、翌週の建設計画・第二草案の井戸の項に、『位置選定:グリンデ村出身者ヨルク氏の助言による』の一行が几帳面な字で増えていた。
◇◇◇
月の終わり、俺は北の山麓へ測量の視察に出た。
雪原に縄が張られ、杭が打たれていた。ここが広場、ここが井戸、ここが公証所。マレクは図面を抱えて雪の中を駆け回り、属州の季節労働者たちが「春までに基礎だけでも」と凍った地面に鶴嘴を振るっていた。中には春に帰郷するはずの者が「基礎を見届けてから帰る」と契約延長を申し出て、ギデオンの弟子に紋を結び直してもらった者もいるという。
帰り際、マレクが図面を胸に追いかけてきた。
「閣下。ひとつ、お許しをいただきたく。町の広場の掲示板に最初に貼る布告なのですが――布告第1号の写しでは、いかがでしょうか」
「……税の布告だぞ。門出の掲示にしては殺伐としていないか」
「いえ」
マレクはまっすぐ俺を見て言った。
「あの布告からすべてが始まりましたので。……それに閣下、私はもう、字面に勝手な書き込みは致しません。ですが、これだけは翻訳ではなく、私の読解として申し上げます。――『震えて納めよ』の布告でこの国の春は来ました。グリンデの春も、あの紙から来るのが道理かと」
(読解、ときたか。翻訳者め、開き直りやがった)
「……好きにしろ」
「はっ! 字面通り、好きに致します!」
雪原に杭を打つ音が響いている。
春が来れば、二百四十七の紋が満了し、彼らは山を下りて東へ帰る。その東で何が待つのか、俺の帳簿はまだ答えを持たない。
だが少なくとも、この雪の下には十一年ぶりに春の来る村がひとつ埋まっていた。




