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第七話 頼母子講の漆器売り

 水田に囲まれた小さな集落だ。茅葺き屋根の農家が十数軒、寄り添うように建っている。庭先で鶏が歩き回り、柿の木の下に犬が寝そべっていた。

 昼下がりである。

 田の仕事を終えた農民が、家の前で休んでいた。

 三郎は天秤棒を降ろすと、農民に近づいた。


「行商人でございます。このあたりで昼を食べてよろしゅうございましょうか」


 農民は五十がらみの男だった。

 日に焼けた顔に、人の好さそうな皺が刻まれている。


「ああ、いいよ。そこに座りんさい」


 許しを得て、三郎は庭先の木陰に腰を下ろした。幸四郎も隣に座る。

 まず握り飯を出して食った。硬い飯だが、歩き疲れた体には何よりのご馳走だ。水筒の水を飲む。


 そして、ここからが肝心だった。

 三郎は懐から煙管と刻みたばこを取り出すと、たばこに火をつけた。ゆっくりと吸い、煙を吐き出す。


「どうですか、一服」


 農民にたばこをすすめた。

 農民は、にこりと笑って、


「おお、すまんね。遠慮なく」


 自分の煙管を出して、三郎の刻みたばこを詰めた。

 ふたりで、並んでたばこを吸う。紫がかった煙が、木陰の中にたゆたった。


 たばこの煙には、人と人の間の壁を溶かす力があった。

 見知らぬ行商人と農民が、たばこを吸い始めた瞬間から、もう他人ではなくなる。同じ煙を吐き出しながら、自然と世間話が始まるのだ。


「いやあ、暑くなりましたな」


「ほんとにな。今年の夏は特に暑い。稲には良いが、人間には堪える」


「それにしても、戦争のほうはどうなりますかな」


 三郎がそう水を向けると、農民の目が輝いた。


「聞いたか、日本海の大勝利を」


「ええ、もちろん。東郷大将が、バルチック艦隊を撃破したと」


「大したもんだ。ロシアなんぞに負けてたまるかい」


 明治三十八年五月二十七日。日本海海戦で、東郷平八郎率いる連合艦隊が帝政ロシアのバルチック艦隊を壊滅させた。この知らせは日本中を沸かせ、農村の隅々にまで届いていた。

 あとはロシアがどう講和に応じるか。それが目下の天下の話題であった。


「これで戦は日本の勝ちでしょうな」


「そうあってほしいもんだ。うちの村からも、二人が兵隊に取られとるからな」


 農民はたばこの煙を深く吸い込んでから、三郎を見た。


「ところで、あんたはなんの行商をされとるんかね」


 来た。三郎は待っていた。


「恐れ入ります。伊予の椀屋でございます」


「あっ、椀屋さんか」


 農民は、にやにやと笑った。


「こいつは参った。たばこをふるまって、器を売ろうというはらか」


「いや、そういうわけでもありませんが」


 三郎も笑った。しかし商売は忘れない。


「堅牢と評判の桜井漆器、さらに紀州大納言様御用達の黒江漆器を商っております」


 黒江漆器は、紀州――徳川御三家のひとつ、紀伊国の名産品だ。江戸の昔から、桜井の椀船商人がこの売り口上を使うと、農村では信用が格段に上がった。


 紀州大納言と言えば徳川の名門である。その御用達とあらば粗悪品のはずがない。農民はそう考える。明治の世になっても、この紀州の名前の威光は衰えていなかった。


「紀州様ね。ものがいいのは分かるがね」


 農民は、困り笑いを浮かべた。


「金がないよ、残念ながら」


「節季払いもございます」


 節季払いとは、盆や年末、あるいは春夏秋冬の節目にまとめて精算する支払い方法だ。農村では、収穫期にまとまった現金が入る。それまでの間はツケで品物を買い、収穫後に一括で支払う。農村の経済はこの節季勘定で回っていた。


 桜井の行商人は、古くからこの節季払いで漆器を売ってきた。盆と年末に代金を受け取りに行く。それが椀船商人のやり方だった。


 だが農民は、いやいやと手を振った。


「うちじゃ悪いが、無理だね。節季まで待ってもらっても、払える見込みがない。今年は出費がかさんでいるんだ」


「左様でございますか」


 三郎はそれ以上は押さなかった。


 押し売りは、行商人の禁忌だ。嫌がる相手に無理に売れば、その場は金になるかもしれないが、次にこの村に来たとき、門前払いを食う。行商は、同じ土地に何度も通うのが基本だ。一度の売り上げよりも、長い付き合いのほうが大事なのである。


「お忙しいところ、ありがとうございました」


 三郎は頭を下げて、農家の前を去った。


「なかなか、儲からんものだ」


 街道に戻って、天秤棒を担ぎ直しながら三郎はつぶやいた。


「くじけるな、兄やん」


「くじけるものか。おれの人生に諦めはない」


 三郎はそう言って、次の村へ向かった。

 だが二軒目も三軒目も、結果は同じだった。漆器を見せると、農民たちは目を輝かせる。品がいいことは、誰の目にも明らかだ。だが、金がない。節季払いでも厳しいという家ばかりだった。


 四軒目の農家では、年かさの農婦に、

「椀屋さん、申し訳ないけどね。この辺の百姓には、あんたの漆器は高すぎるよ」

 と、はっきり言われた。


 五軒目では、主人が留守で、老婆に門前払いを食った。


「兄やん……」


 幸四郎の顔が曇っている。


「弱気になるな」


「なっとらん。ただ、足が痛い」


「足の痛さは、金で治る。売れれば忘れるさ」


 三郎は笑った。

 だが内心では、焦りが芽生え始めていた。

 唐津の農村に売るのは、思っていたよりも厳しい。


(農村の現実を甘く見ていたかもな)


 六軒目は、少し大きな農家だった。

 庭が広く、柿の木が何本も植わっている。


 母屋のほかに納屋もある。

 このあたりでは、比較的裕福な家だろう。

 庭先に五十がらみの男がいた。紺の野良着姿で、鉢巻きをしている。日に焼けた顔は精悍で、目に力があった。


「ごめんください。伊予の椀屋でございます」


 三郎がたばこをすすめると、男は「おう、もらおう」と、気さくに応じた。

 ふたりでたばこを吸いながら、やはり日露の戦争の話になった。

 九州の民は、大陸や半島が近いためか、外国の話題には敏感なようだった。


 やがて、


「うちの息子が兵隊に入ることになったんだ」


 男は、たばこの煙を吐き出しながら言った。


「おお、それはめでたいことでございますな」


「めでたいかどうかは分からんが、まあ、お国のためだ。送り出してやらねばならん」


 男は腕を組んだ。


「問題はな、祝いの支度だ。息子が入営するとき、ちゃんとした祝いをしてやりたい。漆器の一式を揃えて、近所を招いて、盛大にな」


 三郎の耳が、ぴくりと動いた。


「漆器一式でございますか」


「そうだ。このあたりでは、家に漆器の一式が揃っているかどうかで格が決まる。息子を兵隊に出すのに、漆器もないようでは恥ずかしい。どこからか借りてこなければと思っているところだが」


 九州は家の格式にこだわるところが多い。特に農村ではそうだった。冠婚葬祭の席で、漆器の一式を揃えて客をもてなすことは、家の威信に関わる一大事であった。

 だからこそ、桜井の椀船商人は江戸の昔から九州に漆器を売りに来ていたのだ。


「うちの桜井漆器をご覧になりませんか」


 三郎は天秤棒の竹つづらを開き、漆器の見本を並べた。

 黒漆の光沢が、初夏の陽に照らされて艶やかに光る。

 男は見本を手に取り、ひっくり返し、指で弾いて音を確かめた。


「ほう。良い品だ。……いくらだ」


「二十人前一式で、四十五円でございます」


 男の顔が曇った。


「四十五円か。悪いが、そんな金はない」


「節季払いもございます」


「節季でも無理だな。今年はいろいろと金がかかった」


 三郎は、ここで引き下がるべきだと分かっていた。

 先ほどの農家と同じだ。金がないと言われれば、それ以上は押せない。


 だが、この男は漆器を必要としている。

 息子の入営祝いという、明確な理由がある。

 しかし金がない。


(どうする)


 三郎は一瞬、考えた。

 そして、閃いた。


「それならば、頼母子講たのもしこうで買ってみてはいかがですか」


「頼母子講?」


 男が目を丸くした。


「頼母子講は知っておりましょう。講を作り、仲間でお金を出し合って、必要な者に融通する仕組みです」


「それは知っとるが。伊予の椀屋が講を勧めるとは珍しいな」


 頼母子講とは、鎌倉時代に始まったとされる日本古来の金融の仕組みである。講と呼ばれるグループを作り、参加者全員が定期的に一定の金を出し合う。集まった金は、抽選や入札によって、メンバーのひとりに渡される。これを繰り返すことで、最終的には全員が一度ずつ、まとまった金を手にすることができる。


 九州では、この頼母子講は広く行われていた。農村でも、町でも。冠婚葬祭の費用を賄うために講を組むことは、珍しくもなかった。


「漆器一式を講で買うのです」


 三郎は身を乗り出した。


「このあたりで、漆器の一式をほしがっている家は他にもありませんか。そういう家が例えば十軒集まれば、講を組めます。十軒みんなが四円五十銭ずつお金を出し合って、四十五円集めて漆器を買う。抽選で当たった家が漆器を受け取る。これを十ヶ月続ければ、十軒すべてに漆器一式が行き渡ります。どうでしょうか、おひとりで一気に四十五円は難しくとも、講ならば可能です」


 男は、腕を組んで考え込んだ。


「……なるほどな。確かに、うちの村でも漆器をほしがっている家は何軒かある。息子が兵隊に入る家や、娘の嫁入りを控えている家がな」


「そうでしょう。そういう家を集めて講を組めば、皆さん、無理なく漆器を手に入れられます」


「しかし、伊予の椀屋さんが講を勧めるとはねえ」


 男はにやりと笑った。


「輪島の漆器売りが椀講をやるのは聞いたことがあるが、伊予の椀屋さんがやるとは初めてだ」


 三郎も笑った。

 輪島塗の漆器商人が、椀講と称して頼母子講方式で漆器を売っていることは、三郎も知っていた。だが伊予の桜井商人は、これまでやってこなかった。桜井商人は現金か節季勘定で売るのが常だった。


「私もいま、思いつきましたから」


「毎月、講の金を受け取りに来てくれるか?」


「無論、取りに参ります」


「おう、よしよし。ならば、やってみるか。村の者に声をかけてみよう」


 男は腰を上げた。


 その日のうちに、男は村の中を回って、漆器をほしがっている家を集めてきた。

 集まったのは八軒。三郎の前に、八人の農民が並んだ。

 三郎は一人一人に漆器の見本を見せ、品質を説明し、講の仕組みを説明した。


「毎月、決まった日に、決まった金額を出し合っていただきます。抽選で当たった方から、漆器一式をお届けします。全員に行き渡るまで続けます」


 農民たちは顔を見合わせたが、やがて、


「やろう」


 と口々に言った。


(よし、いける!)


 三郎は内心で拳を握った。


 こうして、三郎は唐津の農村で、頼母子講による漆器販売の第一歩を踏み出した。




 翌日から、三郎と幸四郎は唐津周辺の農村をさらに歩き回った。

 村から村へ。天秤棒を担いで、畦道を歩き、峠を越え、谷を渡った。

 梅干しの種を口の中で転がしながら、もはや味も出ない種を舌先で弄びながら、なお足を動かした。弁当の握り飯はすぐになくなり、空きっ腹を抱えることもあった。


「売るんだ。漆器を」


 三郎は自分に言い聞かせるように言った。


 頼母子講の漆器売りは、農民たちに歓迎された。

 一軒では買えない高価な漆器も、講を組めば手が届く。しかも伊予の桜井漆器はもとより評判の品だ。九州の農民たちは、家の格式を示すために漆器一式を欲しがっていた。だが金がなかった。そこに三郎が講の仕組みを持ち込んだのだ。渡りに船であった。


「兄やん、どうして桜井の先輩方は、これまで頼母子講の漆器売りをせんかったのかのう。思いつかんかったのか」


「どうかな」


 三郎は歩きながら、ちょっと考えて、


「毎月、講の代金を回収するのが大変だったからではないか。毎月、毎月、伊予から船に乗って唐津の村まで来るとなると大変だ。まして毎月、ちゃんと払ってもらえるかどうか。逃げる人間や村もおるかもしれん」


「それもそうだ。兄やん、だとしたら大変だぞ。これから毎月、お金を受け取りに来て、漆器を運んで、さらに逃げる者がいないかどうか、確かめないといけん」


「その通りだ。足腰と気合いと、見る目が必要になってくるな」


 三郎は笑った。


「笑っとる場合か、兄やん」


「笑ってでも、やるさ。幸四郎」


 三郎は、なお歩みながら言った。


「これこそ、我らの突撃だぞ」




 三郎はさらに足を伸ばした。

 唐津を越えて、小城のほうにまで入り込んだ。

 小城のあたりは格式を重んじる土地柄で、漆器の需要が高かった。


 夜は山奥にあった、人気のない、というよりもはや廃墟ともいえる古寺に転がり込んで眠った。板敷きの冷たい床に、持参の薄い布を敷いて横になる。蚊に刺されながら、それでも疲れ果てた体はすぐに眠りに落ちた。


 朝になれば、水筒に小川の水を汲み、農村でいくらかの銭を出して握り飯を作ってもらう。ただ、飯と水だけを口の中に放り込みながら、三郎たちは歩いた。


 七日ほどが過ぎた。

 三郎と幸四郎は、ぼろぼろの姿で唐津の港に戻ってきた。

 日に焼け、汗と土埃にまみれ、足の裏には豆ができている。だが、三郎の顔は輝いていた。


「売れた。全部売れたぞ」


 大龍丸で待っていた田村と北條が、目を丸くした。


「全部ですか」


「ああ。大龍丸に積んでいた漆器、すべて話がついた」


 頼母子講による漆器販売が、見事にはまったのだ。

 唐津から小城にかけての農村を回った結果、十を超える講が組まれ、漆器の注文が殺到した。


 売り上げの内訳を、三郎は帳面につけた。

 売り上げの一割が現金払い。漆器を見て、その場で金を出した裕福な農家がわずかにいた。


 二割が純然たる節季払い。盆か年末に支払う約束をした家である。

 そして残りの七割が頼母子講であった。

 これが売り上げの大半を占めた。


「頼母子講がこれほど効くとは」


 幸四郎も驚きを隠せなかった。


「九州の農民は、もともと頼母子講に馴染んでいるからな。講でものを買うことに抵抗がないんだ。しかし、これは始まりにすぎんぞ」


「始まり?」


「お前も言っただろうが。講の代金は、毎月回収しなければならん。それに、注文を受けた漆器も届けなければならん。大龍丸に載っている漆器を届け、それから桜井に戻って漆器を仕入れ、来月にはまたこちらに届けるのだ。往復の手間がかかる」


「そ、そうだな……」


「だが、金は回る。回り始めた水車を止めてはならん。まずは頼母子講を組んだ村に漆器一式を届けねばいかんのだ。……しかし今夜くらいはゆっくり寝かせてくれ。七日間、碌に寝ていないんだ」


「ああ、寝よう。おれも眠りたい、兄やん」


「よし、寝るぞ」


 三郎は船底に降りて、布団に倒れ込んだ。

 泥のように眠った。


 夢の中で桜井の海が見えた。

 白い砂浜と、松の緑と、瀬戸内の青い海だ。

 母が、かまどの前で薪を三本組んで、飯を炊いていた。


(待っていろ。必ず、もっと大きな釜で炊いてやるからな)


 明日になれば、また働く。

 突撃は、まだ始まったばかりだった。


本日の投稿はここまで。

明日から午後九時に毎日投稿いたします。

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