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第八話 友の御殿を妬む

 翌日にはもう、三郎は農村へと向かっていた。

 大龍丸に積んでいた漆器一式を、各農村へ届けるのだ。


 幸四郎は歩きすぎて、熱が出てしまったので、大龍丸に残した。

 代わりに田村を、荷物持ちとして連れて歩くことにした。おしゃべりだが足腰が強く、数人分の荷物を軽々と持つ少年だ。


「私はともかく、大将はよく疲れませんね。幸四郎さんは寝込んでしまったのに」


「疲れてなんかいられるかよ。商売がやっとうまくいくかもしれんのだ。一刻も早く漆器を届けて、金を受け取り、また次の行動をするんだよ」


 三郎は田村と共に、農村へ漆器一式を届け、頼母子講の一回目を受け取った。その売り上げは数百円に達した。田村は仰天し、


「大将、これは夢かな」


 と、自分の頬をつねった。


「夢かもしれんな。人生すべてが夢かもしれん」


 詩的な台詞を吐きながら、三郎たちは唐津へと戻った。

 だが三郎はまだ休まない。


 三郎は唐津の町に出ると、売上金の一部を使って陶磁器を仕入れた。唐津焼の茶碗、皿、壺。さらに伊万里まで足を伸ばして、有田焼の上物も少し仕入れた。これを桜井に持ち帰って売れば、さらに利益が出る。


 行きは漆器を積んで九州へ、帰りは陶磁器を積んで愛媛へ。桜井商人が代々やってきた商売の基本形だが、三郎はこれに頼母子講の売り上げという新しい柱を加えた。


「ようし、桜井へ帰るぞ」


 大龍丸に食料と水を補充すると、三郎たちは唐津を発った。

 帆に風を受けて、船は東へ向かう。


 玄界灘の沿岸を辿り、関門海峡を抜け、瀬戸内海に入る。

 ここまで来れば、もう故郷の海だ。


 瀬戸内海に入ると、風が変わった。

 外海の荒々しい風とは違う、穏やかで、どこか甘い風だった。

 島々の緑が海面に映り、潮の匂いに木々の香りが混じる。

 三郎は甲板に出て、深く息を吸った。


「ああ、瀬戸内だ」


 三郎はこの海をこよなく愛していた。

 日本海や太平洋に比べれば狭い海だ。ときとして対岸が目に映るような海ではある。だが、その狭さの中に、ひとびとの営みの匂いが、自然の息遣いが、ぎっしりと詰まっている。


 島と島の間を、漁師の小舟が行き交っている。島の斜面には段々畑が見え、その上に白い雲が浮かんでいる。どこかで鐘の音がした。寺の鐘だろうか。


 瀬戸内は、生きている海だと三郎は思った。

 上関を過ぎ、安居島が見えてきたところで、三郎は船を寄せた。


「風待ちだ。ここで一泊する」


 安居島は、瀬戸内海の風待ちの島として古くから知られていた。潮待ちとも言う。瀬戸内の潮流は複雑で、小舟が無理に進めば転覆の危険がある。潮と風の具合を見て、条件が整うまで島で待つ。それが瀬戸内を航海する者の知恵であった。


 島には小さな集落があり、船乗り相手の安宿が数軒あった。三郎たちは、その中で一番古びた宿に入った。


「久しぶりに、陸で寝られる」


 幸四郎が、宿の畳の上にごろんと転がった。


「まず風呂だ。風呂に入りたい」


「同感だ」


 宿の裏手に、薪で沸かす小さな風呂があった。四人は交代で風呂に入り、体を洗った。何日ぶりかの湯だ。汗と潮と土埃がこびりついた体から、垢が剥がれ落ちていく。極楽であった。


 衣服も洗った。井戸端で、ごしごしと揉み洗いをして、宿の庭に張った縄に干す。潮風に吹かれて、衣類がはたはたとはためいた。


 宿の老婆が、四人の姿を見て眉をひそめた。


「こげえに汚いお客は、初めてじゃ」


 安居島の言葉は、愛媛の方言に近い。三郎には馴染みのある響きだった。


「大もうけした帰りの、名誉の不潔でございます。堪忍してください」


 三郎が馬鹿笑いをすると、老婆はあきれながらも笑った。


「まあ、商売がうまくいったんなら、よかったね。飯は出るけど、たいしたもんはないよ」


「飯が食えれば十分です」


 夕飯は、魚のぶつ切りが入った味噌汁と、麦飯と、漬物だった。

 魚は、この島の近くで獲れたものだろう。名前は分からないが、白身の魚で、味噌汁の中でほろりと崩れるほど柔らかい。出汁がよく出ていて、汁の一滴まで飲み干したいほどうまかった。


「うまい……」


 三郎は、椀を両手で包みながら、目を閉じた。

 唐津で梅干しの種を転がしながら歩き回った日々を思えば、この味噌汁は天上の味だった。田村などは三杯おかわりをして、老婆に「底なしだね」と呆れられている。


 夕飯のあと、三郎は宿の縁側に出た。

 南に目をやると、夕闇の中に、愛媛の山々がうっすらと見えていた。

 島の向こう、海の彼方に、故郷がある。


(明日は桜井にもどれる)


 夜風が涼しい。虫の声が、草むらのほうから聞こえてきた。

 瀬戸内の夜は静かだ。波の音と虫の声だけが、闇の中に響いている。

 幸四郎が、縁側にやってきて隣に座った。


「兄やん。桜井に戻ったら、越智の家に顔を出すかい?」


「お前が出しておいてくれ。おれは働く」


「働くって、桜井に戻っても働くのか」


「当たり前だ。唐津の陶磁器を桜井の問屋に渡さなければならんし、次の船出のために漆器を仕入れなければならん。食料も買わねばならんし、大龍丸の修繕も要る」


「お袋さまが悲しむぞ」


「うん。……」


 三郎は黙った。

 家を出るとき、わずかだが餞別をくれた母親だ。貧しい暮らしの中から、息子のために握らせてくれた銭。あの銭が商売の種銭になっている。


 母は、三郎が桜井を出ることを止めなかった。

 止めても無駄だと分かっていたのだろう。

 ただ、黙って銭を握らせてくれた。


 母の手の感触を、三郎はいまも覚えている。

 荒れた、固い、しかし温かい手だった。


「いや、しかし働く。寸刻が惜しいのだ」


 三郎は、感傷を振り切るように言った。


「兄やん。なぜ、そうまで働く」


 幸四郎の問いは、素朴であった。

 なぜ、そこまで。他の桜井商人のように、ほどほどに儲けて、ほどほどに暮らすのではだめなのか。なぜ、寝る間も惜しんで、母親の顔を見る暇さえなくして、働くのか。


「働かない男は、この世から屑のような扱いを受けるからさ」


 三郎はおどけて言った。半分は本音である。

 労働しない男は、まったく良い扱いを受けない。碌でなしだと言われる。少なくとも、三郎の周囲ではそうだ。桜井では、稼げない男は半人前と見なされた。


「……桜井という土地が、いけないな」


 三郎は、夜の海に向かって目を細めた。


「おれたち兄弟は、銭も米もない生活を続けてきた。だがそれだけなら、天下にままある話だ。問題は桜井という土地にある」


「桜井がどうした」


「桜井は商いがたくみな者が多い。徳川の時代の終わりから、椀船で九州や瀬戸内を商って銭を稼いできた。稼げた者、稼げなかった者、両方いるが、稼げた者は桜井に戻ると、例外なく御殿を建てる」


 幸四郎は、黙ってうなずいた。

 知っている。桜井で育った者ならば、誰もが知っている光景だ。


「椀船で儲けた男が、桜井に戻って、大きな家を建てて暮らす。故郷に錦を飾るわけだ」


 それが、桜井における勝者の定義であった。

 桜井の商人は、よその土地で商いをしても、最後は桜井に戻ってくる。

 そして、立派な家を建てて、悠々自適に暮らすのだ。


 漆器で財を成し、庭付きの屋敷を構え、近所の者を招いて宴を開く。

 それを桜井の人々は、尊敬の目で見る。

 あの男は立派だ、成功者だ、と。


「幸四郎。おれたちは、そんな人たちを何度も見たな」


「うん。……」


「がきの頃、一緒に遊んだ兄貴分が、御殿を建てているんだぞ」


 三郎の声に苦い響きが混じった。


「神社の境内で一緒に走り回った男が、近くの小川で共に魚を釣った男が、二十代で庭付きの家を建て、大金を懐に入れて地元を闊歩しているんだ」


 人間にとって、幼馴染の出世はおそろしく複雑な感情をもたらす。

 祝福してやるべきだし、実際、よかったなという気持ちはある。

 だが、小さい時代に共に遊んだあの男が、あの少年が、いまや成功者として桜井に凱旋しているのを見ると、三郎のような貧乏人の三男坊は、思わず地団駄を踏みたくなるのだ。


「おれもそうありたい。いや、それよりも上に。もっと」


 三郎は拳を握った。


「おれにできないはずはない。おれにだって、できるはずなんだ」


 幸四郎は何も言わなかった。

 兄の横顔を、ただ見つめていた。


 明治という時代が、三郎を本来の性根以上に出世について貪欲にさせていた。

 立身出世が国是とも言える御一新の世だ。望んで果たせぬ夢ではあるまい。士族が没落し、百姓の倅が大臣になる。そんな時代だ。

 だが、夢を見る者の多くは、夢のままで終わることも、三郎は知っていた。


「……寝るか」


 三郎は立ち上がった。


「ああ。明日は早い」


 ふたりは部屋に戻り、布団に入った。

 田村と北條はすでにぐっすりと眠っている。

 田村のいびきが、小さく聞こえた。


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