表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/23

第六話 唐津行商

 出立の朝は、快晴であった。

 六月の陽光が関門海峡に降り注ぎ、凪いだ海面が銀の盆のように輝いている。あれほど吹き荒れた北西の風は嘘のようにおさまり、大龍丸の帆は、穏やかな南風をはらんでふっくらと膨らんでいた。


「兄やん、佐賀へ行くか」


「そうだ、佐賀。唐津と伊万里へ向かう」


「椀船商人の定番の道筋だな」


「そうとも。桜井で漆器を仕入れ、唐津伊万里のあたりで売り、帰りに唐津伊万里の陶磁器を仕入れて愛媛に戻る。先輩たちもそうやってきた」


「手堅い道筋だ。唐津は陶磁器の本場だし、伊万里も活気がある。売るだけでなく、仕入れもできるとは、一石二鳥だな」


「その通りだ」


 三郎は頭を下げたが、内心では別のことを考えていた。


(この道ならば間違いはない。だが、立身はおぼつかないだろう)


 桜井の椀船商人が代々踏みしめてきた道だ。唐津、伊万里を回って漆器を売り、陶磁器を仕入れて帰る。


(食うだけならば、これでなんとかなるかもしれない。親父殿のように)


 桜井の先輩たちの中には、この道筋を何十年も繰り返して、小さいながらも財を成した者がいる。

 だが、三郎が欲しいのは、そのような堅実な成功ではなかった。


 圧倒的な金持ちになりたい。

 桜井に帰って御殿を建てるくらいでは飽き足らない。

 日本中にその名を轟かせる大商人になりたいのだ。


 ならば。

 人とは違う商いをしなければなるまい。


(まだ、なんの策も思いつかんが……)


 しかし、考えていても仕方がない。

 まずは目の前の商売を着実にこなすことだ。


 大龍丸は潮に乗り、船は西へと針路を取った。

 右手には玄界灘が、左手は福岡県の沿岸と山々が見える。


 海に出ると、三郎の気持ちは晴れた。

 陸にいるときの煩わしさ――金の勘定、人との駆け引き、女の眼差し――そういったものが、潮風に吹き飛ばされていく。


 海の上では、考えることは単純だった。

 風を読み、潮を読み、船を操り、目的地に着く。それだけだ。


「大将、ええ人と知り合いましたな」


 田村龍蔵が、にやにやしながら近づいてきた。


「宮本さんのことか」


「とぼけないでくださいよ。宮本のお嬢さんのほうですよ。たいそうな美人でした」


「つまらん口を叩くな」


 三郎は笑いながら、殴るまねをした。

 田村は「ひえ」と声を上げて、船尾のほうへ逃げた。

 幸四郎も笑って、


「兄やん、いざとなったら宮本の娘さんのところに婿入りすればええ」


「馬鹿を言うな」


「何が馬鹿じゃ。門司港の呉服屋の婿に収まれば、もう行商をせずとも食っていけるぞ」


「食っていくだけなら、桜井にいたほうがましだ」


 三郎は、帆柱にもたれて腕を組んだ。


「それに娘のほうはともかく、父親のほうがおれを追い返すさ」


 宮本只八は、三郎が旅商人だからこそ、商売相手として、また情報を交換する相手として付き合ってくれたのだ。それは三郎にも分かっている。娘の結婚相手となると話は別だ。いくら娘に甘い只八でも、椀船に乗った貧乏な行商人を婿に迎えることは、まずあるまい。


「それに」


 三郎は笑いながら言った。


「結婚したらまた逃げられるかもしれんぜ。そうなると、こっちは商売人だ。女房に逃げられた男だ、なんて噂が立ったら、行商人としてはおしまいだ。なんだあの椀屋は、嫁にも逃げられるような甲斐性なしか、そんな男からめでたい漆器など誰が買うものか、と、必ずそうなる。するとものを売るどころではなくなる。取り引き相手にも足元を見られる」


「そこを大将、逃さないようにするのが男の甲斐性ですよ」


 田村が、船尾から大声で口を挟んだ。


「口が過ぎるぞ、龍やん」


 三郎が振り返ると、それまで舵を握って黙っていた北條青松が、静かに言った。


「唐津が見えてきました」


 三郎は、視線を前方に向けた。

 水平線の上に、うっすらと陸地の影が浮かんでいる。


 唐津の松原だ。

 虹の松原と呼ばれる、白砂青松の景勝地である。

 その松原の向こうに、唐津の城下町がある。


 三郎は、深く息を吸った。

 潮の匂いの中に、わずかに松の香りが混じっている気がした。


 いまは女よりも、ただ、稼ぎたい。

 金が欲しい。あの貧しい暮らしから抜け出て、誰よりも豊かに。


(いや、すこし違うな)


 三郎は思い直した。


(確かに金はほしい。だが、純粋に言えば金よりも)


 おのれという生き物が、この世にどこまで通用するかを試したい。

 越智三郎という、桜井の貧しい百姓の三男坊が、何者にもなれるのかなれないのか。どこまで登れるのか。どこまで行けるのか。

 それを試してみたいのだ。

 商売は、そのための手段であった。




 唐津に着く直前に、まずは船の中で飯を炊いた。

 大龍丸の船底に据えてある大釜に米を入れ、薪を焚いて炊き上げる。水は唐津の港で汲んだ。


 飯が炊けると、田村龍蔵が手際よく握り始めた。海水をたっぷりと使った塩おにぎりだ。漬物を芯に入れて、ぎゅっと固く握る。


 行商に持っていく弁当である。崩れぬよう硬く握るのが肝要だった。天秤棒を担いで山道を歩けば、弁当は揺れに揺れる。柔らかく握ったおにぎりは、食うころには粉々になっている。


「龍やんのおにぎりは相変わらず、石みたいに硬い」


 幸四郎が文句を言った。


「硬くなきゃだめなんですよ。大将に教わった通りにやっているんですから」


「ああ、兄やんが教えたのか」


「親父殿がそうやっていた」


 三郎は言いながら、握り飯を竹の皮に包んだ。


「唐津に着いたら、どうしますか」


 北條が三郎に聞いた。珍しく、自分から口を開いた。


「漆器を売る。まずはそれだ」


「どこで売りますか」


「農村を回る。唐津の近くの村から始めて、奥地へと進む」


「いつものやり方ですね」


「いつものやり方だ。天秤棒を担いで、一軒一軒回る。見本を見せて、買ってもらう。それしかない」


 唐津の松原が、みるみる大きくなってきた。

 松の木の一本一本が見分けられるほどに近づくと、漁師の舟が何隻か、沖に浮かんでいるのが見えた。唐津湾の入り口だ。


「帆を下ろせ。漕いで入る」


 三郎の指示で、田村が帆を畳み、北條が櫓を取った。幸四郎も櫓に手をかけた。

 大龍丸は櫓の音を響かせながら、唐津の港へと入っていった。


 唐津は、桜井の商人にとって馴染みの土地だった。

 江戸の昔から、桜井の椀船商人はこの港にやってきた。

 三郎の父もこの港に何度も来ている。三郎自身も、父や兄に連れられて何度か来たことがあった。


「着いたぞ」


 三郎は、甲板から唐津の港を見渡した。

 小さな船溜まりに、漁師の舟が何隻も繋がれている。波止場の上では、魚を選り分けている女たちの声が聞こえた。その向こうに、唐津の町並みが広がっている。


 城の天守は明治の初めに取り壊されたと聞くが、石垣はまだ残っている。

 城下町の名残が、町の区割りに残っていた。


「さあ、働くぞ」


 三郎は、船から降りた。


 唐津の空は高く、夏の雲が白く輝いている。

 三郎は、天秤棒を担いだ。

 竹つづらの中で、漆器がかちゃりと音を立てる。


「おれと幸四郎が行く。龍やん、青やん。おれたちが戻るまで船番を頼む」


「へい」


「はい」


 田村が威勢よく返事をした。北條もうなずいた。


「船から離れるなよ。盗人がいないとも限らん。漆器を盗まれたら、おれたちは終わりだ」


「分かっています」


 三郎は弟を連れて唐津の町へ向かった。

 港から町の中心まではさほど遠くない。

 石垣の残る城跡の脇を通り、狭い町筋を抜けていく。


 三郎は、まず煙草屋を探した。


「兄やん、たばこを買うのか」


「ああ」


「たばこ代がもったいないぞ」


 幸四郎は顔をしかめた。

 一銭でも惜しい身の上だ。たばこのような嗜好品に金を使う余裕はない。


「お前は行商をしたことがなかったな」


 三郎は煙草屋の暖簾をくぐりながら言った。


「おれは親父殿や縄太郎兄やんと一緒に行商をしたから分かるが、ちょっとしたこつがあるんだ。まあ見ていろ」


 三郎は刻みたばこを買い求めた。

 煙管は持参している。父から譲り受けた、飾り気のない真鍮の煙管だ。


 店を出ると、三郎は天秤棒を担いだ。

 棒の前後に、竹つづらがくくりつけてある。中に入っているのは漆器の見本だ。黒本膳、黒本椀、汁椀、平皿――桜井漆器の精華である。見本であるから一式すべてではないが、客に品質を見せるには十分な品揃えだった。


 幸四郎もまた天秤棒を担いだ。

 こちらには別の漆器見本と、桜井漆器の目録を入れてある。


「突撃、あるのみだ」


 三郎は言った。


「突撃?」


「桜井ではな、金も農地もない人間が行商に出ることを、突撃と呼ぶんだ」


「物騒な言い方だな」


「物騒な覚悟でやるから、突撃なのさ」


 三郎は笑って、歩き出した。


 唐津の町を抜け、街道に出る。




 街道は南へ向かって、田園地帯の中を伸びていた。

 両側に水田が広がっている。六月の稲はまだ若く、緑の絨毯のように風になびいていた。


 天秤棒が肩に食い込む。竹つづらの中で漆器がかちゃかちゃと音を立てた。

 初夏の日差しが、容赦なく照りつける。歩き始めて半刻も経たないうちに、額から汗が滴り落ちた。


「暑い……」


 幸四郎がうめいた。


「暑いな。だが歩け」


 三郎も汗だくだったが、足は止めない。

 街道沿いの農村を目指して、ひたすら歩いた。


 やがて、最初の村に着いた。


今日は10分後に、もう1話投稿します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ