第六話 唐津行商
出立の朝は、快晴であった。
六月の陽光が関門海峡に降り注ぎ、凪いだ海面が銀の盆のように輝いている。あれほど吹き荒れた北西の風は嘘のようにおさまり、大龍丸の帆は、穏やかな南風をはらんでふっくらと膨らんでいた。
「兄やん、佐賀へ行くか」
「そうだ、佐賀。唐津と伊万里へ向かう」
「椀船商人の定番の道筋だな」
「そうとも。桜井で漆器を仕入れ、唐津伊万里のあたりで売り、帰りに唐津伊万里の陶磁器を仕入れて愛媛に戻る。先輩たちもそうやってきた」
「手堅い道筋だ。唐津は陶磁器の本場だし、伊万里も活気がある。売るだけでなく、仕入れもできるとは、一石二鳥だな」
「その通りだ」
三郎は頭を下げたが、内心では別のことを考えていた。
(この道ならば間違いはない。だが、立身はおぼつかないだろう)
桜井の椀船商人が代々踏みしめてきた道だ。唐津、伊万里を回って漆器を売り、陶磁器を仕入れて帰る。
(食うだけならば、これでなんとかなるかもしれない。親父殿のように)
桜井の先輩たちの中には、この道筋を何十年も繰り返して、小さいながらも財を成した者がいる。
だが、三郎が欲しいのは、そのような堅実な成功ではなかった。
圧倒的な金持ちになりたい。
桜井に帰って御殿を建てるくらいでは飽き足らない。
日本中にその名を轟かせる大商人になりたいのだ。
ならば。
人とは違う商いをしなければなるまい。
(まだ、なんの策も思いつかんが……)
しかし、考えていても仕方がない。
まずは目の前の商売を着実にこなすことだ。
大龍丸は潮に乗り、船は西へと針路を取った。
右手には玄界灘が、左手は福岡県の沿岸と山々が見える。
海に出ると、三郎の気持ちは晴れた。
陸にいるときの煩わしさ――金の勘定、人との駆け引き、女の眼差し――そういったものが、潮風に吹き飛ばされていく。
海の上では、考えることは単純だった。
風を読み、潮を読み、船を操り、目的地に着く。それだけだ。
「大将、ええ人と知り合いましたな」
田村龍蔵が、にやにやしながら近づいてきた。
「宮本さんのことか」
「とぼけないでくださいよ。宮本のお嬢さんのほうですよ。たいそうな美人でした」
「つまらん口を叩くな」
三郎は笑いながら、殴るまねをした。
田村は「ひえ」と声を上げて、船尾のほうへ逃げた。
幸四郎も笑って、
「兄やん、いざとなったら宮本の娘さんのところに婿入りすればええ」
「馬鹿を言うな」
「何が馬鹿じゃ。門司港の呉服屋の婿に収まれば、もう行商をせずとも食っていけるぞ」
「食っていくだけなら、桜井にいたほうがましだ」
三郎は、帆柱にもたれて腕を組んだ。
「それに娘のほうはともかく、父親のほうがおれを追い返すさ」
宮本只八は、三郎が旅商人だからこそ、商売相手として、また情報を交換する相手として付き合ってくれたのだ。それは三郎にも分かっている。娘の結婚相手となると話は別だ。いくら娘に甘い只八でも、椀船に乗った貧乏な行商人を婿に迎えることは、まずあるまい。
「それに」
三郎は笑いながら言った。
「結婚したらまた逃げられるかもしれんぜ。そうなると、こっちは商売人だ。女房に逃げられた男だ、なんて噂が立ったら、行商人としてはおしまいだ。なんだあの椀屋は、嫁にも逃げられるような甲斐性なしか、そんな男からめでたい漆器など誰が買うものか、と、必ずそうなる。するとものを売るどころではなくなる。取り引き相手にも足元を見られる」
「そこを大将、逃さないようにするのが男の甲斐性ですよ」
田村が、船尾から大声で口を挟んだ。
「口が過ぎるぞ、龍やん」
三郎が振り返ると、それまで舵を握って黙っていた北條青松が、静かに言った。
「唐津が見えてきました」
三郎は、視線を前方に向けた。
水平線の上に、うっすらと陸地の影が浮かんでいる。
唐津の松原だ。
虹の松原と呼ばれる、白砂青松の景勝地である。
その松原の向こうに、唐津の城下町がある。
三郎は、深く息を吸った。
潮の匂いの中に、わずかに松の香りが混じっている気がした。
いまは女よりも、ただ、稼ぎたい。
金が欲しい。あの貧しい暮らしから抜け出て、誰よりも豊かに。
(いや、すこし違うな)
三郎は思い直した。
(確かに金はほしい。だが、純粋に言えば金よりも)
おのれという生き物が、この世にどこまで通用するかを試したい。
越智三郎という、桜井の貧しい百姓の三男坊が、何者にもなれるのかなれないのか。どこまで登れるのか。どこまで行けるのか。
それを試してみたいのだ。
商売は、そのための手段であった。
唐津に着く直前に、まずは船の中で飯を炊いた。
大龍丸の船底に据えてある大釜に米を入れ、薪を焚いて炊き上げる。水は唐津の港で汲んだ。
飯が炊けると、田村龍蔵が手際よく握り始めた。海水をたっぷりと使った塩おにぎりだ。漬物を芯に入れて、ぎゅっと固く握る。
行商に持っていく弁当である。崩れぬよう硬く握るのが肝要だった。天秤棒を担いで山道を歩けば、弁当は揺れに揺れる。柔らかく握ったおにぎりは、食うころには粉々になっている。
「龍やんのおにぎりは相変わらず、石みたいに硬い」
幸四郎が文句を言った。
「硬くなきゃだめなんですよ。大将に教わった通りにやっているんですから」
「ああ、兄やんが教えたのか」
「親父殿がそうやっていた」
三郎は言いながら、握り飯を竹の皮に包んだ。
「唐津に着いたら、どうしますか」
北條が三郎に聞いた。珍しく、自分から口を開いた。
「漆器を売る。まずはそれだ」
「どこで売りますか」
「農村を回る。唐津の近くの村から始めて、奥地へと進む」
「いつものやり方ですね」
「いつものやり方だ。天秤棒を担いで、一軒一軒回る。見本を見せて、買ってもらう。それしかない」
唐津の松原が、みるみる大きくなってきた。
松の木の一本一本が見分けられるほどに近づくと、漁師の舟が何隻か、沖に浮かんでいるのが見えた。唐津湾の入り口だ。
「帆を下ろせ。漕いで入る」
三郎の指示で、田村が帆を畳み、北條が櫓を取った。幸四郎も櫓に手をかけた。
大龍丸は櫓の音を響かせながら、唐津の港へと入っていった。
唐津は、桜井の商人にとって馴染みの土地だった。
江戸の昔から、桜井の椀船商人はこの港にやってきた。
三郎の父もこの港に何度も来ている。三郎自身も、父や兄に連れられて何度か来たことがあった。
「着いたぞ」
三郎は、甲板から唐津の港を見渡した。
小さな船溜まりに、漁師の舟が何隻も繋がれている。波止場の上では、魚を選り分けている女たちの声が聞こえた。その向こうに、唐津の町並みが広がっている。
城の天守は明治の初めに取り壊されたと聞くが、石垣はまだ残っている。
城下町の名残が、町の区割りに残っていた。
「さあ、働くぞ」
三郎は、船から降りた。
唐津の空は高く、夏の雲が白く輝いている。
三郎は、天秤棒を担いだ。
竹つづらの中で、漆器がかちゃりと音を立てる。
「おれと幸四郎が行く。龍やん、青やん。おれたちが戻るまで船番を頼む」
「へい」
「はい」
田村が威勢よく返事をした。北條もうなずいた。
「船から離れるなよ。盗人がいないとも限らん。漆器を盗まれたら、おれたちは終わりだ」
「分かっています」
三郎は弟を連れて唐津の町へ向かった。
港から町の中心まではさほど遠くない。
石垣の残る城跡の脇を通り、狭い町筋を抜けていく。
三郎は、まず煙草屋を探した。
「兄やん、たばこを買うのか」
「ああ」
「たばこ代がもったいないぞ」
幸四郎は顔をしかめた。
一銭でも惜しい身の上だ。たばこのような嗜好品に金を使う余裕はない。
「お前は行商をしたことがなかったな」
三郎は煙草屋の暖簾をくぐりながら言った。
「おれは親父殿や縄太郎兄やんと一緒に行商をしたから分かるが、ちょっとしたこつがあるんだ。まあ見ていろ」
三郎は刻みたばこを買い求めた。
煙管は持参している。父から譲り受けた、飾り気のない真鍮の煙管だ。
店を出ると、三郎は天秤棒を担いだ。
棒の前後に、竹つづらがくくりつけてある。中に入っているのは漆器の見本だ。黒本膳、黒本椀、汁椀、平皿――桜井漆器の精華である。見本であるから一式すべてではないが、客に品質を見せるには十分な品揃えだった。
幸四郎もまた天秤棒を担いだ。
こちらには別の漆器見本と、桜井漆器の目録を入れてある。
「突撃、あるのみだ」
三郎は言った。
「突撃?」
「桜井ではな、金も農地もない人間が行商に出ることを、突撃と呼ぶんだ」
「物騒な言い方だな」
「物騒な覚悟でやるから、突撃なのさ」
三郎は笑って、歩き出した。
唐津の町を抜け、街道に出る。
街道は南へ向かって、田園地帯の中を伸びていた。
両側に水田が広がっている。六月の稲はまだ若く、緑の絨毯のように風になびいていた。
天秤棒が肩に食い込む。竹つづらの中で漆器がかちゃかちゃと音を立てた。
初夏の日差しが、容赦なく照りつける。歩き始めて半刻も経たないうちに、額から汗が滴り落ちた。
「暑い……」
幸四郎がうめいた。
「暑いな。だが歩け」
三郎も汗だくだったが、足は止めない。
街道沿いの農村を目指して、ひたすら歩いた。
やがて、最初の村に着いた。
今日は10分後に、もう1話投稿します。




