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第五話 桜井の話をする

 その日の午後、三郎は梅与を連れて、大龍丸を停泊させている浜に出た。

 風はまだ強いが、雲の切れ間から西日が射している。波が浜に打ち寄せるたびに、白い泡が砂利の上を滑った。


 門司港の町並みと、行き交う人々が、浜から見えた。

 汽船の煙突から立ちのぼる煙が、風に流されて東へたなびいている。


 三郎と梅与は、浜の大きな石の上に腰かけた。

 大龍丸が、すぐそこの波打ち際に繋がれている。風を受けて、帆柱がきしんでいた。


「おれはね、桜井の、椀船商人の息子さ」


 三郎は、海を眺めながら語り始めた。


「名前が示す通り、越智家の三男坊だ。四人兄弟のな」


「四人兄弟」


「長男が縄太郎。次男が弁次郎。三男がおれ。四男が幸四郎。親父殿は百姓をしながら漆器を作って、椀船で行商をしていた」


「それで、漆器の商いを」


「おれは十二のころから、親父殿や兄やんや、ときには近所の漆器商人について回って、見よう見まねで商売を覚えた。九州まで船で来たこともある」


 三郎は自分の両手を見つめた。行商で荒れた手だ。

 日に焼けて、指先にはたこができている。


「家は貧しかった」


 三郎は、あっさりと言った。


「なにしろ家訓が『四で炊くなよ、三で炊け』だ」


「どういう意味なの?」


 梅与が首をかしげた。三郎は頭をかいて、


「米を炊くときにな、薪は四本も使うな、三本で炊け、という意味だよ」


「薪の数?」


「そうだ。薪を四本使って、四角く井桁に組んだらもったいない。三本で、三角に組んで炊け、という教えだ。一本でも薪を節約しろ、と」


「まあ、面白い」


「面白くはないよ」


 三郎は心底、そう言った。声に力がこもった。


「それくらい貧乏だった。薪一本を惜しむ暮らしだ。親父殿は朝から晩まで田を耕し、冬には漆器を作り、春と秋には船に乗って九州や瀬戸内を行商して回った。それでも暮らしは楽にならなかった」


 梅与は黙って聞いていた。商家の娘として、貧しさの実感はないのだろう。だが、三郎の声の底にある、噛みしめるような重さは、伝わっているようだった。


「そんな越智家にも、貧しいなりにいくらかの田畑と財産はあるが、それは全部、長男の兄やんのものさ」


 長兄の越智縄太郎は、三郎より八つ年上の、朴訥な男だ。


「兄やんは気の優しい男でな。百姓をしながら漆器も作れるし、船も操れる。嫌いではないんだ、人としては。でもな」


「でも?」


「でも、あの兄やんが越智家の跡取りとして総領になるのは、正直、おれには気に入らんかった」


 三郎は正直に言った。


「おれのほうが商才があると分かっていたからだ。兄やんは優しいが、商いに向いてはいない。百姓をしながら暮らすのが似合う男だ。しかし家は長男が継ぐ。それが道理というものだ」


「次男のお兄様は?」


「弁次郎は頭がよかった。それを買われて、子のない親戚の家に養子に出された。長じて医者になった。立派な男だよ。おれに向かって『もっと兄やんを立てよ』と説教をするような男だ」


「あなたは、立てなかったの?」


「……立てられんかったな」


 三郎は苦笑した。


「縄太郎兄やんも、分かっていたと思う。おれみたいな男が、あの兄やんの下風につくのは、たまらんだろうとな。兄やん自身が、そう言っていた」


 波が浜に打ち寄せる音が、しばらく続いた。


「だから、家を飛び出した。弟の幸四郎を連れてな」


「弟さんは、ついてきてくれたの」


「ついてきてくれた。ありがたいことだ。あいつは……おれよりずっと、家族思いの男だがな」


 三郎は、大龍丸を指さした。


「あの船は、高齢のために椀船商をやめる老人に頼み込んで、後払いで買い取ったものだ。小さくて古い船だが、安かった。老人はおれの志が気に入ったのか、船の中にあった布団や大釜や食器まで譲ってくれた」


「優しい方ね」


「うん。桜井には、ああいう人がいる。自由な土地なんだ。やりたいことがあるならやれ、と。そういう気風がある」


 三郎は、桜井の空気を思い出していた。

 瀬戸内海に面した小さな港町。松原が広がり、白い砂浜がある。綱敷天満神社の境内には古い松が立ち並び、潮風が常に吹いていた。


 桜井は徳川の時代から天領であった。藩の支配を受けず、年貢も安く、領民への縛りが緩やかだった。そのために、船を操り、行商に出る気風が育った。


 桜井の法華寺の住職がよく言ったものだ。


 ――桜井は天領であった。それで、小事にこだわらぬ奔放な気分が養われたのだ。


 奔放。

 昨今、流行の言葉でいえば、自由。

 だが同時に、その自由は冷たくもあった。


 桜井は徳川時代から、江戸から遠い天領だったばかりに、藩や武士による保護も指導も薄かった。よくいえば確かに自由だが、悪く言えば放置である。しくじっても誰も助けてくれないし守ってもくれない。


 三郎がそうだ。実家を飛び出したことについて、桜井の民はそれを責めはしないのだが、助けてやろうという気風もないのだ。大龍丸を売ってくれた老人はわりと親切だったが、それもたまたま、その老人個人の性格にすぎない。


「それで船出して、漆器の商いをしているわけね」


 梅与が感心したように言った。


「その若さで独り立ちなんて、立派なものだわ」


「商人として成功したとき、初めて立派になるのさ」


 三郎は、大龍丸を見つめながら言った。


「自活できずに野垂れ死ねば、ただの馬鹿さ」


 船の中には布団と衣類、古びた鍋や釜や食器、いくらかの米と漬物、そして売り物の桜井漆器が載っている。四人の男の全財産であり、全世界であった。


「独立の前に、半年間、今治の港で肉体働きをして給金を貯めた。それに母親がいくばくかの餞別をくれた。その金を合わせて漆器を仕入れ、船出をした」


「お母様が……」


「うん」


 三郎は、母のことを思い出すと、いつも胸の奥がきゅうと締まる。貧しい家計の中から、息子のためにいくらかの銭を握らせてくれた母だ。あの銭を稼ぐために、母はどれだけの労苦を重ねたことか。


「お金があるといっても、そんなに簡単に商人になれるんだ」


 梅与が言った。

 驚いているのか、感心しているのか、少し呆れているのか、三郎には判然としない。


「桜井は徳川様のころから天領だったからな。お侍からあまりごちゃごちゃ言われることもない土地だった。だから、自由なのさ」


「なんだか素敵ね。自由って」


 梅与の目が輝いた。明治時代に、富裕の家で育った娘にとって、自由という状態はひどく魅力的に映るらしい。

 三郎は「そう思うかい?」と笑った。


 海を見た。

 風はまだ強い。

 波頭が白く砕けている。


「儲けることができなかったら、来年のいまごろ、おれは餓え死んで骸骨さ」


 冗談のように言ったが、冗談ではなかった。

 行商で食えなくなった男が野垂れ死ぬ話は、桜井では珍しくもない。海で死ぬ者もいる。椀船が嵐で沈み、商品もろとも海の底に消えた話を、三郎は子供のころから何度も聞いた。


 梅与は、三郎の横顔をじっと見つめていた。

 風が、三郎の髪を乱した。

 日に焼けた頬に、西日が当たっている。


「……あなたは強い人ね」


「強いんじゃない。怖いだけだ」


「怖い?」


「貧乏が怖い。何者にもなれないまま死ぬのが怖い。だから走っている。走ることでしか、怖さを忘れられない」


 三郎は、自分でも驚くほど正直なことを言った。

 普段は弟にも部下にも、こんなことは言わない。威勢のいいことばかり言って、部下を鼓舞し、自分を鼓舞する。それが三郎のやり方だった。


 だが、梅与の前では、なぜか飾らない言葉が出た。

 この娘には、人の本音を引き出す力があるのかもしれなかった。


 沈黙が落ちた。

 波の音だけが、浜に響いている。


「わたくしにも、怖いものがあるわ」


 梅与が、ぽつりと言った。


「父に決められた人生を歩くことが、怖い。試し婚の相手も父が決めた。次の相手も、きっと父が決める。わたくしの人生は、わたくしのものではないの」


「……」


「だからあなたが羨ましい。怖いと言いながら、自分で決めて、自分で走っているでしょう」


 三郎は、返す言葉がなかった。

 梅与の言うことは分かる。だが、自分にできることは、自分の商いを成功させることだけだ。梅与の人生を変えてやることは、自分にはできない。少なくとも、いまは。


「風が止んだら、おれは唐津に行く」


 三郎は立ち上がった。


「唐津で漆器を売り、陶磁器を仕入れる。それがおれの仕事だ」


「ええ。分かっているわ」


 梅与も立ち上がった。

 着物の裾についた砂を払いながら、微笑んだ。


「また、門司に来たら寄ってね。待っているから」


「ああ。……宮本さんによろしく」


 三郎は頭を下げて、宿に戻った。

 振り返らなかった。振り返れば、また何か言ってしまいそうだった。

 いまは女よりも、ただ稼ぎたい。金が欲しい。あの貧しい暮らしから抜け出て、誰よりも豊かに。




 翌朝、風はおさまっていた。

 六月の空は晴れ渡り、海は青く凪いでいた。

 大龍丸は、帆をいっぱいに張って、門司港を離れた。


 針路は西へ。

 唐津へと向かう。


ひとまず投稿はここまで。

次回は今夜九時に投稿し、その後も毎晩九時に投稿していきます。

完結まで書き上げ済みなので、毎日投稿していきます。


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