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第四話 八幡製鉄所

 三郎としては宮本家を辞したあと、すぐにでも出港するつもりだった。

 ところが間が悪く、急に海が荒れ始めた。

 波が高い。


 北西の風が強く吹いて、関門海峡には白波が立った。二十石積みの大龍丸では、とうてい出られない。


「しかたがない。風が落ち着くまで待とう」


 三郎は、港の近くに安宿を見つけて投宿した。

 安宿といっても、門司港は景気がいい。石炭の積み出しで沸くこの港町は、人が増え続けている。宿の数は足りておらず、安宿でさえ宿賃が高かった。


 一泊の宿賃を聞いた幸四郎が、うなった。


「兄やん、これは痛い」


「しかたがない。野宿をするわけにもいかんだろう」


「船の上で寝ればいいじゃないか。いつもそうしているんだから」


「この波の中で寝たら、明日には四人とも船酔いで使い物にならんぞ。それに龍やんと青やんは、まだ子供だ。ひと晩くらい布団で寝かせてやれ」


 幸四郎は納得はしたが、不満顔だった。


「こいつは、えらい損だ」


「そう言うな。四十五円が手に入ったのだ。何日かの宿がどうした」


「それはそうだが……」


「門司港を見聞するもまたよし、じゃないか」


 三郎はそう言って、宿に荷物を置くと、すぐに町へ出た。

 雨は降っていない。風は強いが、陸の上ならばどうということはない。

 三郎は幸四郎を連れて、門司港の町を歩き回った。


 門司港は、三郎にとって初めて目にする国際港であった。

 波止場には外国航路の汽船が何隻も停泊しており、その煙突から黒い煙が立ちのぼっている。倉庫の前では、半裸の人夫たちが石炭の袋を担いで行列をなしていた。


 大通りには人力車が行き交い、洋傘をさした紳士が歩いている。かと思えば、法被姿の魚売りが天秤棒を担いで走り抜けていく。新旧の日本が、ごった煮のように詰め込まれた港町だった。


「面白いな、門司は」


 三郎は目を輝かせていた。

 三郎は行商の途中であっても、景色を眺め、土地の空気を味わうことに素直な喜びを見出す性質であった。瀬戸内の海を舟で渡るときも、島影が見えれば「あれは何という島だ」と尋ね、港に着けば必ず町を歩いた。


 逆に言えば、他の娯楽にはあまり関心がない。酒は一合飲めば真っ赤になる。博打には興味がない。芝居は好きだが、金を払って見に行くほどではない。


 本質的に真面目な男であった。真面目で、好奇心が強い。その好奇心が、商売だけでなく、土地の風物にも向けられるのが、三郎という人間の幅であった。




 門司港の逗留が三日目になっても、風はおさまらなかった。

 宿賃がかさんでいく。幸四郎は帳面をつけながら、渋い顔をした。


「兄やん。門司港の見聞もいいが、そろそろ風が止むのを祈ったほうがいいぞ」


「天気ばかりはどうにもならん。こういうときこそ、情報を仕入れるのさ」


 三郎がそう言ったのは、宮本梅与が宿を訪ねてきたからでもある。


 梅与は、三郎たちが門司港に逗留していると知ると、ほとんど毎日のように宿にやってきた。


 最初は救ってくれたお礼として菓子折りを持ってきた。

 次の日は「門司港のことで教えたいことがある」と言ってやってきた。

 三日目には、もはや理由もなくやってきた。


「あなたの番頭さんにでもなって、共に行商をしてみたいわ」


 梅与は座敷に上がり込んで、三郎の向かいにちょこんと座ると、真顔でそう言った。

 三郎はげらげら笑った。


「面白い冗談だ」


「冗談じゃないわ」


「冗談だよ。呉服屋の娘が、椀船に乗って行商なんぞできるものか。第一、船の上には風呂がない。三日で音を上げるさ」


「わたくし、けっこう辛抱強いのよ」


「それは認めよう。試し婚の家から夜中に逃げ出す根性は、並の女にはない」


「褒めているのか、けなしているのか分からないわね」


 梅与はむくれたが、すぐに笑った。

 この娘は、怒っても長くは続かない。

 明るく、なんでも楽しんでしまおうという性質のようだった。


 三郎、梅与の申し出を真に受ける気はなかった。だが、無下にすれば宮本家に恥をかかせることになる。かといって、梅与を口説くわけにもいかない。自分は大望ある身であり、女に関わっている場合ではないのだ。

 だから三郎は笑い飛ばすことで、話をうやむやにした。


 しかし、梅与から聞く門司港の話は、商人として有益だった。

 三郎は梅与の話に耳を傾けながら、門司港の流行、物価、事情、人心を把握していった。


「この港は景気がいいでしょう。でもね、門司だけじゃないのよ。八幡が凄いの」


「八幡?」


「八幡製鉄所。知らない?」


「名前は聞いたことがある」


「四年前にお国が作った製鉄所よ。一度は止まったけれどまた操業を再開して、人が増え始めているの。ロシアとの戦争も製鉄の動きが盛んになった理由のひとつね。製鉄所の職工さんたちは毎月、お給金をもらっているから、門司や小倉の商人はみんな八幡に目をつけているわ」


「月給か」


「ええ。八幡だけじゃないわ。筑豊の炭鉱にも、久留米の軍隊にも、毎月お給金をもらう人がたくさんいるの」


「久留米にも軍隊があるのか」


「正確にいえば、三井郡国分村、だったかしら。とにかく久留米のほうよ。それにもうすぐ、大きな軍の基地が久留米市内のほうにも置かれるって話よ」


「よく知っている」


 三郎は情報を頭の中に刻み込んだ。

 月給をもらう人間が増えている。それは、彼らに向けて商いができるということだ。


(だが漆器は、彼らには容易に売れまい)


 漆器一式は高値である。

 八幡の月給取りがいくら貰っているかは知らないが、漆器を買ってくれるかどうかを考えると、三郎は首をひねった。


(まあいい。この情報はひとまず寝かせておく。いつか使うときが来るかもしれん)


「三郎さんのことも、聞かせてちょうだい」


 梅与は身を乗り出した。


「おれの話など面白くもないが」


「面白いかどうかは、わたくしが決めるわ」


 梅与は、品のある顔立ちや立ち振る舞いとは裏腹に、ときおり商家の娘とは思えない遠慮のない物言いをする。末娘として甘やかされて育ったせいか、あるいはこれが門司港の女の気風なのか。こういうところが、田野浦の姑にとっては気に入らなかったのだろう。


 宿の女将が、茶を運んできた。四十がらみの、目のきつい女だった。

 女将は梅与を一瞥して、三郎に茶を置くと、冗談めかした声で――しかしどこか棘のある声音で――こう言った。


「いやはやさすがに新時代というか、近頃の若い娘は、あたしから見ると信じられないことをする」


 三郎は、茶碗を手に取った。


「嫁入り前の若い娘が、ひとりで旅商人の男の部屋に上がり込んでくるなんて。さすが金持ちの家のお嬢さんだね。臆病なあたしにはできまっせんねえ、ホホホ、まともじゃない」


 女将は、梅与の目の前で口をとがらせている。

 梅与の顔が、さっと赤くなった。

 品のよい育ちの娘だけに、こういう直接的な物言いには弱い。


 三郎は、馬鹿笑いをした。

 腹の底から声を出して、からっと笑った。


「違う違う。おれのほうがこのお嬢さんに夢中でね。無理に呼んだのはおれのほうだ」


 女将が目を丸くした。


「しかし、まともじゃないとは良かった。まともな商人は金持ちにはなれんのでね」


 あんまり三郎が明るいので、女将は毒気を抜かれたように笑った。梅与もほっとしたように、小さく笑った。


 こういう場面で、空気を壊さずに場を収めるのは、三郎の得意とするところだった。行商で農家を一軒一軒回っていれば、気むずかしい年寄りや、よそ者を嫌う村人にいくらでも出くわす。そのたびに笑い飛ばして場を和ませるのは、行商人として身につけた技術である。


 女将が去ると、梅与はうつむいて、


「ご迷惑なら、もう来ないけれど」


「迷惑なものか。おれは門司の情報がほしいし、あんたはおれの話が聞きたい。これは立派な取り引きだよ」


「取り引きだなんて。商人らしいこと」


「商人だからな」


 三郎は笑った。


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