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第三話 桜井漆器一式、四十五円也

 昨夜のうちに門司港に着いた大龍丸は、波止場の端にある小さな船溜まりに停泊させてある。


 三郎は、田村と北條に船番を命じると、幸四郎と梅与を連れて宮本呉服店へと向かった。


 門司港は、朝から騒がしい。

 波止場に向かう人夫たちが群れをなして歩いている。

 洋風の建物が並ぶ一画には、商館の看板が掲げられ、洋装の男が出入りしている。


「あなたの家は?」


 と、三郎は梅与に尋ねた。


「こちらに」


 宮本呉服店は、門司港の目抜き通りから一本入った裏通りにあった。

 表通りに面した大店ではないが、間口は広く、暖簾がきちんとかかっている。

 暖簾には丸に宮の字があしらわれていた。


 店の前を掃いている小僧がいる。

 番頭らしき男が、店の中で帳面をつけているのが見えた。


(繁盛している店だ)


 三郎は直感した。

 派手さはないが、堅実に商いをしている空気がある。

 暖簾の色ひとつ、店先の掃除ひとつに、主の目が行き届いている。


「ごめんください」


 と、三郎はまず掃除をしている小僧に話しかけた。

 小僧は顔を上げた。三郎の背後で視線が止まる。梅与の存在を確認したのだ。


「お嬢さん。どうして……」


「ただいま。お父様は奥かしら?」


「少々、お待ちを……」


「自分の家に入るのに、どうして待つ必要があるのかしら。いるのね? いるのなら、わたくしから話をするわ」


 梅与は、小僧の返事も待たずに奥へと入っていってしまった。

 三郎と幸四郎は置いてけぼりである。

 宮本呉服店の店員が、うろんげに見つめてくるのが辛かった。


「おい、居心地が悪いな。……」


「辛抱じゃ、兄やん。しかし梅与さんはこれだけの店のお嬢さんか。こりゃ、助けてよかったかもな。仲良くなっておくと得かもしれん」


 幸四郎は宮本呉服店の店構えを見て、親しくなりたいと思ったようだ。


(揉め事は嫌だと言っていたくせに、調子のいいやつめ)


 まもなく、奥から男が出てきた。

 痩せた体に、紬の着物を着ている。

 髪はきれいに撫でつけてあり、顔は長いが、目に鋭さと、同時に人の好さがにじんでいた。


「越智三郎さんとおっしゃるそうですな。当店の主、宮本只八《みやもとただはち》と申します。昨夜は娘が大変お世話になったそうで」


 これが梅与の父親かと思いながら、三郎は頭を下げた。


「いえ、大したことはしておりません。ただ、お嬢さんが男に追われていたものですから」


「追われていた、と。……梅与め」


 只八の顔に、苦い色がよぎった。

 しかしすぐに表情を整えて、


「話はすべてうかがっております。立ち話もなんですので、どうぞ奥へ」


 宮本只八は、三郎と幸四郎を奥の座敷に通してくれた。

 もっとも、座敷といっても、商談に使う実用的な部屋で、床の間に花が一輪活けてあるほかは飾り気がない。


「お若く見えるが、年はおいくつかな」


「当年とって二十歳になります」


「お若い、お若い。私より三十五も年下とは。……ああ、まあ、おかけなさい」


 只八は三郎に座布団をすすめ、みずからも正座した。

 年齢を確認したためか、只八の話し方はゆるやかにくだけている。


 番頭が茶を運んできた。

 三郎は座布団に正座し、背筋を伸ばした。

 幸四郎は三郎の後ろに控えている。


「して、娘は田野浦から逃げてきた、と」


「はい。試し婚の相手のお宅から逃げ出したと聞きました。姑御が合わなかったと」


「姑が……。ああ、やはりそうか」


 只八は目を閉じて、しばらく黙った。

 それから、深いため息をついた。


「越智さん。恥をお見せするようだが、あの娘は末娘でね。そのためだろう、私が甘やかしすぎた」


 只八は正直な男であった。

 商人には珍しく、取り繕うということをしない。


「甘やかされて育ったから、姑の小言が我慢できなかったのだろう。しかし……梅与が言うには、ずいぶん酷くいじめられたということで、だとすれば、これは放っておけません。この縁談は白紙にいたしましょう。そのための試し婚だ」


「そのほうが良さそうですね。お互いのためにも。ところで私は向こうの店員をずいぶん叩きのめしてしまいましたが」


「武勇伝だなあ」


 只八は笑って、


「詳しい事情も知らず、ただ真夜中に追われている女を助けた、ということなのだからあなたは問題にもならんだろう。向こうとしても、三人がかりで女を追って、それがひとりに叩きのめされたとあれば、単純に男として恥でもある。それこそ、お互いのためにも不問となろう」


(そうなるだろうと思っていた)


 経験から分かる。

 多人数でひとりと戦って、それがこてんぱんに負けたとあれば、負けた側がそれを問題にして声を大きくすることはまずない。只八の言う通り、それは恥そのものだからである。都会のほうは知らないが、九州の片田舎ならばまずこういう決着になるだろうと三郎は踏んでいたのだ。


「それにしても、まったく、梅与め。手のかかる娘だ」


 只八はぼやいたが、声音には父親の情が溢れていた。


「しかし、門司港は初めて参りましたが、面白い街ですね」


 茶を飲みながら、三郎は素直な感想を漏らした。


「そうだろう」


 只八は饒舌になり、門司港のことを語り始めた。

 門司港の町のこと、石炭の景気のこと、下関との行き来のこと。

 只八は門司港で親の代から商いをしている男で、この港の事情には精通していた。


 その只八。

 三郎の身なりをじっと見て、


「越智さんは、なかなかよい服をお召しだ」


「恐れ入ります」


「行商の方と聞いたが、それにしてはずいぶんと」


 只八の目が、商人の目になっていた。

 服の仕立てと生地を見ている。


「これは、先輩の教えでして」


 三郎は笑いながら言った。


「商人がみずぼらしい服を着ていては客も嫌がる、まして我々はハレの日に用いる漆器を売るのだから、服だけは一流にしろと。それで今治の呉服屋に何度も足を運んで、時間をかけて選びました」


「ほう。今治で仕立てたか」


「生地は京ものです。仕立ては今治の職人に頼みました」


「なるほど。道理で筋がよい」


 只八はうなずいた。三郎の着ている綿の筒袖着物は、生地の質と仕立ての丁寧さが見事である。只八は呉服屋の主人なのだ。布地の善し悪しは一目で分かる。


 この若い行商人が、ただの風来坊でないことを只八は見抜いた。


「あなたは漆器売りか。桜井の椀船商人か」


「ご存じですか」


「知っているとも。伊予の椀屋さんの噂は、九州のこのあたりでも聞こえてきている。江戸の昔から、船で漆器を売りに来る愛媛の商人がおると」


 桜井商人の名は、九州では知られていた。


 江戸の後期から、桜井の椀船は九州沿岸の港々に漆器を運んで売った。

 売ったあとは、唐津や伊万里の陶磁器を仕入れて、大坂や瀬戸内に運んで売った。その商人たちは『椀屋さん』あるいは『舟ゆきさん』と呼ばれ、九州の農村や漁村では馴染みの存在だった。


 もっとも、馴染みといっても、椀船の行商人が門司港のような大きな港町に乗り込んでくることは、あまりない。門司港には門司港の呉服屋や瀬戸物屋があり、よそ者が割り込む余地は少なかった。


 それでも只八は、桜井の椀船商人という存在そのものに敬意をもっていた。小さな船に商品を積み込み、家族同然の仲間とともに海を渡って行商するその姿は、商人として見れば、なかなかどうして、骨のある生き方だ。


「品は良いですよ。一式、ご覧になりませんか」


 三郎は機を逃さなかった。

 只八が桜井漆器に関心をもっている。

 ここで商品を見せずに帰る手はない。


「ほう。拝見しましょう」


 三郎の胸が高鳴った。

 幸四郎に目配せすると、幸四郎は心得たもので、小走りに座敷を出た。船に置いてある漆器の見本を取りに行くのだ。


 しばらくして、幸四郎が風呂敷包みを抱えて戻ってきた。

 三郎は丁寧に風呂敷を解き、座敷の畳の上に漆器を並べた。

 黒本膳に黒本椀、汁椀、平皿、中椀、木壺。さらに飯次、台、杓子、通い盆、湯涌。二十人前一式の見本である。


 黒漆の光沢が、座敷の灯りを受けて、しっとりと輝いた。


「ほほう、これは……」


 只八が思わず身を乗り出した。


「桜井漆器でございます」


 三郎は一椀を手に取り、只八の前に差し出した。


「安価にして堅牢、と評判でございます。もちろん黒江漆器もございますが、こちらは桜井の職人が丹精込めて仕上げたものです。重箱の四隅の接着部分には櫛指法という技法を用いておりまして、かみ合わせの接着で堅牢に仕上げてあります。まず壊れることはありません」


 只八は椀を手に取り、ひっくり返し、光にかざして見た。

 指先で縁をなぞり、高台の仕上がりを確かめている。

 呉服屋の主人だが、器の善し悪しも分かる男のようだ。


「なるほど。良い品だ」


 只八はうなずいた。


「仕上げが丁寧ですな。漆の厚みも十分だ。これなら冠婚葬祭はもちろん、日々の膳にも使える」


「ありがとうございます。……お買い上げいただけますか」


 三郎は率直に言った。

 商売に遠回しな言葉は要らない。

 相手が「良い品だ」と言ったならば、すかさず買うかと問うのが商人の呼吸である。


 只八は少し考え、それから笑った。


「買いましょう。この一式、いくらですか」


「二十人前一式で、四十五円いただいております」


「四十五円か。決して安くはないが……まあ、品を考えれば妥当でしょうな」


 只八は番頭を呼び、金を用意させた。

 四十五円とは大金である。この時代、都市部でも巡査の月給が八円から九円。小学校の教員が十円前後なのだ。


 三郎は、内心で安堵のため息をついた。

 門司港に寄ったのは、本質的に梅与を送り届けるためであって、商売のあてがあったわけではない。それが思わぬ上客に巡り合った。


(やはり、神仏がおれを見ている)


 三郎はそう思った。

 ここが三郎のいいところでもあり、危ういところでもあった。

 成功すると、すぐに天の加護だと信じる。自分は運命に選ばれた男だと思い込む。

 だが、その思い込みの強さが、三郎を前へ前へと押し出してもいた。


「ありがとうございます。大切にお使いください」


 三郎は深く頭を下げた。

 金を受け取り、漆器を番頭に引き渡したあと、三郎は只八にもう一つ尋ねた。


「宮本さん。このあたりで、他に漆器を買ってくれそうな方はいませんか」


 商人として当然の問いかけだ。

 一軒売れたならば、もう一軒、もう一軒と繋げたい。

 只八は腕を組んで考えた。


「門司港は、ご覧の通り景気がよい。金を持っている商家も多い。しかしな」


 只八は首を傾げた。


「このあたりの金満家《きんまんか》は、下関や門司の大店がしっかりと掴んでおります。漆器にしろ呉服にしろ、出入りの店が決まっていてね。よそ者が割り込む隙は、正直なところ少ない」


「やはり、そうですか」


「かといって庶民は漆器一式など、とうてい買えませんからな。四十五円は大金じゃ」


 只八は気の毒そうに、しかし正直に言った。


「悪いことは言わない。よそへ売りにいきなされ」


 三郎はがっかりしたかといえば、さほどでもなかった。

 門司港で大儲けできるとは、最初から思っていない。ここは梅与を送り届けるついでに寄った港だ。それで四十五円の売り上げが立ったのだから、上出来である。


「承知しました。ありがたいお言葉です」


 三郎は頭を下げた。


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