第二話 試し婚の娘
ややあって。
女は落ち着いたらしい。
「わたくしは宮本梅与と申します。門司にある宮本呉服店の、末の娘です」
「呉服屋の娘か。道理で良い着物を着ている」
三郎は、衣服には一応の目があった。
故郷にいるとき、先輩の漆器売りに口を酸っぱくして言われたものだ。
――商人がみずぼらしい服を着ていては、客も嫌がる。まして我々はハレの日に用いる漆器を売るのだから、服だけはきちんとしろ。
その教えを守り、三郎は今治の呉服屋に十日も通い詰めて、服の善し悪しを学んだうえで、なけなしの金をはたいて京ものの衣類を揃えたのだった。だから三郎は、上物である綿の筒袖着物をきちんと着こなしている。
「それで、梅与さん。なぜあなたは男に追われていた」
梅与はうつむいた。
恥ずかしそうに、しかし言わねばならぬという顔で、
「わたくしは田野浦の商家に、嫁として送り込まれました。けれども、姑とどうしても合わなくて。結婚相手の若旦那も姑の言いなりで。それで、堪えきれなくなって、夜中に逃げてしまいました」
「逃げた」
「ええ。夫婦になったといっても、婚姻届はまだ出していませんから、いまなら逃げられると思って。そうしたら、番頭と若衆が追いかけてきたのです」
なるほど、と三郎は合点した。
(試し婚、というやつだな)
試し婚とは、嫁や婿をもらっても、一定期間は婚姻届を出さない習慣である。
明治前期の日本は、姑が嫁を気に入らずに追い出すということが多々あった。そのために離婚率は非常に高かった。
これは良くないと、政府は民法によって『二十五歳未満の者が離婚するときは、結婚を承認したものの許可が必要』と定めた。結婚を承認したものとは、ほとんどの場合、夫婦両方の親である。つまりこの法律によって、双方の親が同意しなければ離婚はできないということになった。
簡単にいえば、姑は簡単に嫁を追い出せなくなった。それならばと、ひとびとは結婚をしてもしばらくの間、婚姻届を出さないという試し婚なる風習を生み出したのだ。嫁や婿をもらっても、婚姻届を出していなければ、法的には双方独身状態である。嫁を追い出すのも、自由にできる。
「まだ届けを出しとらんのだから、あなたは嫁でもなんでもない。堂々と実家に帰ればいい」
「でも、門司の家まで帰る道が分かりません。この辺りは暗くて」
「兄やん、えらいことじゃ」
幸四郎が横から割り込んできた。
「田野浦の人間を叩きのめしてしまったぞ。これだから揉め事は嫌じゃ。もう、田野浦にはおられんぞ。どうするんじゃ」
「梅与さんの実家に送り届けるさ。そうするしかあるまい。船を出すぞ」
「この夜にか」
「陸をゆけば、先ほどの男たちにまた追われるかもしれんぞ。次は刀でも持ち出してくるかもしれん」
明治の世とはいえ、地方にはまだ、家に刀を置いている家がある。
「海をゆくぞ。船に戻ろう」
三郎たちの船は、大龍丸といった。
名ばかりは勇ましいが、実は、古びた木造船にすぎない。
帆柱は傷だらけ、船底には潮の匂いが染みついて、夜風が吹くたびに船体がぎいぎいと泣いた。
「おい、起きろ」
三郎は大龍丸に戻ると、船底で毛布にくるまって寝ている二人の少年を起こした。
田村龍蔵と、北條青松。
ふたりとも桜井の出身で、三郎の部下である。
共に、まだ十五歳の少年だ。
カシキと呼ばれる乗組員の見習いにあたる年齢で、三郎が桜井を出るときに、一緒についてきた。田村は陽気でひょうきんな性格、北條は無口だが計算が速く、字もうまい。対照的なふたりであった。
「んん……なんです、大将」
田村が眠い目をこすりながら起き上がった。
北條も無言で身を起こした。
「船を出す。門司港まで行くぞ」
「え、いまからですか」
「女を乗せる。丁重に扱え。質問するな。いいか」
「……はい」
田村と北條は、寝ぼけながらも手際よく船の仕度を始めた。
帆を張り、纜を解く。
梅与が、おずおずと船に乗り込んだ。
大龍丸の船内を見回して、梅与は小さく声を上げた。
「まあ、これは……」
狭い船内には、竹つづらに入った漆器の見本、古びた大釜、鍋や食器、米俵、漬物の壺、それに四人分の布団と衣類が、ところ狭しと積まれている。
要するに、四人の男が寝泊まりしながら商売をする、動く住居兼倉庫であった。
「散らかっていて申し訳ない」
三郎は頭をかいた。
「いえ、そうではなくて……あなたたち、この船で暮らしているの?」
「暮らしている、というか。……まあ、そうだな」
三郎は苦笑した。
「椀船、というんだよ」
「わん、ふね」
「漆器の椀を運ぶから、そういう呼び名になったんだろうな。愛媛の桜井港から瀬戸内の海を渡り、九州までやってきて、漆器を売る。次は唐津や伊万里で陶器を仕入れて、また桜井に戻り、陶器を売る。中には桜井を越えて大坂まで向かうやつもいる。
桜井の船商人たちは、徳川の時代からずっとそれをやってきた。おれたちもそれを生業としている」
「すごいわ。大変でしょう」
「大変というか、おれたちはこれしか知らんからな」
いまはまだ。
と、三郎は心の中で思った。
やがては漆器売りだけではなく、もっと大きな商いもやってみたい。
(そして、いずれは日本一。……)
帆に風を受けて、大龍丸はゆっくりと浜を離れた。
関門海峡の潮は速い。だが三郎は、田野浦から門司港までの沿岸水路を知っていた。何度もこのあたりを通っている。
夜の海は暗かったが、門司港の灯が道標のように輝いている。北條が舵を取り、田村が帆綱を操った。三郎は船首に立って、行く手を見つめた。
潮の匂いが濃い。
波が船底を叩く音が、規則正しく響いた。
「越智さんは、本当に日本一のお金持ちになるつもりなの」
梅与が、船縁につかまりながら尋ねた。
追われていた恐怖から立ち直ったらしい。微笑を浮かべている。
三郎は、ふんと鼻を鳴らした。
「日本一になれなくても、夜中に女を追い回すような男よりは、ましな男になるつもりだ」
「ええ、それはなれるわ。なれますとも」
梅与が、くすりと笑った。
その笑顔だけで、彼女が、三郎に好意を抱いていることが伝わってきた。
大龍丸は、門司の港の灯に向かって、夜の海を進んでいく。
潮の流れは速かったが、風は穏やかだった。海面に映る灯火が、小舟の航跡に揺れて散った。
三郎は船首に立ったまま、門司港の灯を見つめていた。
石炭の積み出しで栄えるこの港は、いまや九州の玄関口だ。
外国の汽船が出入りし、波止場には日夜、荷の積み降ろしをする人夫があふれている。
翌朝、三郎は門司港の町に立っていた。




