第一話 金持ちになりたい
関門海峡を臨む田野浦の浜に、二十石積みの小舟が一艘、波に揺られていた。
越智三郎は、甲板で仰向けに寝そべっている。
視線は、明治三十八年(一九〇五年)六月の夜空に向いていた。
昼間に降った雨の名残で、まだところどころに雲がかかっている。
だが西のほうから雲が切れて、星がぽつぽつと姿を見せはじめていた。
「日本一の金持ちになりたいものだ」
三郎が、ぽつりと言った。
天を仰いだまま、ひとりごとのようにつぶやいた言葉だった。
三郎は金持ちになるために、故郷の愛媛県桜井を船出して、いまは福岡県の田野浦にいる。いまの生業は、漆器売り――
「金持ちになれるかのう、兄やん」
隣で、同じように甲板に寝そべっていた男が答えた。
越智幸四郎。三郎の二つ年下の弟で、十八歳になる。
「なれると思ったから、おれについてきているんだろう?」
「日本一は無理じゃろう。兄弟ふたりで暮らせる家を建てられれば、御の字だ。充分、金持ちじゃ」
「夢のないことを」
三郎は笑いながら、むくりと身を起こした。
潮風が頬をなでた。六月の夜風はまだ生ぬるい。
海峡を色鮮やかに染めている灯火の数々を、三郎は膝を抱えて見つめた。
関門海峡の向こう、下関の灯火が海面に映り、ゆらゆらと揺れている。西に目を向けると、彼方にも灯が連なっていた。門司港だ。石炭を満載した汽船が沖に停泊しているのが黒い影となって見えた。
門司港は、この数年で大きく変わった。明治二十二年に門司の港が開港場に指定されてからは、筑豊の石炭を積み出す港として栄え始め、いまや石炭の輸出量では日本一を誇る。外国航路の汽船も出入りし、港の周辺には赤煉瓦の倉庫が建ち並び、夜になっても灯が絶えることがない。
三郎はこれまで幾度となくこの海峡を小舟で通ったが、そのたびに門司の灯は増えているように思えた。
人が集まり、金が動く。
それだけで町は膨れ上がり、灯は増える。
その灯のひとつひとつが、だれかの営みであり、だれかの商いであった。
「日本中に、おれの名前を轟かせたいのよ」
三郎は海に向かって言った。
「明治の御世に名を残す大商人としてな」
幸四郎が何か言い返そうとした、そのときだった。
浜のほうから、女の声がした。
悲鳴だった。
三郎はさっと顔を向けた。
暗い浜の道を、ひとりの女が走ってくるのが見えた。
着物の裾を両手でつかみ上げ、髪を乱し、必死の形相で駆けている。
その後ろから、三人の男が追いかけてきていた。
「待て、こらっ!」
男たちの怒声が夜気を裂いた。
ひとりは番頭風の中年男であり、残りのふたりは若い。
いずれも着流し姿で、番頭風の男は提灯を持っている。
三郎は、にやりと笑った。
平穏な夜に、こんな出来事があるとは。
「ついてきた」
「なにが、ついてきたんじゃ」
幸四郎は呆れ顔で言った。
三郎は、まだ笑っている。
「女を助けるぞ、幸四郎」
「揉め事に関わるのか。やめとけ、兄やん」
「そうでもしなければ、おれたち兄弟は一生、ただの貧民で終わるぞ」
三郎は甲板から浜に飛び降りた。
草鞋の底が、砂利を噛む。
「なにかあれば、首を突っ込んでいくふてぶてしさがなければ、出世はできん」
「よく言うなあ」
幸四郎もしかたなく船を降りた。
「神仏がおれを見てくれているのだ」
三郎は走り出しながら言った。
「故郷を船出して、まだ三日よ。その途端に、目の前でなにかの事が起きようとは。おれはやはり、常人の運命にあらざる男だ」
「そのうち、その口の軽さで首を絞められるぞ」
三郎は、駆ける。
幸四郎が後ろから追いかけてくる。
女が近づいてきた。
十代後半だろうか。美形である。
着物は上等なもので、帯も良い品だ。
だが髪は乱れ、草履は片方だけ飛んでいて、素足のまま走っている。
三郎は女の前に立ちはだかると、
「こっちに来い」
と手を引いた。
女はびくりとしたが、三郎の顔を見ると、すがるような目をした。
「助けて……」
「任せろ」
わけなど聞かなかった。
三郎は女を自分の背後に隠すと、追いかけてきた三人の男の前に立ちはだかる。
番頭風の男が、提灯を掲げて三郎を照らした。
「なんだ、お前は」
「通りすがりの者だ」
三郎は腰に手を当てて、堂々と言った。
「夜道で女を追い回す男が三人もいる。穏やかな話ではあるまい」
「関係のないことだ。その女は、うちの若旦那の嫁だ。返してもらおう」
「嫁? ……夫婦か?」
三郎は振り返って女を見た。女は激しく首を振った。
「嫁ではありません。まだ、婚姻の届けをしておりません」
「結婚すると決めてうちに来たからには、もはやうちの嫁なんやぜ」
番頭風の男が一歩踏み出した。若い男二人も、じりじりと左右に回り込もうとしている。
三郎は、ふっと笑った。
「おい、聞いたか。嫁ではないと言っている。届けも出しとらんそうだ」
「黙れ。お前のようなよそ者に、口を挟まれる筋合いはないんや」
「それもそうだ。だがな」
三郎は、腕まくりをした。
「おれは生来、揉め事が大好きでな」
番頭風の男が、提灯を持った手とは反対の手で三郎の胸ぐらをつかもうとした。
三郎は、その手首を掴んで、ひねった。
ぎゃっ、と番頭が声を上げる。提灯が砂利の上に落ちた。
「おれとお前たちでは、鍛え方が違うわ」
三郎は言った。
これは事実であった。
三郎は子供のころから喧嘩っ早い性質で、故郷の子供たちの中では負け知らずを誇っていた。喧嘩百戦負けなしの三郎と呼ばれたものだ。
若い男ふたりが同時にかかってきた。
三郎は、一人目の拳を右手ではたき落とし、そのまま体当たりで砂利の上に転がした。
二人目の襟首をつかみ、足をかけて引き倒した。
「兄やん、やりすぎるな」
幸四郎が後ろで叫んでいる。
「大丈夫だ、加減はしている」
加減と言いながら、三人の男は砂利の上でうめいている。番頭風の男は手首を押さえ、若い二人は尻餅をついたまま、三郎を見上げて「この野郎、覚えておけよ」と、これは古今東西、負けた者が言う決まり文句を吐いた。
三郎はそれには答えず、提灯の火が消えていないのを確かめると、
「さっさと帰りな。若旦那にも伝えてくれ。嫌がる女を追い回すのは、男の恥だと」
三人はようやく立ち上がると、こちらを睨みながら、闇の中へ去っていった。
三郎は、改めて女のほうを向いた。
女は目を丸くして、三郎を見つめている。
恐怖から解放された安堵と、目の前で起きた乱暴な出来事への驚きが、ないまぜになった顔をしていた。
提灯の残り火に照らされた女の顔を、三郎は見た。
色が白い。鼻筋が通っている。瞳は大きく、唇がやや厚いのが愛嬌だった。育ちのよさが顔の作りに出ている。
「怪我はないか」
「は、はい。ありがとうございます。……あの、あなたは」
「伊予桜井の漆器売り、越智三郎」
三郎は名乗ると、少し間を置いて、つけ加えた。
「いまは貧しいが、やがては日本一の金持ちとなる男だ」
この発言は、まんざら嘘にはならなかった。
越智三郎の名前は、やがて確かに、日本中に知れわたることになる。




