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第二十二話 故郷に錦を飾る

 中奥堂町に新居を建てて一ヶ月ほど経ったある日のことである。

 桜井から、思わぬ客が訪ねてきた。


「三郎はおるかな」


 温厚な声で、いきなり登場した。

 越智家の長兄、越智縄太郎である。


 縄太郎は三郎より八つ年上の、朴訥な男だった。日に焼けた顔に、柔和な目をしている。百姓をしながら漆器を作り、たまに近隣へと商いに出たりして、のんびりと暮らしている。三郎が桜井にいたころは、この穏やかすぎる兄が越智家の跡取りとして総領に座っていることが、どうにも気に入らなかったのだが、


「兄やん。一体どうしたんだ、こいつは」


「急にやってきてすまんな。幸四郎から手紙が来たのだ。三郎兄が博多で新築の家まで建てたので、悪いが縄太郎兄から出向いてやってくれないか、とな」


「あいつめ」


 三郎は心中で舌打ちしたが、すぐに縄太郎の足をみずから洗ってやると、兄を二階へと通した。


 二階の一室、その上座に縄太郎を座らせる、三郎。

 サキが煎茶と茶菓子を持って現れた。「ご挨拶が遅れまして、月原サキと申します」と丁寧に頭を下げる。縄太郎も「こちらこそ、遅れました」と言って「越智縄太郎です。三郎と夫婦《めおと》になってくれてありがとう」と穏やかに言った。


「三郎。家も店も、そして奥さんも。こいつはたいしたもんだな」


 縄太郎の声には、純粋な感嘆があった。


「桜井を飛び出して、ここまでやるとは。見事だぞ」


「兄やん……」


「おれのような男では、こうはいかん。お前が家を出たとき、おれは寂しかったが、正しかったのだと思うよ」


 縄太郎は三郎の手を握った。その手は、百姓の手だった。土を耕し、鍬を振るった手だ。三郎の行商で荒れた手とは違う、しかし同じように労働で鍛えられた手だった。


「お前が腹を立てた気持ちも分かる。だが、もういいだろう。お前はお前で、この博多で立派にやっていくといい。だが桜井に戻ってきたときは、実家に顔くらい見せてくれ。親父殿とお袋殿も、そうしてほしいと言っている」


「うん。……」


「今後はお互い、もっと助け合おう。な」


「ああ。……ありがとう、兄やん」


 三郎は、兄の顔をまともに見ることができなかった。

 実家への、桜井へのわだかまりが、このとき溶けた。


 縄太郎とは話が盛り上がった。お互いの近況を報告し合い、やがてサキを連れて桜井に行くことを、三郎は約束した。夜には幸四郎も越智家にやってきて、兄弟でさほど飲めない酒を珍しく飲み、次兄の弁次郎がこの場にいないことを寂しがった。


 その日、縄太郎は三郎の家に泊まった。


「素晴らしいお兄様ではありませんか」


 縄太郎が眠っている部屋の隣室で、サキは三郎に向けて、小声でそう言った。


「穏やかで、心優しくて、心が広い……」


「……心が?」


「八つも年下の弟が、他の土地で事業を興して成功しているのですよ。それを祝福してくださったのです。これがあなたにできますか」


「それは」


「例えば幸四郎さんや、北條さんや田村さんが、東京で商売を成功させて大富豪になったら、三郎さんはおめでとうと言ってあげられますか」


「いや。……」


 桜井の幼馴染が成功しているだけでも、内心では歯ぎしりしていた三郎だ。

 他人への反発や嫉妬の心が人一倍強いのが、三郎であった。その反発心は長所でもあったが、短所にもなり得る。


「お兄様はわざわざ博多までやってきてくださったのです。素敵なお兄様ですよ」


「分かっている。いや、今日、分かった」


 あの温厚さが、幼いころは物足りず、あの人の下につくなどごめんだ、親父殿もお袋殿もなにを考えているんだと怒りさえ感じていた。


 だが、いまとなってはあの穏やかさが、むしろ長兄には必要な度量なのだろうと思うようになった。


(おれも、ああなりたい。縄太郎兄やんのように。……)


 三郎は生まれて初めて、そう思った。




 やがて――


 三郎はサキを連れて桜井に戻り、ついに両親と再会し、妻を紹介した。両親は心から祝福してくれた。そのときは次兄の弁次郎も実家に戻ってきて、三郎の成功を祝ってくれた。


 そしてそのとき縄太郎は、自分の子供ふたり――つまり三郎の甥たちを、越智漆器店の店員として預けると言ってくれた。


「おれの下にいるよりも、三郎、お前の下で働いたほうがいいからな。……なにしろ稼ぎが違う」


 縄太郎は冗談めいた口調でそう言った。

 朴訥に見えても、やはり桜井商人には違いない縄太郎であった。お金の話が決して嫌いではないのだ。

 ともあれ桜井の血を引く若者が、また博多にやってきた。


(そろそろ、店員たちを組織としてまとめねばならんな)


 三郎は、増えてきた店員たちや、右肩上がりの売り上げを見ながら、そう思った。



 三郎は、合資会社丸三を設立した。

 越智漆器店を法人化したのだ。丸三の印は、丸に三の字だ。無論、三郎の三である。


 このころには大龍丸の代金もすべて払い終え、ぼろぼろになっていた船を修繕した。古びた帆を新しくし、船底の腐りかけた板を張り替えた。桜井の若者をさらに何人か雇い、店員の数は十五人を超えた。


 桜井を飛び出してから、三年が経っていた。

 このころ、漆器を仕入れるために桜井に戻ると、港で船を降りた瞬間、町の者がわっと押し寄せてきた。


「越智先生!」


 三郎は面食らった。先生と呼ばれたのは初めてだった。


「博多で成功したんだってなあ。大したもんだ」


「月賦ってのをやっているんだろう。儲かるのか」


「うちの倅も雇ってくれんか」


 桜井の人々が、口々に三郎を称えた。

 かつて三郎が嫉妬混じりに眺めていた先輩の商人も、三郎のところにやってきて、今度、取り引きをしようと言ってきた。


 貧しい越智家の三男坊が、博多に店を構え、会社を作り、十人以上の店員を抱えたのである。

 桜井ではもう、ちょっとした有名人だった。


(なるほど、故郷に錦を飾るか)


 三郎は桜井に御殿こそ建てなかったが、建てたひとの気持ちが分かる気がした。これは気分がいいものだ――


(いやいや、だからいけない)


 三郎はひとりになると、かぶりを振った。


(成功して故郷で褒められると、これが人生双六《じんせいすごろく》の上がりだと思ってしまう。冗談じゃない。おれはまだ、これからだ。おれは日本中に、その名を轟かせるのだ)


 三郎の心は、また燃えさかり始めた。




 三郎は桜井で漆器を仕入れると博多に戻った。

 だが越智漆器店は幸四郎とサキに任せ、自分は若い店員を引き連れると、鉄道で瀬戸内海沿岸の町を巡り始めた。


「これからだ。いいか、まだこれからだぞ。お前たち、越智漆器店に入ったくらいで満足するな。ちょっと月賦の契約が取れたからといって、それだけで喜ぶな」


 三郎は、はっきりとした声で言った。


「もっと仕入れるんだ。漆器、陶磁器、呉服だけでは終わらんぞ。これからおれは山口、広島、岡山、兵庫――瀬戸内に面した商都を鉄道で回り、各地の名産品など、売れそうなものはなんでも仕入れるつもりだ。お前たちも、そのつもりでおれについてこい。売れそうなものがあったらおれに知らせろ。判断はおれが下す」


「はい」


 若い店員たちはうなずいた。


 三郎の仕入れは、すさまじかった。


 岡山県に到着する。岡山の特産品といえば畳の原材料である藺草《いぐさ》で、そしてその藺草を加工した花莚《はなむしろ》は世界に向けても輸出している商品だったが、三郎はその花莚を取り扱う業者のところへ、現金の札束を持って乗り込み、


「この店にある花莚を全部くれ」


 と言ったりした。

 これには岡山の業者も目を丸くした。


「品は、ちゃんとしたものを送ってくれよ。おれは藺草についても目が利くからな」


 中奥堂町の自宅を建てるときに、藺草《いぐさ》のことを学んだ三郎は胸を張ってそう言った。


 三郎は、商品の目利きについては一種の天才であった。それまで取り扱ったことがない品物でも、見本を取り寄せ、数日間勉強をすると、それだけで商品の品質の良し悪しを理解できるようになってしまう。天性の商売人と言えた。


 三郎はこのような調子で瀬戸内海沿岸の都市を巡り続けた。おもな町に辿り着くと、町の名産を調べ、数日で学び、それから取り扱いの業者のところに直接乗り込んで一気に仕入れる。そしてまた、次の町へと鉄道で向かうのだ。


 このころには、鞆の浦、御手洗、下津井というかつての北前船の寄港地であった港が衰退を始めていた。山陽鉄道が通り、時代は船から汽車へと移り始めていたからだ。


 もっとも、中国地方から四国に渡るには船を用いるしか手段がないため、広島県の尾道などは汽船の寄港地として栄えている。


 三郎は山陽道の商業地で商品を仕入れると博多に郵送したり、あるいは若い店員に商品を託して博多に戻したりしていたが、やがてひとりになると、沿岸の港から汽船に乗り、瀬戸内海を渡って愛媛県の桜井に向かい始めた。


(今回の旅。最後の仕入れはいつもの漆器だ)


 という意味もあったが、仕事とはまた別に、船に乗りたかったのだ。


 瀬戸内の海は、相変わらず美しかった。

 汽船の甲板から見る島々の風景は、季節ごとに装いを変える。

 夏の瀬戸内は、島の緑が濃く、海の色は明るい翡翠色だ。島と島の間の水道を抜けるとき、両岸の松林がすぐそこに迫り、松の香りが風に乗って甲板まで届く。


 漁師の小舟が行き交い、魚を釣り上げた漁師が「おーい」と手を振る。もうひとつの舟に乗っていた漁師も「おおい」と手を振り返している。夕暮れどきには、島影が紫に沈み、空だけが赤く燃えさかる。


 汽船は、白い航跡を引いて進んでいく。


(おれはやはり、この海が好きだ)


 博多に骨を埋めると決めた三郎だが、瀬戸内の海を走るときだけは、桜井の少年に戻った気分になった。


(瀬戸内は、おれの血であり肉だ)


 海風を全身で浴びながら、三郎は夜になるまで島々を目で追っていた。


今日は10分後にまた続きを投稿いたします。

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