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第二十一話 中奥堂町

 サキの父親は、月原弥一郎といった。

 かつて月原家は筑前国黒田藩の家老に連なる家柄の武士であったが、維新の後に禄を失い、商売に手を出して失敗した。


 月原弥一郎は徳川時代の末期に生まれた人物だったが、物心がついたとき、すでに家運は衰退しきっていた。


 それでもなんとか月原家を建て直そうと、さまざまな企画を立て、あるいは仕事に励んだりしたがどれもうまくいかず、十五年ほど前には、ついにそれまで住んでいた住居を手放して古家に引っ越した。


 そして月原弥一郎はついに病を得て、いまは床に伏しがちだった。

 三郎が福岡の郊外にある古家を訪ね、月原弥一郎に面会を申し出ると、病床の弥一郎は三郎を枕元に迎えた。


 痩せた男だった。


(だが目元には、士族の気骨が残っている)


 負けてたまるか、という気合いだけは伝わってきた。

 三郎はそんな月原に好感をもったが、いっぽうでは、この異様な気合いが初対面の相手にさえ伝わってくるところが、あるいは仕事がうまくいかなかった原因かもしれない、と思った。


(俺、俺、俺――という気配が全身から出てくる人間は、敬遠されるものだ)


 三郎はひそかに思ったが、すぐにその心を打ち消した。

 これから舅になろうという人物を値踏みするのは、よくない。


「越智三郎と申します。愛媛県桜井の出身でございます。いまは博多で漆器と呉服の月賦販売を営んでおります」


「うん。……」


 月原は小さくうなずいた。

 三郎は、続けた。


「サキさんを嫁にいただきたく存じます」


 率直に切り出した。

 弥一郎はしばらく三郎の顔を見つめ、それから静かにうなずいた。


「サキから話は聞いている。月賦の商人か」


「はい」


「商人か。……わしの家は代々、武士であった。商人に娘をやるとは、死んだ父と母は、あの世で卒倒しているかもしれん」


 弥一郎は苦笑した。

 だがその苦笑の奥には、かすかな安堵が見えた。


「しかし、わしはもう長くない。サキの行く末を案じていた。……娘はわしと比べて働き者だが、この世は女ひとりで生きていけるほど甘くはない。だから、越智さん。あなたが面倒を見てくれるなら、わしは、……ありがたい」


 結婚を、承諾してくれた。


「ありがとうございます」


 三郎は深く頭を下げた。

 サキさんを幸せにいたします、と言おうとしたが、そうするといまのサキは幸せではないと自分が決めてしまうことになる。それは月原家にも失礼なことなので、いまは礼を言うだけに留めた。


 月原弥一郎は、いい。

 だが、サキの母親は反対の声をあげた。

 母親のフジは、夫以上に士族の誇りを強く持つ女だった。


「月賦の商人と結婚など、とんでもない」


 フジは三郎を睨みつけた。


「ずいぶん成功しはじめていると言うが、成功した商人など貧しい者から銭をむしり取る卑しい人間ではないか。そんな男にサキをやれるものか」


「は……」


 三郎は、頭を下げたまま耐えた。

 商売に対する偏見は、士族にはよくあることだ。

 明治も四十年になろうかというのに。


 フジの言葉の端々からは、できればサキは、市役所で働くような役人あたりと結婚してほしかった、という気持ちを感じた。それが無理ならば、せめて多少裕福な農民がいいと、フジは露骨に口に出した。商人だけは嫌だ、とフジは言った。


(多少、嫉妬しているのではないか)


 という印象も受けた。

 三郎は、しかしフジの侮辱を心中で凍結させた。怒りはしなかった。この程度の罵倒は、人生の途中で何度も受けた。罵倒と感情を切り離すくらい、わけはない。


 その上で、三郎は穏やかな声音を作り、


「お気持ちは分かります。しかし商いとは、品物がないところに良い品を届ける仕組みそのものです。むしり取るのではなく、届けるのです。手の届かなかったものを、手の届くところに持っていく。それが私の仕事です」


「屁理屈を」


「屁理屈ではありません。九州中、いえ日本中の、物がないところへ物を届けて商うのが、私の使命であり、生涯をかけて成し遂げる仕事だと思っております。……私は働きます。世間様のために、そしてサキさんのために。……サキさんに不自由はさせません。どうか、どうか結婚にお許しをくださいますよう」


「…………」


 だが、フジは首を振った。

 三郎の言葉は届かないようだった。

 ところがそのときサキが、母の前に正座して口を開いた。


「母上。わたしは三郎さんと共に歩んでいきたいのです」


 サキの声は静かだったが、揺るぎがなかった。


「この方は、わたしが風呂を焚いている姿を見て、惚れたと言ってくださいました。わたしの働く姿を、美しいと言ってくださいました。そんなことを言ってくださったのは、この方だけです」


「…………」


「働く姿を美しいと表現する方が、この世に何人いらっしゃいますか。女の中身をきちんと見てくれる殿方など、何人おられるでしょうか。三郎さんは、そのわずか何人かのうちのひとりです。三郎さんとならば、共に歩んでいけるとわたしは信じています」


「………………」


 フジは黙った。

 娘の目を見つめ、それから長い沈黙の後、深いため息をついた。


「……サキがそこまで言うなら、仕方がない」


 しぶしぶの承諾だった。だが、承諾は承諾だ。

 三郎はふたたび深く頭を下げた。

 こうして、越智三郎と月原サキは、夫婦となった。




 三郎は博多に戻ると、ひとまず箔屋町の店にサキを連れて帰った。

 だが、幸四郎や他の店員が忙しく出入りする場所で夫婦生活を送るのは困難である。そこで三郎は、新しい家を建てることにした。


「箔屋町の借家は、引き続き倉庫として使っていく。二階には幸四郎が住めばいい。家賃はおれが払うからな。そして、おれとサキは新居に引っ越そう」


 三郎が目を付けた場所は中奥堂町である。

 博多駅の目の前であった。商売にも生活にも便利なところだ。


 中奥堂町の土地を購入した三郎は、大工と話し合い、二階建ての木造家屋を建てることにした。


 こちらも完全に住居にするわけではなく、一階は店舗と倉庫、二階に越智家の居住空間を設けることにした。とはいえ、狭い箔屋町の借家と違って、二階だけで六畳間がふたつ、四畳半がひとつと三部屋もある。畳も真新しく、藺草いぐさの良い香りがした。


「これがおれたちの新しい城だ」


 三郎は、サキの手を引いて、新居の前に立った。


「まあ、立派な……」


 サキは目を見開いた。


「畳は藺草からこだわった。藺草の本場たる岡山から見本を取り寄せて、夜通し吟味したものだ」


「それほどまでに」


「良いおべべだって着せてやるからな。約束しただろう」


「覚えていてくださったの」


「当然だ」


 三郎は照れくさそうに笑った。


「これほどの家に、わたしたちだけで住んでいいのでしょうか」


「月原の舅殿は、別居がいいと言ったじゃないか」


 月原家はやはり商人と暮らすことに抵抗があるのか、変わらずに古家で暮らし続けている。


 三郎としても、月原家と――特にあの姑のフジと一緒に暮らすことは抵抗があるので、別居は願ったり叶ったりであったが、完全に無視するわけにもいかず、越智三郎家は月原家に毎月いくらかの仕送りをしている。


 これについては、月原弥一郎から非常に丁寧な礼状が送られてきた。三郎はその礼状だけで、充分に満足した。


「わたしの実家のことではありません。桜井の越智家のことです」


「ああ。……」


「あまり豊かではないと聞きました。その越智家を放っておいて、わたしたちだけこんな広い家に住むのは……」


「うん。……」


「わたしはまだ、越智のお父様とお母様にご挨拶もしていませんから」


「そこなんだな」


 結婚は家と家の問題である。

 月原家がサキの結婚を渋ったのも、そこに原因がある。黒田家の名門であった月原家が、貧しい農民兼商人の家柄であった越智家と縁続きになどなれるか、という意識であった。


 本来ならば、月原家と越智家が両家顔合わせをして正式に結納、祝言、結婚という過程を通らなければならない。だが三郎は、両家の地理的距離が遠いことを理由に無理矢理結婚し、婚姻届を出してしまった。保証人は幸四郎と月原弥一郎であった。


「ご両親とは、それほど不仲なのですか」


「そういうわけじゃないんだが」


 父が、自分より商才で劣る兄に、越智家を譲るのがどうにも気に入らず、反発して出ていった三郎である。


 頭では分かっていた。長男に家督と財産を渡すのは世の道理なのだ。ただ三郎の中にある熱量があまりに多すぎたがために、家出という行動に出てしまった(その熱量があればこそ、商売で成功をしたという面もあるが)。しかもその後、戸籍まで福岡に移してしまった。


「桜井に、ご挨拶にいきましょう」


「うん、まあ、そのうちに。……」


「そんなことばかり言って。ハレの日に使う漆器や呉服を商うあなたが、ご自身のハレの日をうまく裁量できないのですか」


「だから、そのうちと言っているだろう」


 三郎は煩わしくなり、手を振った。

 サキと結婚すると決めたときに、桜井に彼女を連れて戻って、両親に会わせておけばよかったのだ。たったそれだけのことが、どうにも三郎はうまくできなかった。両親、兄弟が、決して嫌いではないくせに――


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