第二十話 恋の決着
呉服の月賦販売は、繁盛した。
紋付き袴、帯、反物。月給取りの家を一軒一軒回って売り歩くと、面白いように契約が決まっていく。漆器以上に反応がよかった。
理由は明白だった。漆器は冠婚葬祭――いわゆるハレの日によく使う。呉服も高級品はハレの日に着るためのものだが、ひとによっては日々の暮らしに必要であった。着物は着れば傷む。帯も擦り切れる。衣替えもする。呉服には、漆器にはない繰り返しの需要があった。
特に博多の民衆は常日ごろから良い服を着たがる、言い方を変えれば見栄っ張りな顧客が多かった。
良い服を着たい。
月賦でもいいから欲しい。
そういう需要が、途切れることなく三郎のもとに押し寄せてきた。
「呉服は小倉、漆器は桜井、陶磁器は唐津と伊万里」
三郎は仕入れの道筋を整理した。
三つの仕入れ先を回りながら、博多を拠点に売買を繰り返す。
鉄道を使えば、一日のうちに小倉から博多に品物を送ることができた。桜井からは大龍丸で瀬戸内海を渡る。唐津と伊万里には陸路か、あるいは船で回る。
春が深まり、初夏の気配が忍び寄るころ、三郎は唐津に向かった。
陶磁器の仕入れだ。唐津焼の茶碗と皿を求めて、問屋を回る。
だが三郎の胸の中には、陶磁器の仕入れとは別に、佐賀県へと向かう目的があった。
(彼女に会いたい)
三郎は唐津の郊外、初夏の田園風景を眺めながら思った。
博多に店を構えた。月賦の商売も軌道に乗った。銀行から融資も受けた。呉服の販路も開けた。梅与のことも決着がついた。
(ならば)
月原サキ。
唐津の安宿で風呂を焚いていた少女。煤だらけの顔で振り向いた、あの娘。
あれから何ヶ月が過ぎたか。商売に没頭するうちに季節が変わっていた。だが三郎の胸の中で、サキの面影は色褪せるどころか、ますます鮮やかになっている。
三郎はあの安宿へ向かった。
街道を歩き、記憶を頼りに道を辿る。
小城のほうへと向かう街道の途中に、あの薄汚れた板壁の宿があったはずだ。
見つけた。
宿は変わっていなかった。
看板は相変わらず傾いている。
裏手から煙が立ちのぼっているのも同じだ。
三郎は宿に近づいた。
裏手に回ると、やはり風呂を焚いている人影があった。
サキだった。
袖をたすき掛けにして、薪をくべている。
顔は相変わらず、煤で真っ黒だ。額から汗が流れ、煤の上に筋を引いている。
(ああ、変わっていない)
あのときと同じだ。
煤だらけの顔で働く姿。
この娘のこの姿に、三郎は惚れこんだのだ。
「やあ」
三郎は声をかけた。
「あら」
サキが振り向いた。煤だらけの顔の中で、目がぱっと輝いた。
「越智さん。お久しぶりです」
「久しぶりだな。相変わらず、黒い顔をしている」
「もう、いきなりそんなことを」
サキは笑った。
手の甲で額の汗を拭って、煤をさらに広げてしまった。
「今日は泊まられますか」
「ああ。泊まる」
三郎は宿に入り、亭主に挨拶をして部屋を借りた。
陶磁器の仕入れで唐津に来た帰りだと説明すると、亭主は前と同じように愛想よく迎えてくれた。
夕方になり、サキの仕事が終わった。
三郎は宿の縁側に座って、サキが来るのを待った。日が傾いて、宿の前の街道に長い影が伸びている。野山が夕日に照らされて、新緑が金色に輝いていた。
サキがやってきた。
顔を洗って、着替えている。
煤が落ちた素顔は、やはり色白で目鼻立ちが整っている。
(さすが武家の娘だ。品がある)
だが三郎にとっては、煤だらけの顔のほうが美しかった。
「お元気でしたか」
「おかげさまで。商売は順調だ」
「それはよかった。前にいらしたときに、大金持ちになると宣言されていましたものね」
「まだ大金持ちではないが、店を構えるところまではきた。博多に」
「博多に? まあ、すごいですね」
サキの目が大きくなった。純粋に驚いているのだ。あの日の夜、大金持ちになると大言壮語した行商人が、本当に店を構えたのだから。
「越智漆器店という。箔屋町だ」
「存じています。博多の中心ではありませんか」
「呉服も扱い始めた。漆器と呉服と陶磁器を、月賦で売っている」
「月賦?」
「毎月払いだよ。金がなくても、毎月少しずつ払ってもらえれば、高い品物が買える。その仕組みを作った」
サキは、じっと三郎の顔を見つめた。
感心とも驚嘆ともつかない表情だった。前に会ったときの三郎は、小舟に乗った貧しい行商人にすぎなかった。それがいまは、博多に店を構え、月賦という新しい商法を広めている。
「本当にすごいお方ですね」
「すごくはない。まだ途中だ」
三郎は、ここで切り出した。
心臓が、耳の奥で鳴っている。手のひらに汗がにじんだ。商売の話をしているときは平気なのに、これから言おうとしていることを思うと、口の中がからからに乾く。
「サキ」
「はい」
「おれの女房にならんか」
間があった。
蛙の声が、妙に大きく聞こえた。
「……冗談もほどほどにしてください」
サキは、呆れたように笑った。
「いやいや、正気だ」
三郎は身を乗り出した。
「あなたは飯炊きもうまいし、掃除も早い。針仕事も帳面づけもできそうだ。おれの店に来てくれれば」
「わたしを家来にするおつもりですか」
サキの声に、とげが混じった。
「いや、それは」
「まるで新しい店員さんでも探しに来たみたい。とても奥さんを探しに来たとは思えませんね」
「はっきり言う」
だが、彼女の言う通りだった。
完全にしくじった。求婚の言葉が、店員の引き抜きのようになってしまった。
(おれときたら、相手が顧客ならば油でも塗ったみたいに舌がまわるのに、娘が相手だとなぜ口が動かないのか)
営業ならいくらでも口が回る。
それなのに、目の前にいるひとりの娘に、自分の気持ちをまっすぐに伝えることができない。
三郎は、やり直した。
「顔も、きれいだ」
「ますます腹が立ちます。この顔のどこがきれいですか」
サキは自分の頬を指さした。
「日焼けばかりして。博多の女性に比べれば、それはもうすっかりすすぼけてしまった顔ですよ」
「おれは黒い女が好きなんだ」
「やっぱり、馬鹿にしている」
「いや、だから……」
三郎は言葉に詰まった。
男と女の関係の難しさだ。漆器を売るより、呉服を仕入れるより、銀行を説得するより、はるかに難しい。
だが三郎は、ここで退くわけにはいかなかった。
三郎は背筋を伸ばし、サキの目をまっすぐに見た。
「おれはあなたが好きだ」
声が震えた。
だが、言葉は明瞭だった。
「おれの嫁になってくれ」
沈黙が落ちた。
夕暮れの風が、宿の軒先を揺らした。
どこかで犬が吠えた。蛙の声だけが、変わらず鳴り続けている。
「……本気で?」
サキの声は、小さかった。
「本気だ」
「本気で、わたしのような者を」
「あなたのような者だから、だ」
三郎は言った。
「おれは金持ちの娘がほしいのではない。美人がほしいのでもない。いや、あなたは美人だが、そういうことではなくて」
「……」
「おれがほしいのは、一緒に働いてくれる女房だ。おれは朝から晩まで働く。夜中まで帳面をつけ、明け方に起きて仕入れに行く。そういう暮らしの中で、隣にいてくれる人間がほしい」
三郎は自分の手を見た。
行商で荒れた、日に焼けた手だ。
「あなたが風呂を焚いていた姿を見たとき、おれは思った。この人だ、と。この人となら、一緒に生きていける、と」
サキは黙っていた。
夕日が、宿の板壁を茜色に染めている。
「……もっとうまいことが言えたらいいが、あいにく、それこそ博多の色男とは違う。娘をうまいこと口説く舌を持っていない。おれにできるのはこれが精一杯だった。博多で金持ちになり、借家とはいえ店を構えて、あなたに気持ちを伝えること。それくらいしか、おれにはできなかった」
サキは、無言。
横顔に、夕日の光が当たっていた。
「改めて言う。俺の女房になってくれ」
彼女の肌が、薄い橙色に染まった。
やがて。
サキは微笑んだ。
あの日と同じ、品のある笑みだった。
だが、その笑みの奥に、あの日にはなかったものがあった。
潤んだ双眸に、ほんのわずかだけくちびるが開く。
「――行商人に嫁ぐなど、父上がなんと言いますやら」
「わおっ」
三郎は、すべてを悟った。
すっとんきょうな声が出た。
サキは、自分の求婚を受け入れてくれたのだ。
父上がなんと言うか、という言葉は、断りの言葉ではない。父の許しさえあれば、という意味だ。
三郎は飛び上がりそうになった。
血潮が全身を駆け巡った。心臓が、破裂するかと思うほど打った。
「い、いいんだな、本当に」
「はい」
サキは、はにかんで、
「あなたはわたしの働く姿に惚れ込んでくれました。その言葉がなにより嬉しゅうございました。それにわたしのために、懸命に働いて、博多にお店まで構えてくれたのでしょう?」
「そうだ」
実のところ、サキのためだけに越智漆器店を構えたわけではないが、それは言わない。
それに、店を構えればサキに好かれるかも、と思ったのも嘘ではない。
「ならばわたしたちは、働き者同士。良い夫婦になれると思ったのです」
「そうだ、そうだとも」
「共に働き、稼いだお金で、ぜいたくをしたいものです」
「そうだ」
「そうだ、ばかりですね」
「そうだ。……うん、そうだ」
今度は三郎がはにかんだ。
やがて三郎は、歓喜をぐっと堪えて静かに言った。
「お父上には、おれが話をする。必ず許しをもらう」
「……はい」
サキはうつむいた。
耳まで赤くなっている。
唐津の夕暮れが、ふたりを包んでいた。
田んぼの水面が空を映して、茜と紫がゆらゆらと揺れている。遠くの山の稜線が、夕日を背にして黒い輪郭を描いていた。蛙の大合唱が、夏の訪れを告げている。
(この景色を、おれは一生、忘れない)
三郎はふと、人生の幸せとは、死ぬまでに忘れられぬ景色や喜びをいくつ作ることができたか、そういったところにあるのではと思った。
本日は10分後に、また続きを投稿いたします。




