第十九話 あらゆる民の幸福と楽土のために
梅与に出くわした。
あちゃあ、と思ったが顔には出さない。
出していないつもりだった。
「わたくしと会うのが、そんなにまずいの?」
「とんでもない。嬉しく思っている」
「嘘ばかり」
梅与は、宮本と三郎の間に交わされた会話をひそかに聞いていたのか、
「わたくしを、貰ってはくれないのね」
「いや、それは」
「恩知らず。お父様にあれほどお世話になったのに、わたくしと離れようと」
――いや、おれはあなたと結婚することになるかもと覚悟をしたが、宮本さんに断られたのだ。
と、言おうとしたが、三郎は梅与の気持ちを考えてなにも言わなかった。覚悟した、という言い方もどうかと我ながら思う。
そもそも梅与は美人である。宮本が言うほどだめな娘とも思わない。八幡や小倉の情報を最初にくれたのは彼女なのだ。知恵の回る女性だと思った。商家の嫁が立派に務まるひとだろう。嫌いなわけでもないのだ。
ただ、自分とは縁がないようだ。
三郎の心には、顔を真っ黒にして働き続けるサキの姿が焼き付いていた。
「梅与さんはいいひとだ」
「馬鹿にしないで」
「馬鹿になんか、するもんか。……また来るから」
「来なくていいです。勝手にどこにでも行って、おおいに金持ちになればいい」
かなりの棘を容赦なくぶつけてきたものだが、三郎は腹も立たない。
「わたくしには、他にも言いよってくれる方がいますから」
それはよかった、と言おうとして、それもあんまりだと思い、三郎は言葉を紡ぐのをやめた。
商売のことだと、これでもかというほど頭も口も回るのに、どうして女性が相手だとこうも口が動かないのか。
丸々一分、沈黙のあと、
「会えて、嬉しかった。……」
三郎はそれだけ言って頭を下げると、宮本家を辞した。
背後から小さく、鳥がさえずるような声が聞こえた。
小倉に着いた三郎は、只八の紹介状を懐に入れたまま呉服の問屋を訪ねた。
問屋は小倉の城下町の一角にあった。間口は広くないが、奥行きのある店で、蔵が三棟ある。暖簾には「糸屋」の屋号が染め抜かれていた。
三郎は紹介状を差し出した。
問屋の主人は只八の名前を見て、すぐに態度を改めた。
「宮本さんのご紹介ですか。それはそれは。どうぞ、お上がりください」
奥の座敷に通され、茶を出された。問屋の主人は五十がらみの恰幅のいい男で、商人らしい愛想の良さがあった。
「越智さんは、漆器の商いをされていると。それで呉服もお始めになりたい、と」
「はい。月賦販売で呉服を売りたいのです」
「月賦。……ほう」
問屋の主人は目を細めた。月賦という言葉に反応したのだ。
「いまは漆器と陶磁器を月賦で売っておりますが、品目を広げたい。呉服は九州では需要が高いと聞いております」
「需要は高い。それは間違いない。特に紋付き袴と帯はよう売れます。息子を軍隊に入営させるときに、紋付き袴を着せたがる親御さんが多い。お国のために立ち上がる息子へ、なにはなくとも紋付き袴だけは用意してやりたい、と」
「やはりそうですか」
「それに嫁入りの支度にも呉服は欠かせん。娘を嫁にやるときに、まともな着物のひとつも持たせてやれなければ、親の面目が立たん。九州とはそういう土地柄ですから」
「仕入れをさせてください。まずは紋付き袴を中心に、帯と反物も。売れ筋のものを見立てていただけますか」
「いいですとも。宮本さんのご紹介ですからな」
問屋の主人は蔵を開け、三郎に品物を見せた。
反物が棚にぎっしりと並んでいる。絹、木綿、麻。染めの品、織りの品。三郎は一反一反、手に取って触った。
今治の呉服屋で学んだ知識が、ここで生きた。生地の厚み、織りの密度、染めの色の深さ。目で見て、手で触って、良し悪しを判断する。只八が言った通り、三郎の目は節穴ではなかった。
「これと、これと、これをいただきます」
三郎は紋付き袴の生地を中心に、帯と反物を選んだ。
大量の仕入れだった。銀行の融資を受けたからこそできる買い物だ。
「博多のお店に送っていただけますか」
「承知しました。鉄道便で送りましょう」
手配を終えると、三郎は問屋を辞した。
小倉の城下町を歩きながら、三郎は胸の中で算盤を弾いた。呉服の仕入れ値、月賦で売った場合の販売価格、回収の計画。数字が頭の中をぐるぐると回った。
(いける。呉服は、漆器よりも客の幅が広い)
漆器は冠婚葬祭の道具だから、需要は限られる。だが呉服は、日々の暮らしの中で必要になる品だ。紋付き袴だけではない。普段着の着物も、帯も、売れる。客の層が厚い。
(月賦で、商売になるはずだ)
博多に戻ったのは、二日後だった。
箔屋町の越智漆器店に着く。すると幸四郎が出迎えるなり、すっとんきょうな声をあげたものだ。
「兄やん、これはなんだ」
店の土間に、大量の荷物が積まれていた。小倉の問屋から鉄道便で届いた呉服だ。反物の包みが山のように重なっている。
「呉服だ。見ての通り」
「呉服商売を始めるなら、相談くらいしてほしかったよ」
幸四郎は呆れ顔だった。帳面をつける立場としては、突然大量の仕入れが発生したのだから、たまったものではない。
「悪かった。だが好機を逃すわけにはいかなかった。宮本さんの紹介で、良い問屋と繋がれたんだ」
「宮本さんの……」
「代わりに、呉服に関する帳面付けはすべておれがする」
三郎はその日から、呉服の帳面を自分でつけ始めた。仕入れた品の一反一反について、品名、仕入れ値、予定販売価格、仕入れ先を記す。さらに、どの品をどの客に売るかの配分も考える。
大量に仕入れたから、帳面付けは膨大な量になった。三郎は夜を徹して筆を走らせた。ろうそくの灯が揺れる中、帳面の頁がどんどん埋まっていく。
時計を見ると、午前二時を回っていた。
「兄やん、まだ寝ないのか」
幸四郎は眠らずに、仕事につきあっていた。
三郎の横で、漆器の帳面をつけている。
自分の領分は自分でやる、という弟の意地だろう。
「まだまだ。眠ってなどいられるかい。おれは働くんだ」
「兄やんはすごいな。猛龍が天空を駆け巡っているようだ」
「褒めるひまがあるなら、仕事をしてくれ。眠いならしっかりと寝てくれ」
「ひどいなあ。お褒めの言葉は素直に受け取るべきだぜ。それこそ、商人に必要な愛想ってもんだろう」
「お前も口がよく回る」
「兄やんの弟だからな」
「かなわんな」
三郎は思わず、笑ってしまった。
「――呉服は、いいかもしれんなあ」
幸四郎は、ぽつりと言った。
「漆器だけでは先が知れとる。兄やんの言う通り、漆器は一度売ったら次がない。だが呉服は違う。誰もが良い服を、何着も欲しがる」
「分かってくれたか」
「それに呉服を売ったところへ、漆器を売るのもいいからな。紋付き袴に漆器一式、月賦ならばお手軽にお求めを、とね」
「そうだろう、そうだろう。そんな家に呉服と漆器を届けるのが、おれたちの役目だ」
三郎は疲れた目をこすりながら言った。筆を止めて、固くなった首を回した。
「兄やんも、徴兵検査では甲だったじゃないか。桜井に残っていれば、紋付き袴を着られたかもしれんぞ」
「あの家でおれが袴を着られるものかよ」
三郎は笑った。貧しい越智家で、三男坊に紋付き袴を仕立てる余裕などなかった。
分籍して戸主になったいま、三郎が入営する可能性はなくなったに等しい。だが、もし桜井にいれば、紋付き袴すら着られぬまま兵隊に行かされていたかもしれない。
三郎は突然、帳面を閉じて言った。
「商人は公私双方のために働く」
幸四郎は怪訝な顔をした。
「急になにを言い出すんだ」
「いや、考えていたことがあるんだ。ずっと」
三郎は天井を見上げた。箔屋町の古い家の天井には、煤の跡がついている。先人の暮らしの痕跡だ。
「私においては、ひとかどの人物となり、新しい商法をもって、日本一の富豪となり、この世界に存在を示すために働いている」
「大きく出たな」
「公においては」
三郎は自分の中のなにかを整理するように、言葉を紡いだ。
「足りないところへ、ものを届けるために働いている」
幸四郎は黙って聞いていた。
「貧しき民にも、漆器や呉服など一流の品を届け、豊かにしてやるのだ。紋付き袴を着て息子を兵隊に送り出したい親がいる。立派な漆器で客をもてなしたい家がある。だが金がない。それを月賦という仕組みで、手の届くものにしてやる」
三郎の声に、熱がこもった。
「そしていずれは大日本すべての民に、幸福と楽土をどこまでも与える。そのために働く。そのための頼母子講であり、月賦である」
「幸福と楽土、ときたか」
「笑うな」
「笑ってない」
幸四郎はたしかに笑ってはいなかった。弟の目には、兄への敬意が浮かんでいた。
「時代は常に移り変わる」
三郎はなお続けた。
「本邦でいえば、徳川から新政府の時代へ。しかし、前の時代よりいまの時代の民が豊かになっていなければ、それは罪だ。それは許されない。そうはさせない。このおれは、徳川の時代よりもこの日本の民をすべて豊かにするために粉骨砕身働くわけだ」
「その結果として、兄やんが金と名声を得られれば、なおよし、と」
「おお。……まあ、そうだ」
三郎はさすがに照れた。弟に本音の本音を突かれた。
「おれの出世は日本の民のためであり、日本の民の幸せがおれの出世にも繋がるのさ」
「兄やんは、よくしゃべるなあ」
幸四郎は呆れたように、しかし温かく笑った。
「実際にはこんな倉庫で、兄弟ふたりで夜のおしゃべりだ」
「しかし夜明けは近いぜ」
三郎はさすがに、あくびが出てきた。
仕事はようやく、一段落がついている。
「寝よう。幸四郎がうるさいからな」
「よく言う」
「朝が来たら、また働くぞ」
ろうそくの火を消すと、三郎は布団に潜り込んだ。
三郎は五秒と経たぬまま、眠った。




