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第十八話 土着売り

 あと十日で年末を迎える。

 そういう時期になった。


 店員たちは、桜井に帰ることを楽しみにしていた。

 正月くらいは故郷で過ごしたい。家族の顔が見たい。母親の雑煮が食べたい。

 夕飯のあと、誰もが正月の話で盛り上がっている中で、三郎が口を開いた。


「おれは桜井に戻らない」


 座が、しんと静まった。


「兄やんならそう言うと思ったよ」


 幸四郎が苦笑した。


「じゃあ年末はここで過ごすのかい。正月飯くらいは、おれが作るよ」


「いや」


 三郎は、みなの顔を見回した。


「ずっと戻らない。おれは博多に骨を埋める」


 空気が変わった。田村が箸を止めた。北條が顔を上げた。

 新しい店員たちが、顔を見合わせた。

 幸四郎でさえ、今度は絶句した。


「兄やん……。それは」


「博多に住所を移す。いや、戸籍を移す。ずっとここに住む」


 行商人が流浪の生活を捨てて、ひとつの土地に腰を据えることを土着売りと言った。三郎はそれをやろうと言うのだ。


 桜井の椀船商人にとって、それは故郷を捨てることにも等しい。

 桜井の商人は、どれだけ遠方で商いをしても、最後は桜井に帰る。故郷に御殿を建てて、錦を飾る。それが桜井商人の夢であり、美学であった。

 三郎は、それを捨てると言ったのだ。


「兄やん。本気か」


「本気だ」


「桜井には、もう帰らないのか」


「帰らない。漆器の仕入れには戻るが、住むのは博多だ。おれの商いは博多にある。月賦の客は博多とその周囲にいる。毎月、回収に行かねばならん。桜井と博多を行ったり来たりしている時間が、もったいないのだ」


「それは分かる。だが、戸籍まで移すことはないだろう。住所だけ博多に置けば」


「中途半端はやらん」


 三郎は言い切った。


「おれは博多で商いをし、博多で生き、博多で死ぬ。そのつもりでやらねば、博多の商人にはなれん。いつまでもよそ者だ」


 座が沈黙した。

 田村が、ぽつりと言った。


「大将が博多に残るなら、おれも残りますよ」


「おれも」


 北條が、短く言った。

 それはただ残るというだけではなく、彼らまで戸籍を福岡県に移すことを意味していた。


 幸四郎は長いこと黙っていた。

 三郎の横顔を見つめ、それから天井を見上げ、最後に、深く息を吐いた。


「……おれも博多に戸籍を移す」


「幸四郎」


「兄やんひとりを博多に置いてはいけない。おれがいなければ、帳面が滅茶苦茶になるだろう」


 幸四郎は笑った。三郎も笑った。


「すまんな。……ありがとう」


「礼なんか要らないよ。兄弟だろう」


 こうして、越智三郎と越智幸四郎は、博多に骨を埋めることを決めた。

 桜井の白い砂浜も、志島ヶ原の松原も、瀬戸内の青い海も、もう帰る場所ではなくなった。

 ここが、新しい故郷だ。


 その夜、三郎は箔屋町の二階の窓から、博多の夜空を見上げた。

 冬の星が、凍てついた空に鋭く光っている。

 風は冷たかったが、三郎の胸の内は熱かった。


(おれは博多の男になる。越智三郎はもはや博多の商人だ)


 遠く、桜井の海が脳裏に浮かんだ。

 白い砂浜と、松の緑と、母の背中。

 だが三郎は、その映像をそっと胸の内にしまいこんだ。




 年が明けた。

 明治三十九年になり、三郎と幸四郎は博多に戸籍を移した。福岡人となった。


 戸籍を移した日、三郎は箔屋町の越智漆器店の前に立って、空を見上げた。春の空は薄い青で、博多の町に細やかな雪が舞っていた。


「これからは、桜井に漆器を仕入れに戻るのはふたりでいい」


 三郎は店員たちに告げた。


「残りはここに残って、月賦の営業と回収を続ける。そうすれば大龍丸にはもっと品物を積み込めるだろう。人が減った分だけ、漆器が載せられる。仕入れはおれと、もうひとりで行く。あとは交代だ」


 店員たちはうなずいた。

 幸四郎は桜井の仕入れ担当から外れ、博多に残って帳面と回収の総指揮を執ることになった。弟にしかできない仕事だった。


 一月の半ば、三郎は八幡と小倉のほうに出向いて商用を果たした。

 月賦金の回収と新規の営業だ。八幡の製鉄所の職工長屋を回り、小倉の商家街を歩いた。冬の小倉は風が冷たい。響灘から吹きつける北風が、三郎の頬を切るように打った。


 だが月賦の回収は順調だった。

 正月を越えて、ほとんどの客がきちんと支払いを続けている。新規の契約も何件か取れた。


 小倉から足を伸ばして、門司まで来てしまった。


(宮本さんのところに、顔を出していくか)


 門司港はでは相変わらず石炭の積み出しが行われており、人夫たちの掛け声が冬空に響いていた。


 宮本呉服店の暖簾をくぐると、番頭が三郎を覚えていて、すぐに奥へ通してくれた。

 只八は奥座敷にいた。

 三郎は、只八の顔を見て、はっとした。


 老けていた。

 前に会ったときよりも、明らかに頬がこけ、肌の色がくすんでいる。背中も丸くなったように見えた。以前より十歳は老けて見える。


「越智さん。よく来なさったなあ」


 只八は笑ったが、その笑顔にも、かつての張りがなかった。


「宮本さん。お体は」


「ああ、年末にひどい風邪を引いてな。なかなか抜けん」


 只八は薄く笑った。


「備中の薬がよう減るわ」


 薬といえば、全国的には富山の薬売りが有名だが、北九州のこのあたりでは、備中売薬びっちゅうばいやくのほうが馴染みだった。岡山から来る薬売りが、各家庭に薬箱を置いて回る。使った分だけ代金を取る、置き薬の商売だ。


「無理をなさいませんように」


「無理はしとらんよ。しとらんが、体のほうが言うことを聞かん」


 只八は茶をすすりながら、三郎の近況を聞いた。

 博多に戸籍を移したこと、月賦の売り上げが伸びていること、銀行から融資を受けたこと。只八は目を細めて聞いていた。


「それは良かった。博多に腰を据えたか。大したものだ」


「宮本さんのおかげです。門司港であなたに出会わなければ、おれはまだ桜井と唐津を回っていたでしょう」


「私は何もしとらんよ。あなたが自分の力で切り拓いたのだ」


 只八は茶碗を置いて、三郎の顔をじっと見た。病を得て衰えた体の中で、目だけが商人の鋭さを保っている。


「越智さん。ひとつ、意見を言ってもいいか」


「もちろんです」


「漆器や陶器だけでなく、他の売り物も取り扱い、月賦で売ってはいかがか」


「他のものも」


 三郎は目を瞬いた。


「漆器は良い品だ。それは間違いない。だが漆器だけでは、いずれ頭打ちになる。漆器は一度買えば長持ちする品だ。壊れにくいからこそ、同じ客にもう一度売るのは難しい」


「確かに……」


 漆器は耐久品だ。桜井漆器は「安価にして堅牢」が売り文句である。堅牢であるがゆえに、一度買った客は二度とは買わない。それが漆器商売の宿命だった。


「商品の幅を広げなさい。漆器だけでなく、呉服や反物、あるいは家具でもいい。月賦で売れるものは何でも売る、という気構えが必要だ」


「おっしゃる通りです。しかし……」


 三郎は正直に言った。


「わたしは、漆器と陶磁器以外の目利きがだめですから」


「ほう。そうかな」


 只八は、三郎の着ているものに目をやった。


「京ものの良い服を着ているではないか」


「これは……」


「男の衣類については、決して節穴にあらずと見た」


 只八の目が、呉服屋の主人の目になっていた。三郎の着物の生地と仕立てを、一瞬で見抜いている。


「それは、まあ……」


 三郎は頭をかいた。商売を始めるときに、着る服のことはさんざん悩んだ。今治の呉服屋に何度も足を運び、嫌な顔をされながらも呉服の善し悪しを学んだ。その結果、いまの服は質の良い品を選べるようになっている。


 言われてみれば、呉服の目はまんざらでもない。


「呉服も始めてみます」


「問屋はご存じかな」


「いえ、存じません」


「わたしの知っているところでよければ、呉服の問屋を紹介しよう」


 三郎は驚いた。


「呉服は京都まで直接仕入れに行くのが一番だが、まだそこまでの時間と余裕はないだろう。いまは小倉の問屋から仕入れるといい。品揃えは京都に劣るが、まず始めるには十分だ」


「宮本さん。……なぜ、そこまでしてくださるのですか」


 三郎は、ただ頭を下げた。

 只八は、しばらく黙っていた。窓の外を見た。門司港の空は灰色で、冬の雲が低く垂れこめている。


「私はどうやら健康を失ってしまった。この先、商いを続けられるかどうか分からん。だが、あなたは若い」


 只八は三郎を見た。


「あなたのような人間が商人として成功し、名声を得てくれたのであれば、私はたまらない嬉しいのだ。まして貧しかったあなたが……」


 只八は言葉を切り、それからゆっくりと続けた。


「私にとって呉服屋は先祖から受け継いだ生業だ。私なりに努力はしたが、あなたとは違う。あなたは漆器売りから頼母子講、さらに月賦を思いついて商いの幅を広げた。その若さで。素晴らしいことじゃないか。博多の銀行員を相手に融資をさせた。見事なものじゃないか。あなたはもっと、もっと上にいける。私よりも、ずっと。痛快なことじゃないか。私はあなたには出世してもらいたい。貧しいままで終わらず。……なんというか、出世をして、この世に一矢報いてほしい、と思っている」


 三郎は、言葉が出なかった。

 只八の中にある感情が、三郎にも流れ込んでくるようだった。


「……精一杯、やります」


 三郎はそれだけ言って、深く頭を下げた。


 只八はうなずいた。それから、話題を変えるように笑って、


「ところで、小倉の問屋の紹介状を書こうか。おおい、筆を持ってきてくれ」


 番頭が筆と紙を運んできた。只八は達者な筆で紹介状をしたためた。


 紹介状を懐にしまいながら、三郎はもうひとつ、聞いておきたいことがあった。


「そういえば、梅与さんは……」


 三郎は切り出した。

 梅与が自分に好意を抱いてくれていることは知っている。嬉しいとも思う。

 だが自分は、唐津で出会った月原サキに心を決めている。梅与の気持ちに応えることはできない。


(しかし、宮本さんがもし、梅与さんと結婚してくれと言い出したら、宮本さんには恩義がある……)


 自分はそれを断れるだろうか。


(おれの気持ちなどどうでもいい。宮本さんが望むなら、承知するべきだ。宮本呉服店と越智漆器店を合併させねばなるまい)


 三郎は、覚悟していた。

 だが、


「ああ、あれのことは気にするな」


 只八は苦笑いを浮かべた。三郎の内心を見透かしたわけではあるまいが、父親として、思うところがあるのだろう。


「あれはだめだ」


「は……」


「わたしにとっては可愛い娘だが、商売人の妻は務まらんよ。三郎さん、ましてあなたのような商人の妻となると、姑いびり以上の艱難辛苦が待ち受けているだろう。その妻にあれはおさまらん」


 只八は娘のことを誰よりもよく知っていた。


「遅くできた末娘だからと、甘やかしすぎた。あれは気の迷いのように、たまたま自分を救ってくれたあなたに、しがみついているにすぎない」


 只八の声は穏やかだったが、その奥に、父親としての自責がかすかに聞こえた。


「梅与のことは気にしなくていい。あなたの道をいきなさい」


「……ありがとうございます」


 三郎は頭を下げた。

 胸の中で何かがほどけたような気がした。

 梅与への申し訳なさと、サキへの想いと、只八への感謝が、ないまぜになっていた。


 座敷を辞して、店の土間を通りかかったとき、三郎は気配を感じた。

 奥の廊下の陰に、梅与が立っていた。



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