第十二話 博多到着
初めて博多の地を踏んだ。
父や兄と共に行商をしていたころ、三郎が九州で足を運んだのは唐津と伊万里の近くだけであった。博多は海の上から眺めたことはあるが、上陸したことはなかった。
(感無量、というやつだな)
大龍丸を港の船溜まりに繋ぎ、草鞋で波止場に降り立ったとき、三郎は思わず深く息を吸い込んだ。博多商人の本場に、ひとまずは独立商人として乗り込むことができたのだ。それだけで自分が一人前になれたような気がした。
博多の空気は、唐津とも門司とも違っていた。人の匂いが濃い。生活の匂いが層をなしている。魚の匂い、炭の匂い、そして微かに白粉の匂い。人が多いのだ。それだけで町の匂いが変わる。
だが三郎が最初に気づいたのは、意外なことだった。
「港が浅いな」
博多港は、想像していたよりもずっと遠浅だった。大龍丸は二十石積みの小舟だからなんとか停泊できたが、大型の汽船がこの港に出入りするのは難しいだろう。干潮時には、三十石積みの小さな船でさえ底がついてしまうのではないか。門司港が国際港として大型船を受け入れているのとは対照的だった。
「博多の商人たちは、新しい港を造る計画を進めているらしい」
幸四郎が、門司で聞いた話だがと前置きして話題を切り出した。
「しかし、いつ完成するか分からんそうだ」
「港が貧弱なら、博多は船の町ではないということだな」
三郎は波止場を見回しながら言った。漁師の小舟が何隻か繋がれている程度で、門司港のような賑わいはない。
「では、なにで栄えているのか」
「見にいこう、兄やん。百聞は一見にしかず」
「おおとも」
船溜まりから五分も歩くと、町並みが一変した。
狭い路地を抜けると、急に大通りに出る。大通りの両側に、商家がずらりと並んでいる。呉服屋、米屋、薬屋、金物屋、瀬戸物屋。暖簾が風に揺れ、客を呼ぶ声が飛び交っていた。
人力車が大通りを行き交い、荷車を引く馬が蹄の音を響かせていた。道の端を、書生風の若者がせかせかと歩いている。番傘をさした婦人が、連れ立って呉服屋に入っていく。
なかでも目を引いたのは、ひときわ大きな構えの呉服屋だった。看板には大島呉服店とある。間口が広く、暖簾も立派で、店の中に大勢の客が見えた。店先には反物が山のように積まれ、番頭が客の応対に追われている。
(あれが博多の大店か)
三郎は足を止めて、その呉服屋をじっと見つめた。
「さすがに博多だ」
三郎はつぶやいた。
「店は大きい。それに、道を行き交うひとの顔まで違っている」
セカセカと歩みを進めていく、商人、町人の面構えが、これまでの町とはまるで異なっていた。目つきが鋭い。足が速い。どこか切羽詰まったような、しかし活気に満ちた空気がある。金を稼ぐ者の顔だ、と三郎は思った。
三郎は幸四郎を連れてうどん屋に入った。博多のうどん屋は朝から開いている。透き通った汁に、柔らかいうどんが泳いでいた。すすると、上品で奥深い出汁が喉を通る。
「うまいな、博多のうどんは」
「うん。出汁がいい」
「出汁がいいということは、この土地の人間の舌が肥えているということだ。舌が肥えた人間は、ものの善し悪しが分かる。良いものを売れば、買ってくれる」
「兄やん、うどんを食いながら商売の話かよ」
「商人は飯を食いながらでも頭を動かすものだ」
うどんを平らげると、三郎は博多駅に向かった。
博多駅は、明治二十二年に開業して以来、九州の鉄道網の要衝となっている。博多の町の南東部に位置する駅舎で、壁面に大きな時計がかかっている。駅前は広場になっており、人力車がずらりと並んでいた。
旅客が改札から溢れ出てくる。軍服姿の将校、洋装の紳士、風呂敷包みを背負った行商人、赤ん坊をおぶった女。さまざまな人間が、この駅を行き交っていた。
「よしだぞ、幸四郎」
三郎は独特の表現で、博多を褒めた。
「なにがよしだ、兄やん」
「うん、まず、これがいい」
三郎は駅舎を見上げながら言った。
「博多は北部九州の心臓だ。ここから北部九州のどの町村にも行ける。むろん、唐津にも。交通がいい」
「それは確かだが」
「次に、これだ」
三郎は、駅前の大通りを指さした。
商家が軒を連ねている。
会社の看板を掲げた建物も見える。
銀行の支店もあった。
「気付かないか。会社が多い。農村とは違う。ここには月給をもらっている人間がたくさんいる。品が売れる」
「確かにそうだが、それだけか、兄やん」
「さらに言おう。鉄道を使えば、八幡にいける」
三郎は北のほうを指さした。
「忘れたか、門司で聞いた話を。八幡には製鉄所がある。お国の製鉄所だ。おそらく何百人もの職工が働いていて、毎月、給料をもらっている」
幸四郎の目が少し大きくなった。
「鉄道を使えば、船では行きにくい久留米にも筑豊にもいける」
三郎は続けた。指が、南を指し、東を指した。
「博多には会社がある。八幡にはお国の製鉄所がある。久留米のほうには軍隊がある。筑豊には炭鉱がある。どこにも、ものを買ってくれる人間がいる。月給をもらっている人間がいるのだ。分かるか、幸四郎。博多の町も、博多と繋がっている町も、こいつはなんと月給取りだらけだ。ならば、だ――」
三郎は、自分の胸を叩いた。
「ここに漆器をねじこむんだ。かつて梅与さんから、八幡の月給取りの話を聞いたとき、おれはさほど魅力に感じなかった。月給取りは漆器を買うほど金を持っていまいと思ったからだ。だが、これほどに月給取りのいる町と繋がるならば、話は別だ。博多、久留米、八幡、筑豊――これだけ月給取りがいる場所に漆器を売り込んでいけば、必ず購入できるほど富裕な月給取りが出てくる」
「数うちゃ当たるで売り込んでいくわけか」
「そうとも。博多に拠点を置けばこれも可能だ」
桜井の商人は農村から出発している。
父祖代々、農民相手に椀船で漆器を売ってきた。
そのために、発想が農民的であった。月給生活者を相手にものを売るという考えが弱い。
そもそも明治の日本は、まだ多くの国民が農業に従事していた。毎月給与をもらう者は、都市部に集中しており、しかもその都市部自体が日本全体から見ればまだ少数だった。だから「月給取りにものを売る」という発想は、地方の商人からはなかなか出てこない。
だが、三郎は門司港で梅与から八幡製鉄所の話を聞いた。門司や小倉の商人はみんな八幡に目をつけている、と梅与は言っていた。唐津の農村で、頼母子講だけでは限界があることも身をもって知った。それらの知識と経験が、この博多駅の前に立った瞬間に、ひとつに繋がったのだ。
「月給取りに漆器を売るのだ。売るのは、博多だ。いや、福岡県だ。博多を拠点にして、八幡、小倉、久留米、筑豊。月給をもらっている人間がいるすべての町に売りにいく。今後は、これでいく」
幸四郎は、しばらく黙って兄の顔を見つめていた。
「……兄やんの案というのは、これか」
「これだ」
「農村ではなく、町に売る」
「そうだ」
「できるだろうか。博多にも八幡にも商人はすでにいる」
「その商人の数を上回るほど、商いになるとおれは見た。見よ、この駅前の賑わいを。思い出せ、門司港の灯火を。博多に拠点を置いて漆器を売れば、これまで以上に儲けになる」
「ううん。……」
幸四郎は、ゆっくりと息を吐いた。そして、うなずいた。
「分かった。兄やんについていく。いつも通りだ」
「すまんな。いつも振り回して」
「振り回されるのには慣れている」
幸四郎は苦笑した。だが、その目には覚悟の光があった。
三郎は、もう一度、博多の町を見渡した。
大通りを人力車が走り抜けていく。商家の暖簾が風にはためく。どこかの店から、呼び込みの声が聞こえる。
この町の空気には、金の匂いがした。人間の欲望と活力が、煮えたぎっている。唐津の農村の静けさとは正反対の、騒々しく、生臭く、しかし三郎の血を沸き立たせる空気だった。
(ここが、おれの戦場だ)
三郎は拳を握った。
「まずは、この町を知ることから始めよう。一軒一軒、歩いて回る。どこにどんな店があり、どんな人間が住んでいるのか。博多の地図を、おれの頭の中に刻み込む」
「それから?」
「それから、売る。この町で、日本一の商人になる」
今日はここまで。また明日、二話分を投稿します。




