第9話 勇者様のサインは銀貨一枚
マルセンの町の門をくぐった瞬間、レオル・ヴァニスは自分が有名人になったことを知った。
「勇者様だ!」
「本物? 本物のレオル様?」
「新聞の絵よりずっと格好いい!」
門の内側に人だかりができていた。宿屋の女将も、パン屋の親父も、学校帰りの子供たちも、みんなこちらを見ている。窓から身を乗り出している人までいた。
マルセンはドレンから北街道を一日南へ戻った宿場町だ。旅人が多いぶん、新聞もよく売れるらしい。王都の見送り以来の人出だった。いや、あのときより近い。手を伸ばせば届く距離に観客の大群がいる。
「おいおい、まいったなあ」
まいった顔を一秒だけ作ってから、レオルは両手を大きく振った。黄色い声が上がる。最高だ。北に来て、本当によかった。
「レオル」
後ろから、マルタの低い声がした。
「何? 今いいとこなんだけど」
「サインを求められたら、すぐには書くな」
「なんで」
「値段を決めてからだ」
次の日の昼、町の広場に長い机が一つ置かれた。
机の上には羽根ペンとインク壺と木の箱。箱の横にはマルタの字で書いた札が立っている。
『勇者レオル・ヴァニス 直筆サイン 一枚 銀貨一枚』
「高くね?」
「安い。王都なら三枚取れる」
「で、俺の取り分は?」
「七割。私が三割。場所代と、札の代金と、列の整理代だ」
「列の整理って、お前座ってるだけじゃん」
「座っているから、列が乱れない」
よく分からない理屈だった。けれど列はもう、広場の端から通りの角まで伸びていた。
レオルは羽根ペンを持った。サインの練習は王都にいたころからしてきた。三種類ある。普通の『レオル・ヴァニス』と、崩した『L・V』と、特別な相手にだけ書く、星のついたやつだ。
「お名前は?」
「リリーです! 勇者様、握手もいいですか?」
「いいよいいよ。……マルタ、握手は?」
「銅貨五枚」
「取るの!?」
「取る」
列の人たちはそれでも喜んで払っていった。
百人を過ぎたあたりで、母親に手を引かれた男の子が机の前に来た。五歳くらいで、鼻の頭が赤い。握りしめていた手のひらを開くと、銅貨が三枚のっていた。
「これしか、ないです」
母親が申し訳なさそうに頭を下げた。後ろに並んだ人たちが、こちらを見ている。三十人、いや、五十人はいる。
レオルは男の子の頭に手を置いた。
「いいって。お前はタダ。特別なやつ書いてやるよ」
羽根ペンを走らせて、名前の横に星を一つ描く。男の子の顔がぱっと明るくなった。後ろの列から拍手が起きる。
隣で、マルタが帳簿に何か書きこんだ。
「差額はお前の借りにつける」
「つけんなよ! 今のいい場面だったろ!」
「場面に値段はつかない。だから借りにした」
二百人を過ぎると、手首が痛くなってきた。三百人を過ぎると、『レオル・ヴァニス』の『ヴ』が何の字だったのか、自分でも分からなくなってきた。
それでも、レオルは書きつづけた。並んだ一人ひとりが、自分の名前を呼んでくれる。それを聞いているあいだは手首の痛みが半分になった。
セレナは列の横で紅茶を片手に、順番を待っている人たちと話しこんでいた。昼までに、手帳が十ページ埋まったらしい。
ロアンは広場の隅に小さな台を出していた。台の上には手のひらほどの木の札が並んでいる。表にはレオルの顔らしき絵と、意味の分からない紋様が描いてあった。
『勇者公認 魔除けのお守り 銅貨五枚』
「公認してないけど」
「今、お前が見てるから公認だ」
「意味分かんねえよ」
「売れてる」
本当に売れていた。
騒ぎが起きたのは夕方だった。
「おい、こっちのお守り、銅貨三枚だぞ!」
広場の反対側に見たことのない露店が出ていた。同じ木の札を売っている。レオルの顔らしき絵も、意味の分からない紋様も、そっくりそのままだ。
ロアンの顔色が変わった。
「……偽物だ」
「お前のも偽物だろ」
「俺のは本物の偽物だ。あれは偽物の偽物だ」
ロアンは煙草をくわえたまま、つかつかと露店へ歩いていった。露店の男がロアンの顔を見て目を泳がせる。
「な、なんだよ、兄ちゃん」
「その紋様、どこで写した」
「どこって、そっちの露店のを見て」
「著作料だ、もらえるか」
「そこかよ!」
レオルはサインの手を止めて叫んだ。
そこへお守りを買った客たちが、両方の露店に詰め寄ってきた。
「どっちが本物なんだ!」
「勇者様、どっちが本物ですか!」
広場じゅうの目がレオルに集まった。観客は三百人を超えている。こういうときこそ、勇者の出番だ。レオルは羽根ペンを置いて立ち上がった。
「両方、偽物です!」
広場がしんと静まり返った。それから、怒号が上がった。
騒ぎが収まったのは日が暮れてからだった。ロアンのお守りの売り上げは、全額客に返すことになった。マルタは自分の取り分の三割だけはしっかり確保していた。
ただ、返金を断った客が一人だけいた。腰の曲がったお婆さんだ。お守りの木札を両手で包むように持って、首を横に振る。
「息子が北の砦の兵隊でしてね。勇者様のお顔が描いてあるなら、偽物でもいいんですよ。送ってやりたいんです」
ロアンは差し出しかけた銅貨五枚をポケットに戻した。お守りを受け取って裏返し、指先の火で小さな印を焼きつける。
「……これで、本物だ」
「ありがとうねえ」
お婆さんは何度も頭を下げて帰っていった。
レオルはそれを横目で見ていた。今の、俺がやればよかった。観客、まだけっこう残ってたのに。
その夜、宿の食堂に王都からの新聞が届いた。女将がうれしそうに持ってくる。
「勇者様、ご覧になりました? 王都新聞の人気投票の第一回の中間発表ですって!」
レオルは新聞をひったくった。一面に大きな表が載っている。
『英雄人気投票 第一回中間発表』
一位、騎士ユリウス・ハルト。二位、騎士団長ガルド。三位、王国魔術師団の誰か。五位に聖女セレナ。七位に戦士マルタ。九位に賢者ロアン。
十位まで全部読んだ。もう一度、頭から全部読んだ。勇者レオル・ヴァニスの名前は、どこにもなかった。
「……え?」
表の下に小さな字で記者の解説が添えてあった。
『なお、勇者レオル様は十一位。「サインが有料である」との声が、王都でも少なからず寄せられている』
紅茶を飲んでいたセレナが新聞をのぞきこんだ。
「まあ。私、五位ですって」
「私が七位。順位に金は出るのか」
「九位か。十分だな」
「なんでだよ! 今日だけで三百枚書いたんだぞ!」
「その三百枚が全部有料だったからだろ」
ロアンが煙草の煙を天井に向けて吐いた。
レオルは女将に葡萄酒を頼んだ。一杯目で頬が熱くなり、二杯目で、目の前の新聞の字が揺れはじめる。三杯目を頼もうとしたところで、マルタに杯を取り上げられた。
「お前、二杯で限界だろ」
「限界じゃねえし。俺、酒豪だし」
「酒豪は二杯で新聞に話しかけない」
言われてみると、レオルは新聞に向かって指を突きつけていた。
「お前な、ユリウスってのがどんな奴か知らねえけどな、俺のほうが絶対、顔はいいからな」
セレナが手帳に何か書きこんだ。
『レオル様、二杯で新聞と会話』
レオルは新聞をテーブルに叩きつけた。
「集計が間違っている!」




