第5話 聖女様は全部知りたい
「まあ、牛さん。こんばんは」
牛は返事の代わりに鼻を鳴らした。
セレナ・ヴェイルは生け垣に挟まれた細い道の真ん中で、すっかり迷子になっていた。月は明るいのに、どの角も同じに見える。十歩先を歩いていたはずの灰色の肩掛けは、とっくに見えなくなっていた。
セレナは昔から、一度方向を見失うと二度と取り戻せないたちだった。仕方がないので手帳を出して、月明かりで一行書いた。
『村長夫人、見失う。牛に会う。』
どうしてこんな夜更けに村長夫人のあとをつけていたのか。それを説明するにはその日の昼まで話を戻さなければならない。
関所から北へ三日歩いたところに、麦畑に囲まれたハルン村がある。四人が呼ばれた理由は連続盗難だった。この半月のあいだに鍬が四本、鶏が九羽、教会の銀の皿が二枚なくなっている。村人たちは魔王軍の斥候の仕業ではないかと怯えていた。
村長の家の居間で、村長のオズワルは何度も頭を下げた。痩せた男で、話すたびに口ひげの先を指でつまむ。
「勇者様方に来ていただけるとは。どうか、犯人を」
その横では奥様のリーネさんが黙って編み物をしていた。毛糸は灰色で、編み目がとても細かい。夫が話しているあいだ、一度も顔を上げなかった。
セレナは出された蜂蜜パンを両手で持ったまま、二人の座り方を見比べた。椅子と椅子のあいだが、人ひとり分あいている。あの空き方はたぶん十年は冷えている。
これは盗難よりずっと面白い。
「マルタさん、盗まれた物の値段、全部でいくらになります?」
「鍬四本で銀貨六枚。鶏九羽で銀貨四枚と銅貨十枚。銀の皿は二枚で銀貨三十枚。村の倉庫も見たい。在庫と帳簿を突き合わせる」
レオルは窓の外を見て、溜め息をついていた。広場には鶏が三羽いるだけで、人間は一人もいない。
「ここ、観客、鶏しかいないんだけど」
ロアンは椅子に座ったまま、とうに眠っていた。
夕方、宿の前で女の子が転んで膝をすりむいた。セレナがしゃがんで手をかざすと、傷はすぐにふさがった。
「ありがとう、聖女さま」
「どういたしまして。ところで、村長さんのお家って、夜はいつも静か?」
「うん。おばさん、夜になるとお出かけするから」
「まあ。どちらへ?」
「知らない。でも、いつも灰色の肩掛けしてる」
セレナは女の子の頭をなでて、手帳に一行書き足した。
治療代は取らない。その代わりに、お話を聞かせてもらう。それで誰も困らないと、セレナは思っている。
その夜、セレナは宿をそっと抜け出した。村長の家の裏口で待っていると、思ったとおり、灰色の肩掛けを羽織った人影が一人で歩き出した。
十歩ほど離れて、あとをつけた。角を二つ曲がったところで見失い、四つ目の角で牛に会った。
牛に別れを告げて、明かりの見えるほうへ歩いた。たどり着いたのは村の外れにある大きな石造りの倉庫だった。村じゅうの麦を蓄えておく、共同の倉庫だ。扉の隙間からランプの光が漏れていて、中から男の声が二つ聞こえた。
「今夜はあと十袋だ」
「村の連中は盗人を探すのに夢中ですよ。魔王軍のせいにしておけば、誰も倉庫の数なんて数えやしない」
片方は昼間に居間で口ひげをつまんでいた人の声だった。
もっとよく聞こうとして扉に耳を寄せかけたとき、セレナはすぐ隣に誰かがいるのに気づいた。リーネさんだ。同じように扉の陰にしゃがみこんで、肩掛けの端をぎゅっと握っている。
二人の目が合った。
「……聖女様?」
「まあ、奥様。お会いできてうれしいです」
セレナは小声で、心からそう言った。
倉庫の裏の生け垣の陰で、リーネさんは話してくれた。
「ひと月前から、主人の様子がおかしかったんです。夜中に出かけて、明け方に帰ってくる。てっきり、どこかに女の人がいるんだと思って」
「それで、毎晩あとを?」
「はい。そうしたら、行き先はいつもここで。相手は町から来る麦商人のヘイグさんでした」
リーネさんは編み物をしていたときと同じように、手元を見ながら話した。
「村の麦をこっそり運び出して売っているんです。足りない分は盗まれたことにして。鍬や鶏も、主人が自分で隠したんだと思います。教会の銀の皿はヘイグさんへの借金の形に先月渡したようです」
「浮気ではなかったのですね」
「はい」
「……残念です」
「えっ」
「いえ。こちらの話です」
セレナは手帳を開いた。昼間に書いた『奥様、毎晩出かける』の横に『浮気調査。ご主人の』と書き足す。出かけていたのは調べるためで、調べられていたのはご主人のほうだったのだ。
「主人を、信じたかったんです」
肩掛けを握るリーネさんの指が、白くなっていた。
「浮気だったらまだよかった。浮気なら、私が我慢すればすむ。でも、これは村のみんなの冬の麦です」
セレナは手帳を閉じて、リーネさんの背中に手を置いた。
「では、明日の朝、みなさんに聞いていただきましょう」
翌朝、村の広場に村じゅうの人が集まった。レオルの顔色が急によくなり、目まで輝いている。
セレナは広場の真ん中で手帳を開いた。
「村長さん。麦商人のヘイグさんに、借金が金貨二枚ありますね。三年前の秋の雨で麦が駄目になった年からです」
オズワルの口ひげをつまんでいた指が止まった。
「なぜ、それを」
「ヘイグさんのところで帳簿係をしているお嬢さんが、昨日、宿の前で教えてくださいました。お付き合いしている粉屋の息子さんのことで、ご相談を受けまして。そのついでに」
マルタが倉庫の帳簿を掲げた。
「帳簿では麦は四百袋。実際に数えたら、六十袋足りない。鍬と鶏と銀の皿の盗難を届け出たとき、この六十袋のことは誰も口にしていない」
村人たちがざわめいた。オズワルは逃げ道を探すように周りを見回し、広場の出口の前で煙草をくわえているロアンと目が合った。
「おっと、ここは俺の出口だぜ」
村長はその場に座り込んだ。
そのとき、広場の端に停めてあった荷馬車が急に動き出した。麦袋を積んだままの御者台で、男が鞭を振り上げている。麦商人のヘイグだ。
村人たちが叫ぶより早く、レオルが走っていた。広場には村じゅうの目がある。レオルは荷馬車の前に回りこんで馬の手綱をつかみ、御者台の男の襟首を片手で引きずり下ろした。
「逃げんなって。今いいとこなんだから」
拍手が起きた。レオルは満足そうに前髪をかき上げる。
「つまり、犯人は村長と、こいつだ!」
「今、全部説明し終わったところです」
セレナはにっこり笑った。
リーネさんは編みかけの灰色の毛糸を握ったまま、座り込んだ夫を見下ろしていた。泣いてはいなかった。
出発の前にセレナはリーネさんに聞いてみた。
「これから、どうなさいます?」
「編み物の続きをします。冬までに、村の子供たちの分の肩掛けを」
リーネさんはそこで初めて口元をゆるめた。
「聖女様。あの夜、私を見つけてくださって、ありがとうございました」
見つけたのは迷子になったからだ。それは言わないでおいた。
その日の午後、セレナは次の宿で、王都から届いた新聞を広げた。
王城の話が載っている。『四英雄、王城を守る』。出発の話もある。『使命に目覚めた四勇者、王国の未来を案じ、慎重に準備を整える』。どの記事も、自分の覚えている出来事とは少しずつ違っていた。
それでいて、文章はどれもよく似ていた。言葉の選び方が丁寧で、嘘は書いていない。それなのに、読んだ人がみんな四人を立派だと思うように書いてある。きっと同じ人が書いているのだろう。
「この文章を書いている方、きっと、ご苦労されていますね」
蜂蜜パンを一口かじってから、セレナは手帳の新しいページを開いた。いちばん上に名前を書く。
『王立広報局・イネス』
その下はまだ空白だった。




