第19話 呪われた温泉宿
悲鳴は露天風呂のほうから聞こえた。
「出たあああああ!」
マルタ・グロシュは宿の帳場で、宿帳の料金欄を読んでいるところだった。
『一泊 銀貨一枚(幽霊が出ますので、半額にしております)』
二度目の悲鳴が上がっても、マルタは料金欄から目を離さなかった。
ハルデンから北へ二日、東部へ抜ける峠の手前にある温泉宿だ。湯と夕食と朝食がついて、銀貨一枚。相場なら二枚は取る。安い。
夕食も悪くなかった。山女魚の塩焼きに、山菜の煮物、栗の入った飯。湯は硫黄の匂いがきつく、鉄を落とせば一晩で黒くなりそうだった。マルタは拾った釘を一本、試しに湯桶へ沈めてきた。明日の朝、色を確かめるつもりでいる。
「マルタさん、レオル様が」
セレナが廊下の向こうから顔を出した。
「知っている。幽霊が出るから半額なんだ。出なかったら契約違反だ」
レオルは腰に手拭い一枚を巻いた姿で、廊下の真ん中に座りこんでいた。濡れた前髪が額にはりついている。
「湯に浸かってたら、隣におっさんが座ってたんだよ。透けてるおっさんが」
「悲鳴を上げていたな」
「上げてない。気合を入れただけ」
「『出た』と言っていた」
「誰も見てないとこで出るのが悪いんだって。見てる奴がいたら、斬ってたし」
廊下の奥から、宿の女将のハンネが灯りを持ってやってきた。背の曲がった、七十近い女だ。
「まあ、ゲルトさんが出ましたか。お騒がせしてすみませんねえ」
「名前があるのか」
「ありますとも。三十年前に死んだ行商人でしてね。うちの母が昔、商売の元手を貸したんですよ。返し終わらないうちに、峠で亡くなってしまって」
ハンネは帳場の壁を指さした。額縁に入った古い契約書が掛けてある。
『借主ゲルトは、借りた金を完済するまで、この宿を離れない』
「本当に離れないんですよ。死んでからも、ずっと」
ゲルトは夜更けになると帳場の隅に出てきた。
四十くらいの痩せた男で、透けた背中に透けた行商の荷を背負っている。足はちゃんとあった。床から、指一本ぶん浮いているだけだ。
「お客さんを驚かせるつもりはないんです。ただ、出ていけないので」
ゲルトは申し訳なさそうに頭を下げた。
「行商は何を」
マルタが聞くと、ゲルトは透けた荷を少し揺すってみせた。
「針と、糸と、塩と。峠の向こうの村には店がありませんでしたから」
「利幅は」
「……二割、くらいでしょうか」
「低い。峠越えの危険を考えたら、三割は取れた」
「取ったら、みんな買えなくなりますから」
「だから、死ぬまでに返せなかったんだ」
ゲルトは困ったように笑った。
レオルはマルタの背中の後ろに隠れていた。
「お前、なんで俺の後ろにいないんだよ。俺が盾だろ、普通」
「お前の後ろに行ってやろうか?」
マルタがそう言うと、レオルは首を横にぶんぶんと振った。
ロアンは額縁の契約書の前に立っていた。
「変だな」
「何がだ」
「この手の約束に乗ってる魔力は、普通、本人が死んだら切れる。証人も、貸した側も死んでる。三十年も残るはずがない」
ロアンは手帳を出して、契約書の文言を一字ずつ写しはじめた。署名の横にインクとは別の薄い紫の染みがあるのが、マルタにも見えた。
セレナはゲルトの向かいに座っていた。
「ゲルトさん。ハンネさんのお母様とはどういうご関係だったんですか?」
「……ただの、借主と貸主ですよ」
「毎晩、帳場に出ていらっしゃるのに?」
ゲルトは黙って、透けた指で荷の紐をいじった。セレナは手帳を出さずに、紅茶を飲んだ。
マルタはそのやりとりを聞き流して、契約書の借金の欄を読んでいた。元金、金貨二枚。利子、年一割。返済の期限は定めず。その下に小さな字で一行ある。
『借主の労務をもって、返済に充てることを妨げず』
働いて返してもよい、という条項だ。マルタはハンネを呼んだ。
「この三十年、この宿に泥棒は入ったか」
「いいえ、一度も。夜中に忍び込もうとした人はいたらしいんですけどね。ゲルトさんを見て、みんな逃げていきました」
「……夜番だな」
「はい?」
「この男は三十年のあいだ、毎晩この宿の夜番をしていた」
マルタは帳場の算盤を引き寄せた。
「夜番の相場は一晩で銅貨十枚。三十年なら、金貨五十四枚あまりだ」
珠の音が真夜中の帳場に響いた。
「借金は利子に利子をつけて三十年分積み上げても、金貨三十五枚に届かない。完済している。それどころか、金貨十九枚ほど払いすぎだ」
「……え」
ハンネは口を開けていた。ゲルトも、驚いた顔でマルタを見ている。その体がろうそくの火のように揺れた。
「ハンネ。貸主の娘として、ここに完済の署名をしろ」
マルタは帳面を一枚破って、受取書を書いた。ハンネが震える手で署名を書き終えた瞬間、額縁の契約書から、紫の染みがすっと消えた。
浮いていたゲルトの足が床に下りた。そして、足の先から、朝靄のように薄くなりはじめた。
「……ああ。帳場の外に、出られる」
ゲルトは一度だけハンネのほうを見た。それから玄関の戸をすり抜けて、白みかけた峠道のほうへ歩いていった。
セレナが窓からその背中を見送っていた。何かを知っている顔だったが、何も言い出さなかった。
「では、過払い分の話をする」
マルタはハンネに向き直った。
「金貨十九枚あまり。本来はゲルトのものだが、本人がいなくなった。計算と手続きを代行した私に、手数料として一割」
「あの、うちには、そんなお金は」
「なら、宿代で相殺する」
写した紙を読んでいたロアンが、口を挟んだ。
「マルタ。幽霊がいなくなったんだぞ」
「それが何だ」
ロアンはそれ以上何も言わなかった。
翌朝、帳場の宿帳の料金欄が書き換えられていた。
『一泊 銀貨二枚』
括弧の中にあった『幽霊が出ますので、半額にしております』の一行は、墨で消してある。
「幽霊が出なくなりましたので、元のお値段に戻しました」
ハンネは晴れ晴れとした顔で言った。
「昨夜の分は」
「銀貨一枚で結構です。ゲルトさんが出たのは昨夜が最後でしたから」
マルタは帳簿を開いた。過払い分の計算手数料を書きこみ、その横に『宿代と相殺』と記す。それから、宿帳の銀貨二枚という数字を、もう一度見た。
「……次から倍か」
「はい」
「お前、自分で安い理由を消したんだよ」
宿の前で伸びをしていたレオルが言った。昨夜の悲鳴のことはもう覚えていない顔だった。
マルタは帳簿の宿の採点欄に数字を書きこんだ。料金二、食事四、寝具三、防音二、鍵三、湯五、馬小屋三。少し考えて、もう一行書き足した。
『夜番 なし』
ロアンは宿の玄関の柱にもたれて、昨夜写した契約文を読み返していた。紙を二つに折り、もう一度折って、外套の内側にしまう。
「死んでも効く契約、ね」
誰に向けたのでもない声だった。マルタは聞かなかったことにして、荷物を背負った。




